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706. アブラハムのように:内側からの促しとそこからの出発


そもそも今の私は、なぜ成人発達の研究と実践に強く関心を持っているのかを考えていた。確かに、米国在住時代の後半の私は、子供たちの教育に携わっていたこともあり、成人期前の発達にも大きな関心を寄せていた。

しかし、今の主要な関心事項は、再び成人発達と成人教育に戻っている。これまで成人発達に関する探究と実務に携わっている中で、正直なところ、成人の発達の大部分は、やはり幼少期に決定付けられるということを身を持って実感している。

成人期以降の発達を育んでいく種のようなものがあるとすれば、その種は遅くとも12歳までの経験によって形作られるのではないか、と思っている。これは私の直感のみならず、ルドルフ・シュタイナーをはじめとした、発達理論に精通した幾人もの教育思想家の発想と同じである。

そう考えると、幼少期の教育は、一生涯にわたる発達においてなおさら重要なものに映る。その重要性を強調してもしすぎることはないだろう。だが、それでも私が成人期以降の発達に現在特に関心を持っているのには、一つの重大な理由がありそうだということにふと気づいた。

私はキリスト教について全く造詣が深くないが、森有正先生の書物を読んでいて、アブラハムの生き様の中に、一生涯にわたる発達の鍵を見出したような感覚に包まれた。

森先生の書物を読んで初めて知ったのであるが、アブラハムはある時、啓示的な伝言を受け取り、自分の内心の深い促しに応じて、人生の新たな出発を果たしたそうである。つまり、アブラハムは、自分の内側の最も深い部分から湧き上がる声に衝き動かされ、ハランの地からカナンに向けて出発をしたのである。この時、アブラハムは75歳だったそうだ。

このエピソードを読んだ時、私たちの人格を一生涯にわたって深めていく際に、アブラハムのように、良心の叫びにも似た内側の促しに気づき、それに純粋に従って行動を起こしていくことが非常に大切なのではないかと思ったのだ。

成人期以降、こうした内側の深い部分から湧き上がる抑えがたい感覚を得るということ自体が稀であろうし、その感覚に気づき、その導きに身を委ねて行動をなすということも非常に稀だろう。

そうした内側からの促しが流れる道のようなものは、幼少期に形成されてしまうものだろうし、そうした促しに気づける感性というのも、幼少期に形成されてしまうのだと思うのだ。また、内側からの促しが流れる道やそれに気づける感性は、幼少期以降、年齢と共にますます閉じられてしまうのだと思う。

だが、それらの道や感性が、一生涯にわたる人格の成熟の鍵をなすがゆえに、それらの道や感性を取り戻す手段はないのかと私は思ってしまうのだ。残念ながら、そうした手段を発見する望みは、今のところほどんどない。

それにもかかわらず、その手段のきっかけを掴もうとするかのごとく、私は成人以降の発達研究と向き合っているのだと知った。私たちが、固有の内側の促しに気づくためには何が必要なのだろうか。また、仮に促しを阻害するものがあるとすれば、それは一体何であり、そうした阻害をどのように私たちは乗り越えていくことができるのか。

これらの問いは、今の私にとって大変重要なものである。成人以降の発達において重要なのは、何よりも、自己に固有の内側からの促しに気づき、促しの声に応じながら行動をなしていくことだろう。その先に、人格の成熟と小さな自己からの脱却があるのだと思わずにはいられない。

アブラハムのように生きるためには、幼少期以降に閉じられたものを再度開くような試みが不可欠である。私の究極的な関心事項の一つは、そうした試みの具体的な形を見つけていくことにあるのだと思う。2017/1/31

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