Search By Tags

⭐️【お知らせ】Back Number Vol 88(記事1741-1760)

いつも「発達理論の学び舎」をご覧になってくださり、どうもありがとうございます。 過去記事1741から1760に編集をし、所々に追記をいたしました。 お役に立てる情報は少ないかもしれませんが、皆さんのご関心に合わせて、必要な箇所を読んでいただければ幸いです。 閲覧・ダウンロードは下記よりご自由に行えます。 ・Back Number Vol 88

3599. 一つの音・一つの生命

つい今しがた昼食を摂り終えた。これから午後の活動に入る。 もう一時間ほど今日の取り組みに従事したら、一旦いつものように20分ほど仮眠を取ろうと思う。 今日は早朝に、ダークブルーの空が薄紫色に変化する光景を見た。時間としてはとても短かったが、空が幻想的な雰囲気に包まれていた。 薄紫色の空から今度は、薄い灰色の雲が空を覆い、辺りは瞬く間に厳粛な雰囲気を放つようになった。今もそのような雰囲気が続いており、これから夕方にかけて小雨が降るようだ。 先ほど昼食を摂りながら、人は一人で生まれ、一人でこの世を去っていくことについて思いを馳せていた。その様子は、どこか一つの音が現れ、その音が消えていく様子を想起させた。 午前中に作曲実践をしている時に、人の人生の始まりと終わりは音楽の始まりと終わりに似ているように思えた。一つの音は、それが生まれてから最後の瞬間に至るまで、多様な音と触れ合う。 それが音としての人生だ。これは人間の人生にも当てはまる事柄だと思う。 一つの音も完全なまでに孤独のうちに人生を始め、そして人生を終えていくが、人生の最中には常に多様な音という他者がその人生に寄り添っている。一つの音が輝くためには、他の音が必要であり、他の音との関係性ないしは交流が不可欠となる。そのようなことを考えていると、本当に一人の人間と一つの音はそっくりだと思う。 午前中には作曲理論の学習も行っていた。その時に学習していたのは和音についてであった。 改めて和音の学習をしてみると、実に奥深いテーマであることに気づき、和音の研究に多大な面白さを見出した。三つの音、ないし四つの音を組み合わせて音を鳴らすとき、

3598. チェバの定理と直接体験の重要さを示唆する夢

つい今しがた、今日一日分のコーヒーを作り始めた。コーヒーが出来上がるまでの時間を使って、今朝方の夢について書き留めておきたい。 夢の中で私は、現在住んでいるフローニンゲンの駅前にいた。駅の前には一本の道路があり、河川を挟んでその向こうには美術館がある。 私は道路の上に立っており、道端で行なわれている音楽の演奏に耳を傾けていた。驚いたことに、そこで歌手として歌っていたのは、高校二年生の時にお世話になっていた数学の男性の先生だった。 最初先生は、幾分恥ずかしそうに歌を歌っていた。最初は先生の声に合致するような音の高さで歌が歌われておらず、幾分歌いづらそうにしていた。 するとすぐに先生は、自分の声に合致するような音の高さを見つけ始め、最適な高さが見つかると、水を得た魚のように堂々と歌を歌い始めた。先生の歌を聴いていると、突然私は実際に通っていた高校の教室の中にいた。 見ると、先ほどフローニンゲンの路上で歌を歌っていた先生が教壇に立っており、私の周りには当時のクラスメートたちがいた。先生は黒板に図を描き、生徒たちに質問をしてきた。 先生:「この図で示されとる、ここの部分のことを英語でなんて言うかわかるかいのぅ?」(標準語:(この図で示されている、ここの部分のことを英語でなんて言うかわかる?) 先生は黒板を指差しながら、そのように述べた。教室は静まり返っており、どうやら誰もその問いに答えられないようだった。 私もその部分が示す英単語がとっさに出てこず、少し黙っていた。というよりも、そもそも周りの生徒たちは、それを日本語で何て言うかさえわからないようであった。そのため、私は挙手をして発言を

3597. オランダ人の激しい年越し

静けさに包まれているフローニンゲンの早朝。今日は2018年最後の土曜日であるが、今年一年間の他の土曜日と変わらない姿が目の前に広がっている。 ただし、本年最後の土曜日であるということを思う自分の気持ちが混じっているため、今この瞬間に感じる事柄は幾分特別なものだと言えるかもしれない。 目の前の通りを一台の車が静かに走り去った。今年一年は、そのように静かに過ぎ去ったようにも思えるし、どこか激しく過ぎ去ったようにも思える。 いずれにせよ、今年一年もまた自らの肥やしとなるような期間であり、また一歩人生が深まっていくような年であった。来年の夏からどこで何をしているのかはまだ定かではないが、来年もまた充実した年になるだろう。 昨夜の日記に書き留めていたように、昨日も就寝前に爆竹音が近くで鳴っていた。あれは一体何の音なのだろうか。 それは夜の時間に一度鳴り、その後時間をおいてまた鳴るということが三、四回ほど繰り返される。クリスマスまではこうした爆竹音が聞こえることはなく、ほんのここ数日前からそれが始まったことがやはり不可思議であり、たった今、少し調べてみた。 すると、「花火に爆竹、オランダの年末年始は大騒ぎ」というタイトルの記事を筆頭に、オランダの年明けが尋常じゃないではないことを示す記事を多く見つけた。どうやらここ最近の爆竹音は年越しに向けた前祝いだったようである。 日本のように静かに年越しをする文化とは異なり、オランダは盛大にそれを祝うようだ。夜の十時には就寝している自分にとっては、大晦日の深夜12時に花火が盛大に打ち上げられることは少々迷惑だが、オランダの文化を尊重してその日は我慢しよ

3596. 2018年最後の土曜日の朝

今朝は六時に起床し、六時半から一日の活動を始めた。今日から2018年最後の土日が始まった。 六時半を迎えた現在、辺りはいつものように静まりかえっている。暗闇にぽつりと浮かぶ街灯の光だけが見える。 今日は昼から夕方にかけて雨が降るようだが、こうした抑鬱的な天気も今日で最後となり、明日からは一週間ほど、太陽の姿を拝める日々が続く。2018年の終わりと2019年の始まりを良い天気で迎えることができるのはとても喜ばしい。 昨夜は九時半過ぎに就寝の準備をし、早めに就寝したこともあってか、いつも以上に快眠であった。一日の探究活動や創造活動を十分に行ったら、そこからさらに何か活動に従事するのではなく、早めに就寝するように今後も心がけていきたい。 今日もまず、早朝にバッハの四声のコラールに範を求めて作曲実践を行う。その際に、短調の曲を作るようにし、ナポリの和音を活用してみようと思う。 ナポリの和音とは端的には、短調におけるIIm-5の和音の根音が半音下に変化したものを指す。まずはこの最も一般的な定義のナポリの和音を活用してみようと思う。特に、II-Vのコード進行の時に積極的に活用してみる予定だ。 早朝の作曲実践が終われば、連日行っているように、過去の日記を編集していく。分量は、今日も20本にしようと思う。 現在、未編集の日記が1800ほど溜まってしまっており、日々新たな日記が追加されていくため簡単ではないが、毎日少しずつ過去の日記を編集することによって、未編集のものをなくしていきたいと思う。編集のペースは上述の通り、毎日20本にする。 その二倍の40本を編集していた時と比べてみると、20本のペ

⭐️【お知らせ】Back Number Vol 87(記事1721-1740)

いつも「発達理論の学び舎」をご覧になってくださり、どうもありがとうございます。 過去記事1721から1740に編集をし、所々に追記をいたしました。 お役に立てる情報は少ないかもしれませんが、皆さんのご関心に合わせて、必要な箇所を読んでいただければ幸いです。 閲覧・ダウンロードは下記よりご自由に行えます。 ・Back Number Vol 87

3595. 年の終わりに向かって

時刻は午後七時半を過ぎ、今日も一日が終わりに向かっている。今日も探究活動と創造活動に打ち込む一日だった。 芸術教育哲学に関する探究、作曲理論の探究、日記の執筆と作曲実践、そして日本企業との協働プロジェクトなど、日々の取り組みは非常にシンプルだが、それらが着実に進行していく様子を眺めることができる。 今日は午後四時あたりに、行きつけのチーズ屋に足を運んだ。その時間帯でも辺りはすでに薄暗く、また、肌寒かった。 寒さもあったため、スポーツウェアを着て、ランニングがてら走ってチーズ屋に向かった。その道中、これまで気がつかなかったが、いつも通っている道沿いに一軒の家があり、部屋の様子が外から見えた。 その一室は四方が本棚に囲まれており、本棚の中には学術書がびっしりと並べられていた。それを見て、その家の住人は、もしかしたら在野の研究者なのかもしれないと思った。 その家の住人の姿は見えなかったが、そう思った時、どことなく共感の念が湧いてきた。 チーズ屋に到着すると、いつものようにナッツ類とチーズを購入した。ここ最近は店主の女性のみならず、一人の若い女性も店で働いている姿をよく見かけていた。 今日もその若い女性がいた。目当てのものを購入し、店を後にしようとした時に、二人から「良いお年を」と声をかけてもらった。 それに対して、私も同じ言葉を二人にかけた。対面で「良いお年を」と述べるのは、二人に対してが最初で最後だと思う。 チーズ屋からの帰り道、どこかで爆竹が鳴る音がした。実は数日前からこうした音が聞こえており、先ほどは花火の音がした。これはオランダの年越しの祝い方なのだろうか。 昨夜は近所の家の

3594. 現代社会に失われし円環

今日も相変わらず鬱蒼とした雰囲気の天気である。雨雲はないのだが、空一面が薄い雲の膜で覆われており、太陽の光は一切入ってこないような天候である。そうした天候がもう何日も続いている。 先ほど乾燥機から洗濯物を取り出している最中に、ふと空を眺めた時、そのわびしい雰囲気に思わず笑いが込み上げてきた。 こうした抑うつ的な気候の中で、自分のライフワークを人知れず前に進めていくこと。それは自分が望んでいたことであり、日々いかなる環境においても自らのライフワークに取り組むことができていることを改めて幸運に思う。 先ほど、教育哲学者のエリオット・アイスナーの書籍“The Kind of Schools We Need: Personal Essays (1998)”を昨夜に引き続き読み進めていた。芸術教育に対するアイスナーの洞察溢れる数多くの指摘に触発され、書籍の余白に書き込みをする量が自ずと増えた。午後からも本書の続きを読み、今日中に一読目を終えたいと思う。 先ほどふと、文化(culture)というのは、その語源が示唆するように、本来は私たちを耕してくれるはずのものだが、今の現代社会の文化はそうした役割を果たせず、機能不全に陥っているのではないかと考えていた。 より厳密には、文化は文化内の人々の精神を耕し、同時に人々は文化を耕していくという円環があるはずだが、今の私には現代社会にそうした円環を見出すことができない。文化は私たちを蝕み、私たちが文化を蝕んでいるという負の円環しか見えない。そうした状況はとても嘆かわしい。 改めて、今朝方見た一連の夢について思い出している。とりわけ、今朝方見た最後の

3593. 桃源郷の渓流を下る夢

時刻は午前八時に近づいてきた。依然として、外の世界は闇に包まれている。 今日は金曜日であるから、この時間であれば、こうした暗闇の中でも通勤や通学をする人たちの姿を見ることができるかと思ったが、人の姿をあまり見かけることはなかった。オランダもすっかりと年末の休息の雰囲気が漂う。 先ほどまで、今朝方に見ていた夢について振り返りをしていた。夢を見て、それを書き留めることが治癒や変容の効果を持ち得ることについては以前言及していたと思う。 自分がよく見る夢について改めて考えてみると、この歳になっても、幼少期や小中学校時代の出来事と関係した夢を頻繁に見ていることに気づく。それらの夢を振り返り、夢日記を綴ることは、積み残しになっている過去の発達課題と向き合う機会となり、さらには当時の何らかのことがきっかけになって生じた心の傷を癒すことにもつながっているのだということが見えてくる。 夢日記を書く意義は、そうした積み残された発達課題と向き合うことや過去の心の傷を癒すことにもあるようだ。夢日記を綴ることが、一つの重要なシャドーワークだと言われる所以はそこにあるだろう。 実は今朝方は、最後にもう一つ印象深い夢を見ていた。この夢も自分にとって示唆に富むものであり、忘れがたい夢の一つであった。 夢の中で私は、おそらく日本のどこかの片田舎の町にある畑道を歩いていた。私は一人でその畑道を歩いていたわけではなく、小中学校時代の友人と一緒に歩いていた。 その畑道をさらにまっすぐ進んでいくと、小高い山があり、今から私たちはその山を登ることになっていた。山に近づいていけばいくほどに、その畑道は傾斜を持つようになった

3592. 不思議な屋根裏部屋と意識が身体から抜け出る夢

時刻は午前七時を迎えた。ここ最近は、気温そのものは低くないはずなのだが、身に沁みるような寒さを感じられる日々が続いている。週間天気予報を確認すると、どうやら年明け以降から気温そのものもぐっと冷え込むようだ。 先ほど今朝方の夢について振り返っていたが、実は深夜二時前に一度目を覚ます直前にも、一つ印象に残る夢を見ていた。目を覚ました瞬間に、その夢を要約するキーワードのようなものがいくつか思い浮かび、それを明確に思い浮かべることができたがゆえに、起床後もその夢について覚えているだろうと思っていたら、もう完全に忘れてしまっている。 目を覚ました時に、それらのキーワードを枕元の裏紙にメモしておこうかと思ったが、結局それをしなかった。夢から覚めた瞬間の意識は、どこか自分の意思が薄弱であり、うまくコントロールすることができないのだが、今後はできるだけ深夜に夢から覚めた時には、その夢を表すキーワードをメモしておきたい。 興味深いのは、起床直前に見た夢は、それが仮に複数あったとしても、上書きされずに記憶に残っていることが多いということである。深夜に見る夢は、起床直前に見る夢によって上書きされてしまう可能性があるので、今後はやはり深夜に見た夢は枕元の裏紙にメモしておこうと思う。 今朝方見ていた別の夢について。夢の中で私は、一軒家の屋根裏部屋のような場所にいた。 そこにはかつて私が塾で講師をしていた時に一緒に働いていた講師の男性がいた。彼は私よりもひとまわり年上である。 屋根裏部屋の中には、小さな机が置かれており、そこに四人の小学生がいて、二人は男の子、もう二人は女の子であった。私は算数の授業をこれ

3591. 不思議なカバン売り場の夢

昨日は午前八時に起床したが、今朝は普段と同じように午前六時頃に起床し、六時半から一日の活動を始めた。 今年も残すところあと少しである。オランダも12/31と1/1は休日のようであり、その時期は店が閉まってしまうだろうから、それまでの時期に食料の買い足しを済ませておきたいと思う。 今朝方も印象深い夢をいくつか見ていた。夢の中で私は、外国の見知らぬ場所で生活をしていた。 生活を始めて間もないためか、その辺りの地理には明るくない。どうやらその街は学園都市のようである。 街の道路は広々としており、道路脇には南国を思わせるような植物が植えられている。そうした光景を眺めながら、私は街を歩いていた。 するとあるところで知り合いに出会った。厳密には、お互いに知り合いのはずなのだが、私はその人の名前を知らない。 私はその人に、ショッピングモールへの行き方を尋ねた。するとその人は携帯を取り出し、地図を確認しながら、ここから一番近いショッピングモールの中でお勧めの場所を見つけようとしてくれていた。 名前のわからない知り合い:「ここからですと、このショッピングモールがいいと思いますよ」 その方が示したショッピングモールの名前を見ると、それはフランス語が含まれたものだった。 私:「ありがとうございます。ここからはどのくらいの距離ですか?」 名前のわからない知り合い:「ええっと・・・あぁ、歩いて10分もかかってしまいますね」 私:「歩いて10分はかなり近いですよ(笑)。ちょっとそこに行ってみますね」 私は「歩いて10分」というのはかなり近いと考えていたのだが、どういうわけかその人はその距離を遠いと思ってい

⭐️【お知らせ】Back Number Vol 86(記事1701-1720)

いつも「発達理論の学び舎」をご覧になってくださり、どうもありがとうございます。 過去記事1701から1720に編集をし、所々に追記をいたしました。 お役に立てる情報は少ないかもしれませんが、皆さんのご関心に合わせて、必要な箇所を読んでいただければ幸いです。 閲覧・ダウンロードは下記よりご自由に行えます。 ・Back Number Vol 86

3590. 近視眼的な現代人とくつろぐことの重要さ

時刻は午後の七時半を迎えた。つい先ほど夕食を摂り終え、就寝に向けて本日の最後の活動に従事していく。 結局ここ一週間近く、スクリャービンの曲をずっと聴いている。今もスクリャービンのピアノ曲が書斎に鳴り響いている。 スクリャービンの曲に対して、離れようにも離れたくない妙な気分を覚える。もう数日間ほどスクリャービンの曲を聴き続け、納得したところで他の作曲家の曲に移ろうと思う。 今日は午後に、モーツァルトの変奏曲に範を求めて作曲実践を行った。改めて、モーツァルトの遊び心に感銘を受け、同時にモーツァルトが持っていたリズム感に驚かされた。 夕食時に聴いていた音楽理論のポッドキャストは、ちょうど楽譜を初見で読み解くことをテーマにしたものだった。モーツァルトの楽譜を眺めていてもいつも興味深く思うのは、その独特なリズムにある。 それは即、モーツァルトの固有のメロディー観にもつながってくる。明日もモーツァルトに範を求めるだろうから、その時にはモーツァルトが持っていたリズム感に迫っていくために、分析的な視点を持ち、同時に自分の感性を積極的にオープンなものにする形でモーツァルトの曲に触れようと思う。 今朝は非常にゆっくりとした起床であり、その後もくつろいだ形で一日の活動を進めていった。改めて、肩肘を張らずにリラックスして生きることの大切さを実感した。 日々を絶えずくつろぎの中で過ごしていくこと。それをこれからも忘れないようにしたい。 どうも現代人は力を入れすぎた生き方をしているように思えて仕方ない。力を入れすぎることによって、自己及び自己を取り巻くものに対して近視眼的になっているのだと思う。 日々の生

3589. 私利的・利他的を超えた営み

——頭の中で発見できることは、必ず宇宙にも当てはまるだろう——アーノルド・ショーンバーグ 数日前にふと、自分が日々の生活を通じて発見した些細な気づきを共有していくことの大切さについて考えていた。作曲家のショーンバーグが指摘するように、私たちが自らの内側で見出した事柄は、必ず宇宙にも当てはまることなのだと思う。 というよりも、私たちの内面世界が一つの宇宙であり、それは他者の内面の宇宙と繋がっており、さらにはそうした内面宇宙は外面宇宙と不可分の関係にあるのだから、ショーンバーグが述べていることはますます正しいように思えてくる。 知識と経験をこの世界に共有していくこと。それらを自分の内側で溜め込むことほど無駄なことはない。 知識と経験を蓄積し、咀嚼する過程の中で私たちの発達が起こるのであるから、それを蓄積していくことは大切である。だが、間違ってはならないのは、知識と経験をこの世界に共有することなく、自らの内側に留めておくことは無益であるということだ。 自分の人生は他者の人生と共にあるということを最近よく実感する。それは欧州の地で日々生活を営みながら、日常のふとした何気ない事柄に従事している時に感じることもあれば、日本企業との協働プロジェクトに従事している時に感じることもある。 いずれにせよ、今の私は、他者の人生は自分の人生であり、自分の人生が他者の人生に溶け込み、他者の人生が自分の人生に溶け込んでいることに気づいているようだ。仮にそれに気付けないのであれば、社会的な生き物としての人間の存在の本質を見出していないからだろう。 つい先ほどまで日記の編集をしていた。朝一番には作曲実践も行っ

3588. ある英語表現にまつわる夢

昨夜は合計で10時間ほど寝たこともあり、今日の心身の状態は極めて良好であり、活動に向けたエネルギーで溢れている。とはいえ、繰り返しになるが、活動の許容量を超えない範囲で無理のない形で今日の活動に従事していく。 気がつけば、今日はまだ日記しか書いておらず、気がつけばこれでもう4つ目の日記となる。時刻はまだ午前九時半だというのに。 今朝方見ていた夢についてまだ振り返っておらず、今から少し振り返っておきたい。今朝方も印象に残る夢を見ていたのだが、記憶が断片的なものになりつつある。 夢の中で私は、実際に通っていた中学校の教室の中にいた。どうやら、今から教室の掃除が始まるようであり、生徒たちは皆、自分の机を教室の後ろに運んでいた。 なぜだかわからないのだが、私の机を友人が運ぼうとしている様子を見て、私はそれを止めようと思った。確かに私の机を運んでくれるのは有り難いが、机の中には大事な洋書が何冊も入っており、机の持ち方によってはそれが地面に落ちてしまう可能性があったからだ。 私は友人にお礼を述べ、自分の机は自分で教室の後ろに運ぶことにした。すると、教室の前のドアから、中学校二年生の時に国語を担当していた先生が入ってきた。 今から掃除ではなく、国語の授業を始めると先生は言う。生徒たちは一瞬戸惑いの表情を浮かべたが、再度自分たちの机を元の位置に戻し、授業の開始に備えた。 何事もなかったかのように授業が始まり、先生は授業の最初に冗談の混じった小話を始めた。私はその先生の授業をいつも面白いと思っており、その小話も面白かった。 その後、先生は数人の生徒に色々と質問を投げかけた。質問の内容は忘れたが、

3586. 実践の最適な量を見出す大切さ

つい今しがた、今日一日分のコーヒーを入れ始めた。コーヒーメーカーが懸命に働く姿が見える。その動きに合わせて、コーヒーのよい香りが書斎の方に漂ってくる。 先ほど、咀嚼許容量について考えながら、ゆっくりと対象と向き合い、その経験を咀嚼していくことの大切さを書き留めていた。日記を書き終え、保存先のフォルダに文章を移そうとした時、ちょうど昨日の最後の日記のタイトルが、「小さなものを積み重ねていく大切さ」となっていた。 昨夜の段階でも、やはり昨日の日記の編集が過度だったことを自覚していたようだ。厳密には、私は一昨日の夜の段階で薄々それに気づいていた。 過去の日記の編集作業も読書や作曲と同様に、没入感をもたらすものであることは間違いない。しかし、他の実践と同様に、やはりそれに従事する時間には限度があるように思う。 没入状態が継続している限りにおいては、おそらく人間は一切の疲労感を感じないのだろう。その際に脳から分泌される物資は、私たちに疲労感を感じさせず、むしろ逆に快楽を感じさせるようになっているように思う。 だが、仮に没入感からひとたび離れると、それまでの行為に快楽を感じることは難しくなり、その状態のままで実践を継続していると、必然的に疲労感を生み出してしまうことになりかねないのだと思う。 過去の日記を久しぶりに編集し始めた私にとって、その咀嚼許容量、ないしは疲労感を感じさせず没入感が持続する最適な量を見極めることがまだ難しかったのだと思う。例えば、現在において日記の執筆であれば、最適量は毎日4本から5本ぐらいの記事を書くことであり、6本まではかろうじて許容量に収まる。 ただし、7本を超

3585. ゆっくりと咀嚼していくことの大切さ

今朝はいつもより随分と遅く午前八時に起床した。一度午前七時に目を覚ましたが、もう少し睡眠が必要だと思ったので、さらにもう一時間眠ることにした。 起床してみると、普段は真っ暗闇の世界が広がっているのだが、闇が少々落ち着き、空がダークブルーになっていた。現在の時刻は午前八時半を迎え、まだ辺りは薄暗いが、ゆっくりと明るくなる方向へ向かっている。 ここ数日間は雨は降っていないのだが、曇りがちの日が続き、太陽の光を浴びることがあまりできていない。今日から五日間連続して曇りのようであり、もう少しこうした天気が続くようだ。 今朝の起床時間が遅かったのは、昨夜寝る時間が遅かったからでは決してない。昨日もいつものように、午後十時前に就寝の準備をし始め、十時頃に寝室に向かった。 ただし、ここ数日間過去の日記をかなり大量に編集しており、一日に編集する許容量を超える形で編集を行っていたことが睡眠に影響を与えてしまっていたのかもしれないと思った。毎日40本ほどの日記を読み返して編集作業を行っていたが、それはどうしてもパソコン上で行う必要があり、必然的にパソコンを眺める時間が増えてしまっていたことが見えない疲労感を生み出していたのかもしれない。 今日からは編集の量を半分にし、毎日20本ほど編集するようにしたい。それを継続させていくようにする。そうすれば、パソコンから離れ、読書に充てる時間も増えるだろう。 そうして生まれた時間を活用して、今日は音楽理論に関する書籍とエリオット・アイスナーの教育哲学に関する書籍を読み進めていきたい。明日以降には、ゴッホの手紙を読み進めたり、欧州で巡った様々な美術館で購入した画

⭐️【お知らせ】Back Number Vol 85(記事1681-1700)

いつも「発達理論の学び舎」をご覧になってくださり、どうもありがとうございます。 過去記事1681から1700に編集をし、所々に追記をいたしました。 お役に立てる情報は少ないかもしれませんが、皆さんのご関心に合わせて、必要な箇所を読んでいただければ幸いです。 閲覧・ダウンロードは下記よりご自由に行えます。 ・Back Number Vol 85

© 2013 All rights reserved by Yohei Kato

 

免責事項:当サイトを利用したウェブサイトの閲覧や情報収集については、情報がユーザーの需要に適合するものか否か、情報の保存や複製その他ユーザーによる任意の利用方法により必要な法的権利を有しているか否か、著作権、秘密保持、名誉毀損、品位保持および輸出に関する法規その他法令上の義務に従うことなど、ユーザーご自身の責任において行っていただきますようお願いいたします。

 

当サイトの御利用につき、何らかのトラブルや損失・損害等につきましては一切責任を問わないものとします。当サイトが紹介しているウェブサイトやソフトウェアの合法性、正確性、道徳性、最新性、適切性、著作権の許諾や有無など、その内容については一切の保証を致しかねます。当サイトからリンクやバナーなどによって他のサイトに移動された場合、移動先サイトで提供される情報、サービス等について一切の責任を負いません。当サイト内には、他の著作物から引用し、文章を作成している記事がございます。万が一、著作権に抵触する場合にはお知らせください。速やかに対処させていただきます。