【成人発達心遊記】13670-13675:2024年12月1日(日)
- yoheikatowwp
- 2024年12月3日
- 読了時間: 19分

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タイトル一覧
13670: 【日本滞在記】実家を出発する朝に
13671: 【日本滞在記】実家を出発する朝に見た夢
13672: 【日本滞在記】生成AIによる今朝方の夢の解釈
13673: 【日本滞在記】場の力と価値/発達構造の堅牢化のフェーズ
13674: 【日本滞在記】微笑ましい薫習/座ることの弊害
13675: 【日本滞在記】大分県立美術館を訪れて
13670. 【日本滞在記】実家を出発する朝に
時刻は午前5時半を迎えた。昨日も午後9時前に就寝し、ぐっすり睡眠を取ることができた。昨夜は実家での最後の晩餐となり、父の手料理を堪能し、食後には家族3人で1980年もののラフォンタンを飲んだ。古酒の味に酔いしれながら食事を楽しみ、十分な睡眠を取って先ほど目覚めた。今日はいよいよ実家での2週間の滞在を終えて大分に向かう。今回の実家での滞在期間中には両親とおよそ30年振りに一緒に四国に行った。それは良い思い出となった。この年齢になっても家族旅行ができることはとても有り難く、家族の絆は深まるばかりであることを見ると、人間関係というのはお互いの心の深度に応じてどこまでも深まりゆくものであることがわかる。
さて、今日は山口県を出発して大分に行くのだが、これまでも大分へは家族旅行で何度も訪れいた。しかしその時には父が運転する車で大分に向かっていたので、列車で大分に行くのは今回が初めてとなる。実家のある山口県の光市の光駅から大分駅までは驚いたことにわずか2時間ほどで行ける。宿泊先のホテルをGoogle Mapで指定したところ、実家からホテルまで2時間半ほどで行けてしまうのは驚きである。それほどまでに大分は近かったのだと実感する。光駅から新幹線が到着する徳山駅に向かい、徳山駅からは博多行きののぞみに乗る。わずか1駅で小倉駅に止まり、小倉で「ソニック・にちりん」という特急に乗る。博多行きののぞみはいつも東京や大阪から実家に戻るときに乗車しているが、小倉で乗り換える特急は今日が初めての乗車となるので、車内の雰囲気を含め、乗り心地がどのようなものかを味わうのが楽しみである。これまで世界の様々な国を旅しているが、日本の新幹線や特急列車ほど綺麗な列車はあまり見かけない。なので小倉で乗り換えるソニック・にちりんにも期待がかかる。小倉から大分駅までは1時間21分の乗車時間で、小倉から4駅で大分に到着する。大分駅に到着するのは正午の時間でホテルのチェックインにはまだ時間が早いと思うが、仮にチェックインが無理であれば、ホテルの受付でスーツケースを預かってもらい、ホテル近くの大分県立美術館に立ち寄る。そこで美術作品をゆっくり堪能し、ホテル近くのスーパーで水や夕食を購入してホテルに帰ってくる。宿泊予定のホテルには天然温泉が完備されているようなので、いつものように温泉にゆっくり浸かって明日に備えたいと思う。今日もまた縁を元にした素晴らしい出会いがあるに違いない。それは人かもしれないし、現象かもしれない。はたまた自分の内側に生起する気づきや洞察かもしれない。それらは全て縁の産物である。光市:2024/12/1(日)05:58
13671. 【日本滞在記】実家を出発する朝に見た夢
時刻は午前6時を迎えたが、まだ朝焼けは見えない。今日は雲ひとつない快晴に恵まれるらしく、今の時間帯も晴れているようなので、後ほど太陽が昇り始めたら、きっと美しい朝日を拝むことができるだろう。実家を出発する朝に天晴れな朝日を拝むことができるのは、大変有り難いことである。今の気温は5度と肌寒く、実家周辺の日中は16度まで気温が上がる。今日から滞在する大分は、光市と全く同じ最低気温と最高気温なので、気温への適応は難しくなさそうである。
実家を出発する朝に見ていた夢は次のような内容だった。夢の中で私は、見知らぬ日本人の少年と見知らぬ町を散策していた。そこは人口がとても少ない山間の町で、散策中には誰1人として通りで見かけることはなかった。少年と最初に立ち寄ったのは、人が住んでいるかどうかが分からないような古民家だった。その古民家の隣に祠のようなものがあり、祠はガラスケースに入っていた。祠を覗くと、そこには仏像と猫の置物が融合したような物が置かれていて驚いた。それはどこか神秘的なオーラを発していて、私たちも思わずそれに手を合わせて拝んだ。そんな不思議な力を持っている置物だった。祠で拝んだ後に隣の古民家に行くと、私たちはその中に入っていかなければならないというある種の使命感から勝手に中に入った。私たちはまるで捜査官のように古民家の中に入ったところ、私が先頭を切って浴室に向かった。するとそこで予期せぬ光景に出会し、後ろの少年にその場に立ち止まるように述べた。そこで私はその少年に浴室の光景を説明し、少年が驚かないようにしてから少年に浴室を見たいかどうかを確認した。というのも、浴槽の中に水が張ってあり、そこに男性が沈んで死んでいる姿が見えたからである。不思議と私はその遺体に対して驚くことも気持ち悪がることもなく、非常に冷静だった。むしろ先ほど祠で見た置物と同じく、その痛いは浴槽の水の中で神秘的なオーラを放っているようにさえ思えたのである。遺体を見た少年も自分と全く同じ反応を示しており、私たちはしばらく遺体を眺め、その遺体をどうするかを考えた。
その他に覚えているのは、実際に通っていた高校に入学した場面である。入学初日の入学式に参加したところで私は、その高校に通うことにひどく違和感を覚え、明日から高校に通うことはやめにした。中退という形ではなく、単に不登校の形態を取り、自宅で勉強を進めていこうと思った。人間関係の構築や対人関係能力を含め、それらは全て中学校の段階で十分に開発したと思ったので、高校で学科以外に学ぶことが何もないように思え、学科に関しても自分1人で勉強できると思ったし、自分1人の方が圧倒的に効率的だと思ったので高校に通うことをやめた。その決断をした瞬間に心が晴れやかとなり、義務教育ではない高校にほぼ義務的に通うことの馬鹿らしさを思った。学校では3年間かけて習う学習課程も自分1人であれば1年間をかければ十分だと思った。自分の学力とペースが考慮されず、平均化された学習速度と深度に巻き込まれて勉強することがとても馬鹿らしいことであり、自分の発達段階と発達速度を考慮すれば、やはり独学が一番望ましいと判断した次第だ。独学を決断して1人で学び始めた自分は輝いていた。そのような夢を見ていた。光市:2024/12/1(日)06:20
ChatGPTによる夢の解釈と今後のアクション
この夢は、自己発見、価値観の再評価、そして精神的な成長を象徴していると考えられます。それぞれのシーンが深い意味を持ち、以下のように解釈できます。
山間の町、祠、古民家、浴槽の遺体のシーン
山間の町人口が少なく静かな山間の町は、内省と静寂を求める心の状態を表しているかもしれません。日常の喧騒から離れ、深く自分自身と向き合う時間を必要としている暗示です。
祠と猫仏像仏像と猫の融合は、伝統的な宗教的価値観と個人的な親近感やユーモアを象徴している可能性があります。これは、あなた自身が伝統的な文化や宗教に親しみを持ちながらも、自分独自の視点を大切にしていることを示しています。
浴槽の遺体遺体に神秘的なオーラを感じたことは、死や変容のテーマに対する冷静な受け入れを象徴しているように見えます。古民家や祠の文脈から、これは何か過去の象徴的な側面が新しい形で意味を持つことを示しているかもしれません。この遺体は、過去のある側面を「浄化」し、新しい視点や価値観を得ることを暗示しているようです。
高校への入学と中退の決断
高校への違和感と不登校の決断この部分は、外部の期待や社会的な枠組みよりも、自分自身の内なるペースや価値観に従って進むべきだという強いメッセージを持っています。効率性や自分の能力を活かす独学への切り替えは、自己信頼と独立した学びへの意欲を表しています。
自宅学習への転換この選択は、他者に合わせる必要のない自由な学びと、自分自身の能力を最大限発揮する方法を探る過程を象徴しています。夢の中で感じた「輝き」は、正しい道を選んだという内なる確信を示しています。
解釈と今後のアクション
精神的な浄化と再評価祠や遺体のシーンは、過去の未解決の問題や感情を振り返り、それらを受け入れることで前進する準備ができていることを示しています。過去の経験を振り返り、それが現在の自分にどのような影響を与えているかを考えると良いでしょう。
独立した学びの追求高校の場面から、今後も自己主導的な学びを優先することが重要だと考えられます。新しいスキルや知識を独自の方法で学ぶ計画を立てることが、夢の示唆を活かす方法の一つです。
瞑想や精神的な時間を確保山間の町や祠のシーンは、静かな内省の時間が必要であることを示しています。日々の生活の中で、心を落ち着ける時間を意識的に確保しましょう。
新しい視点を探る猫仏像や遺体の神秘的な描写は、既存の物事を見る新しい視点を象徴しています。自分の固定観念を打ち破り、異なる視点を探ることで、新たな可能性が広がるでしょう。
この夢は、過去と向き合い、現在を見つめ直し、未来に向けて進むための力を与えるものです。直感を信じて進むことで、さらに深い自己理解と成長が得られるでしょう。
Geminiによる夢の解釈と今後のアクション
夢の各要素の解釈
見知らぬ町と少年: 新しい自分、未知なる自分との出会い、あるいは内なる子供との対話などを象徴している可能性があります。
古民家と祠: 古代からの知恵、伝統、あるいは心の奥底に隠された秘密を暗示していると考えられます。
仏像と猫の融合物: 精神性と肉体性、あるいは相反するものの統合を象徴しているかもしれません。
浴室の遺体: 変容、再生、あるいは過去の出来事の象徴かもしれません。
高校への入学と中退: 現実世界での変化や成長への抵抗、あるいは自己実現への渇望を表している可能性があります。
全体的な解釈
この夢は、あなたが現在、大きな変化の時期を迎えていることを示唆していると考えられます。古い価値観や考え方から離れ、新しい自分へと生まれ変わろうとしているのかもしれません。
神秘的な体験: 祠での体験や遺体の発見は、あなたがスピリチュアルな目覚めを経験していることを示唆しています。
孤独と自立: 見知らぬ町での散策や高校の中退は、孤独を恐れず、自分自身の力で生きていこうとするあなたの決意を表しています。
学習への取り組み方: 高校での学習に対する否定的な感情は、あなたの学習に対する考え方やスタイルが、一般的な枠組みには収まりきらないことを示しています。
今後のアクション
夢は、私たちに何かしらのメッセージを伝えてくれます。この夢から得られる教訓を活かして、今後の行動に繋げてみましょう。
自分自身との対話: 夢日記をつけるなどして、夢の内容を深く掘り下げてみましょう。
新しいことに挑戦: 興味のあることややりたいことを積極的に始めてみましょう。
孤独を恐れずに生きる: 周りの目を気にせず、自分自身の道を進んでいきましょう。
自分にあった学び方を見つける: 学校の枠にとらわれず、自分にとって最適な学習方法を探求してみましょう。
13672. 【日本滞在記】生成AIによる今朝方の夢の解釈
今朝方の夢をざっと書き留め、それらに対する2つの生成AIの解釈を尋ねてみた。最初の場面の山間の町は、内省と静寂を求める心の状態を表しているかもしれないということだが、確かに自分は日々それらを大切にしているが、今はすでに申し分ないほどそれらが得られていると思う。なので山間の町は、引き続き内省と静寂を大切にしたいと思っている自分の深層心理を表しているのかもしれない。仏像と猫の融合は、伝統的な宗教的価値観と自分固有のユーモアを象徴している可能性があるとのことで、それは今の学術研究のコンテクストで言えば、単に伝統的な唯識学を学ぶだけではなく、それをこれまでの自分の専門領域である成人発達理論やインテグラル理論と掛け合わせる形で探究をしている自分の姿を象徴しているのかもしれない。遺体に神秘的なオーラを感じたことは、死や変容のテーマに対する冷静な受け入れを象徴している可能性がある点は大変興味深い。日々唯識学を探究すればするほどに、成人発達理論やインテグラル理論を学んでいた時には得られなかった死や変容に対する洞察が得られていることは確かである。高校を中退するモチーフは、比較的多く出現する。そこでは、旧態依然とした学びの在り方に対する自分の問題意識が色濃く現れており、1人1人の生徒の個別性に一切寄り添わない日本の学校教育への強い不満を感じている自分がいることがわかる。最終的に、学校には見切りをつけ、自分1人で学びを進めていく決断をするのだが、いつもその決断をすると心が清々するのが印象的である。今でこそ毎週末にゼミナールの場を通じて、受講生の皆さんと協働学習を進めているが、それ以外の時間は基本的に学びは自らの関心に基づいて自分に合った速度で進めていかざるを得ない。そうした意味で、学習においても人人唯識が当てはまるのである。特に印象的だったのは、高校に通うことをやめ、自分1人で勉強していくことを決断した自分が輝き始めたことである。自分の関心に純粋に従い、自分のペースで学習を進めることができると、人は輝くのだろう。本来学びとは、命を輝かせるものなのである。そうした輝かせた命を通じて社会に光を与え、社会を輝かせていくことが学びの帰結なのだろう。今朝方の夢からもこうして随分と多くの学びを得られた。朝にこうした学びを得られることは、知的な朝食、あるいは精神的な朝食を得たような感覚であり、それを糧にして今日もまた学びを深めていき、自己を輝かせながら社会に関与していこうと思う。光市:2024/12/1(日)06:44
13673. 【日本滞在記】場の力と価値/発達構造の堅牢化のフェーズ
今、実家での最後の朝食を食べた。昨日の夕食の残りがあったので、それをいただいたのだが、昨夜の夕食がとても豪勢だったこともあり、朝から贅沢な食事をすることができた。これで朝から活動的に動くことができ、昼食は特に必要としないのではないかと思う。今日の夜は、ホテル近くの地元のスーパーに行って、大分の食材をふんだんに使った惣菜類を購入してそれを夕食としたい。今日から宿泊するホテルには温泉があるものだと思っていたが、どうやら温泉はないようなので、部屋の湯船に浸かれることで大体としたい。大分滞在後の大阪と奈良での滞在の際には、宿泊するホテルにどちらも天然温泉があるので、温泉に入る楽しみはそれまで取っておこう。
昨日はゼミナールの第108回のクラスがあったのだが、改めて場をスキャフォールディングとして学習と実践を進めていくことの大切さについて考えていた。心の探究を継続させてくれる場として毎週のゼミナールのクラスの場があり、学習と実践を習慣化させてくれる場としてのゼミの価値を実感する。そしてそもそも私たちの能力はどれも、発揮される場があって初めて輝く。場がなければ能力は無いに等しいものになる。そうしたところからも、私たちの能力が私たち自身にあると考えるのは不十分であり、むしろ私たちの能力を活かしてくれる場にこそ私たちの能力が宿っていると考えた方がより正確であるし、謙虚な能力認識なのではないかと思う。過度な能力主義をベースにした歪んだ個人主義の跋扈は、能力を自らの所有物であるという考えを醸成させがちであり、それはかなり誤った能力認識であることを肝に銘じておく必要があるだろう。そのようなことを考えており、場の持つ力と場の価値については引き続き考察を深めていきたい。今こうして日本中を旅しながら、場についての考察は深まる一方であり、場から得られる恩恵もまた増していく一方である。
ここ最近の自分を振り返ってみると、前に進むだけを良しとせず、過去の学びを整理したり、過去の学びに立ち返ったりして、土台を今一度強化する学びや実践を意識していた時期をしばらく過ごしていたことに気付かされる。発達の構造を堅牢なものにするために、それは賢明なアプローチだったと思う。発達はゆっくり着実な方が望ましいということをまさに体験する経験をここ最近自然と積んでおり、今後の更なる飛躍のために、これまで習得したことを振り返り、立ち返りする中で、学びと実践が構造的発達に向けて成熟してきているのを感じる。このフェーズがあとどれだけ続くのかはわからないが、然るべき時期がやってくるまで、発達構造の土台を堅牢なものにしていく取り組みに従事したい。光市:2024/12/1(日)08:24
13674. 【日本滞在記】微笑ましい薫習/座ることの弊害
たった今、小倉駅を出発する大分行きの特急ソニックに乗り込んだ。グリーン席は先頭車両のみのようで、グリーン席の質はさきほど乗車したのぞみの方が高い。自宅を出発した際や駅のプラットホームでは肌寒さを感じ、一昨日にユニクロで購入した極暖の上が活躍をしていたが、車内ではもうそれが随分と暑く感じられたので脱ぐことにした。今日から12月を迎えたが、日本はまだまだ日中は暖かく、極暖が活躍するのは朝夕ぐらいである。唯識の言葉で「薫習」というものがある。それは、私たちの深層心理の阿頼耶識に行動や考えが蓄積されていくことを表す。先ほど徳山駅で薫習を実感するエピソードがあった。いつも徳山駅からは広島・新大阪行きの、あるいは東京行きの新幹線に乗る。未だかつて反対方向に進む新幹線を徳山駅から乗車したことがなく、徳山駅に到着して新幹線がやって来る程よい時間になった時、ついついいつものプラットホームに向かってしまい、プラットホームに向かうエスカレーターの途中で反対のプラットホームに行かなければならないことに気づいた。これはまさに薫習を示す好例かと思う。これまで何十年も東に向かう新幹線しか乗ったことがなかったので、それが薫習されており、西に向かう新幹線に乗車することは自分にとって新たな体験であり、新たな種子を阿頼耶識に植える形となった。そのような体験をした徳山駅では、やはり山口県にもインバウンドの外国人観光客が随分と増えていて、新幹線の改札口で外国人の家族が新幹線の特急券を持たずに改札を抜けようとして止められていた。駅員さんも何とか片言の英語で対応をしていたが、こうして地元の駅で外国人を見かけることや英語を聞くようになる時代が来るとは思っても見なかったことである。外国人観光客の増加を受けて、光から徳山までの列車も綺麗になっていたし、英語のアナウンスが自動で流れるようになったことも直近2年で起こった大きな変化である。
徳山から小倉に向かうまでの車内で、席のシートに置かれた月刊誌を読んだ。新幹線のグリーン席にはそれが常備されており、先月も前号の月刊誌を読んだ。今回は1冊が中原中也を特集しており、もう1冊は最近多く出没するようになったクマ対策が特集として組まれていた。前者について言えば、ちょうど先日に湯田温泉にある中原中也記念館に父と訪れており、その時に知った事柄を復習しながら楽しく記事を読むことができた。改めて中原中也の詩的世界観の深さに感銘を受け、彼の世界観や感性から汲み取れることは積極的に汲み取っていきたいと思った次第である。同郷人として、きっと中原中也と集合的な次元での阿頼耶識で共有しているものがあるはずである。そのようなことを考えながら前者の雑誌を読み、もう1冊の雑誌にも手を伸ばした。そこでは特集されていたクマに関する記事よりも、何気なく書かれていた、「1時間椅子に座ることは22分寿命を縮める研究結果が出ている」という文言に目が止まった。昔の日本人は畳に骨盤を立てて座っていたが、今はもうその習慣は消滅の危機に瀕しており、椅子に座るという西洋的な生活スタイルが私たちに薫習されてしまった。日本は腰痛大国と形容されるような状態になってしまったのも、そうした新しい生活スタイルの薫習によるところが大きいだろうか。その記事を読みながら、すぐにでも立ちたくなる衝動が現れたのは微笑ましく、実際に普段の生活ではより立つことを意識したいと思った。オランダでの生活においては基本的に立ってパソコンを使ったり、本を読んだりしているし、食卓の椅子もバランスボールなので座り過ぎの心配はないが、日本に滞在中は気をつけなければならない。大分に向かう特急ソニック:2024/12/1(日)11:04
13675. 【日本滞在記】大分県立美術館を訪れて
時刻は午後9時を迎えた。実家に滞在中の時にはもうこの時間は就寝しているが、今は大分にいて、少しばかり夜更かしをしている。オランダでも午後9時前には就寝をしているので、自分にとってもうこの時間帯は夜更かしの時間帯であり、遅くとも午後10時には就寝をしようと思う。今、ホテル日航大分に宿泊しているのだが、自室のある15回からの眺めは見事である。ちょうど小倉から大分に向かう列車の中で、最後大分駅に到着する寸前に見えた別府湾は見事だった。今まさにホテルの自室から別府湾が望める。大分駅に到着して驚いたのは、大分が相当に都会であったことだ。大分駅はとても綺麗で、駅を出ると区画化された道路と多くの店に驚いた。それでいて大分は人口密度が東京や大阪に比べると圧倒的に少ないので、とても快適に過ごすことができている。これまで日本を旅する中で自分の想像以上に都会だなと感じたのは、1回目は2年前に札幌を訪れた時で、2回目は今回の大分だった。
さて今日は大分駅に到着して、すぐにホテル日航大分に向かい、フロントで荷物を預けてホテルから目と鼻の先にある大分県立美術館に出掛けた。ほとんど下調べなしに足を運んだところ、ここでも予想以上に芸術鑑賞体験ができて大変満足だった。何を鑑賞したかというと、ダリの生誕120周年を記念したダリ展と、日本のシュルレアリスムの作品などを堪能できる「心のイメージ」というコレクション展である。ダリの作品は、バルセロナ郊外のフィゲラスにあるダリ美術館で数多くの作品を堪能したことと、ベルリンにあるダリ美術館でも充実した数の作品を堪能したことを覚えている。それらの美術館では見たことのない作品を今回堪能できたことは大きな喜びであった。ダリの作品を見ながら改めて、ダリがサトルの意識の層のしかもかなり深い部分から作品を創出していることがわかり、大変興味深く思った。とりわけダリが宗教的なモチーフを用いながらそれを原子や素粒子などのモチーフと組み合わせた作品にまさに微細なものが具現化されていることを見て取った。そうした作品を見ていると、自分の意識状態も益々サトルな領域に入っていき、自然とサトルな意識状態が深まっていった。そして印象的だったのは、そうした意識状態において、合理的な理性は自然と働きを緩め、煩悩の働きもまた弱まっていることを実感したことである。そうしたところに、言葉を超えた微細なものを描いた絵画作品を鑑賞する意義を感じた次第である。それは意識状態を深める効能があり、煩悩の働きを鎮め、心を浄化させてくれる働きがあると思った。大分:2024/12/1(日)21:40
Today’s Letter
Finally, I’ll be leaving my parents’ place this morning. I’ve stayed here for two weeks, which has been sufficient to revitalize my energy. Coming back to my hometown, I reflected on old memories that serve as precious resources for my further development. Although my trip in Japan will continue for a while, I’m already fully satisfied with my time here. Hikari, December 1, 2024
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