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235. 私の中の辻邦生先生:有限から無限へ


——真に考え抜き、真実に生きたことだけが人間を打ち、人間を打ったものだけが人間の遺産となる——辻邦生

頭の中で地球儀をぐるりと回してみる。日本とオランダの距離を頭の中で推算してみた。それに付随して、地球の円周と直径の長さについても推算してみた。

推算の結果、それなりの概算値が出てきた。その概算値は有理数である。その有理数を導く際に使用した円周率という無限に続く無理数の存在に気づいた時、思わず声を上げそうになった。有理数と無理数が隠された地球という球体上をフライトで移動することになるようだ。

渡欧に際しての機内で読もうと思っていた本がある。それは、辻邦生先生(1925-1999)の著書『パリの手記』である。全五巻にわたるこの書籍は、辻先生が30代前半でパリに渡られた時の様々な出来事や思索の過程が書き残されている日記である。

成田からフランクフルトに向かうどこかのタイミングでこの本を読もうという心積もりでいたが、その日まで待つことができず、結局全てを日本滞在中に読み終えてしまった。辻先生がこの日記を書き始めたのは、ご自身が32歳ぐらいの時であったため、今の私の年齢と近しいものがある。

この日記には、真の小説家に変貌しようとする辻先生の並々ならぬ想いと探究の過程が克明に記されている。私は文学に関しては門外漢なので、その手の記述に理解がついていかないこともあったが、言語で内と外の現象を表現することの意義やその手法に関する記述には感銘を受けることが多々あった。

一方、この日記がまだ30代前半の辻先生によって執筆されたという都合上、精神的な若さの目立つ表現が散見され、「辻先生にも若い時があったのだ・・・」という当たり前のことに気づいた。この日記を読むことによって、辻先生はここから内面的成熟への旅を始められたのだとしみじみと感じた。

成熟への足取りを確認するかのごとく、日記を書き記していった辻先生。その日記は、パリという異国の地で小説家としての才能を何としてでも開花させようとする尋常ではない気概と苦悩で満ち溢れている。

この日記から得られたことは多岐にわたるため、全てを紹介するのは難しいが、一番感銘を受けたのは、自分の全存在をかけて何かに取り組むことの意義と尊さだろう。一人の小さな人間がその全存在と長大な時間をかけて何かに取り組むとき、超越的な何かがそこに生み出されるのだという確かな感覚が今の私の中にある。これは消し去ることも譲ることも揺るがすこともできない確信である。

昨日のランニングの途中、近所の大きな神社を訪れた。お参りを済ませ、鳥居を抜けたその瞬間、なぜだか私は、有限なるものが無限なるものに変貌しうるということを知った。

自らの生命や資源に限りがあるという有限性に真に自覚的になり、その自覚の下に全精力を傾けてなされる行為を積み重ねていった結晶体は、無限なるものに変容するのだという確かな思いがやって来たのだ。

有限なるものの最良の結晶体は永遠性を帯びるということだ。ひたむきさの中に無限を見出したという感覚に襲われた。

こうした感覚を呼び起こす触媒となったのは辻先生の存在だったのかもしれない。あるいは、そうしたことを感じざるをえない所に私を導いてくれた内なる促しがあったのかもしれない。

有限なるものと無限なるものとの邂逅。己の生命の有限性を深く自覚し、己の使命に対してひたむきに打ち込んだ産物は永遠なるものとして、無限なるものとして時空を超えて受け継がれていくのだと確信した。今の自分にとって、生きる意味はそこにあり、それ以上のものはない気がするのだ。

生きる意味を見出せたことは今の自分にとって非常に大きな出来事であった。

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