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3144.「知ること・理解すること」とは?


今日の午前中に読んでいた、ネルソン・グッドマンが執筆した“The End of the Museum (1985)”という論文を読みながら考えていたことを備忘録がてら書き留めておきたいと思う。グッドマンは、ハワード・ガードナー教授やキャサリン・エルギン教授といった現在私が関心を寄せている教授の師であり、協働者であった人物である。

ガードナー教授やエルギン教授の仕事を参照すればするほどに、彼らの師であったグッドマンの仕事に関心を持ち始めている自分がいる。今からおよそ10年前に、『世界制作の方法 (ちくま学芸文庫) 』を購入しており、グッドマンの仕事についてこれまで一切触れてこなかったわけではない。

だが、その翻訳書を読んでいた当時の私は、グッドマンの仕事を真に理解することはできていなかったように思う。そうした状態から、今は時間をかけてでも、グッドマンの仕事を辿ってみようという気持ちがある。午前中に上記の論文を読んだのは、きっと何かの始まりのサインだろう。

この論文の中でグッドマンが、図書館と美術館の違いについて触れており、それが目に止まった。一つ目の違いは、図書館では書物の貸し出しが可能であるのに対して、美術館では作品の貸し出しが基本的に不可能であるという点。そして二つ目の違いは、図書館に通うほとんどの人は本の読み方を知っているが、美術館に通うほとんどの人は作品の見方を知らないという点だ。

それぞれの相違に対して、グッドマンはさらに細かな説明を行っている。二つの違いの中でも、私は特に二つ目の相違に着目をしてしばらく考え事をしていた。

厳密に言えば、本の読み方も非常に奥深いものであるため、図書館に通う人のほとんどが書物の読み方を知っているとは思えない点もあるが、それを脇に置いても、美術館に通う人のほとんどが作品の見方を知らないというのはその通りかもしれないと思った。

だが、ここで疑問に思ったのは、そもそも「芸術作品を知る」というのはどういうことかという点だ。この点を避けては芸術教育の意義を語ることなどできないように思えてくる。そして、まさにこの点はグッドマンやエルギン教授が専門とする認識論の主たるトピックであることに気づく。

「芸術作品を知る」というトピックは、音楽鑑賞でもスポーツ観戦でも通用する話だと思う。認識論の観点から、「そもそも知るとはどういうことなのか?」「理解するとはどういうことなのか?」というテーマをとことん掘り下げて考えてみたい。

そうしたことを考えながら、芸術作品を知るための教育というものが大切になることを改めて思う。書物の読み方に関しては、それなりの教育が学校においてなされているが、芸術においてはその質は満足のいくものではないと思う。

芸術作品を知ることが、作品を知ることを超えて、作品を鑑賞している自己をさらに深く知り、そこから世界と自己とのつながりを知ることにまで拡張されていけば、芸術鑑賞は人生を深め、深められた自己を通じたこの社会への関与までも深めてくれるのではないかという期待がある。

現時点においてそれは完全に期待であるが、こうした希望的展望を持ちながらでなければ、芸術教育の意義や価値をとことんまで探究することはできないように思われる。芸術にせよ、自己にせよ、世界にせよ、今の自分の抽象的なテーマは「知ること」「理解すること」にあるようだ。フローニンゲン:2018/9/19(水)12:12

No.1318: Transition of Sunrise Colors

A peaceful Sunday has come.

I’ve watched a transition of sunrise colors since the early morning.

It’s already bright now, but it would show me various expressive colors toward the end of the day. Groningen, 08:47, Sunday, 10/14/2018

過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

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