
2310. 土地勘のない領域の文献の読み方
夕食を摂り終え、これから就寝に向けてもう少し一日の活動を続けていく。今日もここ数日に続いてサン=サーンスの曲をずっと聴いている。 今もなお書斎にはサン=サーンスの音楽が静かに流れている。先ほど夕食前に美学に関する論文を読んでいた。 美学は私の関心領域ではあるが、専門外であるということから、この論文からは随分と考えるきっかけのようなものを得た。就寝前の作曲実践に向けて、もう何本か論文を読んでいく。 ただし、私は改めて、自分は創ることを最優先にしなければならないと思った。日記と作曲という創作行為を何よりも大切な実践とする。 極言すれば、読むことはもう二の次であり、読書は創作行為を補完するという立場を超えてはならない。読書から得るものが相も変わらずに多いことは承知している。 だがそうだとしても、読書が最優先される活動であってはならない。とにかく自ら何かを生み出していくこと。文章を書き、曲を作るということを最優先させていく意思は揺らがないようにしたい。 間接的には、読むことによってこの世界に関与することも可能なのだと思うが、より直接的に文章や曲という形を

2309. 欧州での日々と美学探究へ向けて
夕方からパラパラと小雨が降り始めた。今日もこれから就寝に向かっていき、一日が静かに終わっていく。 一日が始まりから終わりに向かっていく速度というのはこれほどまでに早いものなのだろうか。いや、今日一日を振り返ってみたとき、その速さを一度たりとも感じなかった。 気づけば一日が終わりに差し掛かっていたのであるから、時の流れが遅かったとも早かったとも言えるものではないように思える。気づいたら一日が始まっていて、また気づいたら一日が終わりに迫っていたという感じなのだ。 本当に欧州での毎日はこのような形で過ぎていく。一日が一週間のようにも思えるし、同時に、一日は一瞬であるようにも思える。そんな不思議な時間感覚の中で毎日を過ごしている。 今日は午後の三時あたりに仕事を終え、その後から作曲実践に取り掛かっていた。ベートーヴェンの曲に範を求めながら一曲ほど曲を作った。 昨夜ふと、ここで一旦ベートーヴェンから少しだけ離れ、モーツァルトの曲に範を求めようと思った。実際に昨夜の段階で、書斎のソファーに積み重ねられた書籍の中からモーツァルトの楽譜を取り出し、それを机の横の

2308. 対話の意義を再度実感しながら
相変わらず今日は冴えない天気なのだが、そうした天気が一切意識に上らないほどに午前中の仕事は充実していた。何を行っていたかというと、あるクライアント企業さんのマネージャーの方々と対話をさせていただいていた。 それは形としては、こちらから提供する「コーチング」と呼ばれるものなのだが、本日の二名の方との対話がどれだけ私にとっても意義があったかは計り知れない。「対話」というものには何か特殊な力があるのだ。 探求的かつ自己開示的な対話には、対話の当事者双方の存在を深めていく力がある。今日もそれを実感していた。 人間発達を骨子にする形で、成長支援プログラムの開発、成長度合いの測定手法の開発など、成長支援を意図したコーチング以外にも多くの観点から日本企業と協働をさせていただいている。それらの全てを私は大切にしているが、今回のプロジェクトを経て、またコーチングの意義を見つめ直すことになった。 同時に、自分のコーチングに関する理解と技量についても再度冷静に見直すことを迫られたように思う。そうした中で、今日の対話の時間のように、貴重かつ尊い時間をクライアントの方と過

2307. 幸福への道と美学探究
今朝は六時過ぎに起床した。先週までは七時近くまで寝ていることが多かったが、昨日から再びいつもの起床リズムに戻ったように思う。 起床してみるとすぐに、雨音が聞こえてきた。天気予報では深夜にのみ雨が降る予定であったが、起床した時はまた雨が降っていた。 改めて先ほど天気予報を確認すると、今日は一日を通じて天気が悪いようだ。今も薄い雨雲が空を覆っている。 起床直後、いつものようにお茶を入れた。ヨギティーの袋を開けると、ティーバッグに付されているタグの文言に目が止まった。 そこには「幸福への道は全てに仕えることである」と書かれていた。これは私が最近思いを巡らせていた事柄と密接に関係している。 この世界からの促しに応じる形でこの世界に仕えていくこと。その実践的な生活に向けてどこか開眼させられたような経験を最近していた。 まさに、その文言が示しているように、全ての存在に仕えることは幸福への道なのだろう。これと関係して、昨夜も就寝前に、先日考えていた縁起への関与について思いを巡らせていた。 自分の日々の営みは、そもそも縁起によって生まれ、自分のなすべきことは絶え

2306. ロンドンでの学会に向けて
友人のハーメンとのランチミーティングを終えた後、学内の別のカフェテリアで研究アドバイザーのミヒャエル・ツショル教授とミーティングを行った。研究の進捗に関する話をする前に、今年の六月にロンドンで行われる国際学習科学学会について話をした。 今回提出した論文が無事に採択され、当日の学会で発表する機会を得た。私が第一著者を務めるため、発表をするのは私であり、今回は自分だけが学会に参加するつもりでいたのだが、どうやらツショル教授もこの学会に参加するようだ。 「これまで毎回この学会に参加していた」とツショル教授は述べており、今回は参加を見送ろうかと思っていた矢先、私が発表の機会を得たため、これを機会にこの学会に参加しようと思うに至ったらしい。 もともとツショル教授は、今回の学会の開催場所であるロンドン大学で教育科学に関する博士号を取得している。そのため、ロンドンには知人が多いそうだ。知人への挨拶も兼ねて、ロンドンに足を運ぶことにしたらしい。 実は、私はまだロンドンの街を訪れたことがない。ヒースロー空港には何度か降り立っているが、ロンドンの街を歩いたことはまだ

2305. 今日を振り返りながら
就寝に向けての仕事に取り掛かる前に、今日の事柄をもう少し振り返っておきたい。今日は午前中に「デジタルラーニングと学習環境」のコースの実質的に最後のクラスに参加した。 来週は、グループ課題をもとにした受講生からのプレゼンテーションが行われるだけであるため、講義形式のクラスは実質上、今日で最後であった。このコース全体を振り返ってみると、かなり多くの学びを得たように思う。 四月の上旬にワルシャワとブダペストに行く前に、このコースの試験があるため、もう一度コースで取り上げられた論文や講義資料を繰り返し読み直したいと思う。 今日のクラスの中で一つ印象に残っているのは、私たちは現実世界の具体的な事例から多くのことを学ぶが、単にそれをケーススタディとして提示するだけではなく、事例と合わせてメンタルモデルを提示する方が学習効果が高いということである。 個人的に、この調査結果は経験上納得いくものであった。実際の調査は、生物学や物理学の理解度に関するものであり、その時に現実世界の現象を単に事例やアニメーションとして学習者に提示してもそれほど学習効果はなく、それをモデ

2304. あの飛行機雲のように
充実さの中で今日も一日が過ぎて行った。日々が充実していると言う必要のないほどに、毎日が充実感で満たされている。日々は充実感の化身であったのだ。 夕方の五時半を迎えたフローニンゲン。今日は結局一度も雨が降らず、朝一番の天気予報は外れた。 今日は夜から明日の朝にかけて雨が降るようだが、それはチーズ屋の店主が笑いながら述べていたように、心配する必要はない。なぜなら、私たちはその時間に寝ているのだから。 大学からのキャンパスの帰りに行きつけのチーズ屋に立ち寄り、そこで店主の女性といつものように何気ない世間話をしていた。私が「今日の夜から明日の朝にかけて雨が降る」と述べると、店主はすかさず上記のような機転の効いた返答をした。 店主もそれを言いながら笑っていたが、私も笑った。確かに、私たちはその時間帯は眠っているのだ。一体何を心配する必要があるだろう。 今この瞬間のフローニンゲンの空には幾筋もの飛行機雲が姿を見せている。こうした様子は時々見かける。 フローニンゲンの空に浮かぶ飛行機雲を見るたびに私は、次に自分はどこに行くのかと空想を広げる。本当に私は次にどこ

2303. 深化の原理と自己対峙への恐れ
憐れみ深い日々が自分の中で続いている。慰めと祝福が染み渡るような毎日が今日も過ぎていくのだと思えて仕方ない。 天気予報では昼食時あたりに雨が降るそうなのだが、今はそのようなことを一切感じさせないような空である。空はうっすらと晴れており、雨の予感など微塵もない。 先ほど過去の自分の曲を聴き返していた時、葛飾北斎と横山大観の名前が脳裏に浮かんだ。彼らは一生涯を通じて芸術探究に身を捧げた偉人である。 彼らが高齢になってからもなお一層精進に励み、絶え間ない自己批判をしながら前に進んでいた姿はとても励みになる。学術探究と同様に、芸術探究にも終わりなどないのである。 自己がどこまでも深まりを見せていくのに応じて、学術探究も芸術探究もどこまでも深まっていくのだ。今進めている学術探究も作曲実践も何も焦ることはないのだ。 ただ愚直に着実に、毎日それらの活動に取り組んでいくという継続性が大切になる。一つ一つゆっくりと深めていけばいいのである。 それが深化の原理であろうし、それ以外の形で深められるものはまやかしに過ぎないのだと思う。 数日前から、ここ最近編集が滞ってい

2302. 今日の過ごし方
今朝は六時過ぎに起床し、六時半頃から一日の活動を開始させた。ここのところ七時近くまで睡眠を取っていたことを考えると、今日はいつもより早い起床となり、ようやくいつも通りの生活リズムに戻ったと言える。 昨夜はそこそこ早く寝たことが功を奏したのかもしれない。起床後、すぐに私の目に飛び込んできたのは、フローニンゲンの街を覆う濃い霧である。 白く濃い霧が外の世界を包んでいた。天気予報を確認すると、今日は昼前に一度雨が降り、夜からまた雨が降るようだ。今日は午前中から夕方にかけて大学キャンパスで過ごす必要があり、その際の移動にはあまり支障がないようである。 今日も昨日に引き続き、サン=サーンスの曲を聴いていこうと思う。ここ数日間は、サン=サーンスの音楽世界の何かに取り憑かれたかのように彼の曲を聴き続けている。おそらく今日もそのような一日になるだろう。 今日は仕事量としては多くないが、幾つかのミーティングを含め、人と話す機会が多い一日になる。まずは、昼食前に行われる「デジタルラーニングと学習環境」のコースの最後のクラスに参加する。 早いもので今日が最後となるこの

2301. 輝くフローニンゲンの夜空
夕食後、フローニンゲンの夜空の美しさに思わず息を飲んだ。時刻は七時を過ぎた頃であり、ちょうど夕日が最後の輝きを振り絞っている。その輝きがフローニンゲンの空を見事に照らしている。 夕日が沈む方角はオレンジ色になっていて、そこから距離を経るにつれて暮れかかる青い空が広がっている。居ても立っても居られなくなった私は、書斎の窓の方に駆け寄り、窓に顔を近づけながら暮れゆく夜空を眺めていた。 遠くの空に三日月が出ている。そして、その三日月から西に行ったところに一番星のようにきらめく星の姿を見つけた。それは、書斎に鳴り響くサン=サーンスの音楽世界と合致するような夜空のように思えた。 自然とはなんと美しい美を顕現させることができるのだろうか。そして、人間はなぜそれを見て美しいという感情を抱くのだろうか。自然の持つ美とそれを美だと捉える人間の感性に対する関心は尽きない。 そして、私がそうした自然の中に美を見出すようになったという発達プロセスについても見逃すことができない。美意識が進化し、深化していく。 哲学の領域の中でも、とりわけ美学の領域は私を捉えて離さない。も