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【サイケデリック学・瑜伽行唯識学探究記】12622-12626:2024年5月3日(金)



⭐️成人発達理論・インテグラル理論・瑜伽行唯識学の観点から、リスナーの皆様と心の成長を一緒に実現していくことを目指したサイケデリック唯識ラジオの配信をしています。


⭐️心の成長について一緒に学び、心の成長の実現に向かって一緒に実践していくコミュニティ「オンライン加藤ゼミナール」も毎週土曜日に開講しております。

タイトル一覧

12622. 筋力トレーニングにおける“Slower is better"

12623. 真理への眼差し/今朝方の夢

12624. 真理を見通す眼の清浄化に向けて

12625. 今朝方の夢の続き

12626. 夢の中の白猫が象徴するもの:真理の光を浴びながら


12622. 筋力トレーニングにおける“Slower is better"


時刻は午前5時半を迎えtあ。この時間帯はうっすらと空が明るくなってきており、それに合わせて小鳥たちの鳴き声も聞こえてくる。今日もまた庭側の木々にやって来た小鳥たちが清澄な鳴き声を上げている。


昨日のフローニンゲンは、日中の最高気温が26度に達する夏日であったが、今日からはまた涼しい日々が続く。今の気温は13度で、日中の最高気温は17度である。昨日と9度ほど最高気温に差があるため、それは大きな違いとなって感じられているのではないかと思う。幸いにも昨日の夏日のおかげで家の2階が温まっており、今日は自動で暖房が入ることはないのではないかと思う。しかし今夜の最低気温を見る限りだと、明日からはまたしばらく暖房にお世話になる日々が続きそうだ。5月を迎えたが、まだ自動で暖房が入るような気候である。


昨日のパーソナルトレーニングの最後のメニューで、パーソナルトレーナーのエリーザが印象的なことを述べていた。前々から、トレーニングにおいて重要なことは重さではなく、正しいフォームで正しく筋肉に効かせていくことだと聞いていたが、改めてその点について語ってくれていたことが印象に残っている。最後のエクササイズでは、ゴムバンドとバーを用いて大胸筋を鍛えるトレーニングを行ったのだが、その時に自分は早く体を動かして回数をこなすことに意識が向かっていた。しかしそれを見抜いてエリーザが、回数をこなすことに意味はなく、ゆっくりとした動きを通じて確実に筋肉に刺激を入れていくことが大事だとフィードバックしてくれた。その言葉にハッとしたものがあったのを覚えている。成人発達理論でもよく言われる、“Slower is better”という言葉をそのままその時にも使っていて、筋肉の発達と心の発達の類似する原理を改めて実感するかのような出来事だった。そのメニューにおいては、まずはじっくりと自分の体を立てられたバーに沈めていき、そこから勢いよく浮上することが求められていた。全ての動作をゆっくりとするのではなく、筋肉を収縮させていく時にはゆっくりとした動きをし、筋肉を拡張させていく時には素早い動きをしていくと述べたら良いだろうか。いずれにせよ、このことは来週からのトレーニングにおいても特に意識したい。何のためのトレーニングで、トレーニングをどのように行うのか。その点を改めて初心に戻るような気持ちで絶えず念頭に置きながらトレーニングに励みたいと思う。唯識学の探究と同じく、筋力トレーニングもまた毎回の内省を通じた緩やかな成長を実現させていきたいと思う。非常に重要なメッセージを必要なタイミングで投げかけてくれたエリーザには感謝である。フローニンゲン:2024/5/3(金)06:00


12623. 真理への眼差し/今朝方の夢


小鳥たちの鳴き声がとても美しく辺りに響き渡っている。彼らの鳴き声の中に真理が内包されていて、彼らの鳴き声の響きは真理を世界に伝えている。唯識学の探究を通じて、真理の世界への目覚めが起こった。それを直接体験として後押ししてくれているのは、言うまでもなくシロシビン・セッションであるが、そのセッションの内容を補完し、より真理の開示と解釈を促してくれるのが唯識学の探究という位置付けになっている。もはや自分は真理の世界しか見ていない。真理に向かって垂直に立ち、究極的な真理を体現することだけに意識が向かっている。当然ながらそれは、この現実世界を無視することでは全くない。なぜなら、事理不可分の関係性があるからだ。つまり、真理というのはいかなる事物にも内在されていて、逆に言えば真理は事物を離れては存在しないのである。さらに言い換えると、現実世界は即真理の世界とも言えるということである。現実世界で絶え間なく生起する諸現象の背後には絶えず真理が存在しているのである。自分の眼差しはもはや表面的な現象にはなく、常にその背後にある真理に対して向けられている。


今週末の日曜日には、真理の世界を垣間見て、真理を体現させていくためのシロシビン・セッションがまた行われる。驚いたことに、今朝方の夢はシロシビン・マッシュルームが登場するものだった。夢の中で私は、小中学校時代のある友人(MT)の研究室に高校時代のある友人と訪問していた。小中学校時代のその友人は、研究室で様々な事柄を研究していたのだが、その1つのテーマにサイコアクティブな物質があった。彼は生物学や化学的な観点でそうした物質について研究を進める過程の中で、実際に新たなサイコアクティブな物質を生成していくことも行なっていた。彼曰く、いつかそれを世の中に製品として届けることを目的としているらしかった。実際に彼が研究している物質の中にはシロシビンがあり、シロシビン・マッシュルームも育てているとのことだったので、それを見せてもらった。研究室はとても薄暗かったが、とんでもない広さを持っていた。横に広いと述べた方が正しく、縦方向には狭いのだが、どこまでも続いていくかのような横方向の広がりがあった。彼と一緒に研究室を歩いていくと、お目当てのシロシビン・マッシュルームがあった。見て驚いたのは、彼が育てたシロシビン・マッシュルームは通常よりも遥かに大きなサイズだったことである。彼はそのうちのどでかい1本を取って私に渡してくれた。もう1人の友人が研究室の入り口近くで待っていて、彼にあげるといいと述べたので、そのようにしようと思った。友人が待ち場所に戻って彼にマッシュルームを見せると、彼もとても驚いていた。彼は未だかつてシロシビン・マッシュルームを摂取したことがないらしかったので、摂取の方法と体験内容の概要について伝えた。すると彼は勇敢にも、生のままそのどでかいマッシュルームに齧り付いた。その時に、彼はどういうわけか猪のコスチュームを着ていて、4本足で足しながら地面に落ちたバラバラに砕いたマッシュルームを1つずつ勢い良く食べていた。彼はすぐさま大きなマッシュルームを1本完食した。そこからしばらく間を開けて、体験が始まるのを待った。しばらく会話をしながら、彼が体験に入っていく様子を窺っていた。ところが彼は一向に体験に入っていく様子を見せず、尋ねてみたところ、特に何も起こっていないということだった。彼にはシロシビンに対して何かしらの耐性があるのか、はたまたその他の要因があって効き目が現れていないのか、その点を明らかにしたいと思ったところで夢の場面が変わった。フローニンゲン:2024/5/3(金)06:19


12624. 真理を見通す眼の清浄化に向けて


小鳥たちからの励まし。小鳥たちからの癒し。朝の時間はとりわけそれを感じる。夕方や就寝前にも彼らの鳴き声に耳を傾けているので、その時間帯にも彼らから励ましと癒しを受け取っているように思える。時刻は午前7時を迎えたところであり、早朝に引き続き、彼らは美しい鳴き声を上げ続けてくれている。


先ほど1階のトイレに降りた時、1階と2階とでは随分と気温に差があるなと感じた。2階は昨日の気温の上昇を受けて随分と暖かいが、1階はかなり冷えている印象である。ひょっとしたら外気と同じぐらいに下がっていると感じられたほどである。熱はやはり上昇していく性質を持っていることがここからもわかる。また、今後引っ越しをする際には上層階にはできるだけ住まないようにすることも賢明かと思った。自分は低い気温を求め、平地と同じ気圧を求める。そのような何気ないことについて考えていると、何気ないことの背後にある真理に暗い私たちについて考えを巡らせていた。私たちは水中の魚と同じである。水中の魚は、自らが水の中にいることに決して気づかない。それと全く同じで、私たちは自らが絶えず真理の中にいることに気づかないのだ。それを気付けなくさせているのが、我や諸存在に対する執着であり、煩悩なのだ。執着や煩悩を通じて、私たちの眼は曇ってしまっているのである。真理を見通す眼が曇ってしまっているがゆえに、私たちは常に自分たちが真理の中にいることに気づけないで迷い、苦しんでいるのである。迷いや苦しみからの解放のヒントはそこにある。私たちの曇った目を清浄かつ正常にしていけばいいのである。私の眼は煩悩や執着で淀み、そしてそれらを通じて誤った形で対象を把握する。真理を見通す以前の段階なのである。煩悩や執着を少しずつ減退させていく観法行を絶えず修めていくことを通じて、私たちの眼は少しずつ清らかなものになってくるだろう。そうすれば、私たちは絶えず真理の世界に抱かれていることに気づけるようになってくるはずだ。まずは私たちの眼が曇っているということへの自覚を持つこと。そして真理は絶えず私たちを抱擁してくれていて、私たちは常に真理の中にいるということに目覚めていくこと。そのために、曇った眼を清らかにしていく観法行を実践していくこと。唯識学はそれに大きな貢献を果たす。

フローニンゲン上空を覆う薄い雲。そのおかげで今日の気温は随分と下がるようだ。雲の向こう側にあるもの。それは空である。雲の背後にある広大無辺な澄み渡る空に絶えず想いを馳せること。それは、事物の背後に常に存在している清浄な真理に想いを馳せることに等しい。フローニンゲン:2024/5/3(金)07:12


12625. 今朝方の夢の続き


庭側にいた小鳥たちが移動して、キッチン側の木々にやって来た。そのおかげで、彼らの鳴き声がより近くに感じられる。今日は風がほとんどなく、無風の世界の中に新緑の木々が凛として佇んでいる姿はとても美しい。佇まいだけでも美しい木々に囲まれているということ。そのことにも感謝したい。彼らがいてくれるから小鳥たちがやって来てくれるのである。あぁ、そのようにして自分を陰ながら支えてくれている増力縁は無限遡及的に存在しているのだなと気づかせされ、それに呼応する形で感謝の念もまた無限にどこまでも伸びていく。


今朝方の夢について先ほど振り返っていたが、もう1つ覚えている場面がある。夢の中で私は、近未来的な都市の駅に向かっていた。ちょうど大学から駅に向かっている最中で、隣には大学時代のサークルの友人がいた。ちょうどその日は大学でスポーツフェスティバルがあり、クラス対抗で様々なスポーツに盛り上がっていた。大学に入ってもまさか語学のクラス対抗でスポーツフェスティバルが行われるというのは入学当初以外だったが、クラスメートとの絆を深める意味でもそれは良いイベントかと思った。私は所用があって最後までスポーツフェスティバルに参加することはできず、どのクラスが総合優勝したのか知らなかった。その点について彼に尋ねてみると、どうやら彼のクラスが優勝したらしく、彼はそれを誇らしげにしていた。別に彼が活躍したわけではない点が少し気がかりで、その点を指摘しようと思ったがそれはやめて、彼の虚栄心を満たしてあげるために黙っていた。するといつの間にか彼は消え、隣には白い猫を抱き抱えた母がいた。驚いたことに、その猫は人間の言葉を話すことができた。すっかり忘れていたが、どうやらその猫はうちで飼っているものらしかった。しかも私はその猫と昨日遊んでいたようなのだ。両親が出掛けている間、その猫の様子を見ることを任せられていたのである。正直なところ、その猫は人間の言葉を話せるほどに賢かったので、私が見守る必要など全くなかった。念の為ということで猫の様子を見ることを任せられていたのは昨日のことだった。その時に私はどうやらその猫と口喧嘩をしたらしく、暴言を吐いて彼を傷つけていたようだった。私にはその記憶は一切なかったが、彼を傷つけたのであればとても申し訳なく思い、素直に誤った。すると彼はすぐさまその謝罪を受け取ってくれて、仲直りをすることができた。母に抱かれた白い猫を受け取り、私が抱き抱えると、やはりその猫は母に抱かれることを望んでいるらしく、少しだけ猫を抱いたらすぐに母に戻した。そのような場面があった。フローニンゲン:2024/5/3(金)07:36


12626. 夢の中の白猫が象徴するもの:真理の光を浴びながら   

     

今朝方の夢の中に現れていた白い猫のことが気になったので、ドリームディクショナリーを通じて調べ物をしていた。というのも、これまでは夢の中に今は亡き愛犬が登場することは度々あったが、黒い猫ではなくて白い猫が登場するのは初めてのことだったように思えたからである。調べてみたところ、何やら白い猫は霊的直感を示唆するものらしい。さらには新たな始まりや浄化を意味するらしかった。それを見た瞬間に、思わず一人合点をした。唯識学の探究が本格化して以降、自分は真理の世界に目覚めた。真理の世界を探究し、真理の世界に至る道の探究に全身全霊をかけ始めたのである。それは新たな始まりに他ならず、その探究の中には絶えず霊的直感が体現されている。さらには、2週間に1度の日曜日に実施するシロシビン・セッションの力を借りながら、少しずつ真理を見通す眼を浄化させている自分がいることも白い猫が象徴することに重なる。厳密には、私たちが真理を把握するためには存在そのものを浄化させていかなければならない。真理を見通す眼を浄化するというのはあくまでも認識論的な側面を強調したものに過ぎず、実際のところは真理を体現するためには存在そのものも浄化していかなければならない。それは食事・運動・睡眠などの実践から始まり、瞑想などの観法行などの認識論的浄化の実践と組み合わせて行なっていく必要がある。いずれにせよ、存在論的にも認識論的にも浄化を進めている自分がいることは間違いなく、それが真理を求め、真理に生きる新たな自分の誕生を促していることは間違いない。その点において白い猫が象徴することは大変示唆深い。


また、白というのは光を意味する。白は神聖なる光の色なのだ。光というのもまた自分にとってとても大切な存在だ。自分が育った故郷は、「光」の一文字だけで表現される町である。そして実家があるのは、光が降り立つ「虹ヶ浜」という地名であり、世界を照らす光は自分にとって本当に大事なものだ。自分の歴史と光は切っても切り離せないものなのである。ちょうど昨日、オックスフォード大学の校訓について調べ直していた。それはラテン語で“Dominus illuminatio mea”といい、英訳すると、“The Lord is my light”という意味になる。ここでも光が鍵を握っている。また、母校のフローニンゲン大学の校訓もオックスフォード大学のそれと似ていて、ラテン語では“Verbum Domini Lucerna Pedibus Nostris"、英語では“The word of the Lord is a light for our feet”となる。どちらも真理の光が私たちの存在を照らすことを伝えている。真理の光に照らされ、真理の光に身を任せて導かれていくこと。自分はただただそうした生き方をしていく。それが夢の中の白い猫が象徴するもう1つの意味の、いつか自分の取り組みが何らかの形で報われることをもたらしてくれるだろう。因果の背後にある真理の光を常に感じていたい。真理の光を浴びながら、自分は毎日人知れず自らの取り組みを前に進めていき、それが少しずつ他者や社会にとって意味のある結果を生んでくれればそれだけで十分である。フローニンゲン:2024/5/3(金)07:53

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