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1675. 舞と灯火

先ほど、落ち葉の最後の舞を見て、何か込み上げてくるものがあった。私たちは、あの落ち葉のように、一つの舞を次の別の落ち葉の舞に伝承するような試みに従事しているだろうか。 あの落ち葉の舞に私が感銘を受けたのは、あの落ち葉が別の落ち葉のために舞っていたからではない。あの落ち葉は、自分の生命を本気で燃やして舞っていたことに対して、私は心を動かされたのである。 他の落ち葉を思う舞の中に、あれほどの激しさが宿るだろうか。落ち葉によっては、そうしたことが可能なものもあるかもしれないが、そうした落ち葉は稀だろう。 私たち人間においてはどうだろうか。いつも私の心を打つのは、固有の生命の灯火を激しく燃やしたその人独自の生き様である。 生命の灯火が伝承される条件。その一つには、徹底的に自己の生命を燃やして生きるということが挙げられるように思えて仕方ない。 他者のために舞うことは、不純な風を呼ぶ。他者のために生きようとすることは、自分の生命の灯火に水を差すことである。そのように思えて仕方ないのだ。 ここでいつも不思議な現象に遭遇する。それは、自らのために全身全霊で舞った者、自らの生命の灯火を激しく燃やした者たちの姿は、結果として他者に大きな影響を与えるということだ。 他者の存在が先にあるわけではない。個の究極的な先に他者が待っているのだ。 個の前に立ち現れる他者は偽りの他者である。その他者を意識して生きている限り、自らの舞を踊ることも、自らの生命の灯火に従って日々を生きることなどもできはしないだろう。そして、真に他者と出会うこともできはしない。 欧州の地で生きる毎日。それは、人間本質の無情なまでの孤独

1674. 落ち葉の舞

先ほど昼食後の仕事を終え、夕方からの仕事に向けて昼寝をしていた。基本的に、毎日20分ほどの昼寝を欠かさず行っているが、昼寝の最中に時折不思議な体験に見舞われる。 先ほどもそうだった。昼寝の時間が限られたものであるため、夢のような映像を伴うことは稀なのだが、仮に映像はなくても、体験として様々なことが昼寝の中で起こる。 ベッドに仰向けになり、15分経った頃に、自分が前のめりに何かに突っ込んでいく感覚があり、体が一瞬宙に浮かんだ。明瞭な映像ではないが、自分がブレーキを大きく踏んだようなビジョンが見えた。 ブレーキの振動があまりにも強く、私の身体が宙に浮かんだようだった。そういえば、数日前にも似たような体験を仮眠中にしていたことを思い出す。 前に向かって猪突猛進しそうになる自分に対して、突然にそれを抑えようとするような自分がいるようだ。前に進もうとするエネルギーとそれを抑制しようとする相反するエネルギーがぶつかり合い、その衝撃に目を覚ますという体験である。 先ほどの仮眠からの目覚めも、まさにそれだった。目を覚ましてみると、先ほど同じように曇り空の隙間から、少しばかり太陽が顔を覗かせていた。 今日は早朝に雨が降り、今は雨が止んで、晴れ間を見せるような天気である。今年のフローニンゲンの秋は、どうも天候が変わりやすい。 気がつけば、書斎の窓の外から見える木々たちが裸になっている。秋の深まりと共に、冬の足音が聞こえて来る。 目の前の木々の葉が散ったことに伴い、向こう側に見える赤レンガの家々がよりはっきりと見える。オランダを象徴するような、高さの低いレンガ造りの家々が立ち並ぶ姿が良く見える。 目

1673. 誕生日だった

Vandaag is het mijn verjaardag. 今日は自分の誕生日であることに、今気づいた。 昨夜就寝に向かう最中も、次の日が自分の誕生日であることなど一切意識をしていなかった。これらは決して、自分の誕生日の意味が薄れたことを示しているわけではない。 むしろ逆に、誕生日が意識に上らないほどに、その重要性が自己の内側に浸透したかのようだ。誕生日を誕生日として認識しているうちは、一人の自己としてまだ誕生していないのではないかと思う。 私たちが一つの自己として真に誕生するためには、ありとあらゆる既存の経験や概念を乗り越えていく必要がある。一年のある一日が自分の誕生日であると認識させられた経験を、その経験に飲み込まれることなく、経験そのものを対象化させることができるだろうか。 これまでの自己を構成するあらゆるものへ認識の光を当てることが可能になること。それが一つの自己としての真の誕生の証である。 その点に関して言えば、私はようやく、一つの自己としての歩みを始めたように思える。誕生日を祝すように、昨日は不思議な夢を見た。 私は予備校のような場所で、これから授業を受けるようだった。しかし、一向にクラスが始まる様子はなく、突然、クイズ番組のようなものに自分が出演していることに気づいた。 このクイズ番組の会場を眺めると、チーム対抗戦で競い合うような形式を取っていることに気づいた。なぜだか、私には他のメンバーがおらず、一人で参戦しているようだった。 会場は、段差のある大学教室のような作りになっており、私の前の席に、ある会社の若い社長と思われる人物が座っていた。しかし、私はその社長

1672. 継続性という背景

今朝はとてもゆっくりとした起床となった。七時頃に起床し、七時半から仕事を開始した。 今、書斎の窓の外には、ダークブルーの世界が広がっている。普段はその青黒い空に否定的ではなく、中立的な感情を抱く。 だが、今日は不思議と、その青黒い空に好感を持っている。その青黒い空を眺めれば眺めるほどに、味わいがあるのだ。 青黒い空の味を味わったことがあるだろうか。その味をうまく形容する言葉が見つからない。目の前に広がるこの青黒い空は、どうやら今の自分を超えているようだ。 それゆえに、その味を表現する言葉が見つからず、それでいて好感を抱いているのはそのためだ。そのことだけが腑に落ちる。 昨日の自分も自分であり、昨日の自分と今日の自分が繋がっていることを自己証明するために、今日も昨日の続きから日記を書く。徐々に明るくなっていく空を前に、昨日に何をしていたのかを簡単に思い出していた。 昨日の最後には、作曲実践をしていた。一時間ほどの時間を取り、また一つ小さな実験的な曲を作った。 そういえば、昨日か一昨日辺りに、一日のうち、一時間ほど作曲理論と音楽理論を学ぶ時間に充て、就寝前の一時間を作曲実践に充てることを習慣にする、ということを書いていたように思う。 実際には、理論的な学習をする時間を日中に確保することはまだ難しく、それについては習慣となっていない。だが、就寝前の作曲実践に関しては完全に習慣になったようだ。 音楽を作ることによって、精神の治癒が起こり、自分の精神が少しずつ豊かになっていくのを実感する。作曲を始めてから、音楽への意識が絶えず存在しており、それが精神の癒しと肥やしに繋がっている。 一

1671. 最終試験に向けて

今日は、早朝にいつもより多くの日記を書き留めていた。書き始めるまで、何をどれほど書くかは分からないことがほとんどである。 今朝は気がついてみると、普段早朝に文章を書くよりも多い分量の日記を書き留めていた。日記のタイトルと内容を読み返してみなければ、一日の終わりに近づいた今となっては、それらを思い出すことができない。早朝の私は、一体何に駆り立てられ、何を書いていたのだろうか。 午前中は予定通り、来週の水曜日に行われるプレゼンに向けての資料を作ることができた。プレゼン内容は、「実証的教育学」のコースの最終課題である学校改革案を紹介するものだ。 こちらは、すでにドラフトを執筆したものの構成をそのまま活用することができたので、プレゼンスライドを作ることはそれほど難しくなかった。 ただし、確認すると、当日の発表時間が質疑応答を除くと、10分程度しかなかったため、最重要な箇所だけ説明するスライドに仕立てていく必要があった。その点にだけ注意をしながら、プレゼン資料の作成を進めた。 午後からは、同じく「実証的教育学」のコースにおいて執筆した論文を、二人の受講生とレビューし合うという課題に取り組んでいた。今回のコースの中で出題された小課題を一緒に取り組んだことのある、キルステンとリサネにレビューを依頼するメールを数日前に送っていた。 今日の午後、キルステンからフィードバックと彼女の論文が送られてきた。早速、彼女の論文をレビューすることにし、午後の時間は夕食前までレビューに時間を充てていた。 キルステンは元教師とのことであるが、どこで科学論文の執筆方法を学んだのか不思議に思うぐらいに、しっかりとし

1670. 自己言及的かつ自己産出的な実践

書くことは、既存の知識を再想起することを促し、同時に、新たな知識と体験を既存の知識と結びつけることを促す。そうした促しによって、知識と経験のネットワークが頑強なものになっていく。 結局、自分が毎日、様々な時間帯に文章を書き留めているのは、過去の自分との関連付けを起点にして、新たな自己に向かっていく支援を行っているにすぎない。人は必ず自分から出発する。 出発の起点は他者にない。常に自分の中にあるのだ。 それは、過去の自分が積み上げてきたものである。既存の知識と経験、そして自己そのもに参照する形で文章を絶えず書いていく。 こうした実践が、これまでの自分とこれからの自分を繋いでいく。そして、そうした架橋作業に従事しているのは、現在の自分であり、繋がれる者も実は現在の自己なのだ。 いずれにせよ、これまで自分が蓄積してきた知識と経験を参照しながら、新たな知識と体験を咀嚼していくことは重要な試みとして私の中にある。もしかすると、この試みが唯一、自分が前に進むための方法なのかもしれない。 自己言及的に進むということ。自己言及によって、自己産出を促していくこと。それを実現させる有力な一つの手段が、まさに書くことなのだ。 ここで述べている書くことというのは、主に文章を書くことだが、実際には自然言語による記述にとどまらない。昨日も実感していたが、曲を書く過程の中にも、紛れもなく、自己言及的かつ自己産出的な要素が含まれている。 曲を書く最中においても、これまでに習得してきた理論と技術を参照し、今の自分を参照することを余儀なくされる。まさに作曲は、過去の自分に触れることを通じて、今の自分から新たな自己

1669. 総合の時期へ

昨夜少しばかり、来年から所属予定の米国の大学について思いを馳せていた。米国のジョン・エフ・ケネディ大学にせよ、現在のフローニンゲン大学にせよ、それらの場所でしか探究することのできないことを深く学ぶために、それらの大学に所属してきた。 つまり、ある特定の探究項目に対する知識と技術を深めるために、それらの大学に籍を置いてきたのである。そうした大学での探究のおかげもあり、自分の中で専門性というものが徐々に涵養された。 もちろん、既存の専門性をさらに深めていくということと同時に、新たな専門性を身につけていくという実践に日々従事しているが、これまで培った専門性を総合的に研究に活かせる場を求めた際に、来年から所属予定の大学の名前が挙がった。 その大学には、今の自分の専門性をさらに涵養する場と同時に、新たな専門性を開拓する場も豊富にある。そして何よりも、これまでの自分の専門性を大いに試す場が無数に存在している。 来年からの自分の主題は、「総合」という言葉に集約されるかもしれない。これまで培った知識と技術を総合的に発揮させる中で研究に従事し、その過程の中で、既存の専門性を深耕させ、新たな専門性を開拓していくことになるだろう。 そうしたことに思いを巡らせながら、今後の博士論文についても考えを巡らせていた。人間発達と学習を中心テーマとすることは、これまでと変わりがない。 そのテーマを探究するための科学分野として、発達科学、教育科学、システム科学、ネットワーク科学などが挙げられる。博士論文という比較的分量の多い論文を執筆する試みの中で、是非ともそれらの科学領域の知見を盛り込んできたいと思う。 次

1668. 学習におけるデータ収集と検証

今日が何曜日であるのかを分らなくするぐらいに、起床直後の外の世界は闇に包まれている。闇が曜日を覆い隠してしまうかのようだ。 起床直後の世界は、いつも闇に包まれているため、その様子を見ただけでは、その日が何曜日なのか分からない。姿の見えない一羽の小鳥が、どこかで鳴いている。 変動性の中に潜む規則性を持った形で、その小鳥は鳴いている。闇の中で鳴く小鳥の声に耳を澄ませながら、今日が金曜日であることを確認した。 今日は午前中に、「実証的教育学」の最終回のクラスで行われるプレゼンの資料を作成したいと思う。当日のプレゼンの時間は長くなく、15分程度のものである。 先日、「学習理論と教授法」のクラスにおいても、ほぼ同様の時間のプレゼンを行った。現在、応募結果待ちの、来年の六月のジャン・ピアジェ学会での研究発表も、それぐらいの時間のプレゼンになる。 プレゼンに関して、特殊な訓練を受けたことはないが、おそらくプレゼンに関する方法論というものが存在しているのだろう。それを習得しているのと習得していないのとでは、おそらく相手に伝わる度合いが大きく左右されるように思う。 これまでそうした訓練を体系立てて積んだことがないため、私は自分なりにそうした方法論を確立していく必要がある。とりわけ、毎回のプレゼンから何らかの反省点や検証材料を持ち帰る必要がある。 毎日プレゼンを行っているわけでは決してないから、一回一回のプレゼンの機会は、実践の場であるだけではなく、データ収集の場でもある。来週のプレゼンにおいても、先日のプレゼンから得られた事柄を検証するようにし、さらに新たなデータを収集しようと思う。 人はつくづ

1667. 余白と学習

良質の睡眠を取ることができたためか、今朝の目覚めは非常に良い。基本的に就寝時間はいつも一定だが、その日の心身の状態に応じて、若干睡眠時間が変化する。 今朝はいつもより遅めの六時半の起床となった。質の良い睡眠を取ることは、何をすることにおいても重要だと思う。 学習に限って見ても、学習した知識や技術を文字通り寝かせ、自分の内側に定着させる際にも良質な睡眠が大切となる。人間発達や学習について探究を進めていると、必ず身体や脳についても知る必要が出てくる。 最近特に、脳についての探究をいつか本腰を入れて行う必要があるかもしれないと思っている。昨日、教育科学に関する論文を読んでいた時に、「私たちは効果的な学習についてほとんど知っていない」という記述を目にした。 ここで述べている「私たち」というのは、主に学習者を指している。学習者である私たちは、効果的な学習方法を習得する訓練を積んでいないのではないだろうか。 学習対象となる知識項目を学ぼうとするだけであり、それらの知識項目をどのように学んでいくのか、という方法論を習得する機会と訓練が、多くの場合に欠落しているように思う。その結果、学習者は効果的な学習方法ではないやり方で知識項目と向き合うことになる。 それが結果的に、知識項目の不十分な習得を招いてしまっていることが多々あるだろう。一つは冒頭の話とつながっており、例えば、知識項目を学習する際に、いかにそれを寝かせるか、ということである。 教育哲学者のパウロ・フレイレが警鐘を鳴らしていたように、銀行型教育を採用してはならない。これは単純な知識の詰め込みであり、学習者が真に知識を獲得し、それを活用

1666. 魂の遍歴

夜の八時を回り、今日も一日が終わりに近づいている。充実さの密度空間の中で、瞬間瞬間の呼吸を続けている感覚。今日もそのような一日であったと形容できる。 早朝の霧の世界から、今はすっかり闇の世界に様変わりしている。夕食を摂り終え、先ほど「実証的教育学」の講義資料を最初から最後まで読み返していると、またしても自分が自己から離れる瞬間があった。 あるいは逆に、自己が自分から離れる瞬間があった。それは単純明快な感覚であり、自分も自己も、どちらの存在も一緒くたに把握することができる知覚である。 ヨーロッパという地は、自分を自己から引き剥がし、もう一度自分を自己に引き戻すことを私に促してくる。両者の存在を同時に把握する感覚は、常に生きることの本質的な感覚を喚起する。 生きていることの神秘さや奇跡という表現を超え、生きているということの究極的な謎を突きつける。北欧に近い北オランダのこの街は、日が沈む時刻が早まったこの時期において、そうした問いをたびたび私に投げかけてくる。 そのたびごとに私は立ち止まり、その問いの促しに従う。問いに応えようとすることはない。 なぜなら、そのような問いに応えることなどできないからだ。できることがあるとすれば、それは、ただそうした問いの促しに従い、促しから新たな感覚や次なる問いを得るということである。 読むことと書くことに関して、私はもはや外側からの強制によってそれらの行為に従事することができなくなった。知的好奇心の求めるままに文献を読み、文章を書くということも超えつつあるように思う。それはもはや、魂の赴くままに文献を読み、文章を書くという姿の方が近い。 自分は

1665. トライアンドエラーを通じて

早朝から深い霧が辺りを包んでいた。その様子はまるで、雪の世界であった。 深い霧が随分と晴れてきたのは、十時を過ぎた頃だった。今朝は早朝の六時から仕事を開始させた。 九時頃を迎えてから、「学習理論と教授法」の最終試験に向けて、課題文献を再度読み返すことを行っていた。心理学科に所属していた昨年は、どのコースも二時間の試験であった。 しかし、教育学科では試験の時間がさらに一時間ほど長く、三時間ほどに及ぶ。私が履修しているコースではないが、どうやら四時間に及ぶものもあるらしい。 記述式試験に向けて学習をする際に、単に文献を読んでいるだけでは全く意味がない。そもそも、それらの文献の内容を理解することは、最終試験のためにあるのではない。 より長期的な視野を持って、今後の自らの研究や実務の糧になるようなものでなければならない。そうしたことを考えると、なおさら課題文献を単に読み返すことは不十分だという思いになる。 今日の取り組みは、確かに課題文献の再確認である。各回の講義内容をもう一度思い返すために、講義資料を読み返し、同時に課題文献を読み返すことを行っていた。 しかし、それは将来の糧になるような意味での学習には程遠い。こうした確認作業が終わった後に、私がなすべきことは、文献で書かれていることを自分の言葉でまとめていくということである。 その際には、実際に文章の形にしていくことが最も望ましい。幸いにも、今回の試験では、課題文献を含め、自分で作成したノート類を持ち込むことができる。 そうしたことを踏まえると、自分の言葉で事前に考えをまとめておくことは有益だろう。しかし、繰り返しになるが、試験のた

1664. 旧西ドイツの首都ボンの市内より

新幹線が追突する大惨事の夢は、無意識の大きな連続的な流れの一部であった。それを証明するように、その夢から次の夢への移行は滑らかになされた。 無意識の中の同じ階層内を移動したという感覚、あるいは、違う階層なのだが、階層間の移行か極めて速やかになされたような感覚があった。夢の次の場面では、ドイツのボンにいた。 この街は、ベートーヴェンが生誕した場所であることを私は知っていた。私は何のためにボンに来たのか、その理由については不明である。 気づけばボンにいたのだ。どうやら今は三月らしい。 三月のボンは、乾燥しており、寒さがまだ厳しかった。しかし、天気には恵まれており、その瞬間のボンの空は、雲ひとつない青空だった。 私はボンの街中にたたずみ、青空をただぼんやりと眺めていた。辺りを歩く人の姿は見られず、空を眺めているのは私だけのようだった。 「空が自分を呼んだから空を見ていた」とでも言えるように、私は薄い青色をした空をじっと眺めていた。すると、本当に空が自分を呼んでいたことを証明するかのように、私は空の中へ溶け出していった。 その感覚に包まれた時、私はボンの市内にある建物の中の一室にいた。そこには、中学校時代にお世話になった数学の先生と、私の友人が数名いた。先生が突然私に質問をしてきた。 数学の先生:「ボンの三月の気候を説明する文章として、正しいのはこの二つのうちどっち?」 先生は私に、ボンの気候を説明する文章を二つ提示した。なぜだか、それらの文章は英語で書かれていた。 私:「Aだと思います」 数学の先生:「残念、正解はBね」 私:「いや、三月のボンは雨量が少なく、乾燥した気候が特

1663. 大惨事と遭遇する夢

早朝、目を覚ました瞬間に、随分と起床時の状態が良いことに気づいた。目覚めと共に、自分の内側に何か光が灯っているかのようであった。 一方、早朝の六時前のフローニンゲンは闇の世界であった。今朝の目覚めの良さは、昨日に行ったランニングや、就寝前にいつもより入念に行っていた青竹踏みと関係しているかもしれない。 自らの身体をいかに鍛え、いかに休息させるかは、極めて大事であることを改めて思う。 昨夜の夢は印象的なものだった。私は名古屋のある大型書店にいた。 そこは、何階にもわたるフロアを持った大きな書店であり、店内は広く、明るい光を発していた。店内を歩いていると、向こうから一人の男性が私に声をかけてきた。 どうやらその男性は、この書店の店長であるらしい。私は、その方の顔に見覚えがあり、名前もうる覚えだが、お互いに面識があるようだった。 出会ったその場で少し立ち話をしていると、その店長が私にある提案を持ちかけた。 店長:「今から東京の大型書店に行くのですが、一緒に来ますか?」 私:「ええ」 店長は私に笑顔でそのような提案を持ちかけ、私は東京の大型書店に関心があったので、提案に対して即座に快諾をした。店長の話では、東京の大型書店に視察に行くの同時に、そこで仕入れ交渉か何かをするらしかった。 大型書店に視察という観点と仕入れ交渉という観点で足を踏み入れたことがなかったため、私は好奇心に従って店長についていくことにしたのである。 店長:「それでは一緒に行きましょう。この書店の地下に駅がありますから、そこから新幹線に乗って東京に向かいましょう」 店長がそのようなことを述べたとき、こ

1662. 自己、この未知なるもの

書斎の中に音楽だけが静かに流れる夜。辺りは真っ暗であり、自分の内側の世界と呼応するかのように、外の世界も静かだ。 自分は今、欧州の地にいる。オランダという国にいるということを、なぜだか強く噛み締める夜だ。 今日は朝からとても寒い。早朝、大学のキャンパスに行く際に、マフラーを持って自宅を出発しなかったことを少し後悔するぐらいに、今日は寒い一日であった。 これからこの地は、冬に向けての準備を始める。それに際して、自分は準備をしているだろうか。 準備に準備を重ねたとしても、今年の冬に経験されることは、今の私の予想を超えたものになるであろうことが予想される。 準備を超え、予想を超えた経験をもたらすもの。それが今年の冬の一つの大きな特徴だろう。 自分がこの世界に存在していると言える確かな実感が欲しい時がある。自己がこの世界に存在しているという確かな実感。今日は昼間から、そのような実感の存在証明について考えが一瞬及んだ。 自分の認識をどのように保てば、あるいは、どのように変容させていけば、自分がこの世界に存在しているということを証明することができるのか、という問題である。欧州での日々は、いつも私に一人の人間として生きていくことに関する問題を突きつけてくる。 就寝前の不気味な思念の創発だけではなく、日中の一挙手一投足の中に、一呼吸の中に、自分が人間として生きることの問題を考えさせる契機が宿っている。 自分は果たして存在しているのだろうか、自分はなぜ欧州の土地にいるのか、という問いが生まれたのは、昼間に洗面所で手を洗っている時だった。水道の蛇口を閉じた瞬間に、それらの問いが開いた。 そして、そ

1661. 未来という現在に飛ぶ意識

今日は朝の九時から、大学のカフェテリアでグループミーティングを行った。「学習理論と教授法」のクラスで課せられている共同論文執筆の課題も大詰めを迎え、最後のミーティングをメンバーと行った。 ちょうど一昨日、論文のドラフトを基にしたプレゼンをクラスで行い、ドラフトに対して担当教授からフィードバックがあった。そのフィードバックを基に、論文を練り直していく必要がある。 今日のミーティングでは、得られたフィードバックの中のどれに焦点を当て、その観点をどれほどまでに自分たちの論文に反映していくかを話し合った。時間にして一時間ほどのミーティングであり、最終的には、ドラフトの中で取り上げた三つの項目のうち、一つを削り、二つの内容を充実させる方向になった。 今週の日曜日までに、各々の担当箇所の修正をこなすことを約束し、一時間強ほどでミーティングを終えた。キャンパスから自宅に戻ると、少しばかり頭が冴えない感じがあった。 ちょうど今日は昼食前に身体を動かそうと思っていたため、頭の冴えを取り戻すために、ランニングに出かけた。うっすらとした雲が空全体を覆っている中、いつもと同じように、ノーダープラントソン公園へ向かった。 心身を整える上で、身体を動かすことはとても効果があるように思う。また、このように自然の中を走ることは大きな気分転換となる。 ノーダープラントソン公園を走りながら、私はなぜだか、来年から生活予定の米国の地でのランニング場所について思いを巡らせていた。その場所には大きな川があり、川沿いを走っている自分の姿が目に浮かんだ。 今からまだ一年弱先のことであり、しかも、本当に来年の今頃にその場所に

1660. 曲中の句読点

早朝、昨夜に湧き上がった作曲に関する問いについて少しばかり考えを巡らせていた。しかし、知識のないところから問いへの解答を見出していくことは容易なことではなかった。 知識がなくても問いを立てることができたが、それらの問いに解答するためには、実践的な知識が必要であった。そのため、書斎の机の脇にある椅子の上に積み上げられた書籍の一番上にある、エドヴァルド・グリーグの楽譜を手にとって眺めてみた。 すると、色々と面白いことに気づいた。見開き二ページほどの、いくつかの短い曲の中において、句読点の使われ方は実に多様であった。 ある曲においては、最初の八小節で一度句点(もしくは読点)が置かれ、そこから曲の最後に向かっては一度も句読点が挿入されていない。一つのモチーフやテーマのようなものが、あるべき形になるまで曲が続き、あるべき形を迎えた時に句読点を打っている印象がある。 私の場合、一つのモチーフやテーマが仮にあったとしても、それがどのようなあるべき形をしているのかを掴むことがまだできない。文章執筆で言えば、自分の文章がどこに向かっているかわからない状態である。 もちろん、文章においても、事前に文章の終わりを完全に予期することはできない。最後の落とし所はあったとしても、その落とし所の色や感触は、当初の予定とは若干異なることが頻繁に起こる。 文章の場合であれば、そのあるべき地点に向かって、言葉をある程度自由に紡ぎ出してくことができる。一方で、作曲の場合ではそれがまだ相当に難しい。 もう一つ、決定的なことは、自分の中のモチーフやテーマが、あるべき形に収束していくのが極めて早いということだ。曲の中でモ

⭐️【お知らせ:『成人発達理論による能力の成長』出版記念ゼミナールの録画教材】

いつも「発達理論の学び舎」をご覧になっていただき、どうもありがとうございます。 『成人発達理論による能力の成長』が出版されてから、早いもので3ヶ月が経ちました。 その後、書籍の内容に関する理解や能力開発の実践について、ご自身の中でどのような進展がありましたでしょうか? このたび、2017年7月から開催された出版記念ゼミナールの録画音声を基にした教材をご購入いただけるようになりました。 本教材は、拙書『成人発達理論による能力の成長』に記載されている概念や実践方法の理解をより深め、書籍には記載されていない概念や実践方法をご自身のペースで学べる内容になっております。 書籍の内容を一人で理解していくのは、なかなか難しかったのではないかと思います。本教材が皆さまの学習の伴走となり、能力の成長に関するさらなる理解を促し、実践をより深いものにしていくお役に立てるのであれば幸いです。 教材に関する詳細と各クラスの見どころをまとめたPPTスライドを下記に紹介させていただきます。 【教材に含まれるもの】 下記の録画(合計約1553分)・講義資料(PPTスライド合計153枚)が教材に含まれます。 【講義動画】 1.第一回:「知性発達科学」&「ダイナミックスキル理論」とは(その1):約110分 2.第一回:「知性発達科学」&「ダイナミックスキル理論」とは(その2):約120分 3.第二回:大人の能力の成長プロセス(その1):約116分 4.第二回:大人の能力の成長プロセス(その2):約115分 5.第三回:自他の能力レベルを知る(その1):約130分 6.第三回:自他の能力レベルを知る(その2):約1

1659. 転調と休符

今日は、早朝の六時から一日の仕事を開始させた。昨日、全ての仕事を終えた後、就寝前の一時間半の時間を使って作曲実践を行っていた。 作曲に関しては、まだまだわからないことが多々あり、日本語で日記を書くように、自由自在に曲を生み出すまでには時間がかかるだろう。昨日は、曲の中でどのように転調させるのかの方法について少し調べていた。 しかし、表面的に意味を理解した程度であり、それを実際の曲の中に適用できる次元で理解しているとは言い難い。転調について色々と調べている最中に、ドイツの作曲家マックス・レーガーの “Modulation (2007)”という書籍を見つけた。 この書籍と合わせて、七冊ほど作曲関係の書籍をイギリスのアマゾンに注文することにした。現在曲を作りながら作曲に関する理解と技術を深めようとしているが、やはり知識量が圧倒的に欠落していることが、自由自在な作曲を行うことを困難なものにしている。 転調に関してもそうである。そもそも転調というものが何であり、どのような理論に基づいて転調がなされ、そして、それらを曲の中でどのように適用していくのかの方法論が、まだ私の中にはない。 今は作品を生み出しているというよりも、曲を作りながら、自分の課題を洗い出している試みに従事していると言った方がいいだろう。昨日も曲を作りながら考えていたが、一つのテーマから別のテーマに移っていく際の移行のさせ方が難しい。 例えば、八つの小節を作った後に、そこまでを一つの区切りとし、次の小節に向かっていく際の連続性をどのように確保するかが、まだよく掴めていない。 そもそも連続性を確保すべきなのかどうか、非連続的な

1658. 確信

欧州での二年目の生活が始まり、すでに二ヶ月が経とうとしている。昨年の一年間、自分は見えないところで多くのことを内側に積み重ねていたようだ。 それらが今一つ一つ、実感を伴う形で外側に見え始めていることは喜ばしい。論文を絶えず書き、日記を絶えず書き、曲を絶えず書くという、三つの創造行為に本格的に取り組むための準備が、今着実に進行しつつある。 もはや日々の自分の取り組みは、自分しか知らないことを知っている。表現行為の産物は、確かに誰かに参照されてこそ意味を持つ。 しかし、私がより重要だと思っているのは、誰にも参照されることがなくても、絶えず何かを形として生み出していくことである。つまり、人が見ている見ていないにかかわらず、表現行為を止めてはならないのだ。 誰が見ているのかどうかというのは、もはや一切視界に入らない。自分だけが自分の表現行為を見守っている。 まだ何も始めていないということ、そして、まだ何も始まっていないことを自分だけが知っている。今、日々何かを表現している量では、圧倒的に量の欠落であることを自分は知っている。 それを教えてくれるのは、創造の源泉に繋がっている時のあの純真な感覚だ。あの感覚を基にすれば、今の次元とはまた違った量と質を持って表現活動に取り組むことができることを知っている。 今日小さく積み重ねていった一つ一つの行為が、その実現への足場を作る。その足場は、もはや不可視のものではなく、実際に身体で触れるのと同じぐらいの実感を持って知覚することができる。 フローニンゲンの街は、黄昏時の時刻が早くなった。正午を少し過ぎたあたりから、どことなく夕方の雰囲気を醸し出し

1657. データリテラシーとプログラミングリテラシー

極めて密度の高い一日が、また終わりに近づいている。今日は早朝の五時から仕事を開始し、事前に予定していた全ての仕事を納得のいく次元で完遂させることができた。 それにしても、この日々の充実感は一体何なのだろうか。毎日、そうした充実感を言葉で表現しようと思っても、それは言葉の範疇を飛び越えている。 言葉の外の世界にある何かが、日々私の内側に流入している。もしくは、そうした何かが、自分の内側から絶えず湧き上がっていると言っていいだろう。 日々、表現することに最大の焦点を当てた形で専門書や論文と向き合い、実際に文章を書き残していく生活。そうした文章は、学術論文の形を取ることもあれば、日記の形式を取ることもある。 形式の差異に関わらず、もはや自分は絶えず何かを書く人間になった。仮に人は自らを表現し、自らの人生を記すことを宿命づけられた存在であるならば、ようやく私は一人の人間になりつつあるのだと思う。 今日は早朝から一体何をしていたのかを少し振り返っておきたい。今朝は早朝から、「評価研究の理論と手法」というコースのコンピューターラボの課題に取り組んでいた。 このコースの課題のおかげで、私は随分と研究デザインの理論と介入手法の効果測定の理論と方法を学ぶことができたように思う。とりわけ、私の研究対象は、人間の発達と学習であるため、研究において、何かしらの介入手法を導入した際の効果を測定することがよくある。 また、学術研究のみならず、今まさに現在進行形で動いている日本企業との共同プロジェクトにおいても、人財育成プログラムの効果測定とその見直しというテーマは、まさに今回履修しているコースの内容と

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