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【フローニンゲンからの便り】17763-17767:2025年11月24日(月)


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タイトル一覧

17763

マッスルメモリーのさらなる活性化に向けて

17764

今朝方の夢

17765

今朝方の夢の振り返り

17766

スケール集やコード集を用いることの注意

17767

大量の文脈経験から学ぶこと

17763. マッスルメモリーのさらなる活性化に向けて 

       

ギターの練習をしていて驚くのは、練習した内容が時間に晒されて発酵し、以前よりも弾けるようになっている現象が生じることである。この背後にはマッスルメモリーが関与していると思われ、それについて関心が高まっている。ギターの練習において、前日に苦労したフレーズが翌日には驚くほど滑らかに弾けるようになるという経験は、多くの演奏者が共有している現象だろう。この現象は、単に偶然や気分の問題ではなく、背後に「マッスルメモリー」と呼ばれる学習プロセスが関与していると考えられる。マッスルメモリーとは、身体が反復運動を通して動きを自動化し、意識せずに再現できるようになる仕組みを指す概念である。しかし、厳密には筋肉自体が記憶するのではなく、脳と神経系が運動パターンを強化することで、身体が滑らかに反応するようになるという点が重要である。ギター演奏では、右手と左手の細やかな連携、力の加減、指の角度、弦への接触時間などが複雑に絡み合うため、このマッスルメモリーの作用が特に顕著に表れる。興味深いのは、練習中よりも休息中に習熟が進むという点である。睡眠や時間の経過により、脳内ではシナプス結合が整理され、滑らかな運動パターンが統合されていく。この“発酵”のような過程が、翌日の演奏向上として現れるのである。無理に長時間練習し続けるよりも、短時間の集中練習と適切な休息を組み合わせる方が上達する理由がここにある。また、練習時に雑な動きを重ねると、その誤った運動パターンも定着してしまうため、質の高い反復こそが鍵となる。ゆえに、マッスルメモリーは万能ではなく、正確さと意識的な身体操作の積み重ねによって初めて価値を持つ。このマッスルメモリーをさらに活性化させるための工夫として、いくつかの方法が挙げられる。第一に、短く反復する練習である。長く弾き続けるよりも、数小節を区切って丁寧に繰り返すことで、脳が運動パターンを効率よく整理する。第二に、ゆっくりとしたテンポでの練習である。速度を落とすことで、無駄な力み、指の雑音、弦の不要な共鳴を制御しやすくなり、身体が“正しい動き”を覚えやすくなる。第三に、身体感覚への意識である。指先の圧力、手首の角度、肩の緊張状態を観察することで、演奏動作がより洗練され、マッスルメモリーが精度を増す。第四に、イメージトレーニングである。楽器を持たずに脳内で演奏を再現することでも神経回路が活性化し、実際の演奏精度が向上する。第五に、録音による客観視である。自分の演奏を聴き返すことで無意識の癖に気づき、修正すべき動きをよりクリアに理解できる。こうした工夫は、単なる根性や努力とは異なる、科学的で効率的な上達法として機能するだろう。ギター練習における最大の醍醐味は、自分が知らないところで成長が進み、ある日突然“弾けている自分”に出会う瞬間である。マッスルメモリーは、その魔法のような経験の背後にある静かな働きであり、練習の質と継続、そして休息によって育まれていくのである。これもまた自己を超えた如来の力の一つの顕現であることを信心深く思う。フローニンゲン:2025/11/24(月)05:56


17764. 今朝方の夢 

         

今朝方は夢の中で、小中高時代のある女性友達(KE)に「見せたいものがあるのでうちに来てほしい」と言われ、その申し出を受けて彼女の家に行くことにした。道を歩いていると、別の女性友達からも同じ誘いを受け、自分は彼女たちから随分と頼りにされているのだなと思った。一体何を見せたいのかはわからないが、自分の知見が何か役に立つのかもしれないという思いで彼女の家に向かった。道の途中で突然居場所が変わり、見慣れない一軒家の部屋の中にいた。そこで私は代わる代わる部屋に入ってくる女性たちの悩み相談を受けていた。彼女たちはいずれも端正な顔立ちをしていてとても綺麗だった。そんな彼女たちの悩みは共通しており、性欲とどのように向き合うのかという問題だった。話を聞いていると、それぞれに違った性欲との向き合い方があり興味深く思った。彼女たちの話を聞き終える頃にふと、そう言えば自分の今の性欲はどのような状態になっているのかを振り返り、自分がどのようにそれと向き合っているのかを考えることになった。


次に覚えている場面は、これまた見慣れない店と倉庫が合体した建物の前の空いているスペースで、小さな羽を使ってリフティングの遊びをしていた場面である。しばらくそれをしていると、小中高時代の二人の友人(NK & KF)が現れた。二人のうち片方の友人が、道の向かいの空き地に向かうために壁を越えて行った。それを見て、彼にこの羽をプレゼントしようと思って、リフティングの最後の締めとして、その羽を壁の向こうに向かって大きく蹴り上げた。羽は天高く舞い上がり、無事に壁の向こう側に飛んでいった。


もう一つ覚えているのは、あるアメリカ人の黒人のNBA選手と一緒にお互いが選んだ豆を用いて作ったエスプレッソを飲み比べていた場面である。そこではお互いにエスプレッソカップを持ち寄り、ひょんなことからそれを交換してお互いに選んだ豆をもとにして作ったエスプレッソを飲み比べていた。どちらの豆も非常に美味しく、私たちは始終笑顔を浮かべ、エスプレッソの深い味わいに癒されながら楽しい時間を過ごしていた。フローニンゲン:2025/11/24(月)06:07


17765. 今朝方の夢の振り返り

          

夢の冒頭で、自分はかつての女性友達から「見せたいものがある」と誘われ、その申し出を自然に受け取っている。この構造は、過去の人間関係の記憶が象徴的なメッセージを携えて自分のもとに再来していることを示唆しているように思われる。彼女たちが複数現れ、自分に頼りを感じているという印象を与える点は、内的世界の複数の側面が同時に自分へ接近し、いま必要なテーマを提示しようとしている可能性がある。そこには、自分が近年深めている学術的・精神的探究の成熟が、内側の声を導く役割を強めつつあることが反映されているのではないかという感覚がある。場面が突然見知らぬ一軒家へと移り変わる点も象徴的である。その家は、統合されていない潜在的な心の領域を指し示す空間のように見える。そこに次々と入ってくる女性たちは、いずれも端正な顔立ちで美しい存在として描写されるが、これは欲望や感情の未分化なエネルギーが、魅力的かつ強力な象徴として姿を取っている可能性がある。彼女たちの共通した悩みが「性欲との向き合い方」であった点は、自分の深層で扱われようとしているテーマが性エネルギーの転換、すなわち生命力の方向づけに関わるものであることを暗示しているように思われる。彼女たちの語りに耳を傾けながら、異なる向き合い方を興味深く観察している自分の姿は、性欲という衝動を単なる抑圧ではなく、意識的な探求対象として扱う態度を示しているのではないか。この過程の最後に、自分の現在の性欲の状態を静かに省みる姿が現れている点は、外側の象徴たちが自分自身の内観を促す鏡の役割を果たしている可能性を示唆している。この夢の第一幕は、自分の内的感情や衝動の扱い方が次の段階へ移行しつつあることを告げる導入部のように見える。続く第二幕では、舞台が突然、店と倉庫が合体した建物の前に広がる空き地へと転じる。この雑然とした空間は、創造性と実務性がまざりあった中間領域を象徴しているのかもしれない。そこで自分は、小さな羽を使ってリフティングをしている。この羽は軽さ、遊び心、衝動の精妙化などを象徴しているように思われ、第一幕で扱った性エネルギーが別の形へと変換されている様子を暗示しているようにも感じられる。そこに現れる二人の旧友は、自分の成長段階における異なる側面を象徴している可能性がある。一人が壁を越えて向こう側に行くとき、自分は羽を彼にプレゼントしようとし、その羽を空高く蹴り上げて壁の向こうに送っている。この行為には、第二幕で精妙化されたエネルギーを他者へ、あるいは未来へ渡すという象徴的意味が読み取れる。羽が高く舞い、軽やかに壁を越えていった描写は、変換された創造的エネルギーが滞りなく流れていくことを示しているように映る。第三幕では、まったく異なる文化的背景を持つNBA選手とエスプレッソを飲み比べている。ここでは「豆」という象徴が登場する。豆は潜在力、生命の核、深い味わいといったテーマを含んでおり、自分とNBA選手がそれぞれ選んだ豆で作ったエスプレッソを互いに交換し味わう場面は、異質な才能や背景を持つ者どうしが互いの本質を共有し合い、深い喜びを得るという象徴として読める。笑顔が絶えず、飲み比べが癒しとして描写される点は、いま自分の内側にあるエネルギーが他者との交流や創造的営みの中で調和的に循環し始めていることを示しているように思われる。これら三つの幕を統合してみると、夢全体は一つの変容プロセスを描いているかのようである。第一幕は衝動の自覚と内観、第二幕は衝動の精妙化と遊び心による昇華、第三幕はそれが創造力や交流として社会的次元へ広がる姿を示している可能性がある。性エネルギーが精神的・創造的エネルギーへと変換され、他者と分かち合えるほど洗練されるまでのプロセスが、象徴絵巻のように展開している印象を与える。人生における意味としては、この夢は、自分の内側にある生のエネルギーを恐れずに見つめ、それを意識的に洗練させることで、他者との創造的交流や喜びへとつながる道が開かれることを示唆するものではないかと思われる。夢は、自分がまさにその変容の途上にあり、次の段階に向けて軽やかに壁を越える準備が整いつつあることを告げるメッセージであるように感じられる。フローニンゲン:2025/11/24(月)06:23


17766. スケール集やコード集を用いることの注意

                                    

音楽的コンテクストから切り離された形でスケール集やコード集を学習するのはあまり初心者にはお勧めできないのではないだろうか。それらが実際にどのように即興に活かされ、どのように使えるのかがいまいちピンときていない。この点について少し考えていた。結論としてやはり、スケール集やコード集を音楽的コンテクストから切り離して学習することは、初心者にとって必ずしも効果的ではないと考えられる。それは、知識が使いどころと結びつかない限り、理解が抽象的なままに留まり、演奏や即興に応用されないからである。多くの学習者が、スケールを指板上で暗記し、コードフォームを機械的に覚えたにもかかわらず、実際の音楽の中でその知識を活かせないという経験をしている。これは、スケールやコードが本来「音楽の流れの中で意味を持つもの」であるにもかかわらず、それらが孤立した情報として扱われてしまうためである。文法を知っていても会話ができない語学学習に似ており、ルールや構造を覚えても、実際の音楽の文脈に触れなければ言語として機能しないのである。即興演奏においてスケールやコードが生きるのは、それらが和声進行、リズム感、フレーズの方向性、音楽的呼吸と結びついたときである。例えば、Cメジャースケールをただ上下に弾くことは簡単であるが、Ⅱ–Ⅴ–Ⅰの進行の上で、テンションの扱い、着地の仕方、アプローチノートの選択などが意識されたとき、初めて音楽としての意味が立ち上がる。同様に、コードフォームを覚えても、機能感、声部進行、響きの方向性を理解しなければ、指板上の配置にすぎない。初心者が「どのように即興に使えばよいのかピンとこない」というのは自然なことであり、それは知識が抽象的に学ばれ、文脈と接続されていないためである。カート・フィッシャーのダイナミックスキル理論にあるように、具体的な文脈の中で具体的なタスクに従事することがスキル開発の原理であるし、王道なのである。この問題を解決するためには、スケールやコードを曲と結びつけて学ぶことが有効である。まず、簡単な曲のキーを理解し、その中で使われているスケールを確認する。次に、特定のコードの上でどの音が安定し、どの音が緊張を生むかを耳と指で体感する。そして、短いフレーズを模倣し、変奏し、置換することで、スケールが「運指の列」から「音楽的語彙」へと変化していく。このプロセスは語学における“チャンク”学習に似ており、単語単位ではなく、意味を持つまとまりとして吸収されることで実践性が高まる。また、伴奏音源を使った練習は、文脈理解を加速させる。和声とリズムの流れの中で弾くことで、音の選択に理由が生まれ、即興の手応えが得られるのである。さらに重要なのは、耳と身体を同時に育てるという視点である。スケールを弾きながら、その音がコードとどう関係するかを聴くこと、コードを押さえながら各度数の響きを認識すること、これらが統合されたときに初めて音楽的自由度が高まる。初心者が抽象的なスケール練習に違和感を覚えるのは健全なことであり、それは「音楽は文脈の中で意味を持つ」という本質を直感的に理解しているからである。ゆえに、スケール集やコード集は目的ではなく、音楽的経験と結びついたときに初めて価値を持つのである。フローニンゲン:2025/11/24(月)07:14


17767. 大量の文脈経験から学ぶこと

 

スケール集やコード集を単語帳や熟語帳と見立てると、本来は例文がなければ意味がないように思う。自分で例文を作るにはどうしたらいいだろうか。例文よりも自分は英語力をつける際に実際の文章を丸ごと読んだり聞いたりすることでその力を高めたように、やはり数多くの楽曲に触れることが音楽語彙の獲得と運搬能力の向上の一番の道なのかもしれないと思った。スケール集やコード集を単語帳や熟語帳と見立てる比喩は、音楽を一つの言語体系として捉える際にきわめて的確である。しかし、言語において単語帳だけを眺め続けても実際の運用能力が身につかないように、スケールやコードもそれ単体を覚えただけでは音楽としての生命を帯びないのは明らかである。自分がその点を直観的に理解しているがゆえに、例文=実際の音楽の中での具体的使用例をどう構築するかが重要な課題として浮上しているのである。例文を自作する上で鍵となるのは、「スケールやコードがどのような文脈で意味を持つのか」を身体的に理解することであると考えられる。言語学習でも、単語の意味を辞書的に覚えるのではなく、その単語が使われる自然な文脈のセットとともに理解することで、初めて本当の語彙となる。音楽でも同じであり、特定のスケールやコードを使う短いフレーズを大量に作り、それを何度も弾き分けることで、自作の例文を積み重ねることができる。だが、この方法には限界がある。それは、人工的に作られたフレーズがどうしても「文脈の薄い例文」にとどまりやすいという点である。言語でいえば、教科書的で不自然な例文に近いものであり、実際の会話にすぐには応用が効かない。この限界を超えるために、自分が英語力を高めたプロセスを振り返ることは示唆に富んでいる。自分は単語帳よりも、むしろ大量の文章や音声に触れることで自然に語彙力を伸ばしてきた。その背景には、文脈の中で語彙が生きた姿として繰り返し現れるという学習メカニズムがある。特定の単語が物語の流れのどの瞬間に登場し、どのような感情や情景と結びつくのかを体験することで、それが固定的な「意味」ではなく、動的で柔軟な「用法」として身体化される。このプロセスは、音楽にもそのまま当てはめられると考えられる。つまり、スケールやコードという「単語」をただ暗記するのではなく、数多くの楽曲に触れ、その中でそれらがどのような場面で、どのような響きとして役割を果たしているのかを繰り返し体験することこそが、本質的な学習となるはずである。特にクラシックギターのように、和声的・旋法的構造が明確に音として現れる楽器においては、作品を通して音楽語彙が自然に文脈化される。その結果、スケールは単なる上行・下行運動ではなく、緊張と解放を形づくる音の流れとして理解され、コードは単に押さえ方のパターンではなく、「物語の場面転換」を告げる和声機能として体に根づいていく。もちろん、自作の例文(短いフレーズ作り)は依然として有効である。むしろ、それは実際の楽曲を模倣しながら自分の語法を育てるための橋渡しとなる。例えばバッハやタレガの作品から数小節を抜き出し、同じ和声進行を使って変奏を作る。あるいはクロノ・トリガーのテーマの一部を借り、その旋律に異なるスケールを当てはめてみる。こうした作業は、言語学習におけるパラフレーズに当たり、既存の文脈を踏まえながら新たな表現を生み出す練習となる。完全に自作すると人工的になりがちな例文でも、既存作品という「母語的文脈」を基盤にすると自然さが増すだろう。結局のところ、単語帳(スケール)や熟語帳(コード)の存在は学習の一部に過ぎず、実際の運搬能力、すなわち即興演奏や編曲の能力を決定づけるのは「大量の文脈経験」であると考えられる。作品から吸収した音楽語彙が無意識的ストックとして蓄積され、そのストックが状況に応じて自在に引き出されるとき、初めてスケールやコードが言語として機能し始める。自分が英語で経験したように、音楽においても最良の教師は結局「作品そのもの」であり、そこに含まれる文脈の豊かさこそが運搬能力の源泉となるのだと考えた。フローニンゲン:2025/11/24(月)08:07


Today’s Letter

I’m confident that I’m gradually building muscle memory for playing the guitar, yet I’m constantly thinking about how to improve it even more. Groningen, 11/24/2025

 
 
 

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