
1576. 本当の日本人
これこそがフローニンゲンの秋の空だ、と思わんばかりの空が広がっている。今朝は五時半から仕事を開始し、11時を過ぎたあたりでランニングに出かけた。 ここ最近は、ランニング後にインドネシアンレストランに足を運ぶことが習慣になっていたたため、近所の河川敷を走ることはめっきりなくなっていた。運動する日を少しばかり変更し、今日からは以前のように、週末にもランニングに出かけることにした。 自宅を出発してすぐに目に付いたのは、近所の家の壁に、真っ赤に紅葉した無数の葉が生い茂っていたことである。その鮮やかな赤色に、私は思わず息を飲んだ。 気づかないうちに、もう秋はとうの昔にやってきていたのである。近所の河川敷は以前と変わらずにのどかであり、犬の散歩をする人や河川敷で釣りをしている人などを見かけた。 ランニングの途中、思考が無になり、思考空間に空白が生まれた。そこに染み渡るように一つの考えが湧いてきた。 余白を作る意義というのは、まさにここにあるのだと思った。私たちが向き合うべき重要なテーマとは、こうした余白から滲み出してくるものなのだ。 逆に言えば、こうした余白

1575. 科学研究と主観性
科学研究を進めていく上で様々な方法を選択する場面に直面するたびに、どの方法を活用するのが最も望ましいかを考える。昨年の自分の研究を振り返ってみると、獲得したばかりの研究手法を実際に活用したいという思いが先行することがよくあった。 その結果として、実際にはより優れた手法があったとしても、自分が活用したいと思う手法をついつい選びがちな自分がいた。また、研究を進めていく上で参考にする既存の理論や概念の選択、先行研究の調査に関しても、自分の中の様々な思いを抜きにしては語ることができない。 つまり、科学研究において、適用する研究手法や理論を選ぶ際に、主観を避けることなどできないのだということに突き当たる。もちろん、私が昨年に陥っていたように、研究手法に対する望ましくない固執は避けようがあるが、究極的には研究手法の選択には必ず主観が入る。 科学研究が客観的なものだと主張する人をよく見かけると、実際のところ、科学研究は完全に客観的ではない。また、完全に客観的でありえない。 これは手法や理論の選択のみならず、研究結果の解釈の際にも同様のことが言える。科学研究に主

1574. 内にある国民性の解体
今朝は五時に起床し、五時半から今日の仕事を開始した。昨日は普段よりも多い睡眠時間を取っていたが、今日は適度な睡眠時間を取るに留まった。 この二日間の一日の終わりの時点における身体状態に着目してみると、取るべき睡眠時間の差が如実になる。一昨日の夜は、自分の内側でそれ以上の探究活動を拒むものがありながらも、そこからさらに探究を進め、身体全体が重くなっているのを感じていた。 特にそれを直截的に感じていたのは脳においてである。一方、昨夜はそのような重さを脳に感じることはなく、一日を通じて適切な量と質の活動に従事していたのだとわかる。 ここでも改めて、最適な量と質の活動に従事することの重要性に気づく。自分の仕事の時間的射程を考えた場合、日々の活動を詰め込む形で推し進めていくのは得策ではない。 とにかく継続性に重点を置き、自分の内側に余白を作りながら日々の活動に従事していくことが大事になるだろう。今日から週末を迎えるが、土日における仕事の進め方は特に意識していこうと思う。 今日は午前中に、「評価研究の理論と手法」のコースで取り上げられている“Experime

1573. 作曲と数学
フローニンゲン大学の二年目のプログラムにおける第二週の金曜日が、充実さと共に静かに終わりに近づいている。振り返ってみると、今日は普段より幾分遅い時間に起床したにもかかわらず、予定していた全ての仕事を無事に完遂することができた。 中でも、来年の五月末から六月の頭にかけて開催される、国際ジャン・ピアジェ学会の応募書類をほぼ完成させることができたのは喜ばしい。本来であれば、昨日にこの書類を完成させようと思っていたのだが、昨日はその他の仕事で手一杯となり、書類の作成に全く着手できなかった。 先ほど無事に書類のドラフトを作成することができた。今後のいかなる学会においても、単なる聴衆ではなく、研究発表者として参加するという意志が強くあり、今回の学会でも発表者として応募書類を作成する必要があった。 昨年に行った研究成果をこの学会で発表できればと思っている。応募書類の要項を確認すると、研究論文の要旨を200字以内でまとめ、研究全体の要約を1000字でまとめることが要求されている。 200字の要旨に関しては、研究論文を執筆した際の“abstract”をそのまま用い

1572. 大空を自由に飛ぶ自由
いつもより多い睡眠時間を確保したためか、朝から気力がほとばしる。早朝の太陽光は、もう秋のそれを伝えている。 時刻は午前中なのだが、あえてその太陽光は「ほのかな黄昏色」と表現したい。来月は自分の誕生月であり、このような優しい雰囲気の中に自分は生まれたのだということを、感慨に浸りながら少しばかり思う。 誕生日を迎えるごとに、自分の年齢がわからなくなる。もちろん、今年の西暦から生まれた年を引けば、自分の年齢を算出することができる。 しかし、もはやこのように、自分の年齢を特定するのに一瞬ばかりの計算が必要になってしまった。昨日も、ある日本語の契約書にサインをする際に、今年が平成何年なのかを記載する箇所があったが、もはや平成何年なのかはわからなくなっている。 これも計算方法があるようだが、その計算方法も知らない。そのため、インターネットを使って調べると、どうやら今年は平成29年のようだ。平成29年なのだ。 念のため、計算方法を頭に入れておくと、どうやら西暦の下2桁に12を足せばいいようだ。なぜ西暦の2桁に12を足せばいいのかのメカニズムまで理解しておかない

1571. 先生が伝えたかったこと
今日はいつもより多くの睡眠を取った。五時あたりに一度目を覚ましたが、そこから再び眠りにつくことにした。 目覚めてみると、辺りがほのかに明るくなっていた。昨夜は二つの印象的な夢を見た。 場所は米国であろうか、あるいは日本のような気もする。一つ言えるのは、その場所を取り巻く文化的雰囲気が、米国的でもあり日本的でもあったということだ。 夢の中で私は一台のバスに乗っていた。全席対面式になっており、右列と左列に座る人たちが向かい合う形のバスだった。 バスの乗客はすべて私の知り合いであり、小・中学校の顔見知りの友人だけで一杯となっている。私が座っていたのは、左列の真ん中の席であり、バスを降りるドアが右斜めに見える。 窓から景色を眺めると、バスは閑静な住宅街を走っているようだった。バスの中では、友人たちが楽しく会話をしている。 住宅街のある地域に差し掛かった時、一人の中年女性がバスに乗車した。その女性は、購入したばかりの大きな電化製品が包まれた箱を掲げていた。 バスの運転手に賃金を払う際に、その女性は大きな箱を床にドスンと置いた。その瞬間にその女性は、バスが既

1570. 第48回国際ピアジェ学会での研究発表に向けて
今日も気付けばあっという間に一日が過ぎ去った。顔を上げてみると、書斎の窓の外には暗闇が広がっている。 以前は10時まで明るかったオランダの空も、今となっては8時を過ぎる頃には、空が闇に包まれるようになった。今日は一日を通して日本語で日記を書き留める時間がなかったため、一日の最後に振り返りとして日記を書き留めておきたい。 本日の予定では、来年の5/31から6/2にかけてアムステルダムで行われる、国際ピアジェ学会で研究発表をするための提案書を作成しようと思っていた。自分の専門領域の学会に参加する際は、もう二度と単なる聴衆として参加しまいと決心しているため、今回の学会においても発表者として応募をしようと思っている。 以前お世話になっていた、マライン・ヴァン・ダイク教授からこの学会について話を聞き、私の研究分野からすると、この学会は私にとって、とても意味のあるものだと思った。今回は48回目の学会ということからもわかるように、この学会の歴史は古い。 ヴァン・ダイク教授曰く、毎回の学会には発達科学の重鎮が多数参加するとのことだが、学会の雰囲気は親しみやすいそ

1569. 人間発達や教育に携わる怠惰かつ自閉的な学者と実務家
今日は午前中に、実証的教育学に関する論文を三本ほど読んだ。以前に言及したように、今学期は、履修しているコースで取り上げられる専門書と論文に焦点を当て、できるだけそれら以外の文献を読まないようにしていた。 だが、今朝は一冊ほど哲学書を読んでいる自分がいた。その書籍は、以前から関心を持ち続けている教育哲学に関する内容ではなく、哲学上の古典的なテーマを扱った内容だ。 午前中に読んでいた論文とこの哲学書が引き金となり、昨日考えていたことの続きを考え始めていた。それは、科学論文や哲学論文の持つ意義に関する問題である。 私は時に、科学論文や哲学論文の価値に疑問を持つことがある。その背景には、昨日言及したように、それらの論文が限られた人にしか読まれないという問題がある。 科学論文や哲学論文は、確かにその領域に新たな知見を加えることが大事な役割の一つだろう。しかし、科学にせよ、哲学にせよ、それらの探究で得られた知見がこの具体的な社会の中に還元されていかなければ、どこか非常に虚しい営みのように思えるのは私だけだろうか。 今朝読んでいた論文の中で、教育研究と教育実践

1568. 名付けられない感情の後ろに
今朝の未明に少しばかり奇妙な体験をした。夢を見ている意識と夢から覚めた意識との狭間の状態にいるとき、頭の中には時刻を表すいくつかの数列があった。 それは、2:22と5:55という時刻を表す数列だった。2:22という数列が頭に思い浮かんだとき、目を開けて時刻を確認するとその時間だった。 起床するにはまだあまりにも早い時間だったため、もう一度眠りにつこうとした。すると無意識的に、「今から二回ほどレム・ノンレム睡眠を経て、5:55に起床しよう」と思った。 まさに、先ほど自分の脳裏に浮かんだ数列に引き寄せられるかのように、次に目覚める自分の時刻を設定したのである。寝室ではなく、書斎の方から何か物音がした。 このような早朝の未明に聞こえてくる物音は不気味であり、家の構造的にも確率的にも泥棒がこの家に入ることはほとんどないであろうはずなのに、ありえないものをありえるものに変える想像力が働いた。 結局、その物音に無関心さを装い、私は再び眠りの世界に入っていくことにした。再度目を覚ましてみると、先ほど目覚めることを意図していた5:55ではなく、5:57だった。

1567. ようやく気付いたこと
朝と夜のみならず、日中の気温も下がり始め、外出中に長袖だけでは寒くなってきた。実際に、道行く人たちのほとんどはジャケットを羽織り始めている。 今週はもう外出する予定はないから、来週から私もジャケットを羽織って出かけることにしたいと思う。今日は午前中に、「実証的教育学」の二回目のクラスに参加した。 つくづく、このクラスは内容が練られていると思う。各回のクラスで出される課題をこなしながらコースを進めていけば、実証的教育学に関する理論が自然と身につくようなカリキュラムが組まれている。 もちろん、昨年私が所属していた発達心理学科のプログラムにおけるどのコースもよく練られたものだったが、今回のプログラムは教育学科に属するものであり、教授陣が学習理論や教育研究に精通しているためもあってか、どのコースもカリキュラムが洗練されている。 私自身もカリキュラムを作り、教育プログラムを提供することもあるため、現在履修しているコースのカリキュラム設計は非常に参考になる。単純に、どのような内容のコンテンツが提供されているかに着目するのではなく、それらのコンテンツがどのよう