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3766. 日記と作曲の新たな意味:シュタイナーの色彩論より


時刻は午前10時を迎えた。空に少しばかり雲が現れ始めたが、それでも晴れていることに変わりはない。

もし午後も天気が良ければ、散歩をしに行こうかと思う。ここのところは寒さが厳しいため、本格的にランニングをすることはなく、近所のスーパーに行く際に軽く走る程度にしている。

そうしたこともあり、今日のように天気が良く、気温も低くない時には気分転換に散歩に出かけるのも良いだろう。その際には少しランニングも行おうと思う。

早朝に、モーツァルトに範を求めて一曲作った。改めて、モーツァルトから学ぶことは多く、特にリズムとメロディーから学ぶことは多い。

昨夜考えていたように、今朝の作曲実践では、同主調への転調を実験してみた。思っていた以上に、その響きが良く、曲の表情がうまく変わったように思った。

そのため、これからモーツァルトの変奏曲に範を求める時は、しばらく同主調への転調を実験してみようと思う。

ゴッホが過去の偉大な画家の作品に範を求め、まずは模倣から入り、徐々に自分の絵画技術を獲得して行ったのと同じことを自らに課す。画家が良い絵画を数多く見て、それを元に実際に絵画を描きながら自らの技術を高めていくのと同じように、良い楽譜を数多く見て、それを参考にして曲を作っていく。

それに並行して、良い楽譜から多くのことを得るための観点を獲得するために、理論書を読んでいく。それを今日も行っていく。

つい先ほど、シュタイナーが色について解説した“Colour (1992)”を読み返していた。改めて、シュタイナーの色彩論は興味深いと思い、得るものが多かった。

特に、シュタイナーが、思考は光だと述べている箇所が非常に面白く思った。というのも、これまで私はよく意識空間内で光を知覚する体験をしてきており、どことなく意識と光との間には何かしらの関係性があると思うようになっていたからだ。

シュタイナーは、意識空間内の思考は光そのものであるとも述べている。より具体的には、思考を外側から観察すると、そこに光を見出すことができるとシュタイナーは述べている。

まさに自分の直接体験と照らし合わせてみると、光を知覚する体験の最中は、自分の思考を外側から眺めていたのかもしれないと思う。今私は目覚めた意識でこの文章を書いており、それはグロスの意識が優位な状態であり、言い換えると、肉体の眼が優位な状態である。

しかしながら、仮に心の眼を優位にしてみると——心の眼を活用してみると——、今考えている事柄、つまり思考そのものを眺めてみると、それは光のように見えなくもない。別の表現で言えば、今このようにして自分が考えていることを書き出しているが、このプロセスの最中にも光を見ることができるのだ。

もしかすると、自分の思考を文章として綴っていくというのは、光の輪郭を辿っていくことなのかもしれない。文章を書くというのは、光を書くことに他ならず、光をこの世界に文字という形にする実践のことを指すと言えるかもしれない。

おそらくこれは、文章を書くことだけに当てはまるのではなく、作曲においても当てはまるだろう。曲を作るというのは、まさに自分の内側の光の輪郭を辿り、それを形にしていくことだったのだ。

ここにまた、日記を執筆することと作曲することの新たな意味が見つかった。それらは共に、光を形にすることだったのだ。フローニンゲン:2019/2/3(日)10:18

No.1642: Handclaps

I’ll eat lunch early today.

I’ll continue to read books about music in the afternoon. Groningen, 11:16, Monday, 2/4/2019

過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

過去の曲の楽譜と音源の保存先はこちらより(MuseScore)

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