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382. 夢の中の感覚質


やはり夢という現象は不思議な性質を持っているとつくづく思う。ここ最近、鮮明に記憶に残っている幾つかの夢を思い返してみると、夢が持つ特殊な性質について考えざるをえなくなる。米国のジョン・エフ・ケネディ大学に在籍していた時、一人変わった友人がいた。

私よりも九つほど年の離れたジョナサンというこの友人は、人間に不可避の「夢」と「死」という二つの現象の探究に取り憑かれていたのだった。ジョナサンの自宅に行くと、夢と死に関する専門書で本棚が埋め尽くされていたことをふと思い出した。

特に、ジョナサンが有志を募って開催していた「ドリームグループ」に私は毎週のように参加していた。これは、参加者各人が先週に見た夢をノートなどに記録しておき、それを円卓上の参加者に共有し、二、三名の夢に絞って多様な角度からその夢を探究していくことを目的にした学習グループであった。

私はこのグループに参加することによって、初めて自分の夢と本格的に向き合うことになったのだと思う。それまでの私は、夢を人間の意識を探究するための材料にするような発想は全くなかったし、探究するための観点や手立てに関しても何もなかったのである。

ジョナサンのこのグループに参加することによって、私は少しずつ夢を探究するための視点や方法を身に付けていったように思う。当時ほど真剣に毎日の夢と向き合っているわけではないが、今現在も起床直後には昨夜の夢に対してあれこれと思いを巡らせるようなことが習慣になっている。

とりわけ最近は、夢の中に現れるシンボルの解釈や夢の意味を探究するということよりも、夢の性質そのものについて考えさせられることが多いように思う。確かに夢は夢なのだが、そこには放っておけない質感が内包されており、そこに重要な何かが隠されている気がしているのだ。

夢の内容がいかに荒唐無稽なものであったとしても、夢を見ている当人は現実の世界に生きているため、夢は現実と同じであると言えるかもしれない。どれほどその夢が非現実的な内容を持っていたとしても、その現象は現実世界の私たちの脳や意識や身体と密接に繋がっているため、それはリアル以上にリアルである場合が多いのではないだろうか。

そして、特に私が着目しているのは夢の中の感覚質である。私はしばしば、覚醒時において知覚しているこの瞬間の出来事の方が夢なのではないか、という感覚に陥ることがあるのだ。こうした状態に陥るときは大抵、自分がこの世界から得られる諸々の感覚情報の質感が希薄であり、それはまるで私の全ての感覚器官が麻痺しているような感じなのである。

一方、夢の中では全く逆の状況に遭遇することがある。夢の中では、自分が夢の世界から得られる諸々の感覚情報の質感が極めて強烈である場合があり、それはリアル以上にリアルなのだ。

その最たる例は、夢の中の感覚質があまりに強いために、その感覚に居ても立っても居られなくなり目を醒ますことがある、ということである。これは誰しも経験したことがあるのではないだろうか。こうした現象が起きるのは、夢の中の自己客体化能力が未成熟であり、夢で現れる感覚質を十分に客体化できていないからではないか、と思ったのだ。

インドの聖者ラマナ・マハリシの名言に「夢を見ている状態で覚醒していない者は、真の覚者ではない」というものがある。まさに、私たちが夢の中でも自己客体化をし続け、気づきの意識を保ち続けているのであれば、夢の中の感覚質に圧倒されることなく、それを客体化の対象物として冷静に把捉することが可能だと思うのだ。

ここからわかるのは、覚醒時における私の自己認識力の成熟の余地である。もし仮に、この瞬間における自己客体化能力が十分に発達していれば、夢の中でも気づきの意識を維持できるはずである。しかし、それができていないということは、覚醒時の自己認識能力はまだまだ未成熟ということの証かもしれない、と思わされた。

夢の中で気づきの意識を維持し続け、夢の中の強烈な感覚質に圧倒されなくなるまでの道のりは長そうだ。

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