
1596. 文章執筆がもたらす精神の治癒と変容
昨日の日記に書いていたように、自分の内側に余白を作りながら日々の活動に取り組むことにより、随分と精神が落ち着くものである。就寝前に不必要な思考が働きすぎないようにするために、就寝前の時間は特に余白を内側に生み出す必要があるように思う。 興味深いことに、余白を作る手段の一つとして文章を書くことが挙げられる。一見すると、文章を書く行為は余白を生み出すことにつながらないのではないかと思うかもしれないが、私の場合はそれが余白を大いに生み出すことにつながる。 文章を書くことが余白を生み出すというのは、一昨日にPCの容量を整理した話とつながるかもしれない。より卑近な例で言えば、部屋の掃除と文章執筆との間には大きな関係があるだろう。 よく文章を書くことによって思考が整理されるということを聞くが、これはかなり的を得ているように思う。ただし、私の場合は、思考が整理されるだけではなく、感情や感覚などの、ありとあらゆる内側の現象があるべきところに落ち着く感覚が伴う。 一方で、文章を書くことが逆に混沌を引き起こすこともあるだろう。つまり、文章を書くことによって、既存の問

1595. デカルト犬と裸足の女性
夕方からは、「実証的教育学」の最終課題を少しだけ前に進めておきたい。今日のクラスの後に担当教授に質問をし、執筆する論文の中で盛り込むべき論点を明瞭にすることができたため、そこで得られたアイデアをドラフトに反映させておきたい。 それはまだメモ書き程度で構わない。一つの家を建築する際に、レンガを一つや二つ集めるという行為をなすかなさないかは大きな違いを生む。 とにかく、教授との対話を通じて湧き上がったアイデアをいくつかドラフトに書き留めておくことをまず行いたい。その後、本日の最後に取り組むべきこととしては、「評価研究の理論と手法」で毎週課されるレポート課題の第二稿を完成させておきたいと思う。 自由記述形式の三つの問いに対して、昨日の段階で二つの問いに回答していた。今日は最後の問いに回答をし、数日間寝かせてから提出前にまた追加・修正を行う計画でいる。 これら二つが終われば、今日は夕食後から就寝前の時間を作曲実践に充てたいと思う。
それら二つの課題に取り組む前に、そういえば、今朝大学のキャンパスに向かう最中に、微笑ましい光景に遭遇した。いつもと同じ道

1594. 長い冬の時代の中で
正直なところ、抑うつ的な天気の中で憂鬱感を感じられたということは、とてもありがたいことに思えた。そうした気分を感じさせてくれるこの季節を私は長らく待っていたからだ。 思い返してみると、夏季休暇の二ヶ月半の期間、私の日々はとにかく一定に進んでいた。終着地点など意識することなく、しかし一つの点がどこか究極の地点に向かって、静かな上下動をしながら移動している様子を見て取ることができた。 一つの点が、一日、また一日と行くべき場所に向かって小さな振動を伴いながら動いていくような日々が、夏季休暇の二ヶ月半だったと言える。その最中においては、自分の内面世界はとても穏やかだったように思える。 動いている点は自己ではなく、水面を移動する波紋のようなものであり、自己はまるで水そのものだった。そこから秋に入り、天候の変動が激しくなった。 夏季休暇の最中も、ひょっとすると天候が目まぐるしく変わっていたのかもしれないが、寒さや鬱蒼とした天気が襲うことはなかった。今、雨風のみならず、寒さと鬱蒼とした雰囲気が加わることにより、フローニンゲンの天気はよりいっそう彩り鮮やかなもの

1593. 憂鬱な天気の中で
端的に述べると、今日はとても憂鬱な一日だった。今はまだ昼を過ぎたばかりなので、一日全体がそうであったと言うことはできないが、午前中においてはそうだった。 早朝から靄がかかり、それが晴れても曇り空しかそこにはなかった。早朝の気温はとても寒く、朝から暖房をつける。 今日は九時からのクラスに参加するために、八時半あたりに自宅を出発した。もう秋用のジャケットではなく、冬用のジャケットを着ても全くおかしくはなく、マフラーを巻く必要すらあると真剣に思った。 実際に、道を行き交う人の中にはマフラーを巻いている人がいた。暦における「九月」という数字に騙されてはならず、このような寒さの中においては、マフラーを巻いている人の方が私よりも正しい。 こうした寒さと鬱蒼とした雰囲気が自分の気分に影響を与えているようだった。しかし、こうした憂鬱感というのも特におかしなものではなく、この程度のものであれば、誰しもが日頃感じているものなのかもしれない。 そうした気分の時は、いつも以上に静かになるだけであり、内側のお喋りが増えるだけである。よくよく観察をしてみると、天気がそれほど

1592. 何かに追われる夢
昨夜の夢は、就寝前の自分の思考を象徴するものであった。昨夜は毎日の日課である作曲実践をほとんど行うことができず、そうした状態で就寝に向かった。 しかも、寝室に横になってから、こなす必要のある諸々の課題について考え始めてしまったのである。それが影響してか、夢の中でも何かに追われる場面に出くわした。 それは形を変えて、人に追われるというシンボルとして夢の中に現れた。夢の中で私は、比較的大きいが、豪華だとも言えない一軒の家で開催されたパーティーに参加していた。 そのパーティー会場は、山を切り開いた住宅地の一角にあった。パーティーの途中で、私は帰らなければならない用事を思い出し、突然パーティー会場を後にすることにした。 会場の外には自転車があり、どうやらそれは自分のものらしかった。その自転車に乗り、自宅に向けて足早に出発した。 道はとても整備されているのだが、自転車を漕ぐのに少しばかり疲れてきたので、私は自転車から降り、自転車を押して行くことにした。自転車を押して進み始めると、前方に歩道をとぼとぼと歩く一人の男性の姿を見かけた。 その男性は、なにやら背中

1591. 今学期の課題について
昨日は作曲実践をする時間がほとんどなかった。実際には、就寝前に時間を取ることができていたのだが、PCの容量不足の表示が数日前から出ており、その問題に対処することにした。 気がつけば、容量が残り1Gのところまで迫ってきており、ここまで放置していた自分に少々驚いた。もしかすると、容量不足が引き金となって、ここ最近のPCの動作の不具合を起こしていたのかもしれない。 ある意味、ここでPCの大掃除をすることになり、結果として30GBまで空き容量を確保することができた。これで当面は容量に関する問題に直面しなくなるだろうが、容量確保のための掃除を定期的に行おうと思う。 この作業に多くの時間を費やしていたために、昨夜は結局作曲実践をすることができなかった。その状態のまま就寝に向かうと、なぜだか、こなす必要のあるいくつかの事柄に思考が向かった。 日本企業との協働プロジェクトは、現在複数のものが並行して走っているが、それらの進み具合は切迫したものではなく、比較的緩やかだ。一方、昨夜の私の中で懸念をしていたのは、現在履修している三つのコースの課題についてであった。 提

1590. 過ぎ去る日々と作曲実践の気づきより
早いもので今日も一日が終わりに差し掛かっている。今日は一日中書斎にこもって仕事に取り組んでいたように思う。 いくつかの日系企業との協働プロジェクトの準備やフローニンゲン大学での学術研究を並行していると、一日があっという間に過ぎ去っていく。 実務の仕事と研究の仕事に日々が彩られているが、自分の中に絶えず維持している余白のおかげもあり、一日が終わりに差し掛かっている今においても、心身の状態が早朝の起床時とほぼ変わらない。これはかなり驚くべきことである。 ここから就寝に向けて、履修しているコースの課題を少しばかり先に進め、それに切りがついたところで作曲実践に移りたいと思う。それにしても、作曲実践を始めてから、随分と自分の生活の質が変わったように思える。 それは余白の話とも関係しており、作曲実践に従事することは、まさに自分の内側で余白を育むことにつながっている。平日のほとんどの日は、就寝前の一時間ぐらいしか作曲実践に充てることができないことが多い。 しかし、それでも毎日その実践に従事することによって、作曲の技術が徐々に深まっていくことを実感するのみならず

1589. 知識の裸体と触れる体験
書斎にはハイドンのピアノソナタが流れている。誰かに遮られることもなく、何にも遮られることなく、音の旋律が滑らかに流れていく。 その滑らかな旋律が私の身体にすっと流れ込んでくるかのようである。今朝の仕事を始めてから30分ほどが経った。 昨日の朝は少し暖かく感じたが、今朝は少しばかり冷えていたので暖房をつけた。自己をその存在の粒子にまで凝縮させるあの冬がやってくることを待つ。 今年の冬はもしかすると、「あの冬」にならないかもしれない。その代わり、「この冬」になるような気がしている。昨年の冬は単に気温が厳しかったのではない。 そのようなことは、自分にとって一切の問題ではない。実存的な厳しさがあの冬の中にあったのだ。仮にあの冬と同じものが今年にやって来たとしても、私はそれを速やかに乗り越えていくだろう。 なぜなら、それをすでに一度通過しているからである。では、今年の冬はどうだろうか。 あの冬ではなく、この冬になった場合、私は何を考え、何を感じ、どのようにしてその冬と向き合っていくのだろうか。今年の冬を過小に見積もっているわけではなく、過大に見積もっている

1588. 人との縁への感謝
風もなく、音もない静寂な世界が辺りに広がっている。それはもはや「広がっている」と形容できるような類いのものではなく、無風即世界であり、無音即世界だと言った方が正確かもしれない。 今日も今日が始まった。昨日も今日が始まっていた。明日も今日が始まるのだろう。 今日は、過去・現在・未来という項を括る共通項だ。共通項の特徴は何だっただろうか。 それは、全ての項に共通して存在するもの、というシンプルなものだ。だが、それは畏怖を感じざるをえない特徴ではないだろうか。 過去も現在も未来も、それらの表皮を剥ぎ取れば、全てが今日でした、と笑いながら顔を覗かせるかもしれない。真っ暗闇に包まれた朝に、なぜこのようなことを私は考えているのか不思議である。
昨日に最も印象に残っているのは、やはりミヒャエル・ツショル教授との出会いだった。ツショル教授との出会いについて、昨夜の就寝前にも少しばかり考えていた。 私は、つくづく人との縁に恵まれることに感謝をしていた。誰に感謝するのでもなく、縁そのものへの感謝の意を捧げていた。 昨日の夕方に、ツショル教授に論文のスーパーバイザ

1587. 発達現象の背後にある力
五時の起床から始まり、いつの間にやら時刻が夕方の六時を回っていた。オランダでの一日一日が、人生の最後の一年間における一日一日と同じぐらいの重みを持ち、それでいて淡々と自分の内側に積み重なっていく感覚がする。 日々のこうした感覚が一体何なのか、今の私の言語力では明瞭に説明することができない。想像を絶するほどの重さと密度を持つ一粒の砂を見たことがあるだろうか。 物理的にはそのようなものは存在しない。だが、精神的な次元においてそれは確かに存在するようだ。 それが自分の内面の深層に静かに着実と積み重なっていく様子をどのように表現したらいいだろうか。この感覚を言葉で表現することが難しかったとしても、その堆積物が時の発酵過程を経た後に、それは鮮明な形として目の前に現れるだろう。
今日は午前中に「学習理論と教授法」の講義に参加し、午後からは「評価研究の理論と手法」の講義に参加した。毎回これらのコースから得るものが多いのだが、今日はとりわけ、前者のクラスにおいて考えさせられることが多かった。 前者のコースは、いつもはダニー・コストンス教授が担当するのだが、今