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【サイケデリック学・瑜伽行唯識学探究記】12572-12578:2024年4月24日(水)



⭐️成人発達理論・インテグラル理論・瑜伽行唯識学の観点から、リスナーの皆様と心の成長を一緒に実現していくことを目指したサイケデリック唯識ラジオの配信をしています。


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タイトル一覧

12572. 学びと成長を促す日記の執筆について

12573. 静謐な生活/今朝方の夢

12574. 仏教に導かれる人々

12575. 隠された真理を求めて

12576. 筋力トレーニングにもたらす抹茶の効能

12577. 真理の部屋と真理の時間調整/今朝方の夢の続き

12578. 迷いからの解放をもたらす因明学の重要性/『法相二巻鈔』がもたらす感動


12572. 学びと成長を促す日記の執筆について    

 

起床して自分を出迎えてくれたのは真っ暗な闇、自動で入る暖房の音、そして頭を出し始めたシロシビン・マッシュルームだけだった。逆に言えばそうした存在者たちに出迎えてもらったことに感謝するべきかもしれない。自分は1人のようでいて1人ではないのである。自分を支えてくれる増上縁としての存在者が多数自分の周りには存在してくれているのである。それを忘れてはいけない。


時刻は午前5時を迎え、真っ暗な闇を眺め、暖房の音に耳を傾けながら早朝のこの日記を綴っている。日記を綴ることを通じてミクロな成長が実現されていき、それが積み重なっていくことについて起床してすぐに考えていたことを思い出す。日記は積み重ねる場なのである。自分の学びと成長を文字で刻印する形で積み重ねていく場なのである。それは実践とも言えるし、それは実践を含んで超える形でフィールドと化しているとも言える。自分は日記フィールドの中で日記を綴ることを通じて着実に日々学びを積み重ね、心の成長を実現しているという実感がある。はたから見ればそれは微々たる歩みで何も変化していないように見えるかもしれないが、自分の中では確かな変化を感じている。すごいことである。日記を執筆することにこれだけの効果と力があるとは。多くの人はなぜ日記を綴らないのだろうか。きっとそこには過去のトラウマや抑圧や、日記に内包される真理に暗いということなど様々な理由が存在していそうである。いずれにせよ、人々が日記を綴り始めたら、彼らの心の問題もゆっくりと解決されていき、心の成長が実現していくはずだという気持ちが芽生える。自己を言葉で表現し、自分の言葉を見出し、そして見出された言葉を超克していく歩み。そうした歩みにより多くの人が参画することを祈ってやまない。そうすれば私たちは、言語阿頼耶識の領野でもっと繋がることができるだろう。現代社会でいう繋がりのなんと浅薄希薄なことか。そうした浅い繋がりを乗り越えて、深い繋がりを実現していく意味でも、自らの言葉と向き合い、言葉を涵養していく実践としての日記の執筆を大いに推奨したい。そのようなことを早朝にシャワー浴びていた時に考えていた。


昨日の天気予報のように、今日は夕方までずっと小雨か曇りの日となるようだ。すっかり日が伸びた夕方には太陽の姿を拝むことができそうだが、それまでは雨の様子を眺める形で過ごすことになるだろう。そんな中でも普段と変わらずに、今日もまた唯識学の研究に打ち込んでいく。今日からは昨日届けられた古文書を読み解いていく大いなる楽しみがある。それを想像するだけで気分は自然と高まっていく。この高揚感を胸に今日もまたライフワークとしての唯識学研究に集中没頭していく。フローニンゲン:2024/4/24(水)05:17


12573. 静謐な生活/今朝方の夢


まだ時刻は午前5時を迎えたばかりだが、なんと今1羽の小鳥が活動を始める合図を出すかのように鳴き声を上げた。今日は小鳥の活動が早い。闇の世界と暖房の音だけが自分を見守る存在だと思っていたところに嬉しい訪問者が現れた形である。なるほど、自分は小鳥たちの声を聞きながら、彼らと常に交流をしているのだ。彼らとの交流があるから人との交流はほとんどいらないのである。人と話をするのは週に2回のジムと週末のゼミナールだけで本当にもう十分なのだ。それ以上はもう過食である。敬愛する鎌倉時代の学僧の貞慶も良偏もまた晩年は山に籠って静かな生活を送っていた。かの三蔵法師もまたそれを願っていたが、時の皇帝がそれを認めず、三蔵法師は翻訳事業を死ぬまで続けた。いずれにせよ、彼らが考えている理想の生活と自分のそれは限りなく近い。前世から受け継がれた阿頼耶識の中に学僧の種子が埋め込まれているかのような気さえしてくる。


静けさの中で今朝方の夢について振り返ってみたい。今朝方は夢の中で、母校の中学校と高校が合体したような校舎の中にいたのを覚えている。そこでは私は生徒ではなく、生徒たちに唯識学のレクチャーをすることになっていた。それと合わせて、身体操作としてのヨーガ行も教えることになっていた。まず最初に身体をほぐすのがいいだろうと思ったので、ヨーガの身体操作を生徒たちに教えた。多くの生徒を前にすることは慣れないことでもあったので、声がちゃんと出るか少し心配だったが、その心配も杞憂に終わる形で、いつも通りの自分でいる形でヨーガの身体操作を教えていった。生徒たちも緊張気味だったのだが、身体運動のおかげで生徒たちの緊張も和らいだ。そこから私は唯識学のレクチャーを始めた。相手が中高生ということもあり、唯識学の難しい術語は一切使わず、彼らが経験する日常の現象をもとに話を進めていった。すると、それが功を奏して、彼らはどんどんと唯識学の本質的な考え方を捉えていった。教室の中にはなぜか前職時代の上司もいて、その方も私の話に熱心に耳を傾けていた。特にレクチャーが盛り上がったのは、時間の有無に関する話である。時間は有って無いものであり、無くて有るものであるということがどういうことなのかを説明していった。生徒たちがそれについて理解を深めたことを確認したら、今度は時間のみならず諸存在・諸現象の全てが非有非無であることを教えた。すでに時間の非有非無性が分かっている彼らは、諸存在・諸現象の全てが非有非無であることをストンとすぐに腹落ち感を伴った形で理解してくれた。それがこちらにも伝わってきて、レクチャーをした甲斐があったと思った。こうしたことが分かることによって、彼らの日常の悩みや苦しみがますます軽くなっていくであろうことを思った。自分にとって今回の学校での唯識学のレクチャーは利他行であり、それを通じて自分も学びを得ることができ、何よりも幸福な気持ちにさせてもらったので、自利行でもあったと振り返ってみて思う。そのような夢を見ていた。フローニンゲン:2024/4/24(水)05:31


12574. 仏教に導かれる人々   


真理。そしてそれに導かれる人たち。時刻は午前6時を迎え、今小雨が降っているが、それを全く気にしないかのように小鳥たちが鳴き声を上げている。彼らもまた人間と同じように習慣を持っている。彼らにも阿頼耶識があるのだろうか。阿頼耶識に薫習された習慣的行為として、小鳥たちはいつも自分の家の近くの木々にやって来て、雨の日も風の日も、そして雪の日でさえも鳴き声を上げてくれる。そんな彼らはやはり自分にとっての心の友である。そのようなことを考えながら、いつも隙間時間に聴いているWisdom Publicationsというマサチューセッツ州にある仏教専門の出版社のポッドキャストの番組に耳を傾けていた。するとそこで、仏教とは真理の教えなのであり、真理に導くための実践的な教えなのだということを改めて思い、国籍に関係なく仏教に惹かれる人がこうも多くいるのは、仏教のそうした性質によるかもしれないと思った。また人は真理を求める生き物だという性質があるかもしれないこともそのことに関わっているように思える。仏教は宗教に留まらず、それでいて単なる思想にも留まらない。そこには宗教・哲学・科学の3つの要素が心に関して内包されている。仏教が扱うのは自然科学のような外界ではなく、あくまでも私たち一人一人の心である。心に関して仏教は、宗教・哲学・科学の全ての要素を内包している。唯識学を通じて仏教について学べば学ぶだけ、その点を強く実感する。そうした性質を持つ仏教は元々インドで発祥した。だがこうして欧米人が仏教に惹かれるのはなぜかと考えてみた時に、真理に関する体系立てられた教えと、教えのみならず真理を体得する実践が体型立てられていることと無縁ではないだろうと思った。もちろんながら社会状況などの他の要因も加味する必要があるが、仏教にはどうやら他の宗教以上に真理の追求とそれに至るための方法論の精緻化に特徴があるように思える。インドで発祥し、チベットや中国に伝播する形で日本に入って来た仏教。スリランカを経由して東南アジアに広まっていった宗教。そして鈴木大拙氏たちの尽力もあってアメリカで広まっていった禅仏教。アメリカでは禅仏教のみならず、コロラド州のナローパ大学に見られるようにチベット仏教もよく研究されている。欧州においては、やはりキリスト教圏ゆえに仏教を信奉する人はそれほど多くないが、それでも各国の名門大学は仏教を研究する学科やコースを設けている。またジムで仲良くしているトレーナーのドイツ人のエレンとこの間話をした時にも、彼女自身が哲学への関心からか、仏教思想に関心を持っていることを打ち明けてくれ、身近に仏教に関心を持っている人がいることを嬉しく思った。このように、世界の様々な人たちが人種を超えて仏教に関心を持つ背後に何があるのかは引き続き考えていきたい。自分の中で一番重要なことは真理に関する詳細な議論とそれに至る方法論の提示が人々を惹きつけているのではないかと思うが、その観点以外に何かないかを引き続き探索していく。小雨の降る朝の景色を眺めながらそのようなことを考えていた。フローニンゲン:2024/4/24(水)06:32


12575. 隠された真理を求めて        


隠された真理を求めて。その旅は日常のあらゆる領域で進行していく。ようやく今日をもって全てのコーヒー豆を使い切ることができた。先日、家のオーナーのペイトラさんの誕生日プレゼントとして未開封のオーガニックのコーヒー豆をプレゼントした。そのおかげでもあって、これまで使っていたコーヒー豆を使い切ることをもって抹茶生活に移行することが速やかになった。コーヒーは間違いなく美味であり、そこに一定程度の健康効果があることは確かである。しかしながら、自分の舌識がコーヒーを取り巻く社会的なディスコースに毒されているかもしれないという直感がシロシビン・セッションを通じて得られ、コーヒーの背後にある負の真理に自分は暗いという自覚が芽生えて移行、できるだけ早くコーヒーを飲むことをやめたかった。コーヒー豆もまた命が詰まったものであるから、手元にあるコーヒー豆は無駄にせず、それを使い切ってから抹茶に移行する決意をし、今日無事に全てのコーヒー豆を使い切ったので明日からは、朝のコーヒーの代わりに朝の抹茶を飲む生活が始まる。コーヒー豆を使い切るまでは午後に抹茶を飲んでいた。抹茶の健康効果がどれだけ高いからといって、他の食品と同じく摂取過剰は避けなければならない。抹茶にもカフェインが含まれており、テアニンという旨み成分がカフェインを抑制し、カフェインの効果を緩やかにしてくれると言っても午後にはあまり飲まないようにしたいと思う。午後からは完全に胃腸を休め、水を飲むことを通じて浄化に専念したい。抹茶にはビタミンCが豊富で、ミネラルも豊富なので、筋力トレーニング中の水分補給として飲むことができないかと考えている。これまで色々な飲み物をトレーニング中に試してきた。トレーニング中にも栄養補給としてプロテインを飲んでいたことがあり、それはトレーニング中は胃腸の働きに負担をかけてしまうと思ったのでやめ、プロテインの代わりに胃腸に優しくそれでいてタンパク質の豊富なヘンプパウダーとカカオパウダーを蜂蜜に溶かしたものをそれ以降飲んでいた。これは良い栄養補給になっているように思うが、お茶を筋力トレーニング中の水分補給に活用できないだろうかと今考えている。ミネラルが豊富な麦茶が良いと聞いたことがあるが、ミネラルの量で言えば麦茶よりも玉露や抹茶の方が多いはずである。そうしたことからも玉露や抹茶を薄めたものを筋力トレーニング中に飲むことを検討してみたいと思う。それによって筋力トレーニングの効果やそこからの疲労回復の速さの違いについても検証したいと思う。こうした些細な点にもきっとまだ自分が気づけていない真理が眠っているはずだ。フローニンゲン:2024/4/24(水)07:11


12576. 筋力トレーニングにもたらす抹茶の効能


直感を頼りにすると、真理をうまく掴むことができることもあれば、真理を掴み損ねてしまうこともあるといった現象が起こる。研ぎ澄まされ、純度の高い直感であればあるほどに、真理を掴む確率が高まるというのがこれまでの自分の体験から導き出される事柄である。シロシビン・セッション中はまさに直感が極度に研ぎ澄まされる。基本的に直感を邪魔するものが言葉を媒介にした思考であり、シロシビンはその働きによって私たちを言葉の牢獄から解放してくれる。先日の第31回のシロシビン・セッションの最中にも起こっていたのは、言葉の完全なる手放しであった。むしろ言葉を生み出す言語野の機能が一時的に完全にシャットダウンされ、言葉を通じて思考をしたくてもできないような状況にあったがゆえに、逆にそれが功を奏して極度に純化された直感を発揮することができていた。そうして発揮される直感こそ「直観」と呼ぶに相応しい真理把握を生むのではないかと思う。


前々回のセッションで抹茶の真理に目覚めたところ、そこからも色々と仮説を立てながら調査を続けていた。先ほどふと思った、抹茶はひょっとしたら筋力トレーニングにも効果的なのではないかという仮説について調査をしてみたところ、その仮説を裏付ける実証結果が出ていることに驚いた。何やら、 抹茶を毎日飲むことによって筋肥大への良い効果が確認されたとのことである。対照群をきちんと設けたその調査において、 筋トレを行いながら抹茶を飲んだ群と飲まなかった群とでは、抹茶を飲んだ群において骨格筋量の増加が認められたとのことである。この研究の被験者数は少なく、メタアナリスがあるのかも気になるところだが、いずれにせよ抹茶をトレーニング中に飲むことは筋肥大に良い影響がありそうだということが見えてくる。それは自分の直感によっても感じたものであり、その直感を科学がすでにある程度検証してくれていることに有り難さを感じる。抹茶にはビタミンCが豊富であるから、疲労回復にも効果があるだろうと思っていたところ、これについてもすでにその効果が検証済みとのことだった。このように、自分の直感はことごとく科学によってその確からしさが証明されていることに驚く。もちろんだからと言って自分の直感を過信してはならず、自分の直感の確からしさが高くなるのはあくまでも言葉を手放した形で発揮される高純度の直感であることを忘れてはならない。とりわけ、シロシビン・セッション中にもたらされる直感は非常に信頼に足るが、日常の煩悩に覆われている心的状態で発揮される直感を信じることについては慎重な姿勢を持つべきであろう。こうして直感と真理との関係性を少しずつ明らかにしていき、透明な直観を通じた真理の把握をこれからより頻度高く実現できるようになっていきたいと思う次第だ。日々の唯識学の研究とその実践はそのためにある。フローニンゲン:2024/4/24(水)07:28


12577. 真理の部屋と真理の時間調整/今朝方の夢の続き   


真理の部屋の中にいる感覚。そこはとても静謐で、自分の肥やしになる学びで溢れている。そんな真理の部屋とでも形容できる空間の中で自分は日々自らのライフワークに人知れず従事している。こうして誰からも邪魔されず、頽落する都市文明から適度な距離を取って真理で満たされた時空間の中に浸れること以上に幸せなことはないであろうと思う。多くの人はどうして自ら幸せから離れていこうとするのだろうか。どうして真理に抱擁された生活を営まないのであろうか。きっとそこには真理に対して暗いという無明さ、すなわち無知さがあるのだろう。まさに仏教の教えの通りである。


ハーバード神学大学院(HDS)からの連絡を受けて、今年もまたオランダでの生活を送ることになった。まもなく始まるオランダでの9年目の生活は、真理の時間調整なのではないかとふと思う。HDSに出願した際には、サイケデリクスを宗教の観点から研究することに最大の関心を向けていたが、最終面接に呼ばれた時にはもうそこに関心はなく、唯識学に関心が移っていた。そんな自分を見て、真理の世界はきっと自分に時間調整を与えてくれたに違いない。それは今の自分にとって本当に必要なもので、その時間調整の恩恵を受けて唯識学に没頭する自分が今ここにいる。仮にこの夏からHDSに進学していたら、唯識学の探究がそれほど進まない状態で大学院での研究生活に入っていたことが想像される。真理は自分に嘘をつかない。どれだけそれが表面上厳しかろうが、辛かろうが、自分の肥やしになる学びと時間を与えてくれる。自分はそんな真理の世界に抱かれている。母親に抱かれる赤子のように、自分は真理を絶対的に信じ切っている。真理への根底的な帰依がある。そうした自らの姿勢が自分にとって必要な時間を与えてくれたのだと思わずにはいられない。

そのようなことを考えた後に、今朝方の夢の続きを思い出した。そういえば、唯識学を通じて真理を伝えるレクチャーの夢を受けて、プリンターの紙を販売する売店に見知らぬ女の子と一緒に赴き、そこで紙を吟味していた場面があった。店長の中年の女性はとても気さくかつ親切で、私たちに仕切りに話しかけてくれ、雑談だけではなく、紙の奥深い世界について色々なことを教えてくれた。そこでプリンター用の紙を数セット購入することに決めた場面があった。それ以外にも、大学時代のゼミナールの友人と料理の具材を何にするかで口論をしていた場面があった。料理をするゲームの中で、こちらから友人に与えた具材に対して友人が不満を持っていて、そこから口論に発展し、果ては殴り合いまで行きそうな状況であった。結局殴り合いをするところまでは口論が発展しなかったが、お互いの腹の中には煮え返る何かがあった。そのような夢を見ていたのを思い出す。フローニンゲン:2024/4/24(水)08:04


12578. 迷いからの解放をもたらす因明学の重要性/『法相二巻鈔』がもたらす感動


時刻は午後3時半を迎えた。早朝の天気予報とは異なり、夕方からではなく、午後の早い段階から太陽が姿を見せ、今も太陽の光が地上に降り注いでいる。午前中の唯識学の探究を思う存分に行った後に昼食を摂り、そこから仮眠を取った時に仮眠中にも唯識学の文献が現れてきて、仮眠中の意識においても文字を追いかけている自分がいた。本当に寝ても覚めても唯識学の探究をしている自分がいてとても微笑まし思う。仮眠後もまた1時間半ほど専門書を集中的に読み進めていった。そこからは、5月中旬に開講する予定の唯識学の講座に関する案内動画を作成した。告知文の大枠はすでに作っていたし、動画の説明の流れも昨夜の段階で大枠をイメージしていたこともあり、案内動画を速やかに作成することができた。動画の作成後、部屋の掃除とトイレ掃除をして今に至る。夕食の準備までにまだ時間があるから、今からまた引き続き唯識学の研究を一歩でも前に進めたい。その一歩は真理に近づく一歩である。


私たちが言葉によって迷い、言葉によって苦しむのであれば、言葉の正しい使い方を学び、正しい認識に至る因明学(仏教論理学)は非常に重要な役割を果たすのではないかという思いから、因明学への関心が日増しに強くなっている。唯識学もまた非常に実践的な思想体系だが、因明学もまた本来は正しい智慧を得て迷いから脱却していくという実践的な性質を持っていたはずである。西洋において論理療法というものがあるように、仏教における因明学もまた誤った言葉の使用や論理の誤使用による悩みや苦しみからの解放に大きな力を発揮するはずである。そうした観点で因明学を唯識学と並行して学んでいく。近いうちに因明学の専門書も取り備えていき、着実に研究体制を整えていこう。


唯識学に関する今後の研究の流れとしては、昨日受け取った『唯識大意:一名法相二巻鈔』をまずは読み、そこから『国訳大蔵経:瑜伽師地論』全巻の読解へと進んでいきたい。後者の国訳の『瑜伽師地論』は、漢字にルビが丁寧に付されているので、そこで登場する漢字の読みと意味に慣れ親しんでいくことは、今後その他の訓読文の読解の際の手助けになる。

今日の早朝には早速『法相二巻鈔』を読んだのだが、本書の途轍も無い奥深さに感銘を受けた。本書は良遍が母に宛てて唯識学の考え方をわかりやすく書いたものだが、そのような目的で書かれたものとは思えないほどの深淵さがある。これが法相唯識学の入門書として中世以来読まれていたということに深く納得する。今後学術論文を執筆するに際しては、良遍の『観心覚夢鈔』と『法相二巻抄』にとりわけ焦点を当てたい。これら2冊が内包する意義と価値は、優先して欧米の仏教研究者や一般の人に共有したいと思う。フローニンゲン:2024/4/24(水)15:51

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