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207. “recreation”と"re-creation"


——人間の魂は、自己を落ち着いて眺めうる時間の長さだけ豊かになるのかもしれない——辻邦生

東京も梅雨らしくなってきた。雨の日と雨の日の間にある晴れの日がより一層輝きを放っている。

雨の日と晴れの日が分かちがたく結びついた梅雨の季節を愛でることができるようになったのは、ここ最近のことかもしれない。意識の変容は、季節の捉え方も変えてしまう。

近所を散歩中、美しいアジサイを見つけた。逆かもしれない。美しいアジサイが私を見つけた。

色とりどりのアジサイの前で立ち止まりながら、立ち止まることの重要さについて思いを馳せた。しかし、世間一般の傾向として、立ち止まることは是とされていないのではなかろうか。

だが立ち止まって一息入れることは、非常に重要なことだと思うのだ。思うに、レクリエーション(休息)とリクリエーション(再創造)は表裏一体の関係を成す。

人間の発達は、既存の段階が崩壊し、新たな段階が再創造されるプロセスである。再創造の波に乗るためには、休息を挟むことが極めて重要になるのだとこの頃よく感じる。

ある段階から次の段階に到達するためには、膨大なエネルギーが必要となる。成長・発達が進まないのは往々にして、エネルギー不足に主要因がある場合が多い。エネルギーを補填するときに鍵となるのが休息である。

自分自身に眼を向けてみると、私は休息することがそれほど上手くないと思っている。皆さんはどうであろうか?日々の生活に適切な休息があるだろうか。

昨日、ジョン・ロックの “Some Thoughts Concerning Education (1693)”を読んだ。本書の中でロックは、休息とは怠惰さを意味しないということを指摘している。正鵠を射ている。

世間一般的に、「休息」という言葉の中には否定的な意味が入り込みがちであるが、ロックは休息の中に肯定的な意味を見出す。現代人はせわしなく生きすぎているのではないだろうか。より正確には、現代人はせわしなく生かされている、と言ったほうがいいかもしれない。

ある特定の知性や能力を高めていく際に、確かに膨大な実践量が必要となる。つまり、特定領域の実践に没頭することが成長にとって不可欠なのは間違いない。しかし、没頭するためには休息が必要だと思うのだ。

最近、「没頭(ぼっとう)すること」と「ぼぉ〜とすること」の境界線を探っている。気付いた。両者の境界線は限りなくゼロに等しいことに。

要するに、日常「ぼぉ〜と」できない人は、真の意味で何かに「ぼっとう」することなどできないのではないだろか。没我(我を没入させる)と安我(我を安息させる)は不可分である。そんなことを思うのだ。

「休息」という一見すると静的な行為の中に、自己の生命エネルギーの動的な躍動を感じられないだろうか。自我が安息の境地にある時、私は自己の生気溢れる鼓動を感じる。

慌ただしく営まれる現代社会の日常生活において、ここで一度、立ち止まることの価値を、休むことの価値を見直したいものだ。

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