【フローニンゲンからの便り】17244-17251:2025年8月20日(火)
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- 1 日前
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タイトル一覧
17244 | 意識中心のパラダイムを提唱するアミット・ゴスワミの書籍について |
17245 | 今朝方の夢 |
17246 | 今朝方の夢の振り返り |
17247 | ジャンカルロ・ギラーディとアントン・ツァイリンガーの書籍 |
17248 | 仏教観念論を超えた唯識 |
17249 | 量子論と宇宙論に関する書籍の一括注文を終えて/量子デコヒーレンスと肉体の位置 |
17250 | 重力と唯識 |
17251 | 次元と唯識 |
17244. 意識中心のパラダイムを提唱するアミット・ゴスワミの書籍について
時刻は午前6時半を迎えた。今、ようやく朝日が地平線から顔を覗かせ始めた。明日からは最高気温が18度となる日が続くが、今日は23度まで上がるので暖かさを感じられるだろう。昨日、この秋か冬に購入しようと思っていた量子論・宇宙論関係の専門書を今月中に購入することにした。すでに秋の入り口に入って来ており、秋が深まるのを待つ必要はないと思ったのである。もちろん今は3冊の書籍の執筆のプロジェクトが進行しているし、9月の中旬にはIELTSの試験があるので、実際に注文して届いた書籍を本格的に読むのはその後からになるだろう。書籍をウェブ上で吟味することによって概要を押さえることができ、実際に書籍が届くまで時間を寝かせる形で知識を発酵させるのも悪くないだろう。今のところ、80冊ほどの専門書のリストから20冊ほどの量子論・宇宙論関係の書籍を選定した。今日は午後にもう少し書籍の選定をしたい。その際には、量子論と宇宙論の専門書に加え、改めて唯識に関する洋書の専門書の最新書を調べてみる。
購入する専門書の中には1冊ほど一般書がある。それは、“Self-Aware Universe: How Consciousness Creates the Material World”というタイトルの書籍だ。本書は、物理学者のアミット・ゴスワミ(Amit Goswami)が1993年に出版した著作であり、量子物理学の理論を基盤に「意識こそが宇宙の根源的な実在である」という観念を展開した書物である。ゴスワミはオレゴン大学の物理学教授であり、従来の唯物論的な科学観を超えた「意識中心の科学」を提示することを試みた。本書の副題には“How Consciousness Creates the Material Universe”とも見られるように、単なる「世界」ではなく「宇宙全体」が意識によって創出されるという立場を取る点に特徴がある。ゴスワミの基本的な主張は、量子力学の「測定問題」すなわち観測によって波動関数が収縮し1つの現実が確定するという謎を、物質の外にある「意識」が能動的に関与することによって解決できるというものである。通常の物理学では、電子や光子などの量子は観測されるまでは確率的に広がった「可能性の波」として存在し、観測によって初めて1つの実体的状態に定まるとされる。この「観測者の役割」を説明するために、意識を物質に還元できない根源的存在として位置づけたのが本書の最大の特徴である。彼は「意識第一原理」という立場を取る。つまり、従来の科学が前提としてきた「物質がまずあり、そこから意識が派生する」という唯物論的図式を逆転させ、「意識がまずあり、そこから物質が現れる」というモデルを示すのである。この立場はしばしば「唯心論」や「量子モナド論」と呼ばれる方向性に近い。彼にとって宇宙とは「自己認識する意識(Self-Aware Universe)」であり、私たち個々の心はその普遍意識の局所的な表れに過ぎない。本書ではまた、量子力学における非局所性(遠く離れた粒子同士が即座に相関を示す現象)や重ね合わせの原理を、意識の普遍性や霊的経験と関連づける。例えば、瞑想状態での直観的洞察や宗教的神秘体験は、量子理論における全体的つながりの顕れとして解釈される。これにより、科学と宗教、物理学とスピリチュアルな実践を架橋しようとする点も本書の特徴である。さらにゴスワミは、この「意識中心のパラダイム」が現代文明の諸問題に応用できると論じる。例えば、精神と身体の関係については、心が脳を単に生み出すのではなく、意識が脳を「利用する」という発想を導入する。死や死後の意識の存続可能性についても、意識を根源とみなすことで説明の余地が広がる。また、自由意志の問題も量子力学的な確率性と結びつけることで、決定論と偶然性を超えた「意識的選択」として理解できるとする。記憶法的に重要概念を整理すると、「C.A.R.E」という頭文字で覚えることができる。CはConsciousness as primary(意識が根源)、AはAgency of collapse(波動関数収縮の主体としての意識)、RはReality as possibilities(現実は可能性の波から成る)、EはExperiential integration(宗教・科学・芸術を体験的に統合する)である。こうまとめることで本書のエッセンスは記憶に定着しやすくなる。結論として、”Self-Aware Universe”は、物質に先立つ根源的意識の存在を主張し、量子力学の解釈を通じてその立場を科学的に裏づけようとした試みである。批判的には「意識を持ち込み過ぎて科学的厳密さを欠く」と評されることもあるが、一方で唯物論的枠組みに疑問を投げかけ、科学と精神性を統合する道を示した影響力ある書物でもある。ゴスワミの理論は、意識研究、スピリチュアルな科学運動、統合的な世界観に強い刺激を与え、今日でも議論の的であり続けているのである。フローニンゲン:2025/8/20(水)06:46
17245. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、小中学校時代を過ごした社宅のキッチンにいた。キッチンで昼食を準備しようとしていると、通っている中学校で校内放送があり、その声を聞いた時にハッとした。校内放送をしたのは、長らく協働しているある会社で働く女性の知人で、その方の声を聞いた時、そう言えば自分は放送委員長であるにもかかわらず、ここ2ヶ月ぐらい仕事を忘れていたことに気づいたのである。すると、まさにその点についてその方が苦笑いを浮かべているかのような声で放送した。それを受けて、悠長に自宅で昼食を食べている場合ではなく、急いで放送室に行こうと思った。手元では白米を弁当に詰めている最中で、大きな梅干しを6つほど入れたが、流石に6つは多いと思ったので2つに減らした。おかずとしてカレーを考えていたが、カレーと梅干しはあまり合いそうになかったので、サラダを持っていくことにした。実は今日はその方に指摘されなくても放送室に行こうと思っていたので、先を越されてしまったなと思った。
次に覚えているのは、見慣れない外国の街を歩いていると、親友のメルヴィンが街中に立っていて、見知らぬ男性に声をかけて、カバンからこっそりと何かを取り出して見せていた。その男性はしばらくするとその場を立ち去った。メルヴィンに近づいて声をかけたところ、何やら『マジック:ザ・ギャザリング(MTG)』のレアカードを転売しているそうだった。それは警察などに見つかると良くないとのことで、ひっそりと人に声を掛けて転売をしているとのことだった。どのようなカードがあるのか気になったので、見せてもらうことにすると、近くの路地裏の店に案内され、そこでカードを見せてもらうことになった。リュックを置いて、手を開けた状態でレアカードを見せてもらうと、アニメのワンピースのキャラクターやNBAのバスケ選手の写真が入ったカードがたくさんあり、通常のMTGのビジュアルとは随分と違うなと思った。自分は手元にお金がなかったし、MTGは今はもう行っていないこともあり、カードを購入する気はなかった。それを伝えると、メルヴィンは笑みを浮かべ、スッとその場を立ち去った。自分も自宅に帰ろうとしたところ、自分のリュックが消えていることに気づいた。その店はもう店じまいをしようとしていて、店はもうほとんどもぬけの殻の状態だった。店長の中年の白人男性にリュックが見つからないことを伝えると、店長は店の奥の方にあるコート掛けの下から自分のリュックを持って来てくれた。リュックが見つかって安堵したところで店を出たところ、店の通りの向こうから数人の韓国人の女子大生たちが楽しそうに話しながらこちらの方向に向かって歩いている姿が目に止まった。彼女たちとすれ違った後に街中の時計を見ると、すでに午後1時15分となっていて、これから家に帰って昼食を摂るにはもう随分と遅い時間だと思った。そこで目が覚めた。フローニンゲン:2025/8/20(水)07:00
17246. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢には、私的な栄養を整える場としての台所と、公的に声を届ける場としての放送室という2つの空間を往復させながら、忘却していた「発信の主体」を呼び戻す構図が見える。校内放送の声が、現実の協働者の女性として響いたのは、外部の他者に仮託された内なる良心=アニマが、2ヶ月の沈黙を軽い苦笑とともに告げ、苛烈な呵責ではなく、やわらかな促しとして責務の記憶を点火したからなのだろうか。自分はもともと放送室へ向かうつもりであったという独白は、能動性がすでに起動していたことを示しつつ、「先を越される」感覚がタイミングの重要さを照らす。声は待ってくれないのである。弁当づくりの細部は発信内容の配合である。白米に梅干しを6つ入れて2つへ減じた所作は、批評性や禁欲の酸味を過剰から適量へと絞り、核となる二点に焦点化する決断である。カレーを退けサラダを選ぶ転換は、重く混淆的な総花の語りを今は避け、軽やかで生鮮な素材をそのまま差し出す語り口へ舵を切ることを意味する。保存食の梅と生のサラダの並置は、長期の原理と瞬間の新鮮さを両立させよという指示であり、持ち運び可能な「動く昼食」は、移動しながらでも発信を継続する可搬性の比喩である。舞台が見知らぬ外国の街へ跳ぶとき、夢は発信の場を越境的公共圏へ拡張する。親友メルヴィンが密やかにレアカードを転売する姿は、希少性と話題性によって注意を売買する影の市場、すなわち流行の切り貼りで注目を獲る捷径の誘惑を体現する。ワンピースやNBAが刷られたMTGのカードという違和感のあるビジュアルは、文脈を跨いだブランド的混交の表層性を示し、それが本来のデッキ構成=自分の思想的カードプールとは異質であることを告げる。買わないと告げたとき友が静かに離れていくのは、その誘惑が拒否により霧消すること、すなわち希少性の演出に乗らず固有の構成で勝負せよという教えである。リュックの消失と回復は、自己の器具立てと携行するアイデンティティの一時的喪失と、制度側の番人による正規の返還という二段構えで、基礎体力と道具がまだ自分の手に戻ることを保証する。店じまいの空気は旧い取引様式の終幕を示し、その直後に遭遇する韓国人の女子大生たちの笑い声は、新しい受け手の共同体と軽やかなネットワークの到来を告げる。街の時計が示す13時15分は、正午を過ぎた自覚として「もう遅い」と感じさせつつ、なお行動可能な帯に自分が立っていることを刻印する。栄養(昼食)と発信(放送)の双方で、後手に回さぬ時間設計が求められているのである。総じて、この夢は2ヶ月の沈黙を終え、2つの核に絞った内容を新鮮に供し、ユーモアを帯びたやさしい口調で、内なる放送委員長として発信を再開せよという通達である。過度の酸味を減じ、重い混合を避け、越境的な場においても希少性の密売に頼らず、自分のデッキだけで勝てる構築を選べという倫理が貫かれている。リュックは戻り、受け手も現れ、時計は動いている。したがって必要なのは、いまここで身軽に歩きながら、保存の芯と生の彩りを併せ持つ弁当のように、簡潔で滋味ある言葉を届けることである。フローニンゲン:2025/8/20(水)07:21
17247. ジャンカルロ・ギラーディとアントン・ツァイリンガーの書籍
“Sneaking a Look at God’s Cards – Unraveling the Mysteries of Quantum Mechanics”は、イタリアの理論物理学者ジャンカルロ・ギラーディが執筆した量子力学の解説書であり、専門知識のない読者にも理解できるように平易な言葉を用いながらも、数式に依存せず概念の厳密さを可能な限り保持し、量子理論の深層に潜む哲学的・科学的問題を一貫したストーリーとして提示することを目的としており、その構成は古典物理学的世界観の崩壊を導入として、光や電子が波と粒子の両義性を持つことを示す二重スリット実験や偏光の実例を通して、従来の直観に基づく世界像がいかに破綻するかをわかりやすく解説し、さらに測定問題すなわち観測によって波動関数が1つの現実へと収縮するという量子力学の核心的パラドックスを取り上げ、シュレディンガーの猫やエンタングルメント(量子もつれ)のような思考実験を丁寧に説明し、続いてアインシュタインが提起したEPRパラドックスやベルの不等式をめぐる実験的検証を通じて、局所実在論の限界と非局所性の不可避性を浮き彫りにすることで、量子世界がいかに常識を超えた全体的相関性に支配されているかを示しつつ、こうした問題に対する解釈の多様性、すなわちコペンハーゲン解釈の確率論的立場、ボーム的隠れた変数理論、さらには近年注目された自発的波束崩壊モデル(GRW理論)などを比較検討し、それぞれの強みと限界を公平に示すことで読者に解釈の多様性を理解させることを促している。また、単なる理論的議論に終始せず量子暗号技術や量子コンピュータといった現代的応用の可能性にも触れ、量子力学が単なる抽象的思考実験にとどまらず、実社会を大きく変革しうる技術的基盤を提供していることを指摘し、これによって本書は量子力学の不思議さと深遠さを知的興奮とともに伝えるだけでなく、科学と哲学、理論と応用の橋渡しとして機能する稀有な書物となっており、読者は一冊を通じて量子の奇妙な振る舞いを理解しつつ、科学的実在の意味、観測者の役割、世界の根本的なつながりについて思索を促されることになるだろう。
アントン・ツァイリンガー(Anton Zeilinger)による“Dance of the Photons: From Einstein to Quantum Teleportation”は、量子物理学、とりわけ光子を用いた量子実験の歴史と最前線を一般読者に向けて解説した書物であり、アインシュタイン、ポドルスキー、ローゼンによるEPRパラドックスから始まり、ボーアとの論争を経て、量子の非局所性、すなわち遠く離れた粒子同士が即座に相関を示す現象がどのように実験的に確認されてきたかを、光子を主役とする一連の「ダンス」として描き出す。また、ベルの不等式を検証するアルベルト・アスペの実験や、ツァイリンガー自身が先導した光子ペアを利用した大規模な量子もつれ実験に至るまで、量子力学の基礎に関する数十年にわたる知的闘争を臨場感ある語り口で追体験させ、また量子テレポーテーションという、物質そのものではなく量子状態の情報を別の場所へ転送する驚異的な現象を実験的に実現した経緯を詳述し、これが単なる思想実験の領域を超えて量子通信や量子暗号の実際的基盤を築いていることを示す。さらに光子を使った量子実験が、単なる物理学者の好奇心を満たすものではなく、未来の量子情報科学、特に量子コンピュータや量子インターネットに直結する技術的革命であることを強調しつつ、同時にこうした現象が「現実とは何か」「情報と物質の境界はどこにあるのか」という哲学的問いに直結することを明確にすることで、読者に量子世界の不思議さと人間的直観との断絶を深く考えさせる構成となってる。全体としては光子という最も純粋な量子の担い手が織りなす「ダンス」を通じて、20世紀初頭に芽生えた理論的パラドックスが21世紀において実験的現実となりつつある過程を示す一冊であり、量子の不確定性や非局所性といった従来の常識を揺るがす概念を、科学的厳密さと平易な語りを併せ持つスタイルで展開することによって、物理学に興味を持つ一般の読者だけでなく、現代科学の哲学的含意を考える人々にとっても刺激的であり、光子の舞いを追うことがそのまま人類の知の舞踏へとつながることを鮮やかに示す書物である。これらの書籍は今月購入する書籍のうちの一部である。フローニンゲン:2025/8/20(水)09:10
17248. 仏教観念論を超えた唯識
時刻は午後1時半を迎えた。今、青空が広がっていて、爽やかな風が吹いている。気温の上昇も22度と限定的であり、大変心地良い。ここから少しIELTSのスピーキングとライティングの対策をして、そこから昨日の続きとして、書籍の一括注文に向けた吟味をしたい。
唯識思想はしばしば「仏教観念論」と呼ばれることがある。これは「一切唯心造」という表現に代表されるように、世界は心によって成立していると説かれるためであり、特に西洋哲学の文脈に慣れた人々には、唯識がバークリやフィヒテ的な観念論に似ているように映るからである。しかし実際にその思想を精緻に検討すると、唯識を単純に「観念論」とみなすのは不正確であり、むしろ存在理解の独自性にこそ本質があることが明らかとなる。観念論においては「存在するものは観念に過ぎない」といった図式が強調されるが、唯識の立場は「存在は心に依存する」と言うよりも、「存在を成立させる条件が心の働きによって媒介されている」と理解されるべきである。例えば瑜伽行派の「阿頼耶識」は、単なる主観的観念の貯蔵庫ではなく、経験世界を構造化する根底の潜勢力であり、外界を単に否定するのではなく、認識と現象がどのように相互依存的に立ち現れるかを説明する基盤とされている。ここで重要なのは、唯識が「外界は存在しない」と断言するのではなく、「私たちが外界と呼んでいるものは、識の働きによってそう構成されている」と捉える点である。すなわち、対象は「独立した物質実体」として存在するのではなく、心が持つ種子(習気)の成熟と因縁によって顕現する現象であり、主体と客体は相互に依存し合うダイナミックな過程として理解される。このような見方は、世界を主観的幻想として片付けてしまう単純な観念論とは異なり、むしろ縁起の論理を認識論の次元に適用したものと解するべきである。さらに唯識は「転依」という概念を通じて、阿頼耶識の根本的な変容によって解脱が可能となることを強調する。もし唯識が観念論であるなら、真理は単なる主観的観念の調整にすぎなくなるはずだが、実際には心そのものの浄化と構造転換が解脱の鍵であると説かれる。したがって唯識は「心の哲学」であると同時に、修行実践と不可分な解脱論的体系である点に特色がある。このことは、西洋観念論がしばしば認識の枠組みや論理の自足性を追究したのに対し、唯識が認識のあり方を修正し変容することで存在そのものの経験を転換しうると説く点で、大きな違いを示している。結論として、唯識を「仏教観念論」と呼ぶことは比喩的には理解しやすいが、実態を正確に表してはいない。唯識の本質は、心と世界の関係を縁起的・構造的に説明し、修行によってその関係を変容させる道を示す点にあるのであり、それは観念論的独我論でも唯物論的実在論でもなく、「依他起」の論理を貫いた独自の中道的立場と評価することができるのである。フローニンゲン:2025/8/20(水)13:36
17249. 量子論と宇宙論に関する書籍の一括注文を終えて/
量子デコヒーレンスと肉体の位置
時刻は午後4時半を迎えた。昨日と今日の午後に数時間ほどしっかりと時間を取って、量子論と宇宙論に関する洋書の一括注文を終えた。唯識に関する洋書の専門書も吟味したが、今の自分には必要ないと判断し、引き続き良遍の漢文文献の註釈研究に従事していく。量子論と宇宙論に関しては、いくつか関心を持っている領域とテーマがあり、すでに100冊ほど専門書のリストを作っていて、そこから吟味に吟味を重ねて、今回は25冊ほどの書籍を購入することにした。幸いにもそれらの専門書の金額の合計は月の家賃よりも低かった。今回購入した25冊の書籍は、今後一生付き合っていけるだけの中身の濃いものであり、量子論と宇宙論に関しては、しばらくは書籍の一括注文をすることはないだろう。これらの書籍と共に今年の冬を越したい。
量子力学の世界では電子や光子といった素粒子は、いわゆる「波動関数」という広がりを持った存在として記述され、観測されるまではあらゆる場所に同時に可能性として存在していると理解されるために「量子は複数の場所に同時に存在する」と表現されるのであるが、この不思議な性質をそのまま巨視的な存在である人間の肉体に当てはめることはできない。なぜなら、人間という存在は数兆にも及ぶ原子や分子が絡み合い、しかもその1つ1つが常に周囲の空気分子、光子、熱振動といった環境と絶え間なく相互作用している「開かれた系」であり、その相互作用は「量子デコヒーレンス」と呼ばれる現象を引き起こして、もともと持っていた波動関数の重ね合わせを瞬時に壊してしまうからである。例えば、一粒のインクが水の中に落ちるとき、最初は柔らかく広がって水全体に滲み渡る可能性を秘めているのに、時間が経つと水流や温度の影響によって模様が定まり、結局は1つの安定した色合いとして定着してしまうように、量子の広がりも環境の「観測作用」によって早々にひとつの現実に固定されるのである(この点については先ほど購入したヴォイチェフ・ズレクの専門書がさらに理解を深めてくれるだろう)。電子1つならまだ波としての揺らめきを長く保つこともできるが、人間の身体のように数え切れないほどの量子が絡み合う系では、そのデコヒーレンスの速度はあまりにも速く、ほぼ無限小の時間で波としての広がりは失われ、ただ1つの位置に肉体が凝縮した存在として現れる。言い換えれば、人間の身体は常に世界そのものから「観測」され続けているために、多数の可能性の中から1つの場所に釘付けにされるのである。イメージとしては、夜空に浮かぶ無数の花火の火花が空気の抵抗や重力によって一瞬で軌道を決められ、どこに落ちるかが確定してしまうようなもので、光り輝きながら広がる可能性は環境との接触によってただ一点の現実に収束する。そして私たちの肉体はまさにそのような巨大な火花の束であり、本来は波としての曖昧さを内に抱えながらも、宇宙の膨大な「観測の網」によって瞬時にひとつの場に留め置かれる運命を背負っているのである。このように考えると、「量子はなぜ複数の場所に存在できるのに人間は一箇所にしかいられないのか」という問いは、決して矛盾ではなく、むしろスケールと環境の違いに根ざした自然な現象であることが理解できるであろう。フローニンゲン:2025/8/20(水)16:42
17250. 重力と唯識
重力とは何かを理解しようとするとき、私たちはまずニュートン以来の古典的な見方とアインシュタインによる相対論的な見方を踏まえる必要がある。古典的には重力とは「万有引力」、すなわちすべての質量ある物体が互いに引き合う力であると考えられてきたが、相対性理論の観点では、重力とは実体的な「力」ではなく、むしろ時空そのものの歪みとして理解される。例えば、布団の上に重いボウリング球を置けば布団の表面が沈み込み、そこに小さなビー玉を転がせば、ビー玉は球に引き寄せられていく。このときビー玉は実際には布団の「曲がった地形」に従って進んでいるだけであって、ボウリング球が糸を引っ張っているわけではない。これがまさに相対論が示す重力の本質であり、物体は「力」によってではなく、時空の幾何学的な歪みによって引き寄せられるのである。日常生活で私たちが地面に足をつけている感覚も、この時空の歪みの結果にすぎない。このように重力を物理学的に説明すると、あたかも重力が外界に実在する普遍的な秩序のように思えるが、唯識の観点から眺めれば事態は別様に映る。唯識思想によれば、私たちが経験する世界のすべては「識」によって構成されており、物質や時空もまた「心の働き」の投影にすぎない。つまり重力とは、客観的に外界に存在する「実体」ではなく、心が世界を秩序づける際に現れる1つの表象のあり方だと捉えることができる。ここで比喩を用いれば、夢の中で高い塔から飛び降りたときに私たちはやはり「落下」し、夢の中の地面に激突する。しかし目覚めてみれば、その落下や衝撃は現実には存在せず、すべては夢を構成していた心の働きに他ならなかったことが分かる。同じように唯識は、この現実世界における重力も、究極的には心が織りなす夢のような現象に属するものと見るのである。唯識はまた「種子説」を説き、あらゆる経験は阿頼耶識に蓄えられた種子が縁に触れて現行する結果であるとする。重力という経験もまた、阿頼耶識の深層において蓄えられた秩序の種子が、環境との相互作用を通じて現れる認識様式であると考えられる。例えば、地面に物を落とすと必ず下に落ちるという繰り返しの経験は、識の中に「下へ引かれる」という秩序感覚の種子を強固にし、私たちに「重力は普遍的に働く」という確信を抱かせる。こうして外界に実体があるかのように見える重力も、実際には識の自己組織化的な投影にすぎない。ここで重要なのは、唯識が重力の存在を「否定」するわけではないという点である。むしろ、重力という経験が私たちの世界を一貫したものにしていることは確かであり、物理学的な記述としての一般相対論や量子重力理論の探究も意味を持つ。ただ唯識の立場からは、それらの理論は「心が世界をいかに秩序化しているか」を示す相対的な道具にすぎず、究極的な実体を語るものではない。例えて言えば、映画館でスクリーンに映る映像にストーリーの必然性があるのと同じで、登場人物が空から地上に落ちるときには「重力」が働いているように見えるが、それは映写機から投じられた光と観客の意識によって成立している幻の法則にすぎない。唯識の観点では、私たちが「現実」と呼ぶ世界全体がそのような映像であり、重力もその中の1つの構成要素として理解される。結局のところ、重力は現代物理学においては時空の歪みとして精緻に定式化され、私たちが日常世界を秩序立てて理解する上で不可欠な概念であるが、唯識の立場から見るとそれは心が現実を構築する際の1つの投影であり、夢や映画における「落下」の必然性と同じく、実体としての外界に基づくものではなく、識そのものの深層的な働きの現れに他ならないのである。フローニンゲン:2025/8/20(水)16:48
17251. 次元と唯識
「次元」とは何かという問いは、超ひも理論のような先端物理学を考える際に避けて通れないものである。一般的に次元とは、物体の位置や形状を記述するために必要な座標軸の数を意味する。例えば、私たちはふだん縦・横・高さという3つの軸で空間を捉えており、これが「三次元空間」である。さらに時間を加えた「四次元時空」がアインシュタインの相対論における基本的な舞台である。これを直感的に理解するために、紙の上に描かれた二次元のキャラクターを想像してみるとよい。彼らは縦と横しか知らず、紙の「厚み」にあたる三次元目を認識できない。私たち三次元の存在からすれば、紙を軽く持ち上げて裏返すことは容易であるが、その世界の住人からすれば理解を超えた「奇跡」として映るだろう。同じように、私たち人間が三次元の世界しか直接経験できないとしても、物理学的にはさらに多くの次元が折り畳まれて存在している可能性があると考えられているのである。超ひも理論においては、物質の最小単位は点ではなく「ひも」として描かれ、その振動様式が素粒子の種類を決定する。しかしこの理論が数学的に矛盾なく成り立つためには、空間が10次元(あるいは時間を含めれば11次元)であることが要請される。これらの余剰次元は私たちには見えないほど微小に巻き込まれている(コンパクト化されている)と考えられている。ここでもう一度比喩を用いれば、庭のホースを遠目に見ると一本の線のように一方向しかない一次元的な存在に見えるが、近づいて観察するとその表面には「丸さ」、すなわち余剰の次元が潜んでいることが分かる。人間の視点からは三次元しか知覚できなくとも、実際にはさらに多くの次元が「隠れて」存在しているかもしれないというのが超ひも理論の示唆である。しかし、唯識の観点からは次元の問題はまた異なる光を帯びる。唯識思想によれば、私たちが「空間」や「時間」と呼ぶものも心が構築した認識の枠組みにすぎず、それ自体が独立した実体ではない。例えば夢を見ているとき、私たちは夢の中で広がる空間や経過する時間をまるで現実のように体験するが、目覚めてみればそれらはすべて心の働きによる投影であったことが分かる。現実世界における次元の経験も、究極的にはこれと同様に阿頼耶識の種子が縁に触れて現行した「表象」にすぎない。すなわち、次元とは心が世界を秩序化し、経験可能にするために用いる認知的な座標系に他ならないのである。唯識はまた「遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)」という概念を語る。これは、存在者があたかも自立的に存在しているかのように誤って把握してしまう心の性質である。次元という概念もまさにこの遍計所執性の一例であり、私たちは「三次元空間が外界に実体として存在している」と思い込むが、実際には心がそう捉えているにすぎない。例えば、コンピュータゲームの中でキャラクターが二次元の平面を動き回っているとき、彼らにとってはその平面が絶対的な空間である。しかし実際には、プレイヤーの認知とコンピュータの演算が生み出す投影にすぎない。唯識の視点から見れば、私たちが三次元や四次元、さらには11次元と呼んでいるものもまた、究極的には「心のスクリーン」に投影された仮想的な舞台装置にすぎないのである。したがって、物理学が語る次元は数学的・経験的にはきわめて精緻な理論体系であり、実験によって検証される相対的真理として尊重されるべきである一方で、唯識の立場からはそれもまた「心がそう映し出している」という枠組みを越えることはできない。夢の中の空間が目覚めとともに消え去るように、究極的には次元という枠組みも真如の前では相対的な表象にすぎず、実体的な存在ではない。つまり次元とは、科学的には宇宙の構造を解き明かすための座標系であり、唯識的には心が世界を認識するための仮の足場なのである。フローニンゲン:2025/8/20(水)19:27
Today’s Letter
When a bird chirps, my mind and body become peaceful. It feels like a gateway to a celestial sphere, where IAMness dissolves into the infinite field of potential. Groningen, 08/20/2025
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