top of page

【フローニンゲンからの便り】17773-17776:2025年11月26日(水)


ree

⭐️心の成長について一緒に学び、心の成長の実現に向かって一緒に実践していくコミュニティ「加藤ゼミナール─ 大人のための探究と実践の週末大学院 ─」も毎週土曜日に開講しております。


タイトル一覧

17773

華厳思想が鈴木大拙と西田幾多郎に与えた影響

17774

今朝方の夢

17775

今朝方の夢の振り返り

17776

西田幾多郎の「場所の論理」の量子場理論への貢献

17773. 華厳思想が鈴木大拙と西田幾多郎に与えた影響 

                     

今朝方の夢の第一の場面において、自分は書き上がった書籍の原稿を編集者と議論していたのであり、この構造は、外的な他者との対話に見せかけた内的な批判的編集機能の象徴であると捉えられる。編集者が投げかけた問いは、成人発達理論に関する典型的な誤解であったが、これは外部世界に存在する無理解ではなく、自分の中に残存する微細な未統合領域を示唆していると言えるだろう。すなわち、自分は成人発達理論を深く理解し、研究してきた者として位置づけられているにもかかわらず、なおも説明し続ける必要性を感じているのであり、これは内的使命感と社会的責務の交差点に立っている心理状態の表れである。日本語圏における知識の浅さに対する認識は、単なる批評ではなく、文化的橋渡し役としての自己定位の象徴であると考えられる。自分は欧米の研究蓄積を理解し、それを翻訳し、体系化し、社会的文脈に馴染ませる役割を担う存在として夢に現れていると言えるのである。続く夢では、見知らぬ美しい街を歩きながらも景色に注意を払わず、創造的アイデアの宇宙に浸っていた構造が描かれていた。この場面は、外界よりも内的宇宙の豊穣さを優先する精神の働きの象徴であり、感覚入力よりも生成的思考が優勢な状態を示している。街は環境世界、社会的現実、外的刺激の比喩であるのに対し、自分はそこから離反するのではなく、むしろその中で内的生成の流れに身を委ねていたのである。これは、外界を拒絶するのではなく、環境を触媒として内的創造が噴出するプロセスを象徴していると言える。歩行という運動が創造性を駆動している点、座ることを避け立位を保つという描写は、停滞を拒み、常に循環し流動する精神の形象である。立つことは比喩的に「自己を支える軸」を意味し、歩くことは「生成し続ける思考の展開」を意味しているのである。両者の夢に通底する構造は、外的世界の条件に反応するのではなく、内的使命と創造的生成から世界を再構築する主体性の象徴であると解釈できる。編集者との対話は、社会への貢献と知の再編成の使命を示し、見知らぬ街での創造的浸潤は、現実世界のあらゆる場が思考の実験室となる生の在り方を示している。すなわち、自分にとって人生とは、内的に生成される知を社会的文脈に橋渡しし、その過程そのものが創造の喜びであるという意味を帯びているのである。この夢は、自分の進むべき道が「研究」「翻訳」「統合」「創造」「貢献」という連続したプロセスで成立していることを確認させる象徴的啓示であると言えるのである。フローニンゲン:2025/11/22(土)05:53


17754. ゼミナールの第159回のクラスの課題論文のまとめ

                           

ここ最近は華厳経の探究をしている。その中で、華厳思想が鈴木大拙と西田幾多郎に与えた影響は、単なる仏教哲学の引用にとどまらず、両者の思想的核心に深く流れ込み、世界観そのものを形づくる基盤として働いていることに改めて注目した。両者は学問分野も思想的出発点も異なるが、華厳特有の「全体性」「相即相入」「重々無尽」といった理念を、それぞれ独自の哲学体系へと転換し、日本近代思想の地平に新たな深さを付与した点で共通している。まず鈴木大拙にとって、華厳思想は禅の理解を深化させる上で不可欠な背景となっていた。大拙は禅を「直観」「即非の理」「悟りの瞬間性」といった形で語るが、その根底には華厳が説く「一即一切・一切即一」の論理が息づいている。華厳の世界では、個別の存在は孤立しておらず、全体との関係性の中でのみ本来の姿を現す。大拙はこれを禅の悟り体験の構造として解釈し、悟りとは単なる主観的な心理状態ではなく、自己が全体性の中に溶け込み、一切の存在が相互浸透する広大な場が直接に開示される瞬間であると捉えた。大拙が西洋哲学の文脈で禅を説明する際、抽象的な観念論に陥らず、直観的・体験的な広がりを保てたのは、華厳思想を「関係論的縁起論」の基底として理解していたからである。一方、西田幾多郎にとって華厳は、純粋経験と絶対無の哲学を深化させるための理論的資源として働いていた。西田の思索の核心には、「主客未分の経験」に基づく世界理解がある。純粋経験とは、認識主体と対象が分裂する以前の根源的な経験の場であり、そこでは存在は固定的ではなく、相互関係の網の目として開示される。この構造はまさに華厳が説く「事事無碍法界」と同型的である。ある現象が他のすべての現象と相即し、重層的に浸透し合う世界観こそ、西田が後に「絶対矛盾的自己同一」として哲学的に表現した構造である。特に西田の「場所の論理」は華厳の法界観と深い響きを持つ。西田は、個別存在が自らを成立させるためには、それを包み込み、かつそれを超える「場所(トポス)」が必要であると考えた。この場所は静的な背景ではなく、諸存在が相互に現れ合うダイナミックな場である。この構造は、華厳における「法界縁起」──あらゆる存在が他のすべての存在と共依存的に立ち現れる構造──と一致している。西田は東洋的思索を直接引用することは少なかったが、華厳的な全体観は西田哲学の根底を流れる「関係の深層構造」を支え続けた。また、両者に共通する重要な点として、華厳思想が「西洋的主体性」や「近代的個人」の概念を乗り越えるための理論的契機となっていたことが挙げられる。華厳は主体を孤立した存在として捉えず、無限の関係性の網の目の中で常に生成し続ける「流動的な自己」として描く。この視点は、大拙の悟り論における「自己の放擲(ほうてき)」や「自己を超えた大いなる生命の働き」として現れ、西田の「自己が自己であるためには自己を超えた次元に立たなければならない」という逆説的構造として結晶した。両者は華厳の視座を通して、人間存在とは孤立した個体ではなく、世界全体の一契機として常に開かれた関係性の中で成立するという認識に至ったのである。華厳思想は、大拙には禅の体験的普遍性を説明する枠組みとして、西田には「絶対無の場」に基づく存在論を支える深層理論として働いた。両者が到達した思想的地点は異なるが、その背後には、華厳が開示した「全体性の深さ」と「相互浸透する世界」の直観が静かに息づいているのである。フローニンゲン:2025/11/26(水)05:41


17774. 今朝方の夢


今朝方は夢の中で、とても優しく、性格が大変穏やかで、それでいて知性的で端正な顔立ちをした日本人女性と楽しく話をしていた。私たちは出会った瞬間から意気投合し、自分は直感的にこの人と家庭を作るような気がしていた。そんな彼女と見慣れない宿泊施設の共有ルームで話をしていると、家族連れの宿泊客の子供が近くやって来た。その家族ともすでに仲良く話をしていたこともあり、その子にも気楽に話しかけることができた。彼は小学校一年生になったばかりとのことだが、とてもしっかりしていて知性は小学校一年生には思えないほど発達していた。しかし、算数の足し算で躓いているらしく、その優しい女性は微笑みながら、「後で算数を教えてあげるね」と述べた。自分も彼に算数を教えることはできたが、それは彼女に任せることにし、自分は彼と色々なことについて楽しく話そうと思った。彼に話しかけてしばらく話をしていると、気づけば別の場面を眺めている自己になった。20歳後半の日本人男性二人が丘の上を歩きながら、海外への想いを語っている場面を目撃していたのである。片方の男性は大学院留学をしようと考えていて、もう片方の男性はかつて留学した経験があり、彼を励ましていた。また留学経験のある彼もまた再度大学院に行って勉強しようと考えているらしかった。自分はその様子を眺めながら、彼らの年齢を考えるとまだまだ若いゆえに大いに挑戦したらいいと思っていた。そもそも海外留学は幾つになってからでも実りある経験になると思っていたのである。それは一生涯の財産に必ずやなる。そうした思いを持って彼らを眺めていると、犬の散歩をしている若い女性が丘の向こうから現れた。彼女はどうやら毎日自分がしたいと思うことに打ち込んでいるらしく、家で手作りの物を作り、それを販売しているようだった。彼女が物を作る時の目は真剣で、真剣ながらも遊びの世界に浸っている様子が伝わってきた。


次に覚えているのは、仕事場のオフィスを午後3時過ぎに抜け出して、街の本屋に行こうとしていた場面である。オフィスでの仕事は知的刺激に欠け、自分は自由に探究することが性に合っていると改めて思っていた。オフィスを抜け出して、気分転換がてら宙に浮かんで本屋に向かうことにした。この時にあまり高度を上げることをせず、通りに何があるかが見えるぐらいの高さ、おおよそ電信柱ぐらいの高さで飛行していた。目星の本屋は月曜日のために休みだったので、その本屋の近くにある少し小さめの本屋に入った。そこで本を色々と眺めていると、ある店員の中年女性が店内を歩きながら、客に間接的に声をかけるようなことをしていた。例えば、本を吟味している客の近くで、「その本はお勧めですよ~」などと囁いていたのである。それも販売促進の一環なのかと思いながらも、正直少し気が散ると思っていた。その本屋には新品の本だけではなく、古本も売っており、古書の文庫本が大量の入った木製のカートの前で足をとめた。そして本を吟味していると、韓国人の若い男性がやって来て、彼も文庫本に関心を持っているようだった。彼が書籍を吟味し始めた瞬間に、体がカートにぶつかり、1冊ほど本が地面に落ちた。しかし彼はそれを拾う様子はなく、先ほどの店員の中年女性がやって来て、彼に韓国語で話しかけたところ、どうやらその本はレベルが低いので買う気はなく、拾う気もないとのことだった。彼は日本語はまだ全く喋れないが、日本語の本を大量に読むことを通じて日本語力を向上させようと考えているようだった。私は地面に落ちた本を眺めながら、その本にはその本の役割があり、レベルが低いから読む価値はないと一掃してしまうのは可哀想な気がして、その本を拾ってから本屋を後にしようと思った。結局その本屋では何も買わずに本屋を出て、再び空を飛んでオフィスに戻ろうと思った。ちょうど午後5時半から海外オフィスとのオンラインミーティングがあったので、その準備を仕上げておこうと思った。フローニンゲン:2025/11/26(水)05:59


17775. 今朝方の夢の振り返り

                   

今朝方の夢の冒頭に現れた穏やかで知性的な女性は、自分の内側に潜んでいる成熟した心の側面を象徴しているように思われる。静かで優しいが芯のある知性を持つ彼女は、精神的に憧れている将来像、あるいは人間としての理想像の投影なのかもしれない。彼女と出会った瞬間に家庭を作る直感を抱いたことは、自分が深い結びつきや安定した関係性を心の奥で強く求めている兆しと解釈できる。今の自分が学問と創造性に集中している一方で、温かい生活共同体への希求が静かに芽生えているということなのだろう。彼女が子どもに優しく算数を教えようとする場面は、内面世界における「育成」「教育」「導き」の象徴として読める。自分が子どもと気軽に話している描写は、他者と関わる際の自然体の姿勢と、成長を支援する心の余裕を示唆しているようである。算数をあえて彼女に任せたことは、自分の中にある「人に任せる成熟」や、「信頼して役割を委ねる姿勢」の表れとして読み取れる。場面が転換し、青年二人の留学談義を眺める自分の姿へ移るのは、自分の人生をメタ的に俯瞰しようとする心理の反映のようである。若い二人に「挑戦したらいい」と感じているのは、結局のところ、過去の自分と未来の自分を重ね合わせているのかもしれない。留学は自分にとって象徴的なモチーフであり、年齢に関係なく挑戦できるという信念が深く刻まれている。その信念が、夢の中で青年たちを励ますかのような視線となって表れているのであろう。続いて現れた、手作りの品を真剣に作る女性の姿は、創造的行為への没入や、遊びと仕事が一体となる理想の働き方を象徴していると思われる。彼女の真剣なまなざしは、自分が目指す「創造性に基づいた生き方」の純粋なイメージ、すなわち自分の深層にあるクリエイティブな衝動の具現化とも解釈できる。次の場面で、自分は午後3時過ぎにオフィスを抜け出し、空を飛んで本屋へ向かおうとする。これは、既存の枠に収まらない生き方への願望を象徴しているように感じられる。電信柱ほどの高さで飛んでいる描写は、地に足をつけつつも自由を希求する「慎重な解放」の姿勢を示している。高度を上げすぎないのは、冒険心と現実感覚のバランスを自分が常に保とうとしている証左とも読める。本屋の場面は、知識世界への没入と、そこに潜む倫理観が象徴的に表現されているようである。書店員の囁きかけが気になる描写は、外的ノイズや他者の価値判断が自分の学問探究を妨げるという感覚を反映している気がする。韓国人の若者が「レベルの低い本」を拾わない場面に違和感を抱いたことは、知識の階層化を避け、全ての物事に価値を見出そうとする自分の姿勢を象徴している。落ちた本を拾おうとした決断は、世界に置き去りにされる小さな存在に対しても敬意を払いたいという、自分の深い倫理観の表れなのだろう。その後、再び宙に浮かびながらオフィスに戻ろうとする描写は、「自由」と「責任」の往復運動を象徴しているように思われる。探求の自由を求めつつも、共同作業や組織的責務を果たそうとする姿勢が夢の構造に自然と織り込まれている。総じてこの夢は、自分の中で「創造性」「学問」「倫理」「自由」といった価値が、これからどのように調和していくのかを示唆しているように感じられる。そして夢の女性や若者たちの姿は、自分がこれから人生で出会う仲間や未来の家族像の断片を象徴している可能性がある。人生における意味としては、自分がより自由で創造的で、他者の成長に寄り添う生き方へと段階的に移行しつつあることを、この夢は静かに告げているのではないだろうか。ようやく夜明けを迎えようとしている朝に響く小鳥の囀りが美しい。フローニンゲン:2025/11/26(水)07:38


17776. 西田幾多郎の「場所の論理」の量子場理論への貢献  


西田幾多郎の「場所の論理」は、通常の哲学的議論を超えて、量子場理論(QFT)に対して独自の視座を提供し得る可能性を秘めている。もちろん西田自身が物理学の数式を扱ったわけではないが、その哲学的構造は、現代物理が直面している基礎的問題、すなわち「場とは何か」「存在はどこに成り立つのか」「観測と存在はどのように関わるのか」といった問いに対して、深層的な枠組みを補う契機をもたらす。華厳思想の「事事無碍法界」を背景に発展したこの場所の論理は、存在を関係の網の目として捉える点で、量子の世界の特徴と驚くほど相似を成している。量子場理論では、粒子とは独立した「もの」ではなく、場の振動様態にすぎない。すべての粒子は場のあり方に依存し、場は時空全体に広がり、重ね合わせや非局所的相関を可能にする。ここで問題となるのは、そもそも「場そのものが成立する背景とは何か」という哲学的問いである。通常の物理学では時空がその基盤として扱われるが、一般相対論と量子力学を統合しようとすると、時空自体が量子的揺らぎの対象となり、固定的な背景とは言えなくなる。つまり量子場理論には、「場が現れる前の場」「時空を包むメタ構造」が必要だが、物理学はその存在論的土台をまだ持ちえていない。ここで西田の「絶対無の場所」が重要な示唆を与える可能性がある。西田は、個別の存在が自立的に成り立つのではなく、それを包み込み、統一し、かつ生成させる根源的な「場所」において初めて存在が成立すると考えた。この場所は単なる空間的背景ではなく、存在と非存在、主観と客観が分化する以前の根源的ダイナミズムである。この構造は、量子揺らぎの深層にある「状態以前の場」や、場そのものを成立させる「虚空的基底」と響き合う。さらに、西田哲学は「自己否定的生成」という概念を持つ。場所は固定的な基盤ではなく、自己否定を通じて多様な現象を生み出し続ける生成の場である。これは、真空が粒子対生成・消滅を絶えず行う量子真空の性質と深く平行する。量子真空は「空っぽ」ではなく、常にエネルギーの揺らぎが生じている生成的実在であるが、西田の場所もまた「無でありながら生成の源」である点で一致する。華厳思想の「空即是色、色即是空」の世界観が量子的真空のイメージと重なるように、西田の「絶対無」は、その哲学的洗練された形として、量子真空の存在論的解釈を支えることができる。また、西田の場所は「相互浸透」を本質とする。存在Aは単独で成立せず、存在Bとの関係の中で、そして全体の中で自己を規定する。この構造は、量子 entanglement(量子もつれ)の特徴と驚くほど類似している。量子もつれにおいて、粒子は隔たりを越えて相互に状態を規定し合い、個別の存在というよりは「関係そのもの」が実体となる。西田の場の論理では、存在とはまさに関係の働きの中で立ち現れるものであり、これは量子情報理論の発展が示す「量子世界は関係中心的である」という新しい見方に哲学的基盤を提供し得る。さらに、量子場理論が抱える測定問題に対しても、西田の思想は独自の補助線となり得る。測定によって波動関数が収縮するという不可解な現象は、主体と客体の関係がどのように現実を成立させるのかという問題と密接につながる。西田は、主体と対象は場所の内部で相互規定的に生成するのであって、絶対的な二元に分かれたものではないと考えた。この枠組みを用いれば、観測とは「主体が対象を見る行為」ではなく、「場所における自己形成の一契機」と捉えることが可能になり、観測問題に対する新たな概念図式が得られる可能性がある。このように、西田の場所の論理は、物理学の数式を代替するものではなく、量子場理論が抱える根源的問い──場とは何か、存在とはどう成り立つのか、観測とは何か──に対して、深層構造のレベルで思想的補助線を引くことができる。華厳思想を背景に生まれた西田の哲学は、量子世界の非直観性を理解するための「関係論的実在の基礎理論」として働き得るのである。フローニンゲン:2025/11/26(水)11:41


Today’s Letter

Every dream I have guides my life in a meaningful way. That guidance is indispensable for enriching my experience. Whenever I interpret a dream, deep insights always emerge. Every dream feels like a gem to me. Groningen, 11/26/2025

 
 
 

コメント


bottom of page