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【サイケデリック学・瑜伽行唯識学探究記】12615-12621:2024年5月2日(木)



⭐️成人発達理論・インテグラル理論・瑜伽行唯識学の観点から、リスナーの皆様と心の成長を一緒に実現していくことを目指したサイケデリック唯識ラジオの配信をしています。


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タイトル一覧

12615. 茹で大豆の作り方

12616. 今朝方の夢

12617. 真理顕現作用・浄化作用を持つ書くこと

12618. 離言真如の世界に誘うサイケデリクス

12619. 唯識学とサイケデリック研究の統合に向けて

12620. 浄化作用と薫習作用を持つ正しい言葉の使用

12621. 夏らしさを感じながらのトレーニング/水煮大豆を作ってみて


12615. 茹で大豆の作り方 

       

時刻は午前5時半を迎えようとしている。辺りはもう随分と明るくなっていて、空はエメラルドブルーに輝き始めた。午前5時を迎えた段階からすでに庭側の木々に小鳥たちがやって来ていて、美しい鳴き声を上げ始めてくれていた。今もうこうして彼らの鳴き声に耳を傾け、そして晴れ渡る空を眺めることができている。朝の至福な時間をただただ味わっている。


先ほど、シロシビン・マッシュルームの収穫を行い、レンジで乾燥を始めた。今回の栽培キットで何回目の収穫かもう数えていないが、今回の栽培キットでも随分と収穫がもたらされたことを喜びたい。栽培キットの豊かな収穫量のおかげで、隔週の瑜伽行としてのシロシビン・セッションが継続されていることを思うと、ただただ感謝の念しかない。自分を取り囲む様々な増力縁に感謝である。今用いている栽培キットであと何回ほど収穫できるのかはわからないが、極限まで収穫をしたいと思う。そしたら冷蔵庫に保管されている乾燥させたマッシュルームを使い切ることに専念し、残り1回分になるタイミングでまた新しい栽培キットを購入しようと思う。その際には前回と同じGolden Teacherの品種のものを購入したいと思う。


今日からは、朝のドリンクに大豆や黒豆を加えない形で、ヘンプやカカオの味をそのまま味わいたいと思う。その代わりに、大豆と黒豆のそれぞれを無駄にしないために、昼にお湯で茹でで夕食に加えてみることを試す予定だ。その下準備はすでに昨夜の段階からしている。具体的には、黒豆150gほどをボールに入れ、その重さの2倍ほどの水を加え――2倍では少なく、3倍ほど加えるべきだったと思う――、ラップをかけて一晩置いた。すると今朝方冷蔵庫を確認してみると、ネットで検索した説明通りに水をよく吸っていて、茹でる下準備が整ったように思った。昼食後、ボールの黒豆を浸した水ごと鍋に移し、水をもう少し加えて沸騰させ、中火で10分から15分ぐらい煮ていく。この時にアクが出てくるらしいので、それを取る。10分から15分煮た後にそこからさらに弱火で60分間ぐらい煮ていく。それが終わったらそのままの状態で冷まして、茹で汁に流れた栄養を豆に戻していく。粗熱が取れたら完成という流れである。茹で汁も捨てずに夕食の茹で野菜に加えるなどして有効活用したいと思う。ちょうど今日は午後にジムで筋力トレーニングをするので、完成した黒豆を早速いただく形でしっかりとタンパク質を摂取したいと思う。フローニンゲン:2024/5/2(木)05:45


12616. 今朝方の夢


時刻は間もなく午前6時を迎える。辺りはもう随分と明るくなっていて、今日の天気の良さを物語る形で素晴らしい朝の世界が広がっている。昨日に引き続き、今日もまた日中の気温は20度を超えてくる。どうやら今日は24度まで気温が上がるらしいので、午後にジムに行く際には半ズボンで出掛けて行けそうである。上ももしかしたら半袖でいいかもしれないが、念の為、トレーニング後に体が冷えないように羽織るものを持っていこうと思う。気温が高いのは今日までのようで、明日からはまた朝夕は肌寒い日々が続くようである。最高気温は18度前後、最低気温は8度前後の過ごしやすい日々が続いていく形だ。


今朝方の夢の世界は穏やかで、あまり記憶に残っていない。しかし1つ印象的だったのは、夢の中の自分が何かに対して深く感動し、突然涙を流し始めた場面があったことである。それは何に対してだっただろうか。自分が何か大切なことを説明している最中に突如感極まって涙がこぼれ落ちてきたように思う。一体何を話していたのかは分からないが、周りに数人ほど人がいたように思うし、数人のみならず多くの人に向かって話をしていたように思う。話を聞いてくれている人たちは、自分の話に親身になって耳を傾けてくれていた。それに応える形で、自分もまた真摯に何か重要なことを語り続けていた。お互いの真剣さが共鳴し合い、それが涙を流すことの後押しになったことは確かであろう。


それ以外に覚えていることはあまりないが、もう1つ挙げるとするならば、今朝方の夢には外国人はほとんど登場せず、多くの日本人が登場していたということである。自分の夢に登場するのが誰で、どこの国の人であるかというのは、自分の無意識の世界を理解する上でも重要な要素かと思う。また、使用している言語が何かも重要であり、今朝方の夢は全て日本語を話す自分がいたことも確かである。その他に何か思い出すことはないか、引き続き夢を振り返ってみよう。フローニンゲン:2024/5/2(木)06:00


12617. 真理顕現作用・浄化作用を持つ書くこと 

 

とにかく書くことである。書くことしかないのである。己の言葉で書くことしか真理に到達する道はないのだ。今早朝の朝の穏やかな世界に鳴き声を響かせている小鳥たちのように、己の声で世界に向けて書くことしかないのである。そんな気持ちがやって来た。もちろん、真理が深く体現された他者の言葉に触れることは重要である。唯識学においても、正しい教えを聞くという聞法が最も重要視されているぐらいである。仏陀の教えを含め、過去に真理に触れ、真理に到達し、真理を体現した学僧たちの言葉に虚心坦懐に耳を傾けていきたい。それは別に学僧に限らず、他の分野においても真理を体現した偉人は過去にたくさんいたのであるから、そうした人たちの言葉に真摯に耳を傾けたいと思う。しかし最も重要なことは、やはり自分の言葉で書くことである。それは何故なのだろうか。それはきっと、自分を貫く真理を顕現させるためなのだ。全ての事物には等しく真理が貫かれている。全ての事物には等しく真理が内包されているのである。全ての事物には当然私たち一人一人の存在が含まれる。私たちは真理を内在させた存在なのである。そのことにあまりに無自覚過ぎではないだろうか。その無自覚さ、すなわち無知さが自分を大切にせず、他者を大切にせず、共同体を大切にせず、地球を大切にしないという事柄に帰結しているように思えて仕方ない。まずはそうした自らの無知さを真正面から受け止めることである。無知さの自覚から全てが始まる。その自覚が芽生える時、少しずつ私たちは自分に内包されている真理に気づき始めるだろう。そしてその真理の種に水をやるのが自らの言葉なのだ。そして種から芽を出す時に必要なのが自分の言葉なのだ。自分の言葉が持つ力を侮ってはならない。それは本当に巨大な力を持つ。そうした巨大な力を持つ自分の言葉を通じて、絶えず自らの内側に存在している真理の種に水をあげていくのである。それにはとにかく自分の言葉を通じて書くことだ。その実践こそが鍵を握る。


そのようなことを考えた後に、書くことは観法行に他ならないことも見えてきた。自分の内側にその瞬間に生起する思考や感情を即興的に書くということを毎日行っていると、それが自分の心の浄化作用を伴っていることに気づく。書くことは、心を掃除することなのだ。書くことは、心を浄化することに繋がる。書くこと以外の形態として話すことも挙げられるが、人に悩みや課題を話してみてスッキリした経験はないだろうか。きっと誰しもあるだろう。話すこと以上に整理され、言葉を客体化する形で自分の内面現象を外側に表現していく書くという実践が持つ浄化作用に改めて注目している。唯識学の多様な観法行と絡める形で、ここからは書くという実践をさらに豊かなものにしていこうと思う。フローニンゲン:2024/5/2(木)06:56


12618. 離言真如の世界に誘うサイケデリクス


今週の日曜日もまたシロシビン・セッションを実施する。毎回のこのセッションは、言葉の世界を離れ、離言真如の世界に参入するまたとない実践機会となる。日々の唯識学の探究は、依言真如の世界に入っていくために言葉を通じて行われる。具体的には、文献を読み、そして言葉を通じて考え、言葉を書き綴っていく形で行われる。ところがそうした言語依存的な探究をいくら行っていても、真理に至ることは難しい。なぜなら、真意は本来言葉を離れたものだからである。言葉を通じて詳細全体に考えられるものでもなく、言葉を通じて完全に理解できるものではないのである。ゆえに、言葉を完全に脇に置かせてくれるシロシビン・セッションのようなサイケデリック・セッションは、真理到達における極めて重要な実践となる。古代インドの瑜伽師たちもきっと、カンナビスやシロシビン・マッシュルームを活用しながら言語機能を完全に停止させ、言葉を離れる形で真理世界に参入し、そこでの体験を通常意識に戻ってから言葉で詳細に論じていったに違いない。単に瞑想をしているだけでは得難い世界がそこにある。もちろん日常において瞑想だけをしていれば、サイケデリック体験にほぼ近しい状態に入れるだろうが、それほどまでに瞑想実践だけを極めた人がどれだけいたのかは甚だ疑問であり、古代の瑜伽師たちはきっと、瞑想というサイコテクノロジーに加えて、サイケデリクスというサイコテクノロジーも有効活用していたに違いないと思う。少なくともチベット仏教においては、サイケデリクスの活用に関する証拠がいくつも残っている。ここからサイケデリックルネサンスが本格的に幕開けをし、一般の人たちの真理探究実践にサイケデリクスが健全に活用されてくるようになると、果たしてどのような社会現象が起きるだろうか。それに思いを馳せながらも、サイケデリクスが健全に活用されるためのディスコースの整備に向けた貢献をしていきたいとも思う。その際には、唯識学の観点と思想的枠組みを提供することは非常に重要であり、それらがあることによって、サイケデリック・セッションもまたさらに有意味なものになるに違いない。日本でのサイケデリクスの活用はきっともっとずっと後のことになるであろうから、まずは欧米社会に唯識学とサイケデリック実践を絡めた方向性を示していく取り組みに従事していきたいと思う。そのようなことを考えていた。フローニンゲン:2024/5/2(木)08:06


12619. 唯識学とサイケデリック研究の統合に向けて 

 

穏やかな朝の世界がとても心地良い。優しい朝日に照らされた新緑の木々たちはどこか嬉しそうである。そしてそれに華を添える形で小鳥たちが小さく鳴き声を上げている。スカイブルーの晴れ渡る空は、地上の存在者たちを見下ろしているのではなく、そっと全存在を優しく包んでいる。そして天と地は不可分であるがゆえに、空と地上の全存在は不即不離であることがわかる。


今は確かに唯識学の研究のみに特化しているが、再びサイケデリクスの研究も進めていくであろうという直観があった。唯識学もサイケデリクスも、自分の人生をこれ以上ないほどに大きく変えた存在である。自分自身、そしてこの人生を語る上で、両者は他の何物にも代え難い役割を果たしてくれている。そのうちの唯識学の探究に今このようにして全身全霊で打ち込んでいる。それは今後の学術機関での仕事を見据えたものでもある。そしてサイケデリクスの学術的研究に再び戻ってきた際に、以前サイケデリクスを研究していた時には気づけなかった種々の重要なことに気づくための準備を今こうして行っているのだとも思う。サイケデリクスの研究にいつかまた本腰を入れて取り組む際には、もちろん先端的な科学的な調査結果を参照することはあるだろうが、以前にも増して思想的な側面、とりわけ唯識学の観点からサイケデリックの現象学的体験を紐解いていくことになるだろう。そうした研究に従事するのはきっと時代の要請のように思えるし、自分に課せられた1つの使命のように思える。これからサイケデリックルネサンスが成熟し、種々のサイケデリックビジネスやサービスが展開されるようになってきた時に、きっと自分の研究は社会に対して大きな貢献を果たすだろう。むしろ、そうした貢献を果たしていかなければならないという思いである。来たるべき時に向けて、今の自分はただひたすらに唯識学の研究に打ち込み、サイケデリック実践を自らに課していく。そこで蓄えられた知識と経験は、やがて智慧に転じるであろう。智慧に昇華されたものをもって初めて社会に有意味な貢献が果たせるのではないかと思う。とにかく今は、自分の人生をこれ以上ないほどに大きく変えてくれ、大きく躍動させてくれることをもたらしてくれた唯識学の研究とサイケデリック実践を大切にしていく。この思いは絶えず初心として持ち続けておきたい。いつか唯識学の探究とサイケデリクスの探究が自分の中で統合される日がきっとやって来る。そう思わずにはいられない。フローニンゲン:2024/5/2(木)08:27


12620. 浄化作用と薫習作用を持つ正しい言葉の使用  


真理に立脚した言葉を活用することは、私たちは自他の心を浄化していくことができる。言葉にはそうしたた浄化作用がある。それに加えて、さらに深い真理に到達するために、私たちは自らの言葉を名言種子として阿頼耶識に薫習させていくことができる。すなわち、善き言葉の使用は心の浄化作用に加えて、さらなる真理を開示するための薫習作用があるということだ。この2つの作用に注目をしながら日常の言葉使いを見直していくことは非常に重要なのではないかと思う。瑜伽師たちが行っていた日々の行は何か特別なものではなく、現代を生きる私たちも普通に取り組めるものが多い。善き言葉をできるだけ活用していくというのは、まさにその一例であろう。唯識学の教えを日常生活と遊離させた形而上学的な思想として捉えてはならない。それは唯識学の叡智を骨抜きにすることに他ならないのである。唯識学の叡智は、私たちの日常生活の中にある。より詳細には、それは私たちが日常生活を送る中での私たちの心の中にあるのである。絶えず心を見つめ、絶えず自らの行いを観察していくこと。唯識学の実践は、そうした観察に始まり、観察に終わると言っても過言ではない。真理に触れ、真理と一体化する形で心を浄化させていく道は、特別なことが要求されるわけでも、高度なことが要求されるわけでもないのだ。とてもシンプルで、とても常識的な事柄が要求されるのだ。逆に言えば現代人の多くは、シンプルさから離れ、過度に混沌複雑化する方向に自らの生活を仕向けてしまっているのである。自分の心を見つめることができるのは自分しかいない。自らの心を見つめ、浄化させていくというのは、私たち一人一人に課せられた責任でもある。一呼吸置き、落ち着いた心で自分の心の内側を見つめていくこと。そこで生起する思考や感情に注目すること。そしてそれらが悉く虚構の産物であるということに気づくこと。こうした観法行を続けていけばいくだけ、私たちの心は自ずから浄化されていき、事物のあるがままの姿をより見通すことができるようになってくるだろう。それが真理に開かれていくということである。真理を見つめる眼を開眼していくこと。混迷を深めていく今の時代以上にそのことが求められる時代はないように思えてくる。フローニンゲン:2024/5/2(木)08:58


12621. 夏らしさを感じながらのトレーニング/水煮大豆を作ってみて


時刻は午後7時を迎えた。辺りはまだとても明るく、夕方と言える空が広がっている。今日は天気がとても良く、そして気温が25度を超えるほどの夏日であった。午後にジムに出かける際には半袖・半ズボンで十分であり、道ゆく人たちや公園で寛いでいる人たちの格好も夏のそれだった。明日からはまだ肌寒さを感じる気温になり、最高気温は今日から8度ほど下がる。その落差はなかなかのものである。この3日間は十分に夏日を満喫することができたので、明日からの肌寒い日々もまたそれはそれとして楽しんで過ごすことができるだろう。個人的には今日の夏日よりも、肌寒さを感じられるぐらいの気候が一番過ごしやすくていい。


今日のジムでのパーソナルトレーニングもとても充実していた。外気が上がっていたこともあり、準備運動を終えてローイングマシンを7分ほど漕いだ後には汗が少し滲むほどであった。そこからパーソナルトレーニングまでの30分強を自主トレーニングに当て、程よく鍛錬したところで60分のパーソナルトレーニングに入った。ここ最近は以前にも増してパーソナルトレーナーのエリーザのメニューが創造的なものになっており、毎回新しい刺激を筋肉と脳に注入してもらえているので何よりである。いくつかのメニューはまだまだ彼女のフィードバックが必要なものがあるが、いくつかのものは自分1人でも月曜日の際の自主トレーニングに組み入れることができるようになっている。パーソナルトレーニングの良さは、自分1人では盲点になってしまうことを指摘してもらえたり、ルーティン化しそうなメニューに変動性を加えてくれることであったりと、非常に多くの事柄を挙げることができる。

トレーニング翌日の明日からは、毎朝のアニマルフローの実践をアクティブレストの実践とするだけではなく、午後にも気分転換がてら大胸筋やハムストリング、さらには大腿筋に少々刺激を入れるようなエクササイズも行っていこうと思う。


トレーニング後に食べた先ほどの夕食はとても美味だった。今日から黒豆を自ら水煮したものを食べ始めたのだが、それがとても美味しかった。本当であれば、栄養素を全く逃さない蒸し大豆を作ることができれば理想的だが、調理具が手元にないので、煮た際の水に溶け出した栄養素もいただくために煮た水を捨てることなく、それごと茹で野菜に和え、そこに味噌を加える形で食べた。150gの乾燥黒豆で作った水煮大豆は、半日以上冷蔵庫で浸した水分を随分と吸っていて、出来上がったものは当初の2倍から、2.5倍ほどの重さになっていた。冷蔵庫で保存すれば4日から5日ほど保存が効くようなので、今日から明後日にかけて3日かけていただく予定である。水煮大豆は100gあたりのたんぱく質含有量は18gほどあるらしいので、良質なタンパク質が十分取れる。もちろん納豆には納豆キナーゼなどの固有の栄養素があるだろうが、今後は納豆を買う必要はないかもしれないと考えている。納豆の代わりにグレープフルーツやイチゴなどの果物を1品加えてみようと思う。次回は黒豆ではなく、余っている乾燥大豆を茹でて味を比較してみたい。フローニンゲン:2024/5/2(木)19:18

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