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【フローニンゲンからの便り】17751-17756:2025年11月22日(土)


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タイトル一覧

17751

練習曲の難易度について

17752

今朝方の夢

17753

今朝方の夢の振り返り

17754

ゼミナールの第159回のクラスの課題論文のまとめ

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ゼミナールの第159回のクラスの事前課題(その1)

17756

ゼミナールの第159回のクラスの事前課題(その2)

17751. 練習曲の難易度について 

               

時刻は午前5時半を迎えた。今の気温は1度だが、体感温度はマイナス4度と表示されている。朝の冷え込みが強くなっているが、早朝の冷水シャワーとタバタ式トレーニングのおかげで体を温めることができている。


クラシックギターのビギナーにとって、どのような学び方が最も効果的かという問いは、単なる練習メニューの選択に留まらず、音楽との向き合い方や身体の成長プロセスとも深く関わっている。自分自身の経験からしても、簡単な曲を幅広く弾くべきか、それとも中級レベルの曲を一曲仕上げるべきかという葛藤は常につきまとう。この選択には、演奏者の現段階の身体感覚、認知負荷、音楽的理解、そして練習を継続させる心理的リズムといった複数の要因が絡んでいる。結論から言えば、ビギナーの段階では「難易度の低い曲を多く弾く」方が、総体として演奏能力を高める上でより効果的だろう。なぜなら、ギター演奏とは筋肉の微細な制御、左右手の協働、テンポ維持、音色コントロールなど、多層的なスキルが相互に連動して初めて成り立つ営みであるからだ。ビギナーはまだこれらの基礎的要素を安定的に使える段階ではないため、各スキルを“低負荷で圧倒的な反復”を通して身体に落とし込む必要がある。難易度の低い多くの曲を弾くという行為は、「多様な動きの経験」を蓄積しながら、負荷による挫折感を最小限に抑えるという点で最も合理的なのである。これとは対照的に、中級レベルの曲を一曲仕上げる場合、たしかに完成したときの達成感は大きく、曲を仕上げるための集中力や粘り強さは養われる。しかし同時に、ビギナーにとっては局所的に高い技術要求が頻発しやすく、繰り返しの練習によって“力む癖”や“雑な運指”が身につくリスクがある。スキル理論の観点から言えば、発達段階に対して負荷が高すぎる課題は、成長を促すどころか、誤った運動パターンを固定化させてしまう可能性がある。つまり、難曲への早すぎる挑戦は、一見前向きなようでいて、長期的な演奏能力の伸びを阻害することもあるのだ。さらに、楽曲を多く体験するという方法は、音楽的語彙を増やす効果も大きい。曲は単なる運指の集合ではなく、音楽的表情、フレーズの方向性、呼吸の取り方など、音楽構造そのものへの感性を育てる教材でもある。難易度の低い曲を数多く弾くことは、簡単な語彙を使いながら多くの文を書いていくようなものであり、その過程で“音楽語彙”は自然と深まっていく。一方で、中級曲を一曲だけ集中して練習する場合、そこに含まれる語彙は豊かであるものの、経験の幅がどうしても狭まるため、音楽語彙の総量が増えにくい。また、心理的観点から見ても、簡単な曲を多く弾く方が練習のリズムは安定しやすい。ビギナーの段階で中級曲に挑むと、進歩の停滞や壁にぶつかる経験が増え、練習のモチベーションが落ちやすい。反対に、簡単な曲を数多く弾き切る体験は、“小さな達成の連続”を生み、演奏への自己効力感を育てる。それは中長期的な成長には欠かせない基盤である。もちろん、完全に難曲を避けるべきというわけではない。ビギナーであっても、自分の技術レベルより少しだけ高い“スイートスポット”の課題に触れることは発達を促す。しかし、それは基礎を広く固めた上でこそ効果を発揮する。土台の前に塔を建てようとしても安定しないのと同じである。以上を踏まえると、現段階では難易度の低い曲を幅広く弾くことが、最も合理的であり、成長速度も速い。これは遠回りのようでいて、最短ルートである。多様な曲によって基礎動作を身体に刻み込み、音楽の語彙を増やし、練習の喜びを保ちながら進むことで、そのうち自然と中級曲の要求が無理のないものへ変わる瞬間が訪れる。そこから先、中級曲は苦行ではなく、一つ一つの技術や表現が有機的につながり始める歓びの領域へと変わっていくのである。フローニンゲン:2025/11/22(土)05:35


17752. 今朝方の夢 

                           

今朝方は夢の中で、書き上がった新しい書籍の執筆原稿について編集者の方と打ち合わせをしていた。いくつか編集者の方から質問を投げかけていただき、それに対して回答をしていた。編集者の方の質問は、成人発達理論を学んでいる人たちがよく陥る誤解と関わるものだったので、その誤解を解く意味でも有益な質問だった。それらの質問と回答については原稿にアップデートしておこうと思った次第である。成人発達理論に関する誤解の多くは、単純に学習不足によるものが多く、それは日本語で紹介されている成人発達理論の知識が英語空間に存在する分厚い学術研究の積み重ねのうちの1/10,000にも満たないことからも仕方ないと言えば仕方ないのかもしれない。しかしそれを仕方ないで済ませるのではなく、欧米で長らく成人発達理論を研究してきた身として、そうした現状を打破する試みに従事することが自分に課せられた役目の一つだと改めて思う。


次に覚えている夢は、見知らぬ街を散策している場面である。街並みは美しかったのだが、正直なところ街並みに注目するよりも、自分は湧き上がる無数の創造的なアイデアの宇宙の中に浸っていた。それに喜びの感情と共に浸っていたために、景色はほぼ視界に入っていなかったのである。やはり散歩をすることは創造性を刺激する素晴らしい実践だと思ったし、それを実践と呼ばずに普段の日常行為に落とし込んでいる自分がいた。家の中においても座ることは一切せず、立つことを通じて脳および全身に良い刺激が入っているようで、引き続き立つことを通じて創造的な生活を営んでいこうと思った。そのような夢を見ていた。フローニンゲン:2025/11/22(土)05:46


17753. 今朝方の夢の振り返り 

                     

今朝方の夢の第一の場面において、自分は書き上がった書籍の原稿を編集者と議論していたのであり、この構造は、外的な他者との対話に見せかけた内的な批判的編集機能の象徴であると捉えられる。編集者が投げかけた問いは、成人発達理論に関する典型的な誤解であったが、これは外部世界に存在する無理解ではなく、自分の中に残存する微細な未統合領域を示唆していると言えるだろう。すなわち、自分は成人発達理論を深く理解し、研究してきた者として位置づけられているにもかかわらず、なおも説明し続ける必要性を感じているのであり、これは内的使命感と社会的責務の交差点に立っている心理状態の表れである。日本語圏における知識の浅さに対する認識は、単なる批評ではなく、文化的橋渡し役としての自己定位の象徴であると考えられる。自分は欧米の研究蓄積を理解し、それを翻訳し、体系化し、社会的文脈に馴染ませる役割を担う存在として夢に現れていると言えるのである。続く夢では、見知らぬ美しい街を歩きながらも景色に注意を払わず、創造的アイデアの宇宙に浸っていた構造が描かれていた。この場面は、外界よりも内的宇宙の豊穣さを優先する精神の働きの象徴であり、感覚入力よりも生成的思考が優勢な状態を示している。街は環境世界、社会的現実、外的刺激の比喩であるのに対し、自分はそこから離反するのではなく、むしろその中で内的生成の流れに身を委ねていたのである。これは、外界を拒絶するのではなく、環境を触媒として内的創造が噴出するプロセスを象徴していると言える。歩行という運動が創造性を駆動している点、座ることを避け立位を保つという描写は、停滞を拒み、常に循環し流動する精神の形象である。立つことは比喩的に「自己を支える軸」を意味し、歩くことは「生成し続ける思考の展開」を意味しているのである。両者の夢に通底する構造は、外的世界の条件に反応するのではなく、内的使命と創造的生成から世界を再構築する主体性の象徴であると解釈できる。編集者との対話は、社会への貢献と知の再編成の使命を示し、見知らぬ街での創造的浸潤は、現実世界のあらゆる場が思考の実験室となる生の在り方を示している。すなわち、自分にとって人生とは、内的に生成される知を社会的文脈に橋渡しし、その過程そのものが創造の喜びであるという意味を帯びているのである。この夢は、自分の進むべき道が「研究」「翻訳」「統合」「創造」「貢献」という連続したプロセスで成立していることを確認させる象徴的啓示であると言えるのである。フローニンゲン:2025/11/22(土)05:53


17754. ゼミナールの第159回のクラスの課題論文のまとめ

                           

今日のゼミナールの第159回のクラスでは、ザカリー・スタインの論文の続きを扱っていく。そこでスタインが行っている作業は、インテグラル理論と実践(ITP)を単なる思想体系としてではなく、「教育可能で、かつ発達差が測定できる学習領域」として再構成する試みである。その中心に据えられているのが、ITPを水平構造と垂直構造という二軸で分析する方法である。水平構造とは、ITPという広大な領域を複数のサブドメイン、テーマ、概念ストランドへと細分化し、人がどの領域をどのような順序で学び、どのように理解を深めるかを整理する枠組みである。スタインは、コア理論(四象限・レベル・ラインなど)、コア実践(瞑想、ILP 等)、応用領域(教育、リーダーシップ、コーチングなど)といった大分類を提示し、さらに各サブドメインを具体的テーマへ、そしてテーマを概念ストランドへと分割することで、ITPを“教えられる形”に配置し直すのである。こうした水平構造の導入により、ITPは巨大で曖昧な総合思想ではなく、「具体的にどこを習得し、どこにつまずくか」が分析可能な学習領域として立ち上がる。次に、垂直構造とは、各テーマにおける理解の深まりを発達的に捉える枠組みであり、Lectical Assessment System(LAS)を用いて概念理解の複雑性を同一のスケール上で測定することを可能にするものである。スタインは、理解が単純な抽象マッピングから抽象システムへ、さらに単一原理、原理的マッピングへと上昇していくという一般発達モデルをITPに適用し、特定のITP概念がどのような段階を通って統合的な理解へ向かうのかをシーケンスとして描き出す。この垂直構造によって、学習者が「四象限はよく理解しているが、レベル理解がまだ初歩的である」といった “理解の凸凹” を可視化できるようになり、ITP教育における発達診断が可能となる。そこから論文では、四象限理解と発達レベル理解の学習シーケンスが具体的に示されている。四象限理解の初期段階では、学習者は四象限を「世界の4種類の領域」として機械的に分類するにとどまるが、中期段階では象限間の関係性に注意が向き、「視点の並列」から「視点の相互連関」へと理解が進む。さらに高度な段階では、四象限は実在の地図ではなく、「世界を理解するための多視点的レンズ」であると認識され、ついには四象限そのものの理論的位置づけや限界を批判的に捉える段階に到達する。一方、発達レベル理解についても同様であり、初期段階ではレベルを「人間の上下の序列」と誤解するが、中期段階では複数の発達モデルを比較検討し、より高度な段階では発達論に内在する前提や評価の限界を批判的に理解し、最終段階では発達理論全体をメタ理論的・文化批評的視点から見直すようになる。これらのシーケンスは、ITPの理解が単なる知識の追加ではなく、発達的再組織化によって“質的な転換”を遂げる過程であることを示す。さらにスタインは、これらの水平構造と垂直構造を組み合わせて、理解プロファイルを図示するための「サイコグラフ」を提示する。サイコグラフには、時間軸に沿って理解の発達を追跡する通時的サイコグラフと、ある時点で複数テーマの理解段階を比較する共時的サイコグラフがあり、学習者がIT理論のどの部分をどの段階で理解しているのかを視覚的に明らかにする。これにより、教育者は学習者の強みと弱みを把握し、最適な課題設定や教育的介入を行うことが可能になる。しかしスタインは、こうした発達評価には重大な倫理的リスクがあることを強調する。発達評価は、容易に“優劣の序列化”へと転落し、権力の固定化や排除を生む危険性がある。したがって、サイコグラフを含む発達診断は、「誰が優れているか」を判断するためではなく、「どのような学習支援が最適か」を見極めるための教育的ツールとしてのみ使われるべきである。この倫理的姿勢こそ、ITPを発達科学と教育の観点から再構築するうえで不可欠の前提であるとスタインは結論づけている。フローニンゲン:2025/11/22(土)06:54


17755. ゼミナールの第159回のクラスの事前課題(その1)


今日のクラスの事前課題の最初の3問を見ておきたい。1問目は、「スタインはITP(Integral Theory and Practice)の「水平構造(horizontal structure)」をどのように定義し、どのような層(sub-domains, themes, conceptual strands)に分解しているのでしょうか。また、これがITP全体の理解にどのような利点をもたらすのか説明してください」という問いである。スタインが示すITPの「水平構造(horizontal structure)」とは、ITPという巨大で複雑な知識体系を、横方向に複数の層へと体系的に分解し、構造化して把握するための枠組みである。彼はITPを「大きな一枚の理論」として理解するのではなく、「複数の下位領域・テーマ・概念の束によって構成された学習領域」として再編する必要があると主張する。そのために提示されるのが、サブドメイン(sub-domains)→ テーマ(themes)→ 概念ストランド(conceptual strands) という三層構造である。まずサブドメイン とは、ITPの全体を大きく区切る領域であり、典型的には「コア理論」「コア実践」「応用領域」などが含まれる。これにより、インテグラル理論の概念的中心部分(四象限・レベル・ライン等)と、瞑想やILPといった実践、さらに教育・リーダーシップ・コーチング等の応用分野が一つの体系の中で整理される。次にテーマはサブドメインを細分化した学習項目であり、「四象限」「発達レベル」「ステート/ステージ」「タイプ論」など、具体的な理論要素が含まれる。テーマごとに学習の焦点が異なるため、学習者がどの部分をどの程度理解しているかを精密に区別できる。最後に概念ストランド(学習シーケンス)は、テーマ内部で概念理解がどのような順序で発達し、どのように質的転換を伴って洗練されていくかを示す“理解の道筋”である。例えば「四象限とは何か」という理解は、単純な分類から、視点の相互連関の理解、さらにメタ理論的な批判的理解へと段階的に発達する。この水平構造の最大の利点は、ITPを単なる百科事典のような「知識の寄せ集め」として扱うのではなく、「教育可能な領域」として体系的に設計できる点にある。学習者がどのサブドメインのどのテーマに強く、どの概念ストランドで停滞しているかを把握できるため、教育・フィードバック・評価を発達に適合した形で行うことが可能になるのである。


2問目は、「p.13–16に示されている「四象限理解」と「発達レベル理解」の学習シーケンスを比較し、それぞれがどのように抽象マッピングから原理マッピングへ進むのか説明してください。また、両者の類似点と相違点についても述べてください」という問いである。p.13–16で提示される「四象限理解」と「発達レベル理解」の学習シーケンスは、いずれもsimple abstraction→abstract mapping→abstract systems→single principles→principle mappingsという発達段階を通過しながら複雑性を高めていく。しかし、それぞれ特有の理解上の困難と性質が存在する。まず四象限理解は、もっとも初期段階では「世界を4つに分類する地図」として単純化される。この段階の学習者は象限を固定的なカテゴリーとして扱いがちである。次の段階では象限間の対応関係に気づき、「内面/外面」「個人/集合」の組み合わせによる多視点構造を理解し始める。さらに進むと、学習者は四象限を「観察のレンズ」として捉え、任意の出来事を複数視点から再構成できるようになる。そして最上位では、四象限そのものの限界やメタ理論的前提を批判的に扱い、「視点の構造がどのように生成されるか」という原理レベルの理解へ到達する。一方、発達レベル理解 では、最初の段階ではレベルを単なる序列や優劣の指標と誤解する傾向がある。しかし中期段階に入ると、複数の発達モデルを比較したり、ライン別の発達速度の違いに注意が向いたりと、レベル自体の相対的性格が理解され始める。さらに複雑性が高まると、評価方法の限界や文化的相対性、水平的健全性の重要性などが織り込まれ、レベル概念そのものが批判的反省の対象となる。最高段階では、発達理論全体のメタ理論的位置づけを検討し、発達とは何かという原理的問いが中心となる。両者の共通点は、どちらも「具体→抽象→メタ→原理」へと階層的に理解が深まるという構造を持つ点である。相違点は、四象限理解が視点の多重性の把握という“構造的複眼性”を軸に発達するのに対し、レベル理解は「階層性の本質の再解釈」という“メタ階層的理解”を軸に発達する点にある。つまり、どちらも抽象システム思考を必要とするが、四象限理解は水平的な視点統合の成熟を、レベル理解は垂直的発達そのものを対象化する成熟を要求するのである。


3問目は、「スタインが提示する「通時的サイコグラフ」と「共時的サイコグラフ」は、ITP 理解の発達をどのように可視化するのでしょうか。さらに、これらの図式を用いることの哲学的・方法論的な限界についても批判的に論じてください」という問いである。スタインが提示する「通時的サイコグラフ」と「共時的サイコグラフ」は、ITP理解の発達を可視化するための強力な視覚化技法である。通時的サイコグラフは、時間の経過に伴う理解の成長軌跡を示し、学習者がどのテーマでどの発達段階へ到達したかを縦方向に描く。一方、共時的サイコグラフは、ある特定の時点において、複数のテーマ(四象限、レベル、実践、応用領域等)の理解度を横並びで比較し、学習者の“理解の凸凹”を一目で把握できるようにする。これにより、学習者が理論のどの部分を深く理解し、どこに発達的遅れがあるかが明確に示され、教育者が適切な介入ポイントを判断できるという利点がある。しかし、これらの図式には哲学的・方法論的限界も存在する。第一に、サイコグラフはあくまで LAS に基づく発達モデルを前提としており、そのモデル依存性は避けられない。したがって「見えている構造が、実際の理解の全体を正確に反映している」と解釈することは過度な単純化となりうる。第二に、理解は本質的に文脈依存的であり、学習者がどの状況でどの複雑性を発揮するかは一定しないため、サイコグラフは“平均化されたプロファイル”であって、実際の動的理解を完全には表現できない。第三に、哲学的観点からは、発達段階を視覚化すること自体が、階層的優劣の暗黙的前提を再生産する危険性を含む。発達を「上昇する線」として描くことは、必然的に“高い=良い”という価値連想を生む可能性がある。第四に、多元的認識論の立場からすると、「理解の複雑性だけが価値の基準ではない」という反論も成立するため、サイコグラフは「理解の一側面の可視化」であって「総体的な学びの測定」ではないという認識が必要である。したがって、サイコグラフはITPの教育と評価において有効なツールであるが、その利用には慎重な哲学的自覚が要求される。発達評価の可視化を目的とする一方で、それが権力的序列化や価値判断に結びつかないよう、常に“解釈学的節度”と“倫理的感受性”を伴って運用する必要があるのである。フローニンゲン:2025/11/22(土)08:00


17756. ゼミナールの第159回のクラスの事前課題(その2)

                   

4問目は、「もしITPの初学者向けに学習プログラムを設計するとしたら、p.13–16の学習シーケンスをどのように用いて「四象限理解」と「レベル理解」を段階的に指導しますか。プログラム内での活動内容や評価課題の具体例を挙げながら説明してください」という問いである。ITPの初学者向けに学習プログラムを設計する場合、スタインがp.13–16で提示する学習シーケンスを活用し、「四象限理解」と「レベル理解」が抽象マッピング→抽象システム→単一原理→原理的マッピングへと段階的に発達するように構成することが重要である。最初の段階では、学習者は概念を固定的・類型的に捉える傾向が強く、象限を「4つの箱」として扱ったり、レベルを単純な序列と誤解する可能性が高い。このため、初期段階(simple abstraction)では、概念の羅列や分類に偏らないよう、具体例を使いながら多視点構造に触れさせる活動を行うことが効果的である。例えば、身近な出来事(職場の会議や家族の対立など)を題材にし、「この出来事を四象限にそれぞれ記述してみよ」という課題を与える。これにより、内容を機械的に分類するだけでなく、同じ出来事が複数の側面を持つことを体験的に理解し始める。次に抽象マッピング段階に移行する際には、「象限間の関係性」を理解する活動を設計する。具体的には、ケーススタディを用い、ある組織課題を「象限A を変更すると象限B・C・D にどのような影響が生じるか」を考察させる。例えば、会社の生産性低下を題材にし、右下象限(制度改革)が左上象限(個人の価値観)にどう影響し得るかを検討させる。この段階での評価課題としては、「象限同士の因果を文章化せよ」という分析レポートが有効である。次に抽象システム段階では、四象限やレベルを単一の図式で考えるのではなく、「複数モデルを接続する力」を養う必要がある。このため、「スパイラルダイナミクスのレベルを四象限と組み合わせて、特定の社会現象を多層的に記述する」といった統合課題が適している。また、レベル理解においては、「成長=善」という素朴な前提から脱却し、水平的健全性、文脈依存性、ラインごとの発達差など、より複雑な変数を考慮する必要がある。この段階では、学習者に「自分の発達観の前提を特定し、それを再評価せよ」というメタ反省的課題を与えることが有効である。単一原理・原理的マッピングの段階においては、学習者が四象限・レベルを「理論そのものの位置づけ」から理解できるよう支援する。ここでは、ITP全体をメタ理論として再構成する活動が求められる。具体的には、「四象限とレベルは、認識論・存在論・価値論のどの問題に応答しているのか」を論じる長文エッセイを課す。また、学習者自身によるミニ・インテグラルモデル作成を課し、複数の原理を統合する力を問う。この段階の評価基準は「概念の正確さ」よりもむしろ「統合的視座と批判的洞察」であり、理解の深さを発達的に測定することができる。以上のように、学習シーケンスを活用してプログラムを設計することで、初学者が陥りがちな誤解を避けながら、四象限理解とレベル理解を段階的かつ統合的に発達させる教育デザインが可能となるのである。


5つ目の問いは、「あなたがインテグラル・リーダーシップ研修を設計すると仮定してください。参加者に図5・6 の「共時的サイコグラフ」を提示する場合、発達的ヒエラルキーの誤用(優劣の固定化・権力バイアス)を避けながら、どのように“学びの協働”を促すことができるでしょうか。具体的な運用方法を説明してください」というものである。インテグラル・リーダーシップ研修において、図5・6 の「共時的サイコグラフ」を提示する場合、発達的ヒエラルキーの誤用を避けつつ学習の協働を促すためには、二つの原則が重要である。第一に、サイコグラフを「能力の優劣を示すヒエラルキー」としてではなく、「学習の焦点を明確にする地図」として提示することである。そのために、研修冒頭に「発達段階は価値の序列ではなく構造的違いである」という原則を明示し、参加者同士の優劣評価を意図的に排するメタルールを設定する必要がある。第二に、サイコグラフの使用目的を「比較評価」ではなく、「協働的発達のための相補性の発見」に置くことである。具体的な運用方法としては、まず参加者に自分のサイコグラフを見せた直後、必ず「強みと伸びしろの両方を記述するリフレクション」を行わせる。この行為は、自己評価の透明性を高めると同時に、劣等感・優越感という情緒的反応の暴走を抑える役割を果たす。その後、ペアまたは小グループで「自分のサイコグラフのどの部分が他者の理解を補完しうるか」を語り合う対話活動を行う。例えば、「四象限理解は深いがレベル理解は浅い参加者」と「レベル理解に長けている参加者」をペアにし、互いの視点を交換するワークを実施することで、発達差が“分断”ではなく“補完性”として体験される。次に、ファシリテーターは権力バイアスを最小化するため、どの発達段階の理解も「特定の文脈において価値がある」という例示を行う。例えば、抽象マッピング段階の参加者は「具体的事例の整理」に強みがあり、原理的マッピング段階の参加者は「メタ理論的統合」に強みがあることを明示し、それぞれの段階が固有の貢献を有することを伝える。これにより、上位段階の学習者を「優れている」と見なし、下位段階の学習者を「不十分」とみなす構造的偏りを緩和できる。さらに、対話の最終段階では「共通プロジェクト」を設定し、異なるサイコグラフを持つ参加者が協働して課題解決を行うワークを実施する。例えば、「複雑な組織課題を四象限とレベルを用いて共同で分析する」というタスクを設定し、各参加者が自分の理解段階から見える視点を提供するよう促す。ファシリテーターは、発達段階の違いを「立場の違い」として扱い、「どの視点が、どの観点で有用か」をメタ的に整理する役割を担う。こうした一連のプロセスにより、サイコグラフは「評価の道具」ではなく、「学びを深めるための協働的メタフレーム」として機能するのである。発達の違いは序列の根拠ではなく、むしろ複雑な状況において互いの視点を補い合うための資源であるという意識を醸成することが、リーダーシップ研修においてサイコグラフを倫理的に運用する核心である。フローニンゲン:2025/11/22(土)10:11


Today’s Letter

The inner light is always shining within my psyche. It guides me toward where I am and where I should go. All I can do is follow that inner light. Groningen, 11/22/2025

 
 
 

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