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322. 欧州小旅行記:森有正先生と辻邦生先生ゆかりの地パリでの確認

ニューシャテルから四時間弱の列車の旅を終え、ようやくパリ中心部のリヨン駅に到着した。列車を降りてプラットホームを踏んだ瞬間に気づいたのだが、パリへは初めて訪れたにもかかわらず、ここは馴染みのある感じの土地だとわかった。どちらも共に正しいと思うのだが、パリは私のことを全く相手にしていないし、私もパリのことを全く相手にしていないことから生じる馴染みやすさなのだ。 パリの街も私の方もお互いに冷淡に接しているから、逆に程よい距離感があって、私は違和感なくこの街に溶け込んでいった。こんなことをパリに来てまで確認する必要は全くなかったのだが、東京の都心部、ニューヨークのマンハッタン、ロサンゼルスのダウンタウン、そしてパリの街——自分の人生において極めて重要な経験を喚起してくれたサンフランシスコのダウンタウンのみ例外——をできるだけ避けたいと思うのは、結局のところ私が人が多いところでは心中穏やかではなくなるからだ。 それらの大都市はあまりにもドロドロとしたものがうごめきすぎているため、どうしても近寄りたくなくなってしまうのだ。いずれにせよ、今回パリに来たのは観光名所を巡るためではなく、敬愛する森有正先生(1911-1976)が教鞭をとっていたパリ大学東洋語学校と辻邦生先生(1925-1999)の旧宅を見ることであった。この二つの場所を訪れるためだけに、ニューシャテルから西回りでフランスを経由してオランダへ帰ろうと思ったのだ。 リヨン駅の直ぐ近くにあるホテルでチェックインを済ませ、荷物を軽くしてからパリ大学東洋語学校へ歩いて向かった。今回の旅行は本当に天候に恵まれ、この日も晴れであり、パリの街

321. 欧州小旅行記:パリへ向かう車窓の景色から教えられたこと

今日はいよいよスイスを出発し、パリに向かう日だ。昨日は九時過ぎに就寝し、早朝目覚めた時にパリに向けての体調も万全であると確認することができた。少し早めの朝食をニューシャテルのホテルで済ませ、パリ行きの列車がやって来る駅に向けて出発した。 ニューシャテル湖のすぐそばにあるこのホテルから駅までは歩いて10分ほどで到着するが、駅までの道のりは傾斜の厳しい坂道である。ニューシャテルという風光明媚な街を離れるのが惜しかったのか、坂道の途中で何度も後ろを振り返り、ニューシャテル湖とアルプス山脈を眺めている自分がいた。 もうしばらくは、あるいは二度と訪れることはないかもしれないニューシャテルという街を離れる時、なんとも言えない物寂しさを感じたのだ。二日前はあれほど私の心を躍らせてくれたこの街は、二日後にはこれほどまでに私の心を詫びしい気持ちで満たしたことに対して、そしてこうした佗しい気持ちから次へ進むための新たな感情を生み出しつつあることに対して、これが「旅情」というものなのかもしれないと思った。 ニューシャテルからパリまで直通の列車に乗り、定刻通りに出発した。列車が発車してすぐに、車窓からニューシャテルの街のシンボルの一つである壮麗な古城が見えた時、この古城に別れの言葉を伝えた。ニューシャテルという街に直接別れの言葉を述べるのを避けるために、間接的にこの古城に別れの言葉を伝えたようにも思える。 古城の姿が見えなくなり、そしてニューシャテルの街も見えなくなった。まだ目に映っているのはニューシャテル湖のみである。早朝の澄み渡るニューシャテル湖の湖面にそよ風が走り渡る。風が湖面を駆け抜けたのを確

320. 欧州小旅行記:ニューシャテル自然史博物館と追想

ニューシャテル湖畔にある宿泊先のホテルから山道を登って辿り着いたデュレンマット美術館でゆっくりした後、午後からは再び山を下ってニューシャテルの街中に戻って行った。 山道を降りる道中、ニューシャテル湖の裏手に雄大な山々が広がっており、地理に疎い私は、それらの山々がアルプス山脈であることを後から知った。逆に知識がなかったからこそ、先入観を抱くことをせずにアルプス山脈とニューシャテル湖が織り成す景観美を味わうことができたのかもしれない。 そうした景観美を堪能しながら、街中まで降りてきた。午後一番に訪れたのは「ニューシャテル自然史博物館」である。 私に多大な影響を与えてくれた発達科学者のジャン・ピアジェは、ニューシャテル湖の生き物を研究する生物学者から科学者としてのキャリアを始めており、ニューシャテル近辺にはどのような生き物が生息しているのかを含めて、生物の進化の過程について資料を見ながら理解を深めたいと思ったため、私はこの博物館を訪れた。 私:「こんにちは(フランス語)。」 受付の女性:「こんにちは。VOUS ÊTES ÉTUDIANT ?」 私:「私はフランス語が話せないんです。入場料はおいくらですか?(英語)」 受付の女性:「あぁ、学生は4スイスフランで、大人は8スイスフランです(英語)。」 私:「(九月からの身分は学生なんだけどな・・・)大人料金でお願いします。スイスフランを持っていないので、ユーロを使えますか?」 受付の女性:「基本的にはスイスフランしか受け付けていないんです・・・。コインはダメですが、ユーロ紙幣ならなんとかなりますよ。」 私:「コインはダメなんですね・・・。

319. 欧州小旅行記:フリードリヒ・デュレンマット美術館を訪れて

早朝のニューシャテル湖の散歩からホテルへ戻り、ゆっくりと朝食をとった。朝食を食べながらスイスの物価についてあれこれ考えを巡らせていた。 普段の生活における朝食では果物しか取らず、一日に三食食べるのだが、基本的に旅行中は朝食を多めにとり、昼食を食べずに夕食と合わせて二食だけ取るようにしている。旅行中はあれこれ動き回りたいという考えがあるので、二食だけで旅を進めていくのは自分にとって理にかなっている。 昨日の夕食は現地のスーパーで買い物をしたのだが、スイスでもユーロが使えると思い込んでいたが、スイスがEU加盟国ではないということをすっかりと忘れていた。つまり、この国では基本的にユーロでの支払いを受け付けておらず、現地通貨のスイスフランのみが使えるのだ。 もちろんクレジットカードで支払うことができれば、現地通貨のスイスフランを用意する必要はないのだが、思わぬところに意外な落とし穴があった。そのスーパーであれこれ食料品を見ていたのであるが、基本的にスイスの食料品の価格は高いと感じた。 水の価格はオランダと比べても遜色はないが、食べ物に関しては二倍ほど割高であることがわかった。美術館や博物館の入場料や交通機関の費用などはオランダと比べてもそれほど変わりはないため、食べ物の価格だけ高いことが不思議である。 想定される理由についてあれこれ考えながらホテルを後にし、本日はスイス人の小説家かつ画家のフリードリヒ・デュレンマット(1921-1990)の美術館を訪れた。ニューシャテルを訪れるまで私はこの人物の仕事について知らなかったのだが、ニューシャテルにある美術館や博物館を検索していると偶然見つけ

318. 欧州小旅行記:早朝のニューシャテル湖を眺めて

これまでの旅を通じて見えないところで蓄積していた疲労を取るために、昨夜はいつもより幾分か早く就寝した。さらに起床時間も少し遅くし、睡眠時間を多く確保できたため、昨日までの疲労がほぼ消えたように思う。 ホテルの自室のカーテンを開けたところ、ちょうど朝日が出てくるところであった。いつもであれば部屋から朝日を眺めるだけで終わりにするところだが、今朝はそれだけで終わりにしたくなかったのだ。 「ニューシャテルの湖畔でこの朝日を眺めたい」という衝動的な気持ちに突き動かされ、パジャマ姿のままニューシャル湖へ向かった。ホテルからニューシャル湖までは目と鼻の先なのだが、なぜだかホテルを出た時に、数メートルほど小走りで湖畔に向かおうとしていた。 白銀と黄色を組み合わせたような朝日が湖面を照らしている。朝日と同じ色の一本の線が湖面を走っている。対岸は霧で覆われており、上空では飛行機雲が交差している。その飛行機雲をなぞるかのように、鳥たちが大空を飛んでいる。 静寂な早朝の時間にこうした美しい景色を眺めていると、自分の意識がどんどんと下へ下へ、深くへ深くへと動いていくのがわかった。ここで気づいたのは、それは意識の上昇現象ではなく、それは意識の下降現象と表現していいかのような感覚だったのだ。 意識の発達理論において、大いなる自然を眺めた時に喚起される意識状態というのは高次元のものとされる。つまり、本来は意識が上へ上がるという現象のはずなのだ。 だが、今の私にとってみると、自然の美に触れた時に喚起される意識状態というのは下への運動なのだ。記憶を遡ってみると、サンフランシスコ在住時代に、ヨセミテ国立公園に二度

317. 欧州小旅行記:景観美を体現した街、スイスのニューシャテルへ向かって

本日のシュツットガルトは晴天であった。早朝八時前の肌寒い気温の中ホテルを出発してみると、昨日とは違った顔のシュツットガルトを見ることができた。 昨日の日中は、街中に観光客が溢れ、少しばかり落ち着かないような雰囲気を醸し出していたシュツットガルトの街も、早朝のこの時間であれば観光客はほとんどおらず、とても静かである。眩しく輝く朝日を浴びながら、シュロス広場で少しばかり立ち止まり、新宮殿を眺めていた。 どの時間帯にどのような気持ちでその場にいるかによって、その場から感じられるものがこれほど異なるものなのだ、と改めて認識した。昨日とは異なる印象を与えてくれた新宮殿に挨拶をし、私はシュツットガルト中央駅へ向かった。 シュツットガルト中央駅へ着くとすぐに、新鮮なフルーツの盛り合わせ、アボカドサンドイッチ、コーヒーを購入し、列車へ乗り込んだ。いよいよニューシャテルへ向かう時がやってきた。スイスのこの街は、発達心理学に多大な貢献を残したジャン・ピアジェの生誕地である。 私は兎にも角にも、自分の探究領域である発達科学の礎を築き上げたピアジェが生まれたこの土地を、自分の目で見てみたいと強く思っていた。人口わずか三万人のこの小さな街を知る人はそれほど多くないかもしれないが、私はこの街を実際に訪れることによって、自分の中にいるピアジェをより確固とした存在にしたかったのだ。 ピアジェは早熟にも13歳の時に軟体動物に関する論文を発表し、ニューシャテルの博物館の館長に推薦されたが、ピアジェがわずか13歳であったことからこの話は白紙になったというエピソードは非常に有名である。ピアジェがこの時の論文を執筆する

316. 欧州小旅行記:シュツットガルトにあるヘーゲル博物館を訪れて

列車が最終停車駅のシュツットガルトへ近くづくにつれ、ライプチヒと比べて気温が高くなってきていることに気づいた。その変化に気づいたとき、自分が欧州をだいぶ南に下ってきたことを知った。 地図を確認すると、現在地はパリと同じぐらいの緯度にあり、数日後に訪れるパリもこのぐらいの気候なのかもしれないと想像する。シュツットガルトの気温がこれまで訪れた欧州の土地よりも高くなっているとはいえ、最高気温は25℃ぐらいだ。 シュツットガルトに到着後、上着を脱ぎ、半袖になって観光を始めた。まずは駅から徒歩15分ほどのところにある宿泊先のホテルへ向かうため、メイン通りの一つである “Königstraße”をひたすら直進した。 この通りを歩きながら思ったのは、シュツットガルトの街も随分と観光地化されているということである。主要都市のショッピング街であればどこにでもあるような店が乱立しており、これらを眺めながら歩いている段階では、まだシュツットガルトらしさというものがあまり感じられなかった。 しかし、通りをしばらく進んだ後に視界に飛び込んできた湧き出る泉のある広大な広場は、シュツットガルトを訪れた観光客を癒す憩いの場としての役割を見事に果たしていると感じさせられた。ここは「シュロス広場」と呼ばれており、先ほどの店が乱立する空間とは異質のものを感じたため、これはシュッツガルトという土地が創出する固有の何かを持った場所であるとわかった。 そして圧巻だったのは、シュロス広場の奥にたたずむ「新宮殿」と呼ばれるバロック式の建造物であった。遠目から見ても、この宮殿が醸し出す存在感が際立っており、ゆっくりと近寄ってみ

⭐️【お知らせ】Back Number Vol 13(記事241-260)

過去のブログ記事241-260に加筆・修正を加えたBack Number Vol 13が完成しました。 発達理論に関心のある周りの方に、このバックナンバーをご自由に共有していただければ幸いです。 閲覧・ダウンロードはこちらから:Back Number Vol 13 目次 241. 私の中のニッサン・インゲル先生:変容と治癒をもたらす芸術 242. Dear Cicadas 243. 米国時代の言語的・精神的失敗体験 244. 能力の選定と剪定 245. 創発特性 246. 自己超出 247. 幸福時間場所存在 248. 内的感覚と言葉の往復運動 249.「自己組織化」と「自己創出」 250. 風 251.「構造的カップリング」と「相互浸透」 252. 場所と時間、時間と場所 253. 荷造り 254. 新たな言語習得について 255. 美の化身 256. 書物 257. 効率化という穏波と荒波 258. 異界と経験 259. 辻邦生「春の戴冠・嵯峨野明月記」展覧会 260. 不思議な夢とデカルト

315. 欧州小旅行記:シュツットガルトへ向けて「豊かな知性を育む環境」

ライプチヒのホテルでゆっくりと朝食を取った後、午前八時前の列車に乗り込み、シュツットガルトへ向かった。ライプチヒからシュツットガルトまでは、乗り換えを含めて約五時間ぐらいの列車の旅となる。 今回の欧州小旅行で飛行機を使わず、列車にしたのは大正解であったと思う。自分の身体と精神の耐久度合いを見ると、一日に五時間から八時間ぐらいの列車移動であれば全く問題ないことがわかった。逆にこれくらいの時間をかけながら移動することによってしか得られない旅の醍醐味のようなものがあるのを実感している。 とはいえ、見えないところでの疲弊があったのだろうか、最初の乗り換え地点までの列車の中で急に睡魔が襲ってきたのだ。ライプチヒでより親近感を持つに至ったシューマンには申し訳ないが、疲れというよりも、車内で聞いていた彼のピアノ曲があまりにも心地の良い音色を奏でていたため、睡魔が襲ってきたのだろと解釈していた。 とりあえず、一時間ぐらいシューマンのピアノ曲をかけながら仮眠を取った。その後、強い太陽光が閉じられていた瞼にぶつかったのを受けて目を覚ました。目を覚ましてみると、一点の雲もない晴れ渡るドイツの空が眼前に広がっていた。 自分が現在シュツットガルトへ向かっていることを十分承知しており、今この瞬間にドイツにいるのだとわかっていながらも、目の前に広がっている景色が自分の想像上のスイスの山岳風景と重なって見えたのだ。「自分は今スイスにいるのだろうか?」そんな錯覚を催すような景色だったのだ。 この景色に合わせ、シューマンのピアノ曲からモーツァルトの軽快な交響曲に切り替えたところ、自分の意識が活動にふさわしい状態に

314. 欧州小旅行記:CNNのニュースより「進化しない人類」と「人間に還ること」

ライプチヒを出発し、今日からシュツットガルトに滞在する。ライプチヒのホテルで朝食をとっている時に、CNNのニュースが放送されていた。 現在、欧州各国を小旅行中であるが、欧州の実態としてテロを含めて、様々な騒動が勃発しているというのが現実である。こうしたニュースを見るにつけ、「人類は着実に進化している」という言説は虚言だと思わされる。 そして構造的発達心理学を学んだ者が掲げがちな「人類の意識の進化に寄与する」というスローガンも相当に安直なものであり、戯言にすぎないのではないかと思わされるのだ。もちろん、過去の偉大な発達心理学者や哲学者が述べるように、数百年のスケールで人類の集合的な意識段階を観察してみると、確かに構造的な発達がみられるのは間違いないだろう。 しかし、それは数百年という長大なスケールで見た話であり、なおかつ発達段階の進化の度合いというのも実はそれほど大きくないのである。さらに、私たちは発達段階を飛ばすことはできず、必ず発達段階0から進化の歩みを始めなければならない、という根本原則も忘れてはならないだろう。 つまり、今後仮に人類の集合的な意識段階がどれほど高度になろうとも、現在の欧州で頻発しているテロを起こすような意識段階を持った人間が必ずその世界にも存在し続けるということだ。さらには、意識段階が高度化したことに伴い、テクノロジーを駆使したテロのように、その質もより高度化されることが十分に考えられるのである。 そうしたことを考えると、「人類は着実に進化している」という言説や「人類の意識の進化に寄与する」というスローガンを掲げる人たちを見ると、彼らの善意さは十分承知なの

313. 欧州小旅行記:バッハ博物館を訪れて

ライプチヒの二日目の午後に訪れたのは、バッハ博物館である。バッハ博物館について紹介する前に、ライプチヒが本当に「音楽の街」と形容されるにふさわしい特徴を一つだけ紹介したい。 実は昨日のシューマン博物館を訪れた際に、受付の女性から一枚の薄いパンフレットを頂いていたのだ。そこには “Leipzig Music Trail”と書かれており、ライプチヒの街には「音楽の道」なるものがあり、文字通り、道にバイオリンの弦のような形をしたオブジェが埋め込まれており、それが進む方向を示してくれる矢印のような役割を果たしているのだ。 事前調査によって、ライプチヒの街はバッハ、メンデルスゾーン、シューマンという三人の代表的な音楽家が活躍した場所だという知識を取り入れていたが、音楽の道には23箇所のポイント地点があり、それら三人以外にも様々な音楽家が活躍していた土地であることを教えてくれる。 23箇所のポイントを全て巡ったあとに、バッハが音楽監督を務めていた聖トーマス教会にまず立ち寄った。息を飲むステンドグラスと壮大なパイプオルガンが存在するこの教会で、今から300年近く前にヨハン・セバスティアン・バッハという偉大な音楽家が音楽を奏でていたことを思うと、どこか感慨深いものがある。 その余韻に浸りながら、聖トーマス教会の横にあるバッハ博物館に足を運んだ。おそらく、このバッハ博物館が設備の観点と所蔵資料の観点からすると一番優れたものなのだろう。事実、300年近く前にバッハが手書きで残したいくつもの楽譜を含めて、貴重な資料が多数所蔵されており、資料解説のオーディオプログラムも非常に充実していた。 しかし正直

312. 欧州小旅行記:メンデルスゾーンの虹色の音楽を浴びて

昨日のライプチヒでの体験は非常に密なものであり、正直なところ、昨夜の睡眠を経てどれだけその体験が消化されているのかを目覚めと共に確かめる必要があった。シューマン博物館で獲得したあの「確信」が、自分の中の一本の筋として存在していることを無事に確認してライプチヒでの二日目を開始することができた。 今日の午前中はまず最初に、メンデルスゾーン博物館に足を運んだ。思えば、メンデルスゾーンの楽曲は確かに私のiTunesに存在しているが、その数は多くないことに気づいた。そのため、メンデルスゾーンがどういった音楽家であり、どのような色を持った楽曲を創造したのかについてほとんど知らずにこの博物館に足を運んだのだ。 博物館に足を入れた瞬間に気づいたが、昨日訪れたシューマン博物館よりもモダンであり、二つの博物館には違った味わいがそれぞれある。シューマン博物館ではシューマン自身が残した楽曲が聴けるような設備はなかったが、メンデルスゾーン博物館ではメンデルスゾーン自身が残した楽曲を聴けるような設備が充実していた。 タブレットが複数台置かれている「楽曲試聴室」のようなものがあり、その部屋に飾られている抽象画を見ながらメンデルスゾーンの幾つかの曲を聴いた時、この二枚の抽象画が描き出す絵画世界とメンデルスゾーンが創出した音楽世界がほぼ完全に合致していることがわかった。 博物館の資料を見ることによって初めて、メンデルスゾーンが画家としても優れた才能を発揮していたことを知った。メンデルスゾーンは欧州各国を音楽修行や演奏旅行をするたびに、印象に残った風景をスケッチし、絵画として残していたのだ。 なるほど、「音色」と

311. 欧州小旅行記:シューマン博物館で訪れた「確信」

ライプチヒ駅に到着した時、ブレーメンやハノーファーの駅に比べて、ひときわ巨大な空間がそこに広がっていることに驚いた。旧東ドイツの都市の中でも最大のものの一つに数えられるこの街の存在感を感じさせられたのだ。 なぜだがわからないが、たくさんのプラットフォームと併設されている無数の店を見たときに、ライプチヒ駅には少しばかりニューヨークのグランド・セントラレル駅を思わせるものがあったのだ。そのようなことを思いながらあたりを見渡していると、列車を待つプラットフォームで別れの時を惜しんでいるカップルがいた。同時に、子供を笑顔で送り出す一組の両親の姿が目に入った。 別れを惜しむカップルには、悲哀とは真逆の感情がそこにあるはずであるし、子供を笑顔で送り出す両親には、激励とは真逆の感情がそこにあるはずだろう。そうした錯綜とする感情の中を私たちは日々生きているのだ。 そうしたことを考えながら駅を後にし、ライプチヒの街に出てみると、そこにはこれまで訪れた世界のどの都市とも違う何かがあった。目の前に広がるライプチヒの都市空間に触れた時、まだ何も見ていないにもかかわらず、この街に来たことは正しい選択だったと心の底から思ったのだ。 この街が醸し出す雰囲気と同様の重厚な感動を胸に、私は真っ先にロベルト・シューマンとクララ・シューマンの旧邸である「シューマン博物館」に向かった。博物館の真横に設立されている小学校で無邪気に遊んでいる沢山の子供達を見て、私は温かい気持ちになった。 晴天に恵まれた涼しいライプチヒの風を感じながら、そして子供達が発する笑顔と清純なエネルギーをその場で感じながら、私はシューマン博物館の

310. 欧州小旅行記:ライプチヒに向かって

ハノーファーの駅でライプチヒ行きの列車に乗り込んでしばらくしたところで、幾つかの想念と不可思議な感覚が湧き上がってきた。最初に現れたのは、自分がこの世界の中にいるのか・世界が自分の中にあるのか、という考えと感覚だった。 というのも、ハノーファーの駅を列車が出発し、駅構内で購入したコーヒーを一口すすった瞬間に、車窓から見える移りゆく景色に触発されて、自分がハノーファーという街の中にいるのか、ハノーファーという街が自分の中にあるのかわからなくなってしまったのだ。 自分がこの世界にいて、目の前を過ぎ去っていく景色を眺めているのでは決してなく、世界が自分の内側にあり、目の前を過ぎ去っていく景色が自分の中で立ち現れていくという感覚である。その時、この現実世界で現象として自分の内側に立ち現れるものは全て、自分に他ならないことを知った。 これを知った時、なぜだか自分の全てのものをこの世界と共有したいという想いが湧き上がってきたのだ。日々の生活の中で出会うものたち、自分の内側で生じる思考や感情などを含めて、文字どおり全てのものを世界と共有したいという想いである。 より正確には、世界と自分とのつながりから生まれた「自分」という全ての存在に対して、「共有」という名の下に再度存在の光を当てたいという想いなのだ。 これを私は強く望んでいるのかもしれない。そのため、毎日文章を綴っていることの理由の深層部分には、こうした共有への想いがあるからに他ならないのではないかと思ったのだ。 刻一刻と変化していく自分の心理とは裏腹に、ハノーファーからライプチヒに近づいてきても、景色が一向に変わる気配がない。裏を返すと

309. 欧州小旅行記:ハノーファーに向かって

早朝から色々あったが、無事にリアーについた。ドイツに足を踏み入れたのは、これが人生で初めてであるが、街中の雰囲気はオランダと非常に似ており、まだオランダ語に習熟していない自分にとって、ドイツ語とオランダ語は一瞬見ただけでは区別がなかなかしにくいと思った。 今回の欧州小旅行は、電車の切符は全て事前にE-ticketの形で入手しておいたので、切符を買う手間が省けて非常に楽である。初めて訪れる駅では迷う危険性や切符売り場で並ばされる可能性もあるため、事前にE-ticketを購入しておくことは、何が起こるかわからない旅の進行を速やかなものにしてくれる、と満足気な表情を一人で浮かべながらリアーの駅に入っていった。 だが、フローニンゲンでの欧州生活が始まってからの二週間の記憶が走馬灯のように蘇り、この満足気な表情は悲劇を引き起こしうるものであると自分を戒め、武士の表情に切り替えてブレーメン行きの電車を待つことにした。 予定時間よりもだいぶ早くブレーメン行きの電車が到着し、すかさず電車に乗り込んだ。日本の電車とは違い、ドイツの電車もオランダの電車と同様に、席のスペースが広く、乗客も基本的に多くないので立って乗車することはほとんどない。 昨年東京にいた時に何回も満員電車に乗ることになってしまい、そうした状況をこちらの人はどのように受け止めるのだろうかと気になっていた。ただし、こちらの電車は東京都内の電車のように数分単位でやって来るようなものではなく、呑気な感じといえばそれまでだが、こちらで流れている時間感覚に忠実になれば、この運行間隔が妥当だろうと思う。 席に座りながらそのようなことをしばらく

308. 欧州小旅行記:ドイツ北西部のリアーに向かって

今日からいよいよ欧州小旅行が始まった。早朝五時前に起床し、いつも通りの身体・精神エネルギーであることを確認したが、やはりこれから欧州旅行が始まるからであろうか、身体も精神も共に軽やかな感じがした。 シャワーを浴び、わずか二週間しか住んでいない今の新居に随分とお世話になっているような気がしたので、これから少しばかりもぬけの殻になる自宅に挨拶をして五時半に出発した。日中ただでさえ静かな環境を提供してくる自宅の周辺が、絵も言えぬ静けさに包まれていることに気づいた。 フローニンゲン駅へ向かう最中、瞑想実践と歩行運動が合一したような歩行禅を行っているかのような感覚になり、静けさに包まれた空間の中で時折聞こえる鳥の鳴き声や新聞配達のバイクの音などが、自分の内側に向かって生のまま入り込んでくる。日常生活において混じり合って聞こえてくるそれらの音が、一つ一つ独立した形を持って裸体のまま自分へ向かってくるような感覚だ。 駅へ向かう最中、運河を架橋する橋の上で時々遭遇する「ぬりかべ」も早朝のこの時間には出現しないようだ。欧州小旅行の最初の滞在地であるライプチヒに行くには、まずフローニンゲンからドイツ北西部の「リアー(Leer)」という街に行く必要がある。 フローニンゲンからリアーまではシャトルバスが運行しており、バスの到着場所を探そうとした。「バス停の場所はすでに知っているのだが、NS600のバスはどこかな?」と目的のバスを探していたが、どうにも見つからない・・・。30分ほど早く駅について正解だったと思いながら、多数の路線を走るバスの表示ナンバーを焦らずに全て確認した。 しかし、それでも目的のバス

307. 言語能力を変容させる論文執筆

研究者としての留学が本格的に始まるまで、いよいよ二週間を切った。時間的に余裕があるため、学位取得論文に関して今のうちから準備を進めていきたいと思う。修士論文を執筆するのは、米国ジョン・エフ・ケネディ大学時代を含めて二回目となるが、今回の修士論文は研究者としての今後の自分を左右するものであるという位置付けをしているため、綿密かつ最大限の力を注いで取り組みたいと思う。 おそらくこの論文を書き上げることから研究者としての真の意味での第一歩が始まるのだと認識している。つまり、今回のフローニンゲン大学での修士論文を無事に書き上げることができて初めて、知性発達科学者としてのスタートラインにようやく立てるのだと思っている。 今回の論文を単に学位取得のためのものとするのではなく、修士論文の内容を改良する形で主要ジャーナルに投稿したいと考えている。それぐらい、この論文にどのような内容とどのような質を持たせるかが重要なのだ。 フローニンゲン大学で修士論文を執筆するためには、大学が公開している修士論文作成要項を丹念に読むことが重要になると思う。というのもこの要項を見ると、実に細かく論文の評価項目が記述されているからである。 論文のどういった項目をどのように評価するのかを適切に把握しておくことが、学位取得論文をスムーズに書き上げることに有益だと思う。また私の場合、4つ目の修士号を取得した後に博士課程への進学を考えているため、修士論文の評価も優れたものにしておく必要がある。 そのため、この修士論文要項を見ながら、現時点で評価がどれくらいなのかを論文アドバイザーのクネン先生に逐一確認し、最終的には全ての項

306. 対人支援産業について思うこと

「洋平、それは自分よりもサスキアの方が詳しいから彼女に質問してみることをお勧めするよ」ということを、私がフローニンゲン大学で在籍するプログラムの責任者であるルート・ハータイに言われたことがある。 ルートの対応はいつも実に誠実かつ紳士的であり、彼は私のメンターでありながらも、彼とは一生涯友人としての交友関係を持ちたいと思うような人物だ。これは何もルートに限ったことではなく、カート・フィッシャーなどの優れた研究者の方々と話した時にも感じたのだが、自分の専門領域が何なのかを熟知し、その分野に対して誠実な研究者ほど、自分の専門以外の話題に関して他のスペシャリストがいればその人物を紹介する、ということが慣行として行われているように思う。 こうした慣行は何も、自分の専門分野に固執して、自分の専門領域以外のことには関心がない、という態度を表しているのではない。それとは真逆であり、自分の専門領域を適切に把握し、自分の専門分野以外の研究にも等しく関心を払っているために、自分よりもふさわしいと思う人物を紹介する、という態度の表れなのだと思う。 ここでふと考えさせられたのは、人間の発達や治癒に関わる対人支援者はしかるべき時に、しかるべき人物にクライアントを紹介できるだけの資質を持ち合わせているのかどうかという点だ。 ジョン・エフ・ケネディ大学在学中に、私はカナダに赴き、インテグラル理論をもとにした発達支援コーチングの専門資格を一年間かけて取得した。資格を取得して以降、発達支援に特化した知識とスキルを向上させるべく、最初は大学の関係者を中心に様々なクライアントを募っていた。 その時、60歳を超す一人の

305. 自己超出・自己超越

この10年間ほど、毎日昼寝を欠かしたことはないように思う。どうも昼食を食べ後の午後2時過ぎあたりに、眠気と共に集中力が減退する瞬間が訪れることに気づき、15分から20分ほどの仮眠を必ず取るようにしている。 いつもと同じようにヨガのシャバーサナの姿勢で仮眠を取っていると、あることに気づいて突然飛び起きた。どうもこれまでは「言葉を感覚に当てる」という表現を用いていたが、実態としてはそうではなく、「感覚が言葉に当たる」という表現の方が随分と正確なのではないかと気づいたのだ。 感覚が感覚としてではなく、感覚が言葉として姿を表す様に気づいた時、居ても立っても居られなくなり、昼寝から飛び起きたのだ。感覚というのは本来的に言葉の形を取るような余地を残しているのか、あるいは、感覚というものは本質的に言葉の原形態のような存在として私たちの内側に生起しているのかもしれない、と思わされた。 そうしたことを考えてみると、内側に現れる感覚に対して自分の中であれこれと言葉を選択して当てはめようとするよりもむしろ、しかるべき言葉がしかるべき時に現れ、それがしかるべき言葉の形になろうとする瞬間を逃さないことが重要になるのではないか、と思ったのだ。 とはいえ最初のうちは、私たちの感覚は認知世界をするりと通り抜けてしまうような性質を持っているため、言葉によってその感覚の一端でも捕まえようとするような試みが必要になる。言葉によって感覚の把捉ができるようになってくると、感覚は自ずと私たちの認知世界の中で言葉としての形態をとり始める。 その瞬間さえ逃さなければ、感覚は自分に最もふさわしい肉感を伴った言葉として立ち現れる

304. 身土不二

これまで様々な海外都市で生活をしてきたが、ある時から心がけていることが一つある。それは、その土地固有の食物をできるだけ摂取するということである。 確かに私は生粋の日本人であるから、海外生活の中で日本食を口に入れた時にはなんとも言えない安堵感を覚えるが、それでもなるべく現地の食材とご当地料理を食べるようにしている。こうした行動論理に導いてくれたのが、マクロビオティックの提唱者であり、思想家かつ食文化研究者の桜沢如一(さくらざわゆきかず:1893-1966)先生である。 桜沢先生が提唱した食物理論の根幹には、「宇宙全てのものが陰陽から構成されている」という「無双原理」が存在している。私は桜沢先生の思想に大いに共感しているが、マクロビオティックを実践しているわけではない。 私が唯一心がけている食物実践は、桜沢先生の食物理論の中でも重要な概念である「身土不二」に基づいて食べ物を摂取することである。身土不二とは元来、仏教の世界における言葉であり、私たちの身体と土地(環境)は切り離せない、という考え方である。 こうした仏教の世界観を出発点とし、明治期に起こった食用運動に後押しされる形で、石塚左玄という軍医が身土不二の仏教用語を食物理論に拡張適用し、「地元の食べ物や旬の食べ物が身体に良い」という考え方を提唱したのだ。実は、このあたりの話は全て、ロサンゼルス時代の合気道の師匠である松岡春夫先生から伺ったものである。 松岡先生は、以前紹介したように(記事247参照)、「洋平さん、『敗北』という言葉の由来を知っていますか?古代中国において、ぬくぬくとした環境で生活をしていた南の国の連中が、極寒の厳

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