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3576. 過去の日記からの学びと無調の曲からの学び


時刻は午後の四時を迎えた。今、美しい夕日が西の空に沈んでいく姿を眺めている。その様子は本当に美しい。

美しさに心を打たれ、その感動を言葉で人に伝えることは不可能なのだろうか?私はそれは不可能ではないと思いたい。

感動の根源にある何らかの感覚質は、言葉になっても失われることなく人に伝わるはずである。人間が言葉を話すようになったのは何故なのだろうか?

当然ながら、その理由は無数にある。そこに様々な科学的な理論を用いて説明を施すことは可能だ。だがそれは今の私にとって不毛な試みである。

単純に、人間は感動や幸福を他者に共有するために言葉を話すようになったのではないか、と思うのである。そして、言葉が発達をしていくというのは、まさにより深い感動、より深い幸福を他者に共有するためなのではないだろうか。

「あぁ、これが人間発達の要諦か」と私は思った。

遠くの空に沈んでいくオレンジ色の夕日は美しく、手間に見える分厚い雲の塊でさえ美しい。

今日は計画通り、過去の日記を編集し始めた。端的に述べると、日記を書き留めてきて本当に良かったということを実感している。

本日編集をしていたのは、2017年の9月頃の日記であるが、それらの日記を読むと、私がその時に本当に生きていたのだということを目の当たりにした。自分の内側の真実に従って生きている自分の姿を目の当たりにしたと言ってもいいかもしれない。

そうした確認を行っただけではなく、その確認によって、私は再び前に向かって一歩を歩み始めたように感じる。そうした現象をもたらしてくれたのは、自分の日記であった。

今このようにして新たな日記を書き留めているのも過去の日記のおかげであり、そうなってくると、日記の執筆は自己を深めていく自己組織化の運動を促してくれることがありありと理解できる。今日もこれからもう少し日記の編集をし、夕食前に本日三回目の作曲実践を行いたい。

今日は昨日に引き続き、実験的に無調の曲を作った。音列を作るところまでは誰にでもできるのだが、そこから先が本当に難しい。

作っている最中は、それが曲の体をなしているのか疑問に思っていたが、それなりに試行錯誤して音を一つずつ配置していくと、確かにそれが自分の内側の何かを表現しているものであることに違いはないことがわかってきた。

そして一旦曲を最後まで作り終え、強弱記号や奏法に関する記号などを付加していくと、確かに自分が何らかの規則に基づいてその曲を作ったことが明らかになってくる。無調の曲には調性のある曲にはない表現世界があり、それは私が思っていた以上に深いものであることが見えてくる。

これからも少しずつ無調の曲の世界を探究していきたいと思う。そのためには、過去の作曲家の曲を参考にしていくことや、関連書籍を読むことを怠らずに行っていきたいと思う。フローニンゲン:2018/12/24(月)16:16

過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

過去の曲の楽譜と音源の保存先はこちらより(MuseScore)

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