
3576. 過去の日記からの学びと無調の曲からの学び
時刻は午後の四時を迎えた。今、美しい夕日が西の空に沈んでいく姿を眺めている。その様子は本当に美しい。 美しさに心を打たれ、その感動を言葉で人に伝えることは不可能なのだろうか?私はそれは不可能ではないと思いたい。 感動の根源にある何らかの感覚質は、言葉になっても失われることなく人に伝わるはずである。人間が言葉を話すようになったのは何故なのだろうか? 当然ながら、その理由は無数にある。そこに様々な科学的な理論を用いて説明を施すことは可能だ。だがそれは今の私にとって不毛な試みである。 単純に、人間は感動や幸福を他者に共有するために言葉を話すようになったのではないか、と思うのである。そして、言葉が発達をしていくというのは、まさにより深い感動、より深い幸福を他者に共有するためなのではないだろうか。 「あぁ、これが人間発達の要諦か」と私は思った。 遠くの空に沈んでいくオレンジ色の夕日は美しく、手間に見える分厚い雲の塊でさえ美しい。 今日は計画通り、過去の日記を編集し始めた。端的に述べると、日記を書き留めてきて本当に良かったということを実感している。 本日編集

3575. 晴れ渡るクリスマスイブの午前
クリスマスイブである月曜日の午前中が穏やかに進行していく。今日は本当に素晴らしい天気だ。 ここ最近はしばらく太陽の光を見ることがなかったから、今このようにして朝日の光を浴びることができていることに無上の喜びと至福さを感じる。昼食前に買い物に出かける際は、嬉々としてスーパーに向かうことができるだろう。 晴れというただそのシンプルな現象が、これほどまでに幸福感をもたらすものであることに改めて驚く。小鳥のさえずりが、この美しい朝の様子を祝福している。 早朝に作曲実践を行った時、バッハの四声のコラールを参考にした。そのタイトルは、“Herzlich lieb hab ich, O herr(主よ、あなたを愛している)”だった。そのドイツ語のタイトルは、偶然ながらクリスマスイブである今日にふさわしい曲のように思えた。 欧米で七年ほど暮らす中で、年末年始はできるだけ日本に一時帰国するようにしていたが、今年はオランダで過ごすことになった。そういえば、ニューヨークに住んでいた年とロサンゼルスに住んでいた年の年末年始も日本に帰らなかったことを思い出した。それは今か

3574. ヨギティーに付された言葉と不思議な感覚質を持つ言葉
早朝に、普段と同じように一日分のお茶をまず入れた。ヨギティーのティーバッグにどのような言葉が付されているかを毎朝楽しみにしており、今朝は「他者に共有するために生きる」という言葉が付されていた。 その時の自分に強く響く言葉であれば、ティーバッグに付された言葉の紙をノートに貼り付けるようにしている。今日の言葉は妙に自分に響くものがあったため、その言葉が付された紙をノートに貼り付けることにした。 「他者に共有するために生きる」という言葉について、改めていろいろと思いを馳せていた。今日という一日が、他者に何かを共有することにつながる一日になるのかはわからないが、とにかく今日も書を読み、日記を書き、曲を作っていく。 早朝の作曲実践を含め、今日はクリスマスにちなんだ曲を作ってみようと思う。そんな気分だ。 もちろん、昨日初めて無調の曲を作ったように、今日も練習として無調の曲を作りたい。その際には、“A Guid to Musical Analysis (1987)”の第9章を参考にして曲を作ろうと思う。 今朝起床した時に、年末年始にかけて、未編集の日記をできる

3573. クリスマスイブに見た印象的な夢
2018年のクリスマスイブを迎えた。オランダで迎える三回目のクリスマスだ。 時刻は午前六時半を指しており、辺りは依然として闇に包まれたままだ。早朝に起床した時に、今日もスクリャービンのピアノ曲全集を聴こうと思ったが、Spotifyの画面上に、クリスマス用のクラシック音楽の曲が集められたアルバムが表示されているのを見つけ、今日はその六時間超のアルバムを聴くことにした。明日もそれを聴くかどうかは明日になってから決めようと思う。 今朝方の夢の続きについて引き続き思い出している。夢の中で私は、空中を飛ぶ車の中にいた。 眼下には東京の街並みが見えた。ふと私の左を見ると、母方の祖母がその車を運転していた。なぜ祖母が車を運転しているのか、そしてなぜこの車が空を走っているのかは定かではなかったが、私は走る車の窓から、眼下に見える東京の街並みをぼんやりと眺めていた。 すると、車の走る速度が少し上がり、電線が張り巡らされた信号機に差し掛かり、車が急に右折した。その先には、高速道路内のトンネルのような場所があり、トンネル内がオレンジ色の明かりで灯されている。 すると、

3572. 今朝方の夢
昨夜はいつもより早く就寝し、今朝は五時半を迎える前に起床した。六時頃から一日の活動を始めた。 早朝のこの時間帯においては、クリスマスイブである今日も普段とは何も変わらない雰囲気を持っている。辺りは真っ暗な闇に包まれており、灯る街灯の光が見える。 ここ最近は鬱蒼とした天気が続いていたが、今日は幸いにも晴れるようだ。さらには、ここから一週間は雨が降ることはないらしい。曇りの日も数日ほどあるが、太陽の姿を拝むことのできる日の方が多いことは喜ばしい。 今朝方も随分と印象に残る夢を見たので、忘れないうちに書き留めておきたい。夢の中で私は、野球のグラウンドにいた。 そこではプロの試合がなされており、私は一選手としてグラウンドに立っていた。だが、私のポジションはどうも妙だった。 というのも、ピッチャーとキャッチャーの間に立つポジションを任されていたからだ。しかも、ピッチャーから2mほど離れた場所に、ピッチャーに向かって立つというポジションだった。 このポジションの役割は不明である。強いてあげるとするならば、バッターからピッチャーの手元が見えないようにし、様々な

⭐️【お知らせ】Back Number Vol 80-81(記事1581-1620)
いつも「発達理論の学び舎」をご覧になってくださり、どうもありがとうございます。 過去記事1581から1620に編集をし、所々に追記をいたしました。 お役に立てる情報は少ないかもしれませんが、皆さんのご関心に合わせて、必要な箇所を読んでいただければ幸いです。 閲覧・ダウンロードは下記よりご自由に行えます。 ・Back Number Vol 80 ・Back Number Vol 81

3571. 文脈思考能力の欠落
時刻は七時半を迎えた。つい先ほど夕食を摂り終え、これから一日を締めくくる最後の活動に従事していく。 今日もよく書き、よく作り、よく読む一日であった。特に、日記を書くことと作曲実践を行うことを旺盛に行い、その休憩として書物を読むことを行っていた。 このように、書物を読むこと以上に、自分の内側から何かを創造していくことを優先させることが大切だ。もちろん、これからも他者が執筆した書籍を読み続けていく。それは他者との交流の意味を持つ。 一方で、書物を読むことを自分で何かを生み出すこと以上に優先させてはならない。とにかく作り続けること。 自分の内側にある言葉の形を待つもの、曲としての形を待つものに形を与えていくこと。それをこれからも最優先にしていく。 夕食を摂り終えてふと、芸術が作り手の固有のリアリティを開示するものであるならば、それにより、自らのリアリティを共有することを通じて、他者や社会への何かしらの関与を果たすことができるかもしれないと考えていた。 関与の形は非常に形而上学的なものかもしれず、それは目に見えるものではないかもしれない。しかし、集合的な

3570. 夜に思い出す今朝方の夢:12音技法による無調の曲
時刻は午後の六時に近づきつつある。気がつけば、辺りが真っ暗闇に包まれていた。 今、日曜日が静かに終わりに向かっている。今日は、教育哲学者のインナ・セメツキーの書籍を読み終え、随分と多く得るものがあった。 本書はユング心理学と教育を架橋した内容になっており、今後も何回か読み返すことになるだろう。ここ最近、この世界にあるということへの自覚的な意識が強まっている。 ユングが、この世界に真にあるというのは、この世界にあることに対して自覚的である必要がある、という趣旨の言葉を述べていたのを思い出す。 もう一日も終わりに近づいているのだが、今朝方見た夢について再度思い出していた。それは、早朝の日記で書き留めていなかったものである。 夢の中で私は、小中高時代の友人と話をしていた。その友人と私はそれほど親しい仲ではなかったが、彼の現在の仕事について話を聞いていた。 どうやら彼は、地元に戻り、地元の進学塾で講師をしているそうだ。週に四日ほどの勤務であり、給料は確かに安いが、自由な時間が比較的多くある、ということを述べていた。 彼がどのような経緯で塾の講師になったの

3569. ユング心理学と教育:無調の曲作りに向けて
今日も天気が優れず、午前中の早い段階から雨が降り始めた。しかし、自分の中の鬱蒼とした気分は虚空に消えていくかのようだった。 午前中に、教育哲学者のインナ・セメツキーが編集者を務める“Jung and Educational Theory (2013)”を読み始めた。本書には、様々な教育哲学者の論文が掲載されており、それらはタイトルにあるようにユング心理学と教育学を架橋した内容になっている。 本書を読みながら、改めて自分はこうした領域に関心があるのだと思った。やはり自分の関心は秘教的・密教的なものにあるようだ。 シュタイナー教育へ関心を示しているのもその表れだろう。仮に今後、博士課程で何かを探究することを決意した場合、それは秘教的・密教的なものと教育、さらには芸術を関連付けたものになるだろう。そのような予感がする。 上記の書籍を半分ほど読み進める中で、随分と書き込みをすることが多かった。本書のある章の中で、「芸術は子供の王国」という表現がなされていたが、それは「芸術は想像の王国」と置き換えることができるかもしれない。 今朝方の夢の中で、“rever

3568. 欧州の片田舎を訪れる夢と"re"と"R"の解釈に関する夢
時刻は午前九時に近づいているが、相変わらずあたりは薄暗い。もう少しすれば明るくなるのだろうが、今日もまた曇りであるから、結局今日も太陽の姿を拝むことはできないだろう。 もうここまでくると、もっと抑鬱的な天気が続いてくれと開き直りたくなる。しかし、幸か不幸か、明日からは天気が回復するようであり、クリスマス中は雨が降らないらしい。 もうここ何日もスクリャービンのピアノ曲全集を聴いている。今日もそうしようと思う。 スクリャービンの曲に美を見出し、このように一旦深く対象に迫ることができていることを嬉しく思う。新たな感覚が自分の中で育まれ、その感覚の中でも美的感覚を司るものが幾分変容したがゆえに、今このようにしてスクリャービンの音楽に毎日触れているのだろう。 先ほどまで今朝方の夢について振り返っていたが、実際にはまだその他にも夢を見ていたことを思い出す。夢の中で私は、欧州のどこかの国の片田舎に住む日本人女性の家を訪問し、そこでその方の話を聞いていた。 その方と私は一切面識はない。私はその方の家に一人で訪問したわけではなく、両親と一緒だった。なにやら、父がサ