【フローニンゲンからの便り】17257-17266:2025年8月22日(木)
- yoheikatowwp
- 11 分前
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タイトル一覧
17257 | 4つの出版企画に関して |
17258 | 今朝方の夢 |
17259 | 今朝方の夢の振り返り |
17260 | IELTSのライティングTask2でバンドスコア8.0以上を取るためには |
17261 | リチャード・ヒーリーの量子論哲学に関する書籍 |
17262 | 「ウィグナーの友人」の思考実験 |
17263 | 量子ダーウィニズムについて |
17264 | 環境に適応する情報について/量子ダーウィニズムと多世界解釈の違い |
17265 | アメリカの物理学者ブライアン・グリーンの一連の書籍を購入して |
17266 | バーナード・デスパーニャの量子論哲学 |
17257. 4つの出版企画に関して
時刻は午前7時半を迎えた。今日はまだ金曜日だが、どこか土日のような穏やかな雰囲気を発している。フローニンゲンに住む心地良さは、こうした平穏な雰囲気にあると言える。今の気温は14度で、今日の日中の最高気温は18度までしか上がらない。明日も明後日も20度を下回る肌寒い日が続く。その代わりに来週からは、20度前半の気温となるようで、暖かさを少し感じられるぐらいのそれくらいの気温が一番過ごしやすい。20度を下回ってくると、半袖で出かけることに抵抗感が生まれてしまう。いずれにせよ、ここからの10日間の天気予報を見ていると、もう夏は完全に終わったことがわかる。ここからは秋がどれだけ早く深まっていき、どれだけ早く冬がやって来るのかが気になるポイントである。今年の冬も例年通りに長い冬になるだろう。今年の冬はイギリスの大学院への出願に向けた準備と唯識に関する研究論文の執筆、さらには唯識と量子論を絡めた論文の執筆に注力したい。それ以外にもこの秋から来年の初旬にかけては3冊の書籍が出版されることが決まっているため、それらの書籍の執筆にも力を入れたいところである。幸いにも3冊のうちの2冊はもうすでに執筆が完了しており、あとは編集者の方のコメントを受けてレビューをしたり、少々加筆をしていくだけである。書籍の執筆で言うと、もう1冊ほど単著を執筆する可能性がある。昨日も編集者の方と連絡を取り合い、当初は翻訳書の予定だったその書籍が版権の都合上、翻訳が難しくなってしまったとのことで、そうであればその発達論者を取り上げたオリジナルな書籍を執筆していく方向性に舵を切ったのである。早速企画書を作り直すことにし、昨日の段階でそのドラフトが完成した。今週の日曜日の午後に時間を取って、ドラフトをブラッシュアップして、編集者の方に速やかに提出しようと思う。2025年と2026年は、ここ最近の年の中でも一番書籍を出版する年になるだろう。出版もまた社会貢献の一環であり、それを通じてどのような新しいご縁が生まれるかがまた楽しみである。フローニンゲン:2025/8/22(金)07:56
17258. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で見慣れない居酒屋にいた。宴会席の壁際の一番隅に自分は座っていて、右隣には高校時代のバスケ部の友人がいた。彼と話をしようとしていたのだが、私の口の中には豚キムチがずっと入っていて、それを噛むことも飲み込むこともできない状態だった。あまりにも席がぎゅうぎゅう詰めのために、噛む動作をする余裕がなかったのである。隣の友人は特に自分の様子を見ておかしいとは思っていないようで、一方的にこちらに話しかけていた。すると突然、彼と一緒に瞬間移動し、学校の体育館の中にいた。そこで彼が見たことがないバスケのハンドリング技術を高める基礎練習を披露してくれた。それはブリッジの姿勢に似た体勢で行うもので、最初は相当に難しそうだと思った。彼はその練習を披露し、すぐさま私と対決することを申し込んできた。私はまだそれをやったことがなかったので、勝てそうにない対決だと思った。勝った方が居酒屋で奢るという約束の対決は圧倒的にこちらが不利だったので、奢ることは関係なしに、一度対決をしてみようと思った。すると気づけばまた先ほどの居酒屋の同じ席にいた。しかし隣にはもう彼はおらず、その代わりに大学時代のサークルの一学年の上の先輩がいた。そこでまた私の口の中には豚キムチが詰まっていたが、先輩に話しかけられたことによって、また隣に高校時代の友人がいなくなったことによって、噛める余白が生まれ、無事にそれを噛んで飲み込むことができた。それをもって晴れて言葉が発せられるようになり、先輩とを話をすることができ始めた。
次に覚えているのは、地元の市のスポーツセンターに似たような場所でサッカーとバスケの大会に出場しようとしている場面である。そこにはいくつものサッカーコートがあり、立派な体育館があった。まず私はサッカーの試合に出場することになっていたので、指定されたコートに向かった。その途中で大学時代のゼミの友人と出会い、彼と一緒に試合に出場することになっていたので、一緒にコートを探した。しかし、敷地があまりにも広いため、なかなか指定されたサッカーコートを見つけることができずに焦った。その間に試合が始まってしまうことを心配したので、小走りをしてサッカーコートを見つけることにしたところ、無事にそれを見つけることができた。すると、キックオフがもう間も無くに迫っていて、なんとか間に合ったことを喜んだ。幸いにも小走りをしていたおかげでそれが良い準備に運動になっていた。続くバスケの試合に関しても同じ状況となり、体育館を見つけることはできたのだが、どの面のコートで試合が行われるのかをちゃんと特定しないといけなかった。その体育館は不思議なことに、各階が日本料亭になっており、試合前や試合後の良い栄養補給ができそうだったが、特に何も食べることはせず、漂ってくる香りだけ味わっていた。すると、鼻水が出そうになってきて、近くにあったトイレットペーパーのロールを手に取って鼻水を出そうとしたが、全て出し切ることができない気持ち悪さが幾分残った。
最後に覚えているのは、数十年前のヨーロッパのある街を舞台にした場面である。そこでは自分は目撃者の意識であり、1人の若い女性が彼女よりもさらに数歳ほど若い1人の女性に仕事への協力を依頼する光景を眺めていた。彼女はその男性の家に何度も通い、彼を説得しようとしていたが、毎回彼が断っていた。それがもう何度も続いており、彼女は最終的には説得するのをやめてしまった。一体彼はなぜ彼女の申し出を頑なに拒み続けたのだろうか。その仕事の内容と彼の真意が気になり、歴史の一幕を好奇心を持ちながらも中立的な心で眺めている自分がいた。フローニンゲン:2025/8/22(金)08:13
17259. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢の第一の場面は、見知らぬ居酒屋で口の中に豚キムチが詰まり、噛むことも飲み込むこともできないという不自由さから始まっている。居酒屋という空間は社会的交流や集団的な同調の象徴であり、その壁際の隅に座っているという位置取りは、社会的場に属しながらも中心には入れず、周縁から関与する自己の姿を示している。口に詰まった豚キムチは、表現されない言葉、消化されない感情、あるいは抱え込んだ経験の象徴と考えられる。友人はそれを気にせず話しかけ続けるが、その一方的な交流は自己の内面の滞りを他者が理解せず、ただ流れ込んでくる関係性の圧力を映しているであろう。突然の体育館への転換は、外的交流から内的修練への移行を示唆している。高校時代の友人が新たなハンドリングの技術を披露する場面は、かつて共有した技能や努力が新たな段階へと進化していることを暗示している。勝敗のかかった対決が提示されるが、そこでは「勝てない勝負であっても挑戦する」ことが描かれている。この構図は、社会的義務(居酒屋での奢り)と自己成長(新しい挑戦)との緊張関係を象徴するものと解釈できる。再び居酒屋に戻り、今度は大学時代の先輩が隣にいる場面で、ようやくキムチを噛んで飲み込むことができたのは、他者との関係性の変化が自己表現の可能性を開いたことを意味している。先輩という存在は「導き」や「支え」の象徴であり、その出現によって未消化の感情や言葉がようやく昇華されたのである。次の場面では、市のスポーツセンターのような場所でサッカーとバスケの試合に臨む自分が描かれる。広大な敷地でコートを探し、試合に間に合わせようとする焦りは、人生の課題や責任に向かう際の方向感覚の欠如や準備不足への不安を反映しているのかもしれない。しかし小走りによって間に合い、その動作自体が準備となったことは、未整理な状況であっても行動そのものが未来への備えになるという洞察を示している。さらに体育館が料亭のように変容していた場面は、身体的試練と精神的滋養の両義性を表現している。実際に食するのではなく香りを味わうという描写は、可能性や豊かさを前にして実際の摂取には至らない状態を映し出しており、現実の充足を得るための積極的行為が欠けていることを暗示している。鼻水を出し切れないという感覚は、内面に残る未解消の不快感や感情の滞りを象徴し、完全な浄化や解放に至っていないことを示している。最後の場面は、数十年前のヨーロッパを舞台にし、若い女性が男性に協力を依頼するが拒まれ続ける光景を中立的に目撃する自己が描かれている。ここでは自分が直接の行為者ではなく観察者である点が重要である。他者の意志や拒絶を前にした際の歴史的な繰り返しや、説得という努力の限界を見守る姿勢は、自己の内面における「関与と距離」のバランスを示している。女性の説得の放棄は、執着を手放し相手の自由を認める態度を象徴しており、自分が人生において他者の選択を尊重する必要を感じていることを暗示しているのである。以上を総合すると、この夢は「未消化の感情や表現の詰まり」「課題に挑む不安と勇気」「可能性を味わうが実際には行動に移さない停滞」「他者の拒絶を中立的に受け止める姿勢」という4つのテーマに貫かれていると解釈できる。具体的なアクションとして導かれるのは、第一に、抱え込んだ感情や考えを小さくても実際に言葉にする練習を日常で重ねることである。第二に、勝算のない挑戦であっても一度取り組んでみるという実践を通じて、自己成長の道を切り拓くことである。第三に、可能性や環境の豊かさに触れるだけでなく、実際に味わい、取り込む行為を怠らないことである。第四に、他者の意志や拒絶に直面した際には、説得や支配ではなく観察と尊重を選ぶ姿勢を培うことである。これらを実行することによって、夢が映し出した停滞や不安は現実の成長へと転化していくであろう。フローニンゲン:2025/8/22(金)08:37
17260. IELTSのライティングTask2でバンドスコア8.0以上を取るためには
今日も朝の日課としての良遍の漢文書籍の転写を終え、IELTSのスピーキングとライティングの対策をした。スピーキングに関しては、毎日2セットほどパート1からパート3を通してChatGPTに試験官になってもらう形で対策をしており、その成果を感じている。感覚的に8.5ぐらいのスコアを取れそうな流暢さと表現の豊かさが実現されつつある。一方で、ライティングに関しては8.0を超えるのはなかなか難しい。自分は日本語であっても英語であっても、文章を書くのは好きであるし、得意だと思っているが、IELTSのライティングになるとその採点基準に則って文章を書くのはまだまだ改善の余地がある。IELTSのライティングTask2でバンドスコア8.0以上を取るためには、単なる文法の正確さや語彙の多さにとどまらず、論理性・一貫性・深みを兼ね備えたエッセイを書くことが求められる。まず大切なのは、Task Response(課題達成度)である。問いかけに完全に答え、自分の立場を明確に示し、その立場を一貫して展開する必要がある。一般論の羅列ではなく、理由を具体的に説明し、適切な例を挙げながら十分に発展させることが求められる。例えば「テクノロジーは人々を孤立させるか」という問いに対しては、賛否両面を紹介しつつ、自分の主張をはっきり示し、それを裏付ける社会的・学術的な例を提示することが理想である。自分は知らず知らず、主張を補完する説明や具体例の例示を抜かしがちであり、それがスコアを思うように上げることができていない要因のように思われる。次に。Coherence & Cohesion(論理展開と結束性)である。段落構成は明快であることが必須で、各段落が1つの主要なアイディアに集中し、論理的に流れるようにつなげる必要がある。接続詞を機械的に使うのではなく、therefore, as a result, by contrast, in turn などを自然に用いて論旨を強化することが重要だ。Lexical Resource(語彙の豊富さ)においては、幅広く正確なアカデミック表現を使うことが求められる。単語の言い換えを繰り返すだけでなく、トピックに即した精度の高い語彙(例:surveillance, sustainability, civic engagement)を適切に組み込む必要がある。口語的表現や曖昧な表現は避け、自然で高度なコロケーションを使うことがスコアを押し上げる。最後に、Grammatical Range & Accuracy(文法の幅と正確さ)である。複雑な文構造を正確に操れることがポイントで、条件文、譲歩表現、関係節、分詞構文などをバランスよく使うことが求められる。誤りが目立たないのはもちろん、文のリズムや構造に多様性を持たせることが重要である。総じて、バンド8.0以上を狙うには「明確な立場+十分に発展した議論+自然で豊かな語彙+多様かつ正確な文法構造」をバランスよく備える必要がある。これは単なる英語力だけでなく、論理的に考え、限られた時間で的確に表現する力を示すことでもある。今の自分にとっては、メインのボディパラグラフで主張を打ち出した後に、それを丁寧に説明し、具体例を列挙して展開させることをとりわけ意識することが重要そうである。フローニンゲン:2025/8/22(金)11:23
17261. リチャード・ヒーリーの量子論哲学に関する書籍
少し時間ができたので、“The Quantum Revolution in Philosophy”の続きを読み進めることにした。本書の著者はリチャード・ヒーリー(Richard Healey)であり、ヒーリーはアメリカの哲学者である。特に科学哲学、物理学の基礎理論、そしてプラグマティズムに関する研究で知られている。彼は科学的理論の哲学的意義を探求し、理論そのものよりも行為者への指針としての理論の役割に注目するという立場を取ることが多い。本書“The Quantum Revolution in Philosophy"は、2017年にオックスフォード大学出版局から刊行された作品である。ヒーリーはこの著作において、量子理論が理論的に提示する新たな現実の理解を哲学的にどう受け止めるべきかを鮮やかに再検討している。本書は大きく二部構成となっている。第一部では量子理論の基礎的問いとその伝統的解釈への批判的視座を提示する。第二部ではその見解が哲学的概念、特に確率、因果、説明、意味、客観性、理論の基盤といった問題にどのように影響を与えるかを考察する。ヒーリーが本書で提案するのは、量子理論を世界の描写としてではなく、「行為者がどう振る舞うべきかへの正しい指針を与える規範的システム」として理解する立場である。これは客観主義的な実在論とも、主観的認識論とも異なる第三の道を拓くものである。その構成のうち、第一部では量子測定問題を「解消」する試みがなされる。脱コペンハーゲン的とされる量子理論の不確定性や非局所性は、プラグマティスト的解釈によって、確率や因果の枠組みで再構築される。環境によるデコヒーレンスという物理的現象を踏まえつつ、どの状況下で量子的確率について話すことが許されるかを明確にし、測定の結果が決定されないという不安を払拭し、量子場理論のオントロジーに関するジレンマにも答える。第二部では、このようなプラグマティスト的アプローチが、どのように哲学的概念の再構成に寄与するかが論じられる。代表的には、確率の根拠・因果関係の把握・科学的説明のあり方・客観的記述の限界・言語的意味・理論における基礎性などが議題として扱われる。量子理論から展開される哲学的課題に対して、ヒーリーは言語および理論の使用を通じてそれらを明瞭に再解釈する。本書の特徴は、理論物理学の高度な内容をそのまま描写するのではなく、むしろ「量子理論がなぜ科学哲学に革命的であるのか」を哲学的に再構築する点にある。従来の実在論的解釈(ボーム理論、GRW理論、多世界解釈など)や主観的解釈(QBism など)に対して、ヒーリーはエージェント中心の規範的(プラグマティック)解釈を提示し、両極のどちらにも属さない独自の路線を描く。デヴィッド・ウォレスは本書を「卓越した着想を含む傑出した書だが、主要な結論のほとんどには同意しない」と評した。その上で、本書が量子理論の解釈や科学哲学への関心がある者にとって読むべき価値があると述べている。総括として、本書は、量子理論の哲学的意義を再解釈する試みとして重要である。著者ヒーリーは、量子理論を「行為者への正しい振る舞いの指針」として理解するプラグマティスト的観点から、測定問題、確率、因果、説明、言語的意味、客観性など、哲学的基礎概念を再構築する。これは既存の実在論・主観論の解釈とは異なる新たなアプローチを提供し、科学哲学と物理学の橋渡しに資するものである。ウォレスからの批判もあるが、それを差し引いても、本書は現代の量子科学哲学において重要な位置を占める著作である。フローニンゲン:2025/8/22(金)16:07
17262. 「ウィグナーの友人」の思考実験
「Wigner’s Friend(ウィグナーの友人)」とは、量子力学における測定問題をめぐる思考実験である。1961年に物理学者ユージン・ウィグナーによって提案されたもので、シュレディンガーの猫のパラドックスを人間に適用した拡張版と理解できる。ここではその構造を例え話と記憶術を交えながら解説する。まず状況を描写すると、ウィグナーは友人をある実験室に入れる。その友人は量子系を観測する役割を担っており、例えば放射性原子が崩壊するか否かを記録する。量子力学の原理によれば、外部からその友人を含むシステム全体を眺めているウィグナーの視点からすると、友人が観測を終えた後も「崩壊した状態」と「崩壊していない状態」の重ね合わせのままで存在していることになる。しかし友人自身の意識の立場では、すでに一方の結果を「見た」という確定した経験を持っている。この食い違いが「意識は波動関数の収縮を引き起こすのか」という大問題を呼び起こすのである。これをより身近な例で言い換えると、「プレゼントの箱を開けた友人」と「部屋の外にいる自分」を想像するとわかりやすい。友人が箱を開け、中に青いマフラーか赤いマフラーが入っているのを確認したとする。その瞬間、友人の中では結果は確定している。しかし、部屋の外にいる自分はまだ知らないため、理論上は「友人が青を見た状態」と「友人が赤を見た状態」が同時に存在していると扱うことになる。この「青マフラー・赤マフラーの二重の友人」が頭の中で重なり合っているイメージが、まさにウィグナーの友人の本質である。記憶術としては「2人の友人がいる」とイメージするのが有効である。1人は実験室の中で「確定した現実を見た友人」、もう1人は実験室の外から「まだ重ね合わせの友人」として扱うウィグナーが思い描く存在である。頭文字を取って「C」と「S」で覚えると便利である。Cは「Collapsed friend(収縮した友人)」、Sは「Superposed friend(重ね合わせの友人)」である。つまり同じ人物なのに、立場によってCとSの二種類の像が並存する。これを「C&Sの友人」と覚えると、量子力学の奇妙さを忘れにくい。この思考実験の哲学的意義は深い。もし友人の意識が結果を確定させるなら、意識が物理現象に決定的な役割を持つことになる。これは「意識による収縮仮説」として知られるが、多くの物理学者は自然科学的立場からこれを受け入れにくいと考えた。逆に、もし友人さえも量子的に重ね合わせであるとすれば、意識の経験すら多世界的に分岐しているという「多世界解釈」に近づく。また、QBismなどの解釈では、ウィグナーと友人の矛盾は「知識や信念の主体に依存する」ものとして整理される。いずれにせよ、この思考実験は「観測者とは何か」「客観的現実とは何か」という問いを鋭く突きつける。さらに発展的な議論としては、近年の量子情報理論で「拡張ウィグナーの友人」実験が実際に提案され、異なる観測者間で客観的事実が共有できない可能性が議論されている。これは「事実の相対性」や「観測者依存性」をめぐる現代的な論争に直結しており、単なる哲学的遊戯を超えた科学的課題となっている。まとめると、ウィグナーの友人のポイントは「同じ出来事でも観測者の立場により現実像が食い違う」という逆説である。例として「プレゼントの箱の青マフラー・赤マフラーの友人」を思い浮かべ、記憶術として「C(Collapsed)とS(Superposed)の友人」をセットで覚えると理解しやすい。この思考実験は、量子力学が単なる物理理論にとどまらず、意識、観測、現実といった哲学的領域に深く踏み込む契機を与えるものである。フローニンゲン:2025/8/22(金)16:21
17263. 量子ダーウィニズムについて
量子ダーウィニズム(Quantum Darwinism)とは、2000年代初頭にヴォイチェフ・ズレク(Wojciech Zurek)によって提唱された理論であり、量子から古典的現実がどのように生まれるかを説明する試みである。量子力学では、対象は複数の状態が重ね合わせとして存在するが、私たちが日常的に経験するのは「はっきり1つに定まった古典的な結果」である。このギャップを埋める仕組みとして量子ダーウィニズムは提示された。基本の考えはこうである。量子系は環境と相互作用することで「デコヒーレンス」と呼ばれる現象を起こし、重ね合わせの情報の多くは失われる。しかし、量子ダーウィニズムでは一歩進めて、環境が単に情報を壊すだけではなく、特定の情報を「複製」し、観測者に共通の現実として伝えると考える。つまり環境は単なるノイズではなく、情報を選択的に保存し、拡散し、観測者間で共有できる媒体なのである。ここで「ダーウィニズム」という言葉が使われる理由がある。ダーウィンの進化論においては、生物の多様な形質のうち、環境に適応したものが生き残り、子孫に伝えられる。同様に、量子状態の多様な可能性のうち、環境に「適応」した情報だけが安定的に環境中に複製され、観測者に伝えられる。この「環境に適応した情報」は「pointer state(針状態)」と呼ばれ、それが古典的現実の基盤になる。つまり、古典的な世界は「情報の自然選択」の産物として生じると考えられるのである。例えを使って考えてみたい。大きな図書館を想像してみる。量子系はそこに置かれた一冊の本にあたり、その本には「重ね合わせの物語」が書かれている。しかし、私たちはその本を直接読むことはできない。代わりに、本の内容の一部がコピーされ、館内の複数の掲示板に貼られる。このコピーは完全ではなく、物語の多様性は失われるが、「誰が主人公か」「どんな舞台であるか」といった主要な要素は全ての掲示板に共通して記されている。利用者(観測者)はそれぞれ別の掲示板を見るが、皆が同じ主要情報を受け取るため、「現実は1つ」と合意できる。これが量子ダーウィニズムのメカニズムを直感的に理解する比喩である。記憶術としては「3つのS」で覚えるのが便利である。(1)Selection(選択):量子状態の中から環境に適応する情報が選び出される。(2)Stability(安定):選ばれた情報は環境中で安定し、壊れにくくなる。(3)Spread(拡散):その情報は環境に複製され、多数の観測者に共有される。この「3Sプロセス」を頭に描けば、量子ダーウィニズムの流れを容易に思い出せる。理論的意義としては、量子ダーウィニズムは「なぜ観測者が共通の現実を体験できるのか」という根源的問題に答えようとする。従来の量子力学では、測定問題が「どの時点で重ね合わせが崩壊するのか」といった曖昧さを残していた。量子ダーウィニズムでは、崩壊という神秘的過程を持ち出すのではなく、環境との相互作用を通じて情報の自然選択が行われるため、結果的に観測者は同じpointer stateを認識することになる。近年では、光子や分子スケールでの実験により、環境が情報を複製している兆候が確認されつつあり、この理論が単なる哲学的思索ではなく、物理的検証対象になっている。総括すると、量子ダーウィニズムは「量子の森から古典的な木がどう育つか」を説明する理論である。例えるなら、図書館の掲示板にコピーが貼られるように、環境は量子状態の情報を多方面に複製し、その中で安定したものだけが残る。記憶術としては「Selection・Stability・Spread」の三段階を押さえることで理解が定着する。これにより、私たちが日常で経験する一貫した現実は、環境による情報の自然淘汰の産物であるというイメージが鮮明に残るであろう。フローニンゲン:2025/8/22(金)16:28
17264. 環境に適応する情報について/量子ダーウィニズムと多世界解釈の違い
「環境に適応する情報」という表現は、量子ダーウィニズムを理解する上で核心になる部分である。量子力学の世界では、粒子の状態は「複数の可能性が同時に存在している(重ね合わせ)」として記述される。しかし、私たちが実際に見るのは「ひとつのはっきりした結果」である。では、なぜその中の特定の情報だけが現実として残るのか?──これを説明するのが「環境に適応する情報」である。環境(空気中の分子、光、周囲の物質など)は量子系と常に相互作用していて、その過程で「一部の情報」は安定して環境にコピーされる。逆に、他の情報は環境との相互作用ですぐ壊れてしまう。つまり「環境に壊されず、環境にうまく広がる情報」こそが「環境に適応する情報」なのである。イメージとして「声と騒音」の例を考えてみる。人混みの駅前で誰かが話しかけても、雑音にかき消されて聞き取れないことがある。しかし、拡声器を使えば、その声は周囲の騒音に負けず、はっきりと遠くまで届く。このとき「拡声器で広がる声」が環境に適応した情報であり、「雑音に消される声」が適応できなかった情報に当たる。量子の世界でも同じで、環境に「はっきりと届く情報」だけが残り、観測者全てに共有される。それが私たちが「現実」と呼んでいるものなのである。「環境に適応する情報」を覚えるには、「サバイバル情報」と呼ぶと良いかもしれない。(1)Survive(生き残る):環境との相互作用で消えずに残る。(2)Spread(広がる):環境にコピーされ、周囲に広まる。(3)Share(共有される):複数の観測者が同じ情報を得られる。頭文字を取って「3S(サバイバルの3S)」とすれば、量子ダーウィニズムにおける「環境に適応する情報」が「環境に選ばれて残る情報」であることを思い出しやすいだろう。つまり、「環境に適応する情報」とは、量子状態のうち環境とのやり取りの中で壊れずに生き残り、環境を通じて複製され、多くの観測者に共通の現実として認識される情報のことを指す。
それでは、「環境に適応する情報」という量子ダーウィニズムの考え方と、「多世界解釈(Many-Worlds Interpretation, MWI)」の違いは何なのだろうか。多世界解釈(MWI)は、量子系が持つ全ての可能性は、実際に「並行世界」としてすべて実在する、とする立場である。例えば、コイントスで表と裏の両方が出る可能性があるなら、実際に「表が出た世界」と「裏が出た世界」の両方が同時に存在している。観測者もそれぞれの世界に分岐する。一方、量子ダーウィニズム(QD)では、可能性は多様に存在するが、そのうち環境に「適応」した情報だけが選び出され、観測者に共有され、その結果、私たちが経験するのは唯一の「現実」となる、と考える。他の可能性は環境によって消され、現実には現れないと考えるのだ。MWIにおいては、観測者自身も分岐し、それぞれの分岐した世界で異なる結果を経験する。したがって「なぜ1つの結果しか経験できないのか」という問いには、「あなた自身が複製され、それぞれ別の結果を見ているから」と答える。QDでは、観測者は分岐せず、環境が「特定の情報」を安定して複製するため、すべての観測者が同じ結果を共有できる。つまり「なぜ現実が1つに見えるのか」を「環境による情報の自然選択」によって説明する。例えで考えると、多世界解釈は、巨大な本があり、分岐ごとに新しいページが無限に書き加えられていき、私たちは同時に無数のコピーに分かれ、それぞれ違う物語を読んでいるイメージである。量子ダーウィニズムは、図書館に一冊の本が置かれているが、その本の内容のうち、環境に「適応した部分」だけが館内の掲示板にコピーされ、ゆえに誰が掲示板を見ても同じ情報を読むことができるイメージである。違いを覚えるには「MとD」で整理すると良いだろう。M(Many-worlds)=Multiply:すべての可能性が「分かれて増える」。観測者も世界もコピーされる。D(Darwinism)=Delete & Display:環境によって「不要な可能性は削除され」、残った情報だけが「みんなに表示」される。両者とも「なぜ古典的な現実が見えるのか」という量子測定問題に答えようとするが、答え方が異なる。多世界解釈は「全部の可能性は現実化するが、観測者ごとに分岐する」と考える。量子ダーウィニズムは「環境が情報を選別し、全員で共有する1つの現実が自然に生まれる」と考える。つまり、多世界解釈は「現実が分岐する宇宙論的な解釈」、量子ダーウィニズムは「現実が選択され共有される情報論的な解釈」と整理できるのである。フローニンゲン:2025/8/22(金)16:38
17265. アメリカの物理学者ブライアン・グリーンの一連の書籍を購入して
先日、量子論と宇宙論に関する洋書の専門書を25冊ほど一括注文したが、今日またさらに4冊ほどある著者の書籍を購入した。それは、アメリカの物理学者ブライアン・グリーン(Brian Greene, 1963–) の書籍である。彼の書籍は専門書ではなく、どちらかというと一般書だが、専門書に入る前に彼の書籍を読んで概要を掴んでおくと専門書の内容をより深く理解できると判断した。ブライアン・グリーンは、特に弦理論(String Theory)と宇宙論に関する研究で国際的に知られている。ハーバード大学で学び、オックスフォード大学で博士号を取得し、その後、コロンビア大学で教授職に就き、弦理論の数学的構造や宇宙の大局的性質に関する研究を行ってきた。彼の特色は、最先端の理論物理学を一般読者にもわかりやすく語る力にある。特にベストセラー“The Elegant Universe”を通じて弦理論の一般的認知を高め、続く著作やテレビシリーズ、講演活動でも、宇宙論・時間・多元宇宙などを平易かつ魅力的に解説している。また科学と人文学を架橋し、人間の意味追求や死生観といった哲学的テーマにも言及する姿勢で注目される。下記に今日購入した書籍の概要を記しておきたい。1冊目は、“Until the End of Time: Mind, Matter, and Our Search for Meaning in an Evolving Universe(2020)”である。この本は、グリーンの著作の中でも最も包括的で哲学的色彩が強い。ビッグバンから宇宙の終末に至るまでの物理的進化を描きつつ、その中で生命・意識・文化・宗教・芸術がどのように現れ、やがて消えていくのかを俯瞰する。特徴的なのは、科学的宇宙像と人間の意味追求の営みを統合的に扱う点である。彼は宇宙の最終的な熱的死を見据えつつも、私たちが有限な時間の中で創造する物語や価値に深い意義を見出す。物理学、進化論、神経科学、哲学が交差する壮大な宇宙誌である。2冊目は、“The Elegant Universe: Superstrings, Hidden Dimensions, and the Quest for the Ultimate Theory(1999)”である。この本は、グリーンを世界的に知らしめた代表作である。本書は弦理論を一般向けに初めて本格的に紹介し、ピューリッツァー賞の最終候補にもなった。量子力学と相対性理論の矛盾を解決する「究極の理論」として弦理論を位置づけ、弦が振動することで素粒子の性質や力の統一が説明できる可能性を描き出す。また、通常の三次元空間に加え、余剰次元が存在するという驚くべき発想をわかりやすく解説する。比喩と直感的イメージを駆使し、難解な理論を一般読者に伝える試みとして科学啓蒙書の金字塔とされている。3冊目は、 “The Fabric of the Cosmos: Space, Time, and the Texture of Reality(2004)”である。この本では、「空間」と「時間」という宇宙の根本的な舞台装置を主題に据えている。ニュートン力学から相対性理論、量子力学を経て、現代物理学がどのように空間と時間の性質を理解してきたかを辿り、弦理論や量子重力論の視点から「時空とは何か」を再定義しようとする。特に時間の流れの非対称性、過去・現在・未来の関係、空間の量子的構造などがわかりやすく描かれる。本書はPBSでテレビシリーズ化され、一般層にも強い影響を与えた。最後は、“The Hidden Reality: Parallel Universes and the Deep Laws of the Cosmos(2011)”である。本書は「多元宇宙(マルチバース)」の多様な可能性を紹介する。弦理論の余剰次元から生じる「ブレーン宇宙」、インフレーション宇宙論が予言する無数の宇宙、量子力学の多世界解釈が示す並行世界など、科学的に議論されている複数の「パラレルユニバース像」を比較検討する。グリーンはこれらを単なる空想ではなく、現代物理学の法則から自然に導かれる帰結として提示する。ただし、その検証可能性については慎重に論じ、科学的仮説と哲学的想像の境界を探る姿勢を見せている。ブライアン・グリーンの著作群は、一貫して「物理学の深遠な理論を、宇宙と人間の物語として語る」点に特徴がある。“The Elegant Universe”で弦理論の驚異を描き、“The Fabric of the Cosmos”で時空の不思議を解き明かし、“The Hidden Reality”で宇宙の多重性を提示し、そして“Until the End of Time”では人間の存在意義と宇宙の最期を結び付けた。科学と哲学、人文的関心を横断する彼の筆致は、現代の科学啓蒙において特異な地平を切り開いたものと評価できるだろう。個人的には、彼のように自らの専門分野を一般人にも分かりやすく解説する姿勢とその仕事に強く共感する。自分もいつか唯識や量子論哲学、果ては宇宙論に関して分かりやすい一般書を執筆したいという思いを持っている。フローニンゲン:2025/8/22(金)18:41
17266. バーナード・デスパーニャの量子論哲学
バーナード・デスパーニャ(Bernard d’Espagnat, 1921–2015)は、フランスの理論物理学者であり、量子論哲学において独自の地位を築いた人物である。彼の書籍も先日まずは1冊ほど購入した。デスパーニャは量子力学の数学的形式に精通しながらも、その背後にある形而上学的意味を問い続け、「現実とは何か」という問題を生涯追究した。とりわけ彼の主張で有名なのは「隠れた実在(veiled reality)」という概念である。これは、私たちが科学を通して知ることのできる現象的世界の背後には、決して直接には到達できないが、確かに存在する深層的な実在があるという考え方である。デスパーニャはベルの不等式や量子非局所性の議論に深く関わった。彼はベルと同時代を生き、量子実験の進展に立ち会いながら、量子力学が示す「因果律の破れ」や「局所実在の限界」を哲学的に整理した。アインシュタインが望んだような「完全な物理的実在」を回復する道は閉ざされたが、それでも私たちの認識が触れることのできない「ヴェールの向こうの実在」が存在するのではないか、と彼は考えたのである。ここで重要なのは、彼が単なる「主観主義」に陥らず、客観的なものが何らかの形で確かにある、と主張し続けた点である。この「隠れた実在」は、例えを用いるならば「曇りガラスの向こうの景色」に似ている。私たちはガラス越しに光や影の輪郭を見て、大まかな外形を推測することはできる。しかし決して鮮明に細部を確認することはできない。それでも「そこに何かがある」ことは確信できる。デスパーニャにとって、量子論とはその曇りガラスに映る揺らめきを数学的に記述するものであり、ガラスの向こう側の純然たる実在そのものを直接示すものではない。彼の哲学のもう1つの特徴は、「弱い客観性」と「強い客観性」の区別である。強い客観性とは、観測者に依存しない絶対的な世界像を得ることだが、量子力学はそれを拒む。一方で弱い客観性とは、多数の観測者が合意可能な経験的現象のレベルでの客観性であり、科学はここに基盤を置いている。つまり科学は「隠れた実在」を完全に暴くことはできないが、それに接近するための合意可能な現象の記述を与えるのだとデスパーニャは考えた。これを記憶するには「ガラスの法則」として覚えるとよいだろう。(1)曇りガラス=隠れた実在。決して直接見えない。(2)窓辺の影=弱い客観性。観測者が共有できる現象。(3)外の景色=強い客観性。到達不可能な理想像。この三段階を「ガラス越しの三層構造」とイメージすれば、デスパーニャ哲学の基本は忘れにくい。彼の議論は哲学だけでなく倫理や宗教にも広がりを持った。“Veiled Reality(1995)”や“On Physics and Philosophy(2006)”などの著作では、量子論が示す「究極の実在は認識にアクセスできない」という立場から、人間の謙虚さや倫理的態度を導き出そうとした。つまり、私たちが持ついかなる理論も、世界そのものを「支配」したり「完全に知る」ことはできない。ゆえに科学と人文の間には架け橋が必要であり、量子論哲学はその接点になり得る、と彼は考えた。まとめると、デスパーニャの量子論哲学は「隠れた実在」という核心的な概念を通して、量子力学がもたらした世界観の革命を説明するものである。例えるならば曇りガラス越しの景色のように、私たちは実在を直接見ることはできないが、その存在を確信せざるを得ない。記憶術としては「曇りガラス・窓辺の影・外の景色」という三層構造を思い描けば、弱い客観性と強い客観性の区別、そして実在の不可知性をすぐに思い出せるだろう。この哲学は量子力学を単なる物理学の理論にとどめず、存在論・認識論・倫理的態度にまで広がりを与えるものであり、現代科学と哲学をつなぐ重要な試みとして高く評価されているのである。こうした深淵で射程の広い仕事をするあたりがさすがフランス人の学者だと言える。フローニンゲン:2025/8/22(金)18:48
Today’s Letter
Quality over quantity is my principle. I should never forget it, whatever I do. Although quantity sometimes generates a phase shift, quality is the most important factor for further development. Groningen, 08/22/2025
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