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387. 雲と空

今朝起床した時に窓の外を見てみると、空一面が雲で覆われていることに気づいた。これは雨雲ではなかったが、薄く灰色がかった雲が途切れることなく空を覆っていた。この雲はひと続きの塊として同一性を保っていたため、上空を動いているのかどうか判断がつかなかった。 その後、午前中の仕事に没頭し、昼食時に再び空を見上げると、先ほどの一塊の雲がちぎれちぎれになって空に浮かんでいた。空に散らばる様々な雲を見ていると、そこに個性化が生じたのだと思った。一つの塊として同一化していた雲が様々な形に分離されることによって、一つ一つの個性を獲得したのではないか、と思ったのだ。 そのようなことを思いながら、昼食のパンをかじった時だった。イギリスの哲学者かつ社会学者であったハーバート・スペンサーが、進化の本質に同質性から異質性への移行を見て取ったことを思い出した。それと同時に、これはまさに、発達心理学者のハインツ・ワーナーが発達の本質として、同一化していたものが差異化していくプロセスを見て取ったことと同じであることを思い出したのだった。 先ほどの裂け目のない大きな塊とは打って変わり、分離した雲を見つめながら色々と考えさせられることがある。同一化していた雲は、差異化を経て、まるで個性を獲得したかのように、各々違う速度で空を泳いでいる。果たしてそれらの雲を見つめている今この瞬間の私は、何と同一化しており、そこから差異化するというのはどういうことを意味するのか考えていた。 しかしながら、差異化の意味について思考のベクトルが向かうことはなく、差異化の方法について考え始める自分がその場にいた。どうも差異化を生み出すために

386. 静かなる進行

今日の早朝はランニングを行った。先週の土日は、身体運動よりも思考運動に適した日だったので、ランニングをお預けにしていたのだ。月曜日の朝は土日の朝に比べると、ランニングをしている人はそれほどいない。今日のランニングでは少数の他のランナーとすれ違うたびに挨拶を交わしていた。 挨拶というのは不思議なもので、挨拶を交換すると、何だかお互いに別のものまで交換しているような感覚に陥ることはないだろうか。相手の何気ない挨拶が自分の中のエネルギーを刺激する触媒となり、挨拶を交わすと、より活発なエネルギーの流れが自分の内側に生じるのを実感するのだ。 もちろん、この感覚は極めて微細なものなので、よくよく注視して観察をしないと見過ごされてしまうものである。幼少期の頃、「きちんと挨拶をしましょう」ということを学校などでよく言われたものだが、この発言には非常に大きな意味があったのだ、とこの年になって改めて気づく。 今日のランニングコースは、先々週に発見した新しいコースである。これまでは近所のノーダープラントソン公園を走っていたが、先週からはコースを変更し、近くにある運河に沿って作られたサイクリングロードを走るようにしていた。平日の一日はノーダープラントソン公園を軽めに走るようにし、休日は新しく発見した長めのコースを走るようにしたいと思う。 自宅を出発して、これまで見過ごしていたストリートがあることに気づいた。私の自宅の住所は、ロッテルダム生まれのオランダ人の画家ジョルジュ・ブレイトナー(1857-1914)の名前が付されたストリートにある。今日という日まで一切気づいていなかったのは、ブレイトナー通りのひ

385. 問いを引き受けるということ

今日はいつも以上に集中力を発揮して仕事に取り組むことができていたように思う。本来であれば、土日のどちらかには必ずランニングをしているのだが、今週はランニングをせず、来週からは月曜日に走ることにしようと思う。本日は走るという身体運動よりも書物を読むという思考運動に適した日だったのだと思う。 以前、「問いが問いを生む」という循環プロセスについて言及したことがあったように思う。あの時以降、この話題について考えることはなかったのだが、イマニュエル・カントが “Prolegomena to any future metaphysics (1783)”の中で同様の指摘をしていることに気づいた。 カント曰く、ある問いに対する回答は必ず新たな問いを生み出し、その問いはまた何かしらの回答を要求するのだ。以前、ハーバード大学教育大学院のある教授に、「米国には優れた教育大学院が存在し、教育に関する研究や実践、そして教育政策の立案と導入手法に関してこれだけ洗練されているにもかかわらず、国内の教育問題が一向に解決する兆しが見えないのはなぜなのか?」と尋ねたことがある。その教授がどのような回答をしたのか今となっては覚えていないが、この問題は上記の話題と関係するかもしれない。 私たちは個人レベルで常に問いと答えの連続的なサイクルの中で生きることを宿命づけられており、これは集合レベルでも同じことが言えるのではないだろうか。つまり、集合レベルで何かの問題を解決しようとするとき、そこに暫定的な回答が提出されるが、その回答が再び新たな問題を生むのである。 こうした循環的なサイクルが存在しているため、既存の教育問題に

384. 専門家の能力と使い方について

昨日読んだ論文の中で印象に残っているのは、 "Wither cognitive talent? Understanding high ability and its development, relevance, and furtherance(2013)” である。この論文では、多様な知性領域の中で「認知能力」に焦点を絞り、高度な認知能力とは何を意味するのかを議論している。その議論の中で、高度な認知能力と社会の発展との関係についても言及しており、教育政策や社会政策と絡めながら倫理的問題にまで踏み込んでいるのが面白い。 この論文を読むと、高度な認知能力を定義付けるのはつくづく難しいものだと思わされる。何よりもまず、ある認知能力が発揮される領域を特定・選択し、その領域を定義付けていかなければならない。 専門家でもない限り、多くの人は、認知能力とは全ての事柄に等しく適用されるもの、と思っているかもしれないが、実際にはそのようなことはなく、私たちの認知能力は特定の領域の特定の事柄に対して発揮される、ということが様々な研究から明らかになっている。 全ての領域の全ての事柄に適用されるような認知能力は存在しないため、高度な認知能力を定義付けていくときには、認知能力が発揮される領域を議論していかなければならないのだ。 次に重要になってくるのは、特定した領域の能力を正確に測定する手法の存在である。信頼性と妥当性の担保された測定手法がなければ、その能力を比べることなどできない。そのため、ある領域で発揮される特定の能力を適切に測定することができるアセスメントを開発することが重要になる。 最後に重要

383. これまでの文章を編集しながら

土曜日の今日は、早朝にいつもどおりの習慣的実践を済ませた後、オランダ語の学習を少し行っていた。このオランダ語の学習も早朝の習慣になりつつあるのは、私にとって喜ばしいことである。土曜日のフローニンゲンの朝は、平日とは違う雰囲気を醸し出している。 平日においては、朝の早い時間から通勤や通学に向かう人たちの姿を窓越しに見つけることができる。平日の朝は、人々の活動エネルギーと和をなすかのように刻みの良いリズムをその時間の中に生み出している。一方、休日のフローニンゲンの朝は、街の人々に休息エネルギーを分け与えているかのように、優しく揺るやなかリズムを生み出している。 そのようなリズムの中、今日は時間が取れたので、これまで執筆してきた文章を読み返し、編集作業を行っていた。日本を出発する前後の文章を読んでいると、このようにオランダで生活をしている今の自分には表現できないような言葉がそこに記されているのを見て取ることができる。 より正確には、間違いなくあの時にしか感じられたなかったことや考えられなかったことがあり、あの時にしか表現できなかったことが多々あったのだ、と気付かされた。こうした気づきを得られるのも、やはり文章を毎日書き留めてきたからであろう。 約一ヶ月半前の自分と今の自分を比較してみて、そこに成長や発達が見られるか?と問われると、そうしたものは見出せないかもしれない。一ヶ月半という時間は、成長や発達を議論するにはあまりにも短いものである。そのため、マクロな成長や発達というのは私の中でまだ起こっていないと思われる。 ただし、その期間の文章を読み返してみて一目瞭然なのは、絶えず自分が変化

382. 夢の中の感覚質

やはり夢という現象は不思議な性質を持っているとつくづく思う。ここ最近、鮮明に記憶に残っている幾つかの夢を思い返してみると、夢が持つ特殊な性質について考えざるをえなくなる。米国のジョン・エフ・ケネディ大学に在籍していた時、一人変わった友人がいた。 私よりも九つほど年の離れたジョナサンというこの友人は、人間に不可避の「夢」と「死」という二つの現象の探究に取り憑かれていたのだった。ジョナサンの自宅に行くと、夢と死に関する専門書で本棚が埋め尽くされていたことをふと思い出した。 特に、ジョナサンが有志を募って開催していた「ドリームグループ」に私は毎週のように参加していた。これは、参加者各人が先週に見た夢をノートなどに記録しておき、それを円卓上の参加者に共有し、二、三名の夢に絞って多様な角度からその夢を探究していくことを目的にした学習グループであった。 私はこのグループに参加することによって、初めて自分の夢と本格的に向き合うことになったのだと思う。それまでの私は、夢を人間の意識を探究するための材料にするような発想は全くなかったし、探究するための観点や手立てに関しても何もなかったのである。 ジョナサンのこのグループに参加することによって、私は少しずつ夢を探究するための視点や方法を身に付けていったように思う。当時ほど真剣に毎日の夢と向き合っているわけではないが、今現在も起床直後には昨夜の夢に対してあれこれと思いを巡らせるようなことが習慣になっている。 とりわけ最近は、夢の中に現れるシンボルの解釈や夢の意味を探究するということよりも、夢の性質そのものについて考えさせられることが多いように思う。確

381. 文献の購入先

同じプログラムに在籍するインドネシア人のタタと先日立ち話をしていたところ、彼女はまだ課題図書を購入できていないとのことであった。フローニンゲン大学が提供している電子書籍サービスによって、基本的に生徒は実物のテキストを購入せずとも、書籍や論文を電子データの形式で読むことができる。 先日の「タレントディベロップメントと創造性の発達」のクラスにおいても、机の上にテキストと論文を広げているのは私を含め、それほど多くなかったように思う。私は、書物や論文を読む行為とは五感を総動員させて取り組むべき思考運動だと捉えており、常に実物の書籍やプリントアウトした論文を読むようにしている。 五感を総動員させて書物や論文と向き合うことによって、得られる情報の質が全く異なり、自分の中から湧き上がってくるアイデアの種類と質も全く異なるものになると感じている。適切な表現ではないかもしれないが、電子データの形式で読もうとする書籍や論文は、実物の書籍として購入するに値しないと判断したものであったり、プリントアウトしてまで読み込む価値のない論文と判断したものがほとんどである。 つまり、真剣にその書籍や論文と向き合おうとする際には、必ず実物の書籍を購入するようにしているし、論文であれば必ずプリントアウトするようにしている。最近は特に、自分の中で意義を見出せない書籍や論文を読まないようにしているため、電子データの形式の書籍や論文とはますます距離が取られている。 タタも基本的には私の考え方に賛同しているようであり、どこで課題図書を購入したのかを私に尋ねてきた。私は日本にいるときに、最初の一年目のコースで使うことになる全

380. 第四回目のオランダ語のクラス:所有格・時間表現・時の前置詞など

昨日から今朝にかけて、時空間の隙間に挟まっている感覚があったが、降り注ぐ雨を眺めていると無事に現在の時間と場所に戻ってくることができたように思う。オランダ語の学習は非常にゆっくりとだが、確実に日増しに進歩しているのを実感している。こうしたわずかばかりの進歩を見逃さずに発見していくことが、何よりも自分の学習動機に好影響を与えていると思うのだ。 新しい言語を学ぶことに伴って、その言語を使って何かを表現することの苦しみと喜びを実感することができる。新しい語彙や文法事項を習っても、すぐにそれを活用して自分の伝えたいことを表現できるわけではない。その際には、苦虫を噛み潰すようなもどかしさが内側にあるのだが、ひとたびたどたどしくても自分の伝えたいことを表現することができた際には、何とも言えない喜びがあるのだ。 今日は第四回目のオランダ語のクラスがあり、本日も学びの多いクラスであった。毎回新しい語彙や文法表現を習うことが楽しみで仕方なくなってきており、クラスが終わって帰宅すると、自分の専門分野の書籍や論文を読むことよりもまず最初に、クラスの復習と宿題をこなすことが習慣になりつつある。 宿題を済ませてから昼食を摂っていると、今の自分にとって、オランダ語を話すことはパンを囓ることに等しく、英語を話すことは水を飲むことに等しく、日本語を話すことは空気を吸うことに等しい感じがしていた。 オランダ語を話すときは噛むことを意識しなければならないが、英語を話すときはもはや噛むことを意識する必要はほとんど無い自分が出来上がりつつある。これまでは英語と日本語しか習得言語がなかったので、英語で思考することが難し

379. エゴン・ブランスウィックの「心理学的生態学」に関する所感

ようやくフローニンゲンの街の天候パターンを掴み始めたと言えそうである。この街に到着した当初は、天気予報では降水確率が低いにも関わらず、雨に見舞われることが多々あったため、つくづく天気というのは予測の難しいダイナミックシステムだと頭を悩ませていた。 単純に降水確率では割り切れないような複雑な確率的現象が天候には含まれているのだとつくづく思わされていた。そうした複雑な確率的側面を持つフローニンゲンの天候に対して、徐々に順応している自分がいるのは確かである。 具体的には、これまでは天気予報を信じることなく、常に折りたたみ傘を携帯して外出していた。しかし最近は、天気予報を参照した後に、今この瞬間の空気の匂いを含めた天候の雰囲気を手掛かりとして折りたたみ傘を持っていくのかどうかを判断している。 天気予報と目の前の雲の色や形だけを判断材料にすると、これまで散々と裏切られきたため、環境から抽出できる情報をより広く取り入れることによって意思決定の判断をしてみると、その予測精度が格段に向上したのである。ここから、私という人間は複雑な確率的環境世界の中に組み込まれていたとしても、環境に適応し、環境から学ぶことによって、複雑な確率に押し潰されることなく生きることができているのではないか、と思った。 そもそもこんなことを考えるきっかけになったのが、昨日読んでいた論文の中で何気なく言及されていたエゴン・ブランスウィックという心理学者の思想である。昨日初めて私は、元カリフォルニア大学バークレー校教授エゴン・ブランスウィック(1903-1955)というハンガリー人の心理学者の思想に触れることになった。 ブラ

378. 注目を集める教育手法「非線形教授法(nonlinear pedagogy)」について

ここ最近は、スポーツ科学の研究成果から人間の知性や能力の発達について考えさせられることが多い。実際に、スポーツ科学の学術論文を読んでみると、そこには非常に面白い研究手法や研究結果、そして能力開発に関する有益な知見が数多く存在することに気づく。 昨日は午後から、「タレントディベロップメントと創造性の発達」のコースの第三回目のクラスで必読論文とされている “Representative learning design and functionality of research and practice in sport (2011)”を読んでいた。この論文は、スポーツの領域における能力の発達に焦点を当てているが、一般的な教育の世界や企業社会での人財育成に活用できる重要な知見をいくつも含んでいる。 特に、「非線形教授法(nonlinear pedagogy)」という手法が、身体教育やスポーツコーチングの世界に取り入れられつつある、ということに私は着目した。非線形教授法とは、ジェームズ・ギブソンの生態心理学とダイナミックシステム理論の原理を応用した新しい教育手法である。 非線形教授法のベースには、学習者は環境という動的なシステムを映し出す複雑な神経生態学的システムであると見なされ、これら二つの動的なシステムは相互作用を行っている、という考え方がある。特に重要な考え方は、私たちがアクションや意思決定をするための関連情報は、私たちと環境の相互作用によって生み出されている、ということである。 言い換えると、非線形教授法では、学習者を複雑な神経生態学的システムと捉え、環境を構成する様々な要素と

377.「才能」に関する近年の視点

「タレントディベロップメントと創造性の発達」のコースが行われるレクチャールームに到着すると、すでに教師のルートと20人ぐらいの学生がそこにいた。ルートと簡単に挨拶を済ませ、自分の席を確保した。事前にルートから話を伺ったところ、このクラスは履修定員の70名を超え、80名近くの受講者がいるとのことである。 その話通り、私が席に腰掛けるや否や、多くの学生が教室に入ってきた。オランダ語のクラスとは異なり、このクラスは修士課程以上の学生だけに提供されているため、教室を見渡すと、受講者の年齢が高めであることに気づいた。 この教室は受講者の規模が大きいレクチャーに使われるものであるため、教室は広いのだが、一人一人の席のスペースは狭い。より詳しくは、長机が段差を形成しながらいくつも配置されており、一つの長机で一人が使用できるスペースが狭いのだ。 この教室がある建物は近年リフォームされたかのように綺麗なのだが、教室は歴史を感じさせる雰囲気を漂わせている。教室の片側にはステンドグラスがあり、もう片側には開放的な窓がある。教室の黒板の横には、この大学が輩出した一人の名誉教授の写真が飾られている。 この大学が400年を越す歴史を持っているからなのかもしれないが、学術探究が持つ神聖な側面に対して敬意を表し、それを守っていこうとするような隠れた意図を感じる。 そのようなことに思いを馳せていると、クラスが開始された。最初にクラスの概要が紹介され、本題に入る前に最終試験について説明があった。私は日本とアメリカで高等教育を受けてきたが、オランダで高等教育を受けるのは初めてであるため、成績評価の仕組みについて最初

376.「タレントディベロップメントと創造性の発達」:第一回目のクラス

今日は「タレントディベロップメントと創造性の発達」というコースの第一回目のクラスがあった。フローニンゲンに到着してから一ヶ月強の時間が経ち、ようやくプログラムが本格的に動き始めたのを感じる。 フローニンゲンに到着後、このコースが始まる前から、人間の知性や能力が卓越に至るプロセスについてあれこれ考えさせられることが多く、そもそも卓説性や才能と呼ばれるものは一体どのようなものなのかを自分なりに考える時間が十分にあった。待ちに待ったこのコースと共に、人間が持つ才能や獲得しうる卓越性について自分の考えを深めていきたいと思う。 このコースのコーディネーターは、私が所属するプログラムの責任者を務めるルート・ハータイである。実際にルートは、スポーツの領域におけるアスリートの卓越性について長きにわたって研究を進めており、年齢は若いながらも、この分野に関する知見を豊富に持っている研究者である。そして、ルートは初回、第三回、第七回のクラスを受け持つことになっている。 このコースの特徴を一言で述べると、「卓越性」や「創造性」と呼ばれるものを科学的な知見から理解を深めていくことにある。近年、スポーツの世界、教育の世界、企業社会において「タレントディベロップメント」という概念が注目を集めており、アカデミックの世界も「私たちの知性や能力はどのようなプロセスで卓越の境地に至るのか?」「どのような支援や仕組みが卓越性や創造性を涵養するのか?」というテーマに対して多大な関心を寄せているのだ。 このように、学術の世界や多様な実務領域において「タレントディベロップメント」という概念の重要性が高まってきている。このよ

375. 自助

フローニンゲンの気候も随分と秋めいてきたのだが、今日はとても暑い日であった。夏としての役目を果たし、爆発の中にフローニンゲンの夏が死んでいくかのようであった。明後日からは、最高気温が20度前後の気候となるようだ。 日ごとに自分の思考空間が英語という言語に支配され、その間隙にオランダ語が組み込み始める中で、精神的な安定と治癒をもたらすために、一週間に一度は和書を読むという習慣が今のところ辛うじて続いている。 自分の精神を安定させるという意味に加え、自分の日本語の世界をより豊饒かつ堅牢なものにしていくためには、一週間に一度は和書を読むという実践を継続させていく必要があるように思う。 先週末も、現在手元にある二冊の和書の内の一冊である森有正先生の全集第一巻を読んでいた。じっくりと読み進めていたため、ようやく本書を読み切ることができた。本書は、年代としては約60年ほど前の時代に書かれたものであるが、これほどまでに著者の近くにいる感覚を味わったことはこれまで一度も無かったのではないか、と思われる。 それほどまでに、森先生がパリで辿ってきた探究の軌跡というものが、自分のそれと強く共鳴していたのだ。ある意味、こうした先人を得ることができたというのは有り難いことであると同時に、どこか自己欺瞞の道へ転落させかねないという危惧を抱いている。 というのも、森先生の歩みというのが、自分のこれからの歩みと多分に重なって見えており、先生の探究過程と自分の探究過程を安易に重ねて生きて行くことは、自分固有の探究プロセスを欺いているように思うのだ。 そうした自己欺瞞に陥らないためにも、自らの経験をもとにして文章

374. 雑菌状態の中へ:「ノイズ」を学習に組み込む重要性

昨日のスーパーでの買い物は終始一貫して、見事にオランダ語のみで乗り切ることができた。毎日少しずつオランダ語を学習することによって、最初は一つの単語もわからなかった状況から、このように少しずつオランダ語の意味世界を理解できるようになっているのは実に面白い。 しかし、一転して今日のスーパーでの買い物では最後の最後で既存のパターンとは若干異なる変化球が投げ込まれた。この変化球に対してなす術なく、結局英語を使ってしまった。 もちろん、現在繰り返して使い込んでいるオランダ語のテキストを今後もベースに学習を進めていくべきだと思うのだが、往々にしてテキストに記載の表現は最も綺麗な形のものであり、CDの音声もクリアな形で録音されている。 しかし言うまでもないかもしれないが、現実世界のコミュニケーションにおいては、表現が省略されることやスラングを含むこともあり、かつ周囲の環境が生み出す様々な雑音などが入り込んでいるのだ。それらの要素を全て「不規則性」と表現するならば、学習においては絶えず不規則性を意識しておく必要があるのではないかと思った。 より理想的には、常に不規則性を組み入れた学習や実践を行うべきなのである。 今日の買い物の中で変化球に対応することができなかったことに対して、スーパーの出口を出るまで少し肩を落としていたが、上記のような気づきに至ることができたので、それはそれでよかったのだと思っている。帰宅後、再来週のクラスに向けた予習に早々と取り組んでいたところ、まさに上記の気づきを裏付けするような学術論文に出会ったのだ。 この論文は「タレントディベロップメントと創造性の発達」というコースの

373. オランダ語による「スピードデート」

今日は第三回目のオランダ語のクラスがあった。早朝の習慣となっている種々の実践の中にオランダ語のシャドーイングを導入しようと思っている。普段の生活を送るだけではオランダ語を聞いたり話したりする機会は少ないため、シャドーイングを行うことを早朝の習慣としたい。英語のシャドーイングの所要時間と同じく、10分を目処にこれから毎日継続させようと思う。 お昼前にクラスが終わり、帰宅しようとしている道すがら、秋を感じさせる柔らかな太陽の光がレイディープ河川を照らしていた。私は橋の上で立ち止まり、柔らかな光の差す方角を見た。そこにはアー・ケルク教会が静かに佇んでいるのが見えた。 このなんとも形容しがたい秋のほのかな朝の空気と太陽を感じながら、私はしばらくアー・ケルク教会を橋の上から眺めていた。11時を知らせる鐘の音が鳴り渡る。私にとってそれは、特定の時刻を告げる音というよりもむしろ、何か別のことを私に告げているような音に聞こえた。 オランダ語のクラスが終わるといつも不思議な感じがするのだ。思考がオランダ語から英語に戻ると、爽快感と共に安心感に包まれる。ぎこちないオランダ語の空間に長くさらされているわけであるから、それは当然かもしれない。 クラスの帰り道は、今日のクラスで習ったオランダ語表現をブツブツとつぶやいていたり、英語で今日のクラスの内容を振り返っている自分がいる。帰宅後には、このように日本語で今日のクラスを振り返るという流れが構築されている。記憶が新しいうちに、今日のクラスの内容を振り返っておきたい。 今日はクラスに到着すると、週末明けのなんとも言えない雰囲気がそこに漂っているのを察知した

372. 思想や哲学

気がつけば九月も終わろうとしている。早いもので、フローニンゲンで生活を始めてから二ヶ月が経とうとしていることにふと気づかされた。十月が近づいてくるにつれ、フローニンゲンの街も徐々に寒くなり始めている。 早朝の起床は、太陽が昇るよりも早くなってしまった。薄暗闇の中、今朝も太陽より早く起床し、早朝から探究活動を開始させた。 現在履修している「タレントディベロップメントと創造性の発達」というコースのおかげで、数年ぶりに産業組織心理学の論文を読むことになった。振り返ってみると、私が師事していたオットー・ラスキーが構造的発達心理学と産業組織心理学を横断するような学術論文を執筆しており、それを読んで以来のことかもしれないと思う。 本日読み進めていた論文は “Talent-Innate or acquired? Theoretical considerations and their implications for talent management (2013)”である。このコースを履修することを通じて、「才能」と呼ばれるものに関する理解が促進させられているのを感じている。 人間の才能に関する過去の学術研究を網羅的に学ぶことだけに留まらず、自分自身の体験や経験を振り返りながら、人間の才能について深く考える機会を得ているのだと実感する。この論文は、人間の才能が所与のものなのか開発されるものなのか、あるいはその両方なのか、と言う古典的なテーマを理論的に整理しながら、企業組織がタレントマネジメントのためのシステムをどのように構築していけばいいのか、という実務的な提言まで踏み込んで行っている。

371. 重力と波

フローニンゲンの夕方の空に、くっきりとした形を持つえんじ色の太陽が沈んでいくのが見える。昼間は自分が意識しないところで世界を照らしている太陽をこのように自覚的に眺めていると、この世界にあのような強烈な光を放つ物体が存在していることに驚きを隠せない。 その太陽が、窓から見える視線の先のはるか彼方の西の地平線に沈んでいくのが見えた。その地平線は紫色を帯びたえんじ色に彩られていく。太陽が西へ沈んでいくのを目撃した時、太陽が動いているのではなく、地球が太陽の周りを動いていることをはたと思い出した。そして、この運動を引き起こしているのが私の目には見えない「重力」と呼ばれるものであることに対して、神妙な気持ちにならざるをえなかった。 今日という一日も終わりに近づいている。今日の私の探究を動かしていたものは、私という小さな存在というよりも、何かこうした太陽のような存在があるのではないか、と思わざるをえなかった。そして、そうした存在と私との間には、重力のような目には見えない力が働いているのではないか、と想像せざるをえないような気持ちだったのだ。 やはり、ここ数日間は高波に乗っていた自分がいたようだ。と言うのも、昨日は普段の分量を逸脱する形で探究活動に従事してしまったようなのだ。学びの量が過多であったため、それを自分の中で整理・消化させるのに普段よりも一時間半多い睡眠時間を必要としたのだ。 現在は止めているが、昨年までの数年間、毎日どのような分野にどれだけの探究時間を割いているのかをエクセル上にデータとして残していた。そのデータを年間を通して眺めてみると、もちろん探究時間には波があるのだが、平均

370. 学ぶ喜びの感覚質

一昨日は自分の中で燃え盛る情動と向き合うことが非常に難しかった。それは自分の中の全てを溶かしてしまうかのような力強さを持った情動であった。こうした情動は、自分の中の経験を発酵させることにどのような影響を及ぼすのだろうか。 経験を自らの思想にまで高めていくためには、経験を徐々に時間をかけて熟成させていくことが大事だと思うのだ。そう考えると、一昨日のような炸裂するような情動は経験の熟成過程に好ましい影響を与えないのかもしれない。 しかし、そうした激烈な熱気を感じるというのも私の一つの経験に他ならず、それが過ぎ去った今、残り火を用いながらこの経験を静かに熟成させていく必要があるだろう。 昨日は、水曜日に行われる「タレントディベロップメントと創造性の発達」というコースの課題図書を読むことに多くの時間を充てていた。このコースは全七回のクラスで構成されており、各クラスのテーマごとに異なる教授がレクチャーを担当することになっている。例えば、スポーツ、企業組織、教育、アセスメントなどの切り口からタレントディベロップメントと創造性や卓越性の発達を取り上げていく。 初回のクラスは、私が所属するプログラムを取りまとめ、このコースのコーディネーターでもあるルート・ハータイが担当する。ルートは主に、スポーツにおける知性や能力の発達を研究テーマとしており、七回のクラスの内、初回以外にも途中でもう一回クラスを担当する。 プログラム長であるという気概からだろうか、あるいは自分の研究領域に関する情熱からだろうか、ルートが担当する回の課題図書は他の回よりも圧倒的に分量が多い。そのため、昨日は特に多くの課題図書と向

⭐️【お知らせ】無料オンライン読書会『なぜ部下とうまくいかないのか:自他変革の発達心理学』

いつも「発達理論の学び舎」をご覧になってくださり、どうもありがとうございます。 第一回のオンライン読書会からだいぶ日が経ってしまいましたが、第二回の無料オンライン読書会を開催させていただきたいと思います! 今回の読書会も本書の内容を中心に、個人の発達や組織の発達について参加者の皆さんと意見交換ができればと思っております。 読書会を通じて多くの方と交流ができれば有り難いので、発達理論に関心のある周りの方に本イベントの情報を共有していただければ幸いです。 日時(日本時間):10/1(土)16:00-17:30と10/2(日)16:00-17:30の二回にわたって開催予定のため、どちらかご都合の良い方にご参加下さい。 参加条件:拙書を読んでいただき、添付の課題に対する自分なりの回答を事前にご準備いただければ、どなたでもご参加いただけます。 参加費:無料 お申し込み方法:ウェブサイトの「お問い合わせ」欄から、「希望日時」を明記の上参加申し込みのご連絡をいただければ幸いです。お申し込み後、読書会に参加するためのAdobe Connectのリンク先を共有させていただきます。 免責事項:当日の読書会に参加できなかった方のために、後日、読書会の録音・録画をウェブサイトで公開させていただきます。その点をご了承ください。 参加枠に限りがありますので、お早めにお申し込みいただけると幸いです。 添付:第二回読書会に向けた課題(PDF)

369. 想い

就寝することと起床することが極めて難しい日々を送っている。今日という一日の中に込められた意味の粒子を振り返った時、その粒子が持つ密度に圧倒されてしまう自分がいるのだ。 そして、自分を圧倒するような密度を持った粒子が今日という日に存在したということ、その事実に感激する気持ちと今日という一日を心から惜しむ気持ちを抑えながら就寝することは難しい。また、明日という日がどれほど単調なものであったとしても、明日という日がやってくることを待ち遠しく思う気持ちを抑えながら一日を終えることは難しいのだ。 起床の際、今日という新たな一日がまた始まったという事実を受け止めることが難しい。そして、新たに始まった今日という一日の中で自分に届けられる意味の粒子を掴み切ろうとする、破裂してしまいそうな感情を抑えながら起床するのは実に難しいのだ。 今、私はフローニンゲンという新天地で生活を送っている毎日に形容しがたい感謝の念を抱いている。一人の人間の毎日が、これほどまでに充実したものとなり、生の充実の中で生きる時、一人の人間の思考・感情・感覚というものがこのような色彩と質感を持つのか、ということに対して驚きを隠せない。 今の私は日々ギリギリのところで生きているのだと思う。特に、学術探究の領域において、通用するか通用しないかのギリギリの瀬戸際に立たされながら毎日精進している自分がいる。それぐらい、教授陣のみならず周りの同僚たちが優秀なのだ。 このように、瀬戸際に立たされながら毎日淡々と誰も見ていないところで、自分が磨き続けるべきものをただひたすら磨き続けることの中に現れる玉虫色の感情が自分を襲うのだ。なぜ自分は

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