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959. マイナスの世界と明晰夢

依然としてして寒さが残るフローニンゲンの日々の中でも、今朝は特に寒さを感じた。気温を確認すると、その瞬間の外気は零度であり、最低気温はマイナス二度であった。 四月も終わりに差し掛かろうというのに、フローニンゲンでは、最適気温がマイナスになることがあるのだと知った。今朝の寒さは、フローニンゲンの冬の時期を思い出させた。 外の気温がマイナスの時には、世界が不思議な空気に包まれているように感じていたことを思い出したのだ。マイナスの世界には、凜とした固有の静けさがあり、同時に身も心も引き締めるような空気が流れている。 今この瞬間も確かに寒さが残っているのだが、冬の寒さとは質的にやはり異なる。あの凜とした静けさと全てのものを凝縮させるような冬の時代が幾分懐かしい。 昨日は、髪を切ってもらいにかかりつけの美容師のところに行った。いつもお世話に成っている美容師のロダニムと、昨日も様々な雑談をしていた。 ロダニム曰く、昨年は四月のこの時期に雪が降ったそうだ。ロダニムの視点はいつも私に新たな気づきを与えてくれるのだが、昨日も、春が到来したと勘違いをしてしまった動植物に関する話をロダニムが持ち出した。 確かに、数週間前の暖かさであれば、春がやってきたと動植物たちが勘違いをしてしまうのも無理はない。しかし、寒さが逆戻りすることによって、誕生しかかっていた春の花々や新たに誕生した生物たちが死滅してしまったことをロダニムが指摘していた。自然は時に残酷である。 帰宅後、書斎の窓から見える木々を確認したところ、これまで少しずつ咲いていた白い花々の姿が見えなかった。つぼみに戻ったのか、あるいはこのところ断

958. 七年前と今

早朝に日記を二つほど書き留めた後に、朝食の果物を食べた。ソファに腰掛けながら、ぼんやりと壁にかかった絵画を眺めていると、先ほどの日記が自分に強く作用しているのを感じた。 何かが書き足りなかったのか、それとも新たなものが内側から湧き上がってきたのか、再び日記に書き留めておきたいことがあった。それは、米国の思想家ラルフ・ワルド・エマーソンが残した「個人の無限性」と私が人間の発達に関心を持ったそもそものきっかけとの関係性についてである。 振り返ってみると、私が現在の関心領域を探究し始めたのは、今から七年前になる。当時は、経営コンサルティングファームで働いていたため、本格的な探究を始めたのは、退職後の渡米以降となる。 ただし、七年前の段階で、私は人間の能力の発達可能性について、極めて強い興味を持っていた。その興味を刺激したのは、トランスパーソナル心理学という学問領域であった。 この学問領域は、直接的ではないにせよ、私が現在探究している知性発達科学とも関係している。トランスパーソナル心理学に興味を持った当時の私は、人間の能力はどれほどまでに開拓可能なのだろうか、という素朴なテーマに対して強い関心があった。 その後しばらくその関心テーマを探究し、その延長線上に構造的発達心理学があった。構造的発達心理学の中に存在する無数の段階モデルにおいて、その高次元の領域は、常にトランスパーソナル心理学の領域であると言っても過言ではない。 米国に渡ってからの私は、様々な発達理論を学び、特にそれらの段階モデルで主張される高次元の発達現象に対して、今から思うと奇妙なほどに取り憑かれていた。ある意味、当時の私は

957. 日記と個人の無限性

昨日、「成人発達とキャリアディベロップメント」という産業組織心理学のクラスに参加するためにキャンパスに向かって歩いていると、ふと自分が毎日書き残している日記の量に考えが及んだ。 歩きながら計算してみると、一日に平均して四千字ほどの日記を書き残していることがわかった。単純な計算だと、一ヶ月あたりに書籍一冊ほどの日記を書き留めていることになる。 三年間オランダで生活する間、この習慣を継続していくと、書籍40冊弱に及ぶ四百万字を越す日記を書き残すことになるかもしれない。だが、それでも分量としては全く足りないというのが正直なところだ。全くもって書き足りないのである。 早朝の静けさの中で、キャンパスに向かう一歩一歩の歩みに呼応するかのように、私の内側でそのような思いが徐々に膨れあがっていった。どうやらまだ、私の内側には、言葉をせき止めるような安全弁が備わっているようなのだ。 確かに、その安全弁が外れてしまったら、本当に日記を書くだけで一日が終わってしまうかもしれない。それぐらいに、今の私の内側には、言葉の形を待つものたちが無数に存在しているのだ。 無限の空間の中にある内側の思考や感覚が、外側の世界に誕生することを今か今かと待っているようなのだ。私が日記という形式のみならず、作曲という形式で内側の現象を外側に表現していこうと思ったことは、それと大きな関係があるだろう。 安全弁は安全弁として内側に存在し続けたとしても、その種類と質そのものが変容することを望む。日記にせよ作曲にせよ、それらの表現活動こそが安全弁なのではないかとふと思った。 内側の世界と外側の世界を架橋するものは、私の言葉であり

956. 第二弾の書籍の初校と内側の季節

昨日、第二弾の書籍の初校を編集者の方から送っていただいた。初校を見ると、中身の構成やデザインがとても綺麗に仕上がっており、充実感と共に、編集者の方に対して多大な感謝の念を持った。 これはあくまでも初校なので、ここからまた修正・加筆をしていく必要があるだろう。初校を見る限りでは、何かを新たに付け加えていく必要はほとんどなさそうであり、文言の統一や誤字脱字の確認を行うことが主な作業になるだろう。 私が作った原稿が、編集者の方の力を借りることによって、視覚的にも内容的にも読みやすいものになったということに対して改めて驚いた。また、タイトルについても、当初私が頑なにこだわっていたものよりも、昨日編集者の方から送っていただいたタイトル案の方が優れていることが直感的にわかった。 送っていただいたタイトル案は、本書の中で私が伝えようとしていたことに合致するものであり、私が考えていたタイトルよりも重厚的な響きがある。とてもシンプルなタイトルでありながらも、それ以外にふさわしいタイトルは今のところ見当たらない。 多くの人に手に取っていただくという意味でも、そして、本書の内容を的確に表現しているという意味でも、そのタイトルが最もふさわしいものに思えた。このタイトルで本書を世に送り出せたら幸いだ。今週末は、初校の修正に時間を充てたいと思う。 四月も最終週になろうというのに、今朝も最低気温はマイナスであった。暖房を入れ、早朝の仕事に取り掛かることにした。 気温の低さとは裏腹に、日の出と日の入りの時間は春を通り越して夏の様相を呈している。六時前には太陽が昇り、夜の九時頃に太陽が沈むようになっている。

955. 冬のような春のある一日

今朝はなんと、四月の中旬にもかかわらず、最低気温がマイナスであった。いよいよ最終学期が始まり、今日は朝の九時から、「成人発達とキャリアディベロップメント」のコースに参加してきた。 この二週間は大学に行く用事も特になかったため、今日は久しぶりにキャンパスに足を運んだ。マフラーと手袋は欠かせなかったが、自宅を出発した時には、幾分気温も上がっており、静かな早朝の中を歩くことは実にすがすがしかった。 道中、ノーダープラントソン公園を通った時、一時期は春の様相を呈していた公園の雰囲気も、再び冬の終わりに逆戻りしたかのように思えた。私の目には、公園内の動植物が、少し困惑しているように見えた。 彼らの困惑を払拭するような、本当の春が早くやってくることを望む。本日参加した、「成人発達とキャリアディベロップメント」のクラスは初回であるがゆえに、このコースを通じて学習した内容について何かを書き留めておくのは今後になるだろう。 ただし、今日のクラスで印象に残っていることだけを簡単に書き留めておきたい。クラスの最初に、担当講師のアニータ教授が、ちょうどミシガン大学ビジネススクールからフローニンゲン大学に移ってきたばかりであるという話をしていた。 彼女は、スイスのベルン大学でPhDを取得し、その後、ミシガン大学で経験を積んだ後に、フローニンゲン大学にやってきたそうだ。歳は私よりも幾分上ぐらいであるから、教授としては若手なのだと思う。 彼女の専門であるキャリア発達理論は、職業を核にした発達理論であるがゆえに、私がこれまで学習してきた発達理論とは幾分毛色が異なる。そのため、これからのクラスを通じて、「仕事」

954. ヘンリー・デイヴィッド・ソローのように

昨日も怒涛のような流れの中で過ぎ去った一日であった。午前中から夜にかけて修士論文の執筆を行い、そこから就寝前に向けて、「創造性と組織のイノベーション」のコースで要求されている共同論文を執筆していた。 こちらの共同論文の提出期限は、今日の午後であるため、再度今朝に全体のレビューを行っておきたい。論文を書き続ける日が相変わらず継続しているが、明後日までに現在取り組んでいる三つの論文のうち、二つは完全に完成し、修士論文についても完成の目処が立つ。 今週の週末ぐらいは、研究と直接関係しないような読書をゆっくりと行いたいと思う。文章を書き続ける日々を過ごしながら、作曲活動も並行させていきたい。 内側の感情や感覚を言葉という形式だけを持ってして形にするのではなく、音楽という形式で形にしていくという試みは、今の私にとって無くてはならないものになりつつあるのを実感している。表現を待つ内側の現象が、メロディーとして絶えず動いているのがわかるのだ。 可能であれば、メロディーから曲を創造していくというアプローチを採用したい。作曲に関する最低限の知識を学ぶことも、今週末から開始したいと思う。 確かに現在は、時に外発的な動機から論文を読むことや文章を書くことを行うことを迫られることがある。これは、何かしらの教育機関の枠組みの中で探究活動を営もうとする場合に避けては通れないものだと思う。 しかし、受講しているコースで課せられるような論文であっても、それを自分の内発的な動機に従って読み、そして課題で要求されている論文を内発的な動機から執筆していくことを忘れたくはない。内側から湧き上がる純粋な動機と一体化

953. 作曲活動の始動に向けて

このようなことを今の時期に悠長に言ってられないのだが、作曲の勉強を本格的に開始しようと思う。実は、以前にも自分で音楽を生み出したいという思いが湧き上がってきたことが何度かあった。 その時に、MOOCを通じて、米国の音楽大学院が提供する作曲に関する講座を受講していた。しかしながら、結局その講座を最後までやり通すことなく、作曲の勉強は中断されていた。 だが、ザルツブルグを訪問したことをきっかけに、作曲への思いが再燃した。決して作曲の専門家になろうと言うのではない。 内側の思念や感覚を、自然言語を通じて表現するだけではなく、音楽という言語で表現したいという抑えがたい衝動が湧き上がっているのだ。これに似た衝動をこれまで何度か経験していたのだが、その度ごとに、自分には作曲など到底無理であろうという考えによってその衝動を抑圧してきた。 上記の作曲に関する講座を受講した際も、その衝動を抑えることを無意識的に行っていたのだと思う。しかし、ザルツブルグの訪問をきっかけに、その衝動がもはや抑えることのできないほどにまで膨らんでいることに気づかされた。 日々の生活を通じて湧き上がる自分の思念や感覚を、言葉として日記に書き留めておくだけではもはや不十分なのだ。以前から、自分の筆不精を嘆き、なぜ自分が日記や論文を含め、毎日より多くの文章を書かないのか、あるいは、書けないのかについて自己批判を続けていた。 その理由が今になってわかったような気がするのだ。結局、自分の深層心理に湧き上がるイメージや感覚の流れを自然言語の言葉にすることには限界があり、その代替手法として作曲という表現方法があるのだということに気

952. 二転三転する研究論文

今日は、午前中から修士論文の執筆に取り組んでいた。昨日に引き続き、今日の午前中も相当試行錯誤を強いられていた。 教師と学習者間の発話レベルにおけるシンクロナイゼーションを分析するために、「交差再帰定量化解析(CRQA)」を適用していたのだが、その分析結果の解釈が難航していた。 本来であれば、CRQAを用いることによって、教師の発話レベルが学習者の発話レベルを先導しているのか後追いしているのかという度合いや、教師と学習者の発話レベルがどれほどシンクロナイゼーションを起こしているのかなどを分析することができる。 しかしながら、結局私がこの手法に関する原理を適切に把握しておらず、同時に、この手法に関する深い知識を持っていないがゆえに、当該箇所の文章の構造にぐらつきが見られ、さらには、その内容に深さが欠如していたのが見て取れた。 なんとか複数の論文と専門書を往復しながら、論文の執筆に必要な知識を構築していこうとしていたのだが、知識体系というものはそんなに早急に獲得されるものではない。午前中から夕方にかけてもがき続けていたのだが、最終的には打つ手が見つからなかった。 やはりCRQAについては、根本原理を自分の中で咀嚼し、結局この手法が何をどのように明らかにするものなのかに関する理解をじっくりと深めていく必要があると思った。非常に残念だが、CRQAは今後の発達研究で活用しようと思う。 CRQAに関する私の知識体系が不十分とはいえ、これまでかなりの時間をかけて論文や専門書を読み進めてきたのは確かである。また、プログラミング言語のRを活用しながら専用のコードも試行錯誤しながら書いていた。 今回

951. 難所の突破に向けて

昨日、研究論文を執筆している最中、ザルツブルグで先日行われた非線形ダイナミクスの国際会議でお会いしたハーマン・ハーケン教授の顔が突然浮かび上がってきた。複雑性科学の発達に多大な貢献を果たしたシナジェティクスを提唱した人物の一人であるハーケン教授とその場で交わしたやり取りが強く記憶に残っている。 学会に参加している最中に、ハーケン先生の書籍を読みたいと思っていた。これまで、ハーケン先生の仕事の功績と名前だけを聞いたことがあっただけであり、先生が書き残した書籍については一切読んだことはなかった。 ザルツブルグでの宿泊先のホテルで、先生の書籍の中で強く自分の関心を引くものを何冊が選んでいた。そのことを昨日ふと思い出し、早速英国のアマゾンを通じて、”Information and Self-Organization: A Macroscopic Approach to Complex Systems (2006)”を購入した。 昨日は、ラルフ・ワルド・エマーソンの全集も購入したことを考えると、二人の人物の書籍内容そのものは全く異なるものでありながらも、何か大きなつながりがそれらの間に横たわっている気がした。それらの書籍に共通する普遍的なものが私を引き寄せたのは間違いないだろう。 しかし、その共通事項が何なのかを未だ掴めていないため、それが何かを見出すように二つの書籍を読まなければならない。両者に共通して存在している普遍性が私を捉え、それが私の内側の成熟をさらに展開させていくに違いないという予感がしている。 それらの書籍を読む際に、決して二つの書籍の細部に囚われることなく、私がそれらの書

950. ベートーヴェンのピアノソナタの発達研究に向けて

昨日は久しぶりに夜更かしをしてしまった。一年目のプログラムが終了した後に、ベートーヴェンのピアノソナタに関する構造分析を非線形ダイナミクスやダイナミックシステムアプローチの手法を用いながら行ってみたいという思いが一気に吹き上げた。 一つの楽曲というのは、開始から終わりにかけて「発達」していく。おそらく「発展」という言葉の方がふさわしいのかもしれない。しかし、私はあえて「発達」という言葉を用いたい。 両者の言葉はともに、英語では “development”と表現されるのだが、私が発達心理学を専門としていることに多分に影響を受け、一つの曲は発展していくというよりも発達していくという方が私の語感に忠実な気がしている。 というのも、一つの楽曲は、発展という言葉が示唆するような勢いの増加や量的な拡張が単純に起こっているわけではなく、人間の発達過程と同様に、質的な差異を常に内包しながら、浮き沈みを伴う形で曲の最後に向かって運動を続けていく、と考えているからである。 端的に述べると、一つの楽曲には、絶えず構造的な差異が存在しており、それは曲の進行に合わせて時に上昇し、時に停滞や下降を伴う生物の発達過程と瓜二つであるように私には思える。そこでは、単純に勢いが増加しているわけでもなく、また、単純に何かが栄えていくわけでもない。 そのため、「発展」という言葉が持つ語感よりも、質的な差異の浮き沈みを伴う「発達」という言葉が持つ語感の方が私にはふさわしいように思える。さらには、より大きな観点で見ると、ベートーヴェンが書き残したピアノソナタの全作品が、あたかも人間の発達と同様に、質的な差異の変遷を伴う多

949. 日曜日の論文執筆に向けて

今日は午前中に、「成人発達とキャリアディベロップメント」のコースで取り上げられている論文を読み進めていた。思っていた以上に論文を読み進めることができ、今日の午前中の短い時間の間に、初回から第二回のクラスで取り上げられる論文全てに目を通すことができた。 日本のように高度高齢化社会を迎える国の場合、これらの論文で取り上げられているテーマというのは非常に重要なものだと思った。私自身、自分の寿命が尽き果てるその瞬間まで自分の仕事を進めたいと思っているためか、定年退職という構成概念に対して常に疑問の目を向けている。 加齢と仕事、そして人間発達というテーマは、これからの私の中で常に重要なものとして存在し続けるだろう。昨日と同様に、今日の夕方から夜にかけて、論文の執筆を進めておきたいと思う。 現在研究を進めている成人のオンライン学習に関して、教師と学習者の発話行動を分析する「状態空間グリッド(SSG)」に関する章はすでに書き上げることができている。しかし、研究が二転三転した様子に対しては、思わず笑みをこぼしてしまう。 以前論文アドバイザーのサスキア・クネン先生に、今回の研究において非線形ダイナミクスの手法は「交差再帰定量化解析(CRQA)」だけを用いることにする、と説明しておきながらも、教師と学習者の発話構造レベルに関する非線形時系列データに対して、「トレンド除去変動解析(DFA)」も適用することにした。 これは論文の構想を練っている初期の段階に考えていたことでもあり、なおかつ、論文の提案書にも明記していたことでもある。つまり、私は今回の研究において三つの分析手法を活用しながら、オンライン学

948. エマーソン、寺田寅彦、小林秀雄

私が敬意を払っている友人の一人が、小林秀雄の作品を集中的に愛読していたことを聞いてからしばらくの時間が経つ。昨日、別の知人の方とお話をさせていただいた際にも、その方が小林秀雄から多大な影響を受けていたということを聞いた。 これまで私は小林秀雄の作品を真剣に読んだことはないのだが、彼はどこか私の頭の片隅に常にいるような存在であった。実際に、次回日本に一時帰国した際に購入したいと思っていた和書のリストの中に、『小林秀雄全集第八巻モオツァルト』を入れていたことをふと思い出した。 小林秀雄の評論内容というよりも、文体を通して感じ取られる彼の存在を確かめてみたいという思いが少しずつ大きくなっている。その知人の方との昨日の話の中で、物理学者かつ文筆家でもあった寺田寅彦について言及があった。 小林秀雄と同様に、私の中で、寺田寅彦という人物も以前から気になっていた存在であった。生粋の物理学者でありながらも、研究や日々の生活で得られた何気ない体験を交えながら、随筆として科学の世界を多くの人々に開いた功績を知り、彼の文章に対しても非常に大きな関心が芽生えた。 日々の生活の中で、科学論文という形式に沿って文章を書くことに喜びを見出しながらも、同時にここ最近、日記や随筆という文章形式にも貴重な価値を見出していた私の関心と合致するものがある。随筆という形式によって表される世界とその価値について考えていると、そういえば、ラルフ・ワルド・エマーソンという米国を代表する思想家も随筆形式の文章を多く残していたことに気づいた。 実はエマーソンについても、彼の思想が気になって仕方ない時期があった。一人の人間が内在的

947. 無限と永遠の世界につながる扉:死の直前のモーツァルトが描かれた絵画から

昨日は、論文を大幅に加筆・修正するという作業を午後から夜にかけてずっと行っていたためか、昨夜の睡眠時間はいつもより一時間ほど長くなった。昨夜も十時前に就寝したのだが、今朝目覚めたのは七時であった。 目覚めた瞬間に、十分寝たにもかかわらず、もう少し睡眠を取ってもいいのではないかと思われるような薄い衣のようなものが全身を包んでいた。全身を取り巻くそうした衣を引き剥がしてくれたのは、朝一番に聴いていたモーツァルトの交響曲だった。 この曲を聴きながら身体を動かし、体が完全に目覚めたところで書斎の椅子に腰掛けた。すると、ザルツブルグのモーツァルト博物館を訪れた際の記憶が蘇ってきた。 モーツァルトが生誕したその場所で、私は一枚の絵画作品と出会った。この博物館は、実際にモーツァルトが生まれた場所であり、天井や床は当時のままなのだそうだ。 博物館の三階だっただろうか、そこで私は壁にかけられた一枚の絵に釘付けになっていた。その絵に描かれていたのは、モーツァルトがこの世を去った瞬間の様子であった。 そこでは、モーツァルトがベッドの上に横たわり、彼の家族や関係者が悲嘆にくれている姿が描かれていた。この絵はまちがいなく、悲痛さで満ち溢れたものなのだが、私はその絵の中に別の物を見出していた。 私が見ていたのは、モーツァルトの死という結果ではなく、死の前後で永続している何かだった。その絵画の中で、モーツァルトが死の直前まで『レクイエム』を書き続けていたことに、私は静かに感動していた。 死の直前まで何かに打ち込み続けた人物に私はいつも大きな励ましを受ける。モーツァルトが死の直前まで取り組んでいた『レクイエム

946. 晴れた日曜日の朝に

昨日は雨が断続的に降っていた。今日は昨日のような雨雲もなく、晴れた一日になりそうだ。早朝の爽快な空を眺めていると、今日は確実に晴れた一日になると確信していたのだが、天気予報を確認すると、午後から天気が崩れるらしい。 正直なところ、それが信じられないほどに、今この瞬間の空は美しい。フローニンゲン大学での最初の学期に受講した心理統計学のクラスを通じて、人間の直感がいかに頼りないものであるかを示す論文をいくつか読んだ。 私は人間の直観が持つ力を信じているのだが、それを全面的に信じるのは問題があることを学んだ。人間の直観力は、与えられた情報や既存の情報を組み合わせて一つの全体的な判断を下す際に、重要な変数を発見することには長けているが、それらを組み合わせることには実は向いていない、ということを学んだように思う。 人間に備わる直観力を活用しながら今目の前に広がる空を見ても、そこに雨を発生させるような変数など見つけることができない。私は一体どの変数を見逃しているのだろうか。 天気を予測する際に、人間の直観力は本当に頼りないものだということをまざまざと見せつけられた気がした。 人間の直観力、ひいてはプロフェッショナルと呼ばれる人たちの判断が、実は定量的アプローチによって導き出された判断に劣るという実証結果と出会ったのは、ロブ・メイヤー教授とスーザン・ニーセン先生のクラスであった。 来週から始まる最後の学期において、再び二人が担当する「タレントアセスメント」というコースを履修する。こちらのコースでは、心理統計学に関する概念と理論、そして実際のデータ分析手法について学びを深めたい。 実は、ス

945. 流れのない流れの中で

書斎の中で静かに鳴り響く音楽が、意識の流れのように流れていく。窓の外に見える流れゆく雲が、意識の流れのように流れていく。 流れゆく音楽や雲と同様に、私の内側の主観的な思考や感覚も絶えず流れる運動をやめようとはしない。心理学者のウィリアム・ジェイムズが指摘したように、私たちの内側には絶えずこうした流れが存在している。 時に私は、そうした流れを外から眺めるのではなく、流れの中に足をつけていることがある。端的に言えば、主観的な思考や感覚の流れそのものと一体化するような現象を時折体験するのだ。 日常の意識において、主観的な思考や感覚の流れを眺めると、それは非常に慌ただしく流れ去っていくもののように思える。私たちの意識の中には、動きを止めることのない思考やイメージ、そして感情が渦巻いているのだ。 それらの流れを客観的に眺めるのではなく、そうした流れそのものと同一化してみると、面白いことに気づく。外側から眺めた慌ただしさが嘘のように、そこには静けさが広がっているのだ。 流れの表層は常に激しい動きを見せているが、流れの深層は常に静寂だ。私は、内側の思考や感覚が一連の流れを持っていることが、アンリ・ベルグソンが提唱する「持続」なのだと思い込んでいた。 しかし、ベルグソンが真に伝えたかった持続感とは、主観的な思考や感情の表層の流れではなく、それらの深層にある流れのない流れのことなのではないかと思ったのだ。ここのところ、無意識的に「静けさ」や「静寂」という言葉を日記で用いていることにふと気づいた。 思考や感覚というものは、確かに内側の流れなのだが、そうした流れを生み出す流れがあることを見逃してはな

944. ベートーヴェンが曲に込めた法則性の探究に向けて

仕事を通じた発達というテーマが、私を強く捉えていることを感じる。早朝にそのテーマが自分の内側で浮上してきていることに光を当てると、不思議なほどにそのテーマが自発的に膨らんでいるのを実感している。 そうした様子を見るにつけ、少しばかり、そのテーマに対して自分の言葉を当てる必要があるだろう。仕事を通じた発達と一口に述べても、「発達」が対象とする領域は極めて広い。 おそらく、日本で知られている発達理論だけに囚われていると、発達という概念が指す現象は、自己認識を含めた自我の発達だけに限定されてしまうかもしれない。しかしながら、私が想定している仕事を通じた発達とは、より多様な発達領域を含んだものである。 とりわけ自我の発達だけを意識の発達と捉えてしまうことは大きな問題だと思う。人間の発達とは、自我の発達だけではなく、多様な発達領域があるということをもう一度思い返す必要があるだろう。 そのようなことを思いながら、昨日考えていたことをふと思い出した。一般的に研究者は、自分の論文がジャーナルに掲載されるまで、研究アイデアを広く公開するようなことはない。 実際には、信頼できる研究者の間だけでアイデアを公開することに留まるだろう。多くの研究者は、研究アイデアを公開するのを控える傾向にあるのかもしれないが、私はその点に関しては少し無頓着かもしれない。 実際にこれまで日記を通じて多くのアイデアを知らず知らず公開してきたことからも、研究が形になる前にアイデアを共有することにほとんど何らのためらいもないことがわかる。「創造性と組織のイノベーション」というコースの中で指摘されていたように、個人のアイデアとい

943. 仕事を通じた発達に対する関心

昨日と同様に、今日も論文を執筆し続ける日になりそうだ。昨日の段階で、「創造性と組織のイノベーション」に関する共同論文の方には目処が立ち、今日の午後あたりに昨日書いた文章をもう一度読み返し、修正・加筆を行いたい。 また、修士論文に関しては、昨日中に随分と試行錯誤をし、教師と学習者間の発話構造レベルにおけるシンクロナイゼーションについて全体像を描くことができた。前回論文アドバイザーのサスキア・クネン教授に提出したものとは随分と様相を変え、シンクロナイゼーションに関しては大きな変更を加えたい。 当該箇所の執筆内容については、昨日日記に書き留めていたものに従いたい。今日の大きな仕事は、昨日頭に思い描き、日記に書き出した論文のストーリーに沿って言葉を生み出していくことだろう。 すでにデータの解析結果は手元にあるため、今日はとにかく言葉を生み出しながら論文の形を完成に近づけていくことだ。それらの作業に目処が立てば、最終学期に履修する二つのコースで取り上げられている論文に目を通していきたい。 合計で50本に及ぶ論文をできるだけ早い時期に一読し、知識基盤を緩やかにでも良いので構築しておきたい。この作業が遅れると、クラスで取り上げられる知識項目を消化することができないままコースを終えることになりかねないので、早急に全ての論文に目を通しておく必要があるだろう。 特に、創造性の測定に焦点を絞り、心理統計学の知識を獲得できる「タレントアセスメント」のコースには期待するものが大きい。このコースを履修することによって、おそらくこれまで私に欠けていた測定に関する観点を獲得することにつながり、心理統計学の概念

942. 研究に関する面白い発見事項

今日は非常に仕事のはかどる一日であった。今日が土曜日であることを忘れてしまうほどに、仕事に熱中していたように思う。 特に研究論文に関して、また少し進展があった。現在取り掛かっているのは、発話構造の複雑性の観点から教師と学習者間のシンクロナイゼーションを分析する箇所である。 この箇所に関して、論文のストーリーとして面白いものが湧き上がり、それを具現化するにはどうしたら良いかをあれこれと考えていた。論文アドバイザーのサスキア・クネン教授との前回のミーティングでは、シンクロナイゼーションに関して執筆した文章を題材にディスカションをした。 教師と学習者間の発話行動に着目し、それに対してアトラクターを発見し、アトラクターが全五回のクラスを通じてどのように発達していったのかを記述した箇所に対して、クネン先生からも非常に面白い発見事項であるというフィードバックをもらっていた。 一方、前回提出した発見事項に関しては、「結局何が解明されたのかが不明確である」というフィードバックを受けていた。そのフィードバックについて改めて考えてみたときに、確かに発見事項が何であるのかが明瞭ではなく、そもそも発見事項に至るストーリーが面白みに欠けるという印象を自分自身でも持っていた。 そのため、今日はストーリーを再考し、そのストーリーに沿って分析が進められるのかどうかを検証していた。シンクロナイゼーションに関するストーリーは、まず最初に、全五回のクラスを通じて、教師と学習者間の発話構造におけるシンクロナイゼーションがどのようなプロセスを経ていたのかを視覚的に捉えることのできるグラフから始まる。 このグラフを作成す

941. 点としての私と地球

今日の夜から数日間は、天候が崩れるようである。そのため、午前中の仕事を途中で切り上げ、昼食前にランニングに出かけた。 これはオーストリアから戻ってきて初めてのランニングだった。近くの河川沿いにあるサイクリングロードをランニングしている最中、私の頭の中はRというプログラミング言語で満たされていた。 というのも、午前中に試行錯誤しながらコードを書き続けていたからである。プログラミング言語を学習していくことによって面白いことが分かり始めている。 その一つには、書かれたコードにも美しさがあるということである。プロのプログラマーであれば、書かれたコードの形を見て、その美しさと質が一瞬にわかるのだと思う。 自分が書いた稚拙なコードを見ながら、私ですらも、最近そのような美しさの違いがわかるようになってきたのだ。午前中に書いているコードの中で、一つ不必要に長いコードがあった。 それはさながら、自然言語で言えば冗長な言葉の繋がりのように映った。歯切れがなく、無駄に長い文章と同様に、私が書いたコードも不必要に長いものだと一瞬にしてわかった。 冗長な言葉でも意味が通じる場合があるるのと同様に、私が書いた長いコードもきちんと機能していた。しかし、そこに美が欠如していることは一目瞭然であった。 様々なコードを書きながら、一つの問題に直面していた。この問題はRに習熟した人であれば、とても簡単なものだろう。 それは、今回の研究において、教師と学習者間のシンクロナイゼーションの度合いを分析するための手法である「交差再帰定量化解析(CRQA)」が出力する指標のうち、一つの指標が統計的に有意なのかどうかを、二つの

940. 英語・音楽・R

昨日、「創造性と組織のイノベーション」の最終試験を終えて自宅に帰ってくると、すぐさまコーヒーを入れて、少しばかりくつろいでいた。オーストリア旅行から帰ってきて、書斎のソファの一角に座れるスペースを設けて正解だったと思う。 その場所に座りながら、私は横山大観の画集に目を通していた。大観という日本画の巨匠も、この世界に自己の内面を表現することを宿命づけられた人間だったのだということをひしひしと感じていた。 画集を眺めながら、技術的な画法の進化のみならず、大観という一人の芸術家の内面的な成熟過程を見て取ることができた。それは微細な形で静かに進行していくものであり、それが如実に作品に現れているかというとそうではない。 描かれている対象だけを肉体の眼を通して眺めていては、それらの変化は見逃されてしまうのだ。しかし、その作品が生み出す意味を自分なりに汲み出そうとするとき、その作品が取り扱っている意味の深さが顔を覗かせるのだ。 私はソファに腰掛けながら、しばらく大観の作品から意味を汲み取ることを静かに行っていた。そのような休憩を少しばかりとった後、私は再び机に向かった。 幸運にも、「複雑性とタレントディベロップメント」のコースで執筆した共同論文に対して、担当教授から非常に高い評価を得ることができた。これまで履修したコースの中では最も高い評価であった。 しかし、担当教授からさらに提案があり、このままその論文を最終成績とみなすことも可能だが、さらに修正・加筆を加えることも可能だという連絡を受けた。この共同論文は、インドネシア人のタタと共に執筆しているものであり、タタと私は教授からの申し出を有り難

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