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【サイケデリック学・瑜伽行唯識学探究記】12627-12632:2024年5月4日(土)




⭐️成人発達理論・インテグラル理論・瑜伽行唯識学の観点から、リスナーの皆様と心の成長を一緒に実現していくことを目指したサイケデリック唯識ラジオの配信をしています。


⭐️心の成長について一緒に学び、心の成長の実現に向かって一緒に実践していくコミュニティ「オンライン加藤ゼミナール」も毎週土曜日に開講しております。

タイトル一覧

12627. 寒さの中で一点集中を思う

12628. 今朝方の夢

12629. 明けゆく朝空と心と真理

12630. 日常世界と真理の世界/真理の車輪と真理の湖面

12631. 光り輝く朝に

12632. 第78回のクラスを振り返って


12627. 寒さの中で一点集中を思う   


今朝は午前3時半にすっきりとした目覚めと共に起床した。起床してすぐにシャワーを浴びようとした時に、随分と気温が下がっていることに気づいた。天気予報にあった通り、昨日からまた気温が下がり始め、ここからはしばらくは晩冬のような気温が続く。午前4時を迎えようとしている今の気温は8度で、ここからもう1度ほど気温が下がり、午前7時から緩やかに気温が上昇をしていき、日中の最高気温は18度ほどとなる。昨日は一昨日の暖かさを受けて2階の書斎も暖かさが残っていたが、今朝方起床して2階にやってくると、暖房が再び自動で入りそうな気温になっていた。明日に関しては最高気温が12度までしか上がらないので、日中は随分と暖房が自動で入るのではないかと思う。自宅における格好も依然として冬のそれで、下にはヒートテックを着用し、上も三枚着をしている状態である。すでに5月に入ったが、フローニンゲンはまだまだ寒さが残る。


小鳥たちが鳴き声を上げ始めるのにあと1時間ぐらい時間がある。空がダークブルーに変わり始めるのもそこからである。こうして今は静けさと闇の中にただただ佇んでいると、こうした環境はまさに唯識学が説く智慧を開く場所として最適だということがわかってくる。都会の喧騒の中でも確かに瞑想実践はできるが、唯識学では瞑想実践をどのような場所で行うのかについても指南があり、できるだけ静寂な場所で瞑想行に従事することを説く。おそらく修行過程にある未熟な凡夫は、都会の喧騒によって煩悩や執着が容易に刺激されてしまうのだろう。それが瞑想行の差し障りとなり、結果的に煩悩や執着を強化することに繋がりかねない状態となり、それが悟りへの道程を妨害する。そのような理屈が背後にありそうである。今こうして与えられている静けさに満ちた落ち着きのある環境に感謝しよう。とにかく静けさと落ち着きの中で自らの取り組みを深めていくこと。自分がやるべきことはただその1点にある。1点に集中すること。そうすれば、いつかその1点が円を生み、その1点は円の中心点となる。その中心点の芯が強ければ強いほど、深ければ深いほど、中心点から描かれる円はどこまでも広く世界に波及していく。今、自分はそんな円の中心点を作っている途中なのだ。そうした認識を持って、一点集中する形で今の取り組みを人知れずどこまでも深めていきたいと思う。今日の探究活動もそこに連なる道を作る。フローニンゲン:2024/5/4(土)04:04


12628. 今朝方の夢


この日記を書き留めたら少し体を動かして体を温めようと思う。朝の呼吸法とアニマルフローの実践に早急に取り掛かりたいほどに今朝方は寒い。今朝方は次のような夢を見ていた。

夢の中で私は、見慣れない駅のプラットホームの上にいた。そこで列車を待っていると、顔見知りと思われる2人の先生がやって来たので先生たちに挨拶をした。すると先生たちはどうやら話に熱中しているようで、単にこちらに会釈をするだけで口を開いて挨拶を返すことをしなかった。先生たちは何やら、地方の公立進学校と首都圏の名門中高一貫校の学習進度の違いについて真剣に話し合っているようだった。2人の先生はどちらも共に公立の進学校に勤務していた。先生たちは自分たちが務める学校と首都圏の名門中高一貫校との学習進度があまりも違うことに愕然としているようで、それが進学実績の差に如実に現れていることを問題にしているようだった。そもそも両者の間には埋めることのできないほどに深い溝が学習進度にある。もちろん学習進度が早いことが望ましいとは限らないが、優秀な学生にとっては公立校の学習進度は遅すぎる傾向があり、結果的にそれが首都圏の名門中高一貫校の生徒たちとの間において大学受験の際に埋められないほどの差となって現れてくる。そんな不平等さが歴然として存在している。その問題に対して先生たちは対策を打とうとしているようだった。自分の受験時代を振り返ると、そもそも地方の公立高校に通っているとそのあたりの実態がわかりづらく、下手をすると大学に入ってからようやくそのような学習進度上の差があったことに気づくかもしれないし、一生気づかないことすらある。自分もその問題について考えていたところで列車がやって来たので、先生たちとは反対のプラットホームに止まった列車に乗って目的地に向かうことにした。そのような場面があった。


もう1つ覚えているものとしては、知り合いの協働者の方と将棋のかつての名人と一緒にホテルの一室で談笑していた場面である。そのホテルはオランダの地方都市にあり、周りの環境は落ち着いていた。3人で他愛も無い話で盛り上がっていると、誰かが突然部屋のドアノブに手をかけて、それを回し始めた。するとそれを受けて、協働者の方と将棋のかつての名人は突然ベッドの布団の中にくるまって身を隠した。ドアが開き、部屋に入って来たのはホテルのスタッフの女性だった。その女性はベッドの上で寝たふりをしている私たちを見て、私たちを起こさないようにしながらアイロン代を返しにやって来た。アイロン代を元の場所に戻すと、速やかに部屋から立ち去っていった。それを受けて、2人はまた起き上がり、そこからはある会社が作った面白い製品の話となった。自分はその製品について知っているようでありながら、詳しくは知らなかったので、全く知らない振りをした。すると、協働者の方がその製品をスーツケースに入れてお土産として持って来てくれていたらしく、それを取り出して見せてくれた。製品のパッケージから想像していた通りのものだと思ったが、改めて2人からその製品について詳しく話を聞くことにした。どうやら2人はその製品を愛用しているらしかったが、自分はあまり愛用する気にはなれないと思っていた。フローニンゲン:2024/5/4(土)04:21


12629. 明けゆく朝空と心と真理


時刻は午前5時を迎えたところである。今日からまた寒さがぶり返し、暖かい格好をして早朝に体を動かし、そこからいつものように暖かい飲み物を飲んだ。そして朝の創作活動に取り掛かっていると、午前5時前から小鳥たちが鳴き声を上げ始めたことに気づいた。今日は庭側とキッチン側の双方から鳴き声が聞こえて来ている。別々の小鳥が家の反対側で鳴き声を共鳴させている。自分は彼らの共鳴する鳴き声のちょうど中間に位置して、2つの交流する澄み渡る鳴き声に耳を傾けている。


空がダークブルーに変わり始めてきた。ここから少しずつ夜が明けてくる。明けゆく朝空を眺めながら、私たちの心はまるで空のようだということに気づく。空そのものは常に一点の曇りもなく、常に青々として凛として存在し続けている。いや、ひょっとすると空には色などないのかもしれない。こうして明けゆく空を眺めていると、空は黒からダークブルーに変わり始めているが、それは太陽の影響によってそのように見えるだけで、本来は空には色などないのかもしれない。逆に言えば、太陽という縁の働きによって種々の色を見せるような存在だと言えるかもしれない。まさに私たちの心はそのような特性を持ってはいやしないだろうか。心は置かれた環境や種々の要因によって様々な色を見せる。だが忘れてはいけないのは、私たちの心の本来の姿は何も色の付いていないものだということである。色付けされた空は、今度は雲を生じさせる。そして雨を降らせたり、雪を降らせたりする。その様子もまた私たちの心と瓜二つである。私たちの心を覆っている煩悩。それはまさに空にかかる雲のようである。私たちがなすべきことは、雲によって煩わされるのではなく、雲の向こう側にある空そのものを見ることである。幸いにも私たちは、心を覆う煩悩を伏していくことができる。そして最終的には煩悩は全て滅していくことができるのだ。その教えと実践の道が唯識学に説かれている。


真理は重力のように、私たちが気づくと気づかないとに関わらず常に存在し続けている。唯識学において、我も諸存在も仮の存在であり、常住不変のものはないとする。しかし、存在を成り立たせる縁起の理や常住不変のものはないという真理は存在するとする。それが唯識学の思想は有の思想であると言われる所以である。今の自分には見えていない真理が存在しているという謙虚さを持つこと。その謙虚さを携えながら、常に今の自分を取り囲み、自分を貫いている真理に目覚めていこう。小鳥たちの鳴き声はそのようなことをそっと後押ししてくれている。フローニンゲン:2024/5/4(土)05:18


12630. 日常世界と真理の世界/真理の車輪と真理の湖面


少しずつ明るくなりつつある朝空を眺めている。午前5時半を迎えたが、まだ辺りは薄暗く、夜が完全に明けるにはもう30分ぐらい時間がかかりそうである。夜明けを焦ることなく、小鳥たちの鳴き声に耳を傾けながら自らの取り組みに従事する形でそれを待とう。

小鳥の鳴き声や空といった日常の事物の観察を大切にすること。そこに真理が体現されている。真理とは何か特別なものでも形而上学的な超越的なものでもなく、日常の事物の背後に常に存在しているものなのだ。事理不可分ということもまた1つの真理であり、その真理を忘れてはらない。その真理を胸に刻めば、きっと日常触れる様々な事柄を通じて真理に触れることができるだろう。


今日も冷えることもあって、一杯の温かい抹茶はとても有り難い。一杯の抹茶に真理を見ること。一杯の抹茶を貫く真理を見ること。そして、一杯の抹茶を味わうことは、抹茶に体現された真理を味わうことにならなければならない。真理を求め、真理を通じて成長を遂げながら、叡智と慈悲を世界に共有する人間として、そのような在り方で一杯の抹茶を頂かなければならない。それができないような人間であれば、はなから真理など求めるべきではないのだ。そうした日常を大切にせず、日常の事物を蔑ろにする人間こそ真理を見誤るのである。それを肝に銘じておきたい。


真理に向かう車輪が駆動し始めている。その両輪は学習と実践から構成される。学習と実践から成る車輪の回転は、少しずつ勢いを増し始めている。その車輪はきっと、真理の深い世界へと自分を誘ってくれるに違いない。そんな予感がある。そしてそれは予感を超えた確信でもある。


真理の湖面に反射する叡智の光。それを知覚している自分。叡智の光は遍く存在を照らし、それぞれの存在の真の姿を顕現させている。なんと美しい光景だろうか。まさにそれは「光」の「景色」である。より一層の克己と研鑽を通じて叡智の光を体現させていくこと。さすれば自らの一挙手一投足の全てが遍く存在の真の姿を照らすであろう。そこに開かれる景色はきっと、どんな芸術作品よりも美しいに違いない。存在という真理の芸術作品。私たちの存在は、この世界の真理によって生み出された芸術作品だったのである。そうした芸術作品が持つ本来の光を顕現させること。それを輝かせる手伝いをする必要はない。なぜなら、存在の光は常に光り続けているからである。問題は、その光を広く深く覆う障害があるということである。それは私たちの無知と煩悩から生まれる。そうした障害を取り除く手助けをしていくこと。それができればきっと、遍く存在者が本来の輝きを自ずからこの世界に顕現させるであろう。その光景をなんとしても見たい。自分を動かす原動力はそれに尽きると言えるのではないだろうか。スカイブルーに変わった朝空を眺めながらそのようなことを思う。フローニンゲン:2024/5/4(土)05:39


12631. 光り輝く朝に


時刻は午前9時半を向けた。今朝は午前3時半に起床したこともあり、ここまで6時間ほど実に有意義な時間を過ごすことができている。午後には第78回のゼミナールのクラスがあり、唯識学を扱うまで残り2回となった。今日のクラスもまた非常に意義深いものになるに違いないという確信めいた予感がある。いつもこうして毎週土曜日に受講生の方たちと意義深い対話ができることには本当に感謝している。毎週末のクラスは叡智が結集し、新たな叡智が発育される場となっている。そんな場から叡智のエネルギーを汲み取りながらまた新たな週を充実した形で過ごすことができているという循環サイクルがある。


今日もまた良遍の『覚夢鈔補闕法門』の読解を進めていたのだが、初見の漢字が随分減ってきたことに気づいた。これもまた地道な学習の積み重ねによるものだと思う。訓読文を読むことにも随分と慣れてきて、比較的早いうちに英文読解を同じぐらいの読解速度と読解密度が得られるような気がしている。中高時代の漢文の下地と漢字文化で生きてきたという下地が縁となってそうした結果をもたらしつつあることを喜びたい。


早朝から晴れ渡る空がすこぶる美しい。小鳥たちもそれを祝福するかのように美しい鳴き声を上げ続けている。起床から今にかけて肌寒さが強まっているのは確かで、冬に逆戻りしたような感じを受けるが、燦然と輝く朝日と小鳥たちの鳴き声が寒さを和らげているように思う。明日は雨が降るようで、さらに気温も下がるようなので、体感として今日以上の寒さを感じそうだが、明日は明日だ。今日は今日として、常に今しかないこの瞬間を大切にしよう。そのような思いを新たにする。フローニンゲン:2024/5/4(土)09:41


12632. 第78回のクラスを振り返って      


時刻は午後3時半を迎えた。今日は早朝からかなり冷え込む1日だった。今、午前中に引き続き、1羽の小鳥が庭側の木に止まって鳴き声を上げている。


午後に行われた第78回のゼミナールのクラスを振り返ってみると、今日もまた実り多い時間を過ごさせてもらったことに感謝が尽きない。前回のクラスでトピックとして挙がった「発酵」や「構え」というキーワードをベースに、今日もまた新たな言葉を通じてその場にいた各人の学びが深まり時間だったのではないかと思う。こうして自分は今日もまた新たな自己洞察を得て、真理を体現する一歩を進めた。ここからの真理の体現の道において、自らの言葉を発酵させながらにして彫琢させていくこと。健全な発達は、無駄を削ぎ落とし、言葉を必要な粒度まで純化させてくれる。そうした純化された言葉こそ多くの人のところに届き、多くの人の心の襞に染み渡っていくのだろう。言葉の粒度が純化されていくというのは、まさに自らの言葉がより微細なものになっていくことである。言葉をグロスなものからサトルへ、サトルなものからコーザルへと変化させていくプロセスがそこに見られる。


その他に今日のクラスで印象に残っていることは、「落ち着く」という言葉の意味についてである。それは肯定的な意味で落ちるべきところまで落ちてみて実現されるものなのかもしれない。落ち着くすこと。存在の深くまで落ちて存在の基底に着地すること。それが真の意味での落ち着きをもたらすのではないだろうか。落ち着くことが中途半端だから様々な事柄に囚われるのである。種々の執着を完全に脱ぎ捨てるには存在の底まで落ち着くことが求められる。そうではないだろうか。深海の底に到達して初めて海面の光が見えるように、存在の底まで降りていくのである。底まで落ち切って初めて存在に光が差し込んでくる。おそらくフローニンゲンでの9年目の生活は、存在が基底に着地するためにある時間なのではないかと思う。真の落ち着きの後に顕現される真理を求めて、まずはゆっくりと存在を存在自体の深海の底にまで沈めていこう。そんな実践的方向性をもたらしてくれるクラスだった。フローニンゲン:2024/5/4(土)15:51

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