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1272. 自己言及と知識の体系化


絶えず自己の内側から現象を捉え、それを自分の言葉として刻み込んでいく日々が、一日、また一日と過ぎていく。

そうした一日は、とても儚いものとして過ぎ去っていくのは確かだが、それは他の何物にも代えがたい一日として自分の内側に刻印されていくのがわかる。欧州での毎日は、こうした日々の積み重ねから成り立っており、これが生きることなのかもしれない、という思いがある。

昨日、洗面所の明かりをつけた時、なぜ自己から出発し、自己に帰還しなければならないのかについて考えていた。究極的には、それが自己の本質であり、それが生きることに他ならないとしか言いようがないが、自己の成熟の観点を用いることによって、少しばかり考えを前に進めようとしている自分がいた。

自己というダイナミックシステムが発達を遂げるためには、そもそも以前の段階特性を受け継ぎながらも、そこから新たな段階特性を獲得していかなければならない。ここで、以前の段階特性を引き継ぐためには、必ず自己言及的に以前の段階を措定するような運動をしなければならない。

自己言及というのはまさに、自己からの出発であり、自己に帰還することである。私たちの自己は、絶えず自己言及運動を続けることによってしか、成熟の道を歩んでいくことはできないのだと思う。

仮に、自己から出発することなく、自己の外から出発を始めてしまっては、自己が深まりを見せることはない。それは単純に、出発地点が自己の外にある場合、自己に帰還することが起こらず、自分の内側に刻印されていくものが何もないからである。

そのようなことをぼんやり考えていると、ダイナミックシステムとしての自己が成熟をしていくためには、単にそのシステムが外側の環境に対して開放的なだけではダメなのだと気づく。出発地点が自己にない形でシステムをオープンなものにすれば、たちまちそのシステムは外部環境と同一化してしまう。

そうなれば、二度と自己の立脚地点に帰ってくることはできないだろう。自己というダイナミックシステムを成熟させていくためには、開放さを与えることよりもまず先に、徹底的な自己言及機能を獲得しなければならないのだと思う。

絶えず自己から出発し、絶えず自己に帰還する過程を通じてしか、私たちの自己が深まることはないだろう。そのようなことを考えていた。 午前中の仕事に取り掛かる前に、再度書き留めておきたいことがある。それは知識の体系化に関するものだ。

知識の体系化が進まない理由として、一つにはそもそも体系化された知識を習得することに努めていないからではないか、という考えが浮かんできた。知識の収集にいそしむ人を時折見かけるが、結果としてそれが功を奏しないのは、それらの知識が散逸的だからだろう。

散逸的な知識をいくら獲得したとしても、それが体系的な知として結晶化されていくのは稀だろう。体系化されるべき知識というものが、そもそもある体系の中に組み込まれたものである以上、その体系を通じて知識と向き合っていくような姿勢が必要であり、それと合わせて、独自の知識体系を自ら構築していく姿勢を持つことが大事になるだろう。

私も日々、関連性の無いような知識群と向き合っているが、その奥には必ず何らかの体系が潜んでおり、その体系を掴みながら、自らで知識の体系化を新たに試みていくというような実践を心がける必要があるだろう。

仮にそれがいくら断片的な知識に見たとしても、その背後にある体系を見出し、それらの知を体系化されたものに組み替えながら新たな知識体系を自分の中に構築していくことが重要になる。そうした実践をしていかなければ、いつまでたっても知識が一つの体系になることはないだろう。

そのようなことを備忘録として書き留め、これからエーリッヒ・フロムの書籍に取り掛かる。2017/7/7

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