
2027. 破壊と創造の輪廻
自分の中にはいつも自分に対して激しい態度を取る自分がいる。時々その声が聞こえ、その声に飲まれそうになる。 昨夜の現象はおそらくその一つだろう。その自分は科学研究に従事する自分に対して強い否定的な声をぶつけてくる。 「科学研究?そんな無益なものに従事しているのか?科学に一体何ができるのか?」そのような声を昨日も今日も聞いた。 作曲実践に打ち込んでいる最中にも、「作曲?それは芸術の一つの領域だろうが、そもそも芸術に一体何ができるのか?」 その声は、科学研究や作曲実践に取り組む自分を激しく否定する。その声が投げかける否定的な問いに対して、私はもしかすると明確な答えを述べることができないかもしれない。 科学や芸術の意義とは何だろうか?科学や芸術がこの社会に果たす役割とは何だろうか? 人類は歴史を通じて科学研究に精を出し続け、優れた芸術を世に残し続けている。だが、この現代社会の有り様はどうだろうか。 現代社会のこの有り様を見ると、気が重たくなり、科学や芸術が無益だと述べる自分の内側の声に賛同したくなってしまう。科学や芸術に一体何ができるのだろうか。 本当の

2026. 愚昧さへの憤怒
気づけば今日も一日が終わりに差し掛かっている。先ほど夕食を摂りながら、自国へ帰属することについて考えを巡らせていた。 ある一人の人間が一国の国民であるということの意味ついて考えていた。当然ながらそれは法的な意味ではなく、実存的な意味においてである。 今日は早朝からしばらく自分の中に存在する攻撃性が顔を覗かせていた。それは特定の他者に向かうようなことはなく、この現代社会に向けられていた。 もしかするとその時の感情は苛立ちや憤怒といったものだったかもしれない。そうした感情の出所を探ろうとするたびに、いつもその試みは失敗する。 私は一体何を要因としてこの現代社会に対して憤りを感じているのだろうか。 先ほど夕食を食べながら、例えば今から一万年後の人類が現在の人類を見て何を思うかを考えていた。頭の中で数人の人間が話し声を上げていた。 A:「知ってる?今から一万年前の人類は、「経営戦略」なんていう野蛮な言葉を使っていたらしいよ。その時代に存在していた「軍事」と呼ばれる領域の言葉なんだって」 B:「うん、知ってる。その他にも、一万年前の人間は、働くことによって

2025. 精神病理学への関心の高まり
昨日、組織というものを考えるにあたって、どのような観点を採用してその探究を行うことに関心があるのか少し考えていた。いくつか色々な考えが浮かんできたが、まず明瞭な考えとして浮かんできたのは、経営学の組織論の観点から組織を考えるというのはあまりにもつまらなすぎるということだった。 経営学を日本の大学の学部時代に専攻していたということが、こうした反発をもたらしているのかもしれないが、経営学の組織論の観点から組織を考えることだけはしたくない。そうなってくると、その他にどのような観点から組織というものを考えていくのが面白いのかを考えていた。 当然ながら、発達科学の枠組みから考えるというのは面白いことは面白いが、それは自分の既存の専門性の中に留まった探究であるがゆえに、あまり気乗りがしない。それよりもむしろ、集団心理の病理的側面を捉えていくような社会学的なアプローチの方が面白いのか、それとも個人を対象にした精神病理学を集団にまで拡張させていくことの方が面白いのかを考えていた。 最初に立てた問いに対して明瞭な回答など出なかったのであるが、とりあえずこれまで学ん

2024. 週末の始まり
密度の濃い一週間が終わり、今日から休日に入った。平日という括りから休日という括りに変わったところで私の日々の過ごし方は何一つ変わらない。 今朝も六時過ぎに起床し、六時半から一日の活動を開始させた。昨夜は少々思考が興奮しており、すぐに寝付くことができなかったが、今朝の目覚めは良かった。 昨日はインターンがあり、様々な刺激が自分の内側を活性化させていたために、少しばかり興奮状態にあったのかもしれない。一応インターン先のオフィスから自宅に戻ってきた後にも日記を書き留めておいたのだが、それでも思考の興奮状態は収まることがなかった。 文章を執筆する量が不足していたのかもしれない。そうした姿を見るにつけ、私が日々に文章として形を残す量は圧倒的に不足していると痛感する。 昨日も少しばかり自らの表現物の量について内省をしていた。自分の内側には、一切枯渇することなく、絶えず生成され続ける何かが存在している。 それは絶え間ない差異を創出する運動体であり、形として外側の世界に出てこようとする絶え間ない形象運動を繰り返す生き物であるかのようだ。そうした存在を認めながらも

2023. 来週のインターンに向けて
フローニンゲン大学での研究インターンの二日目を終えた。初日に引き続き、今日も非常に充実した日であった。 とりわけ、エスター・ボウマ博士と午後に行ったミーティングはとても有意義であり、私の研究に対して様々な観点から質問を投げかけてくださり、研究アイデアがより洗練されたように思う。 研究アイデアがより練られただけではなく、将来的に複数の研究に派生しうる可能性が広がった。およそ一時間半ほどのミーティングのおかげで、このインターンの間に行う研究の焦点が明確になったように思う。 ボウマ博士とのミーティングをもとに洗練された研究仮説とその背景を、ジャン・ディエナム博士とMOOCチームのリーダーであるトム・スピッツ氏に共有した。今日は金曜日であり、一日の最後に彼らにメールを送ったため、彼らからのコメントは週明けになるだろう。 二人のフィードバックを受けて少しばかり研究の観点を修正するかもしれないが、来週からはデータの下準備に取り掛かる。まずは研究対象であるMOOCのレクチャーのトランスクリプトをエクセルに落とし込む。 本日のボウマ博士のミーティングの中で、cs

2022. インターン二日目の始まり
今日の朝はとても穏やかな雰囲気を発している。普段は朝の光景を書斎から見ることが多いが、今日はインターン先のオフィスに向かう道中にそれを眺めている。 朝の穏やかな空気とほのかな太陽光が実に心地よい。確かに今朝はとても寒いのだが、オフィスに向かう最中の足取りはとても軽やかだった。 30分ほど歩くというのはとても良いエクササイズのようであり、オフィスに近づくにつれて心身がますます活性化されてくるのを実感していた。オフィスに向かう最中に、ふと早朝の作曲実践について振り返っていた。 昨夜はフォーレの曲に範を求めていたのだが、今朝はバルトークの曲に範を求めていた。具体的には、バルトークが自分の子供のために作った『ミクロコスモス』を参考にしていた。 『ミクロコスモス』は合計で153曲から構成されており、最初の曲から徐々に難易度が上がっていく。今朝、最初の曲を眺め、そこから自分の内側に生じた感覚をもとに曲を作っていた。 最初の曲は本当にシンプル極まりないのだが、その中には光るものが含まれている。基本的にバルトークは自分の子供を含め、初心者のピアニストのためにこの

2021. 研究インターン二日目の朝
研究インターン二日目の朝を迎えた。今朝は五時半に起床し、身体を温めるために、シャワーではなく湯船に浸かることにした。 これからインターンがある日の朝は浴槽に浸かり、身体を温めながら、一日の活動に向けて心身の状態をゆっくりと整えようと思う。湯船から上がり、書斎の窓から外の景色を眺めると、道路の轍以外の部分がうっすらと白くなっていた。 雪と言うよりも霜が降りていたようだ。今週は天気に恵まれていたのだが、今日は夕方から雪との予報だった。 しかし、天気予報を今確認してみると、幸いにもなんとか天気が持つようだ。インターン先のオフィスに向かうときのみならず、自宅に帰ってくるときも天気が良いというのはとても有り難いことである。 本日のインターンで取り組むことを少しばかり事前に書き留めておく。オフィスに到着したらすぐに、隣の部屋にいるスーパーバイザーの一人のエスター・ボウマ博士に挨拶をし、今日のどの時間帯にデータの活用方法に関するミーティングを行うのかを確認しておきたい。 数日前に、データの閲覧・管理の権限を付与され、データにアクセスできるようになった。データの

2020. 身体を通じた学習
今日は昼食を摂り終え、午後一番のミーティングに向けて準備をする前に、生ゴミを自宅近くのゴミ捨て場に持って行った。その時にちょうど、私宛に届けられている郵便物を発見した バルトークの『ミクロコスモス』の楽譜がイギリスから届いた。自宅に戻り、ミーティングまであまり時間がなかったが、届けられた楽譜の中身をパラパラと眺めていた。 すると、ミクロコスモスの作品一つ一つは小さなものでありながらも、小さいものの中に宿る固有の光を感じた。作曲実践の観点からすると、こうした小さな作品と丁寧に向き合うことは、作曲技術に関して着実な進歩をもたらすのではないかと思った。 小作品であるがゆえに、一つ一つの作品の細かな点にまで着目し、それが作曲上の新たな発想と技術的進歩を促すように思えてくる。これから少しずつ、バルトークの『ミクロコスモス』にも範を求めるようにしたい。 バルトークがまさに自身の中で音楽小宇宙を築き上げたのと同様に、いつか自分の内側にも小さな音楽宇宙を創り上げることができればと思う。 ここ最近の作曲実践を振り返ってみると、作曲理論の書籍を読む時間が減っていたよ

2019. 複数の実践領域の越境
今日は日本企業との協働プロジェクトに関する仕事を四つほど行った。いつもに比べてその数は随分多かったように思う。 各ミーティングの事前事後に色々とやることがあったため、結局朝から晩まで協働プロジェクトに関する仕事を行っていた。夕方に仕事がひと段落し、空を眺めた時、今日もまた飛行機雲が空に存在の痕跡を残していた。 飛行機雲を生み出した飛行機自体の姿を確認することはできず、ただ飛行機雲だけがそこにあった。成層圏の冷たさが静かに滲み出しているような夕暮れ時の薄青空がそこに広がっていた。 そうした空をぼんやりと眺めていると、今この瞬間の冬が遥か遠くの何かに向かって伸びていくような感覚があった。「この冬」から「あの冬」への変容に関する展望がそこに開けていた。 越冬の先にあるもの、それは単なる季節的な春ではない。何か自分に大きな影響をもたらすものがそこに待っているような気がしてならない。 この予感はまさに、「今年はまた動きのある年になるだろう」という別の予感と密接につながっているように思う。私は自分でもよくわからないのだが、今年は大きな変化を再度経験するだろう

2018. 永遠に向かう魂の衝動
時刻は七時を迎えたが、まだ闇に包まれている。ふと昨日の夕方のことを思い出した。 昨日の夕方、数百匹の鳥の大群が自己組織化の隊列を成しながら遠方の空を飛んでいる光景を目撃した。その隊列の動きは、大きな波のようであり実に見事であった。 数百匹の鳥たちはいくつかの隊列を作っており、それが動いていく様子は、さながら大海の波のようであった。机に向かっている時に、書斎の窓からその様子が視界に入り、私はすぐさま窓際に駆けつけて、その鳥の大群の動きをずっと眺めていた。 鳥たちが遠方の空彼方にいなくなるまで、私はずっと彼らの動きに釘付けになっていた。鳥たちの姿がもう見えなくなったところで、私は再度フローニンゲンの夕方の空を仰ぎ見た。 昨日は本当に素晴らしい爽快な青空が広がっていた。線香花火のような飛行雲、何層にもわたって色のグラデーションを変えている青空、そしてその青空の向こうに見える夕日。それらの全てが静かに私を捉えていた。 欧州での生活も一年半を過ぎると、本当に欧州での生活が板についてくる。それは単純に物理的な生活面のみについて述べているわけではなく、それより