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747. 真善美を追い求めて


——経験の全体が一人の人間、その一つの生涯を定義する——森有正

発達支援に携わる者として、支援手法に関する理解や技術を高めていくことは、自分の中で確かに大事にしていることである。また、発達現象を研究する科学者として、人間の発達に関する理論や研究手法に関する理解を絶えず深めていく研鑽は、自分の中で確かに大切にしていることである。

つまり、知識の体系や技術の体系を内側に構築することは、今の私にとって非常に重要なことだと位置付けている。だが一方で、それは取るに足らないことだとも思っている。

私の人生の中で、それは最も重要なことでは決してない。最も重要なのは、人間として生きることの追求であり、生きているということの静かで激しい実感の中で毎日を過ごしていくことに尽きるように思うのだ。

とかくこれまでの私の生き方というのは、ひどく偏ったものだったように思う。要するに、これまでの自分の生き方というのは、真善美のどれかの領域を絶対視するようなものだったのだ。

一つの領域を絶対視することを避け、真実を追求し、美を追求し、善を追求しながら生きたいと強く願う。真実を探求し、美を探求し、それでいて善く生きたいのだ。

これは多くのことを望み過ぎている生き方なのかもしれない。しかし、そうした望みを持って日々の生活を営んでいかなければ、自分の中で真善美の領域が何らまとまりを見せることなく、それらの分断がもたらすとても歪な生涯を送ってしまうのではないかと思ったのである。

特に、私の中には、善く生きるという発想がほとんどなかった。どうも私は善と美を混同していたようなのだ。

自分のこれまでの関心を振り返ってみると、美を司る個人の内面領域に強く関心を持っていたと言える。また、私の中で、善く生きるということは、個人の内面領域の問題だという認識が非常に強くあったのだと思う。

しかし、よくよく考えてみると、善というのはそもそも集合の内面領域を司るものであり、善く生きるためには他者の存在が不可欠なのだ。つまり、善く生きるというのは、個人の内面領域の問題だけでは全くないことにはたと気づかされたのである。

この気づきというのは、今の私にとってとても大きなものであるように思える。この気づきがすぐに私の生き方を変えるとは思えないが、こうした小さな気づきが後々の私に大きな影響を与えることは間違いないだろう。

とても静かな気づきであるのと同時に、自分の内側の開かれぬ扉を開けるための重要な気づきであったと言っても過言ではない。

今日も清澄さに包まれた朝がやってきた。書斎の窓から、朝焼けの残る大空を優雅に飛ぶ鳥たちが見える。

大空の向こうには、白じろと輝く月が見えている。この目に映るもの、得られる気づき、それらが一つの経験を徐々に形作っていくのだろう。

そして、一つ一つの経験が一つの総体をなしていくという過程そのものが、人間の発達過程に他ならず、その都度形作られた経験の総体がその人に他ならないのだ。2017/2/15

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