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【成人発達心遊記】13360-13364:2024年10月5日(土)



⭐️成人発達理論・インテグラル理論・瑜伽行唯識学の観点から、リスナーの皆様と心の成長を一緒に実現していくことを目指した成人発達コラボラジオの配信をしています。


⭐️心の成長について一緒に学び、心の成長の実現に向かって一緒に実践していくコミュニティ「オンライン加藤ゼミナール」も毎週土曜日に開講しております。

タイトル一覧

13360: 筋トレのような枝の伐採と瞑想実践としての草刈り

13361: 睡眠とサイケデリック体験

13362: 今朝方の夢

13363: 今朝方の夢の続き

13364: 第100回のゼミナールのクラスを振り返って


13360. 筋トレのような枝の伐採と瞑想実践としての草刈り  


時刻は午前6時半を迎えようとしている。この時間はまだまだ辺りは真っ暗であり、外の様子がわからない。小鳥たちも鳴き声を上げておらず、彼らが活動する時間も遅くなった。今月末のサマータイム終了まで日の出の時間はさらに遅くなり、小鳥たちが活動を始める時間も遅くなるだろう。今の気温は3度とまるで冬のような気温である。そんな今日も昨日と同じく、1日中天気が良いようなので何よりである。日中の最高気温は昨日と同じぐらいの14度まで上がる。それくらいの気温であれば、室内で足元から冷えるようなことはさほどなく、快適に過ごせそうである。明日から数日間は最低気温が上昇し、10度前後となる。最高気温も15度を少し上まるほどなのでちょうどいい気候になりそうだ。


昨日の夕方に、蚊が入ってこないように玄関の扉付近に生えている気の枝を切った。ここ最近部屋に大きな蚊が入っていることが2度ほどあり、その他の虫も部屋に入っていることがあって、その原因を考えた時に、家の窓は全て閉まっているし、換気口から虫が入ってくることはないと思っていたところ、ジムに出かける際に扉を開け閉めしている時に虫が入ってきたのではないかと思った。実際に扉付近に茂っている葉や枝を大きな刈りバサミで切っていると、中から蚊や虫が出てきた。それを見て原因はやはりここにあったのだと思った。夏の間にはこまめに庭の草寧ろをしていたが、扉付近の木々の葉を刈るのは盲点だった。もちろんそれがあまりにも伸びすぎている時には刈っていたが、その木々はオーナーのフレディさんの知り合いの方が植えた思い入れのある木々だと聞いていたので、枝や葉を刈ることに抵抗があったのである。昨日はそうとも言っておられず枝や葉を思い切って相当に刈った。それによって外からの見た目も随分とスッキリし、これで玄関の扉を開け閉めしても虫が入ってくることはほとんどないだろう。扉付近の枝や葉を大きな刈りバサミを使って格闘しながら長時間仕事をしていると、刈り終える頃にはすっかり前腕の筋肉が疲弊していた。ジムからの帰り道の日課として、帰り際に買い物をしたら、そのトートバッグを用いてアームカールをしながら歩きながら帰ってくるのだが、それを通じた前腕のトレーニングよりも遥かに効果的だと感じた。こうした庭作業や掃除は身体を用いる素晴らしい実践だと感じたのである。そこから庭の雑草も刈ることにし、雑草を刈っている最中にふと、こうして外注せずに自分で庭の手入れをするのはいいもんだと思った。自然と向き合い、草むしりに没頭することで、身体を通じたある種の瞑想状態になることを実感したのである。草刈りもまた心を清める身体瞑想実践として位置付けていこう。ここから秋がさらに深まり冬になれば、雑草伸びは鈍化するので手入れは楽になるだろう。仮にまた草むしりをすることがあれば、昨日のように身体を通じた瞑想実践として行いたい。フローニンゲン:2024/10/5(土)06:42


13361. 睡眠とサイケデリック体験


時刻は午前7時を迎えた。この時間に活動しているのは自分だけのようで、小鳥たちはまだ活動を始めていない。いや忘れていたのは、暖房も自分と一緒に活動をしてくれている。暖房の存在がなければ、気温3度には耐えられないだろう。


うっすらくと明けゆくフローニンゲンの朝の世界。外の様子が確認できるほどには明るくなっていないが、空がダークブルーに変わり、遠くの空はさらに明るさを増してきている。夜明けを待ちながら改めて睡眠について考えていた。睡眠を意識哲学や意識科学の観点から考えてみるということはこれまであまり意識したことがなく、今後はそれを1つまた新しい探究テーマにしてみるのもいいかもしれない。というのも、睡眠は平均すると人生の3分の1の時間を占めており、他のいかなる活動よりも人生における時間を捧げている活動ゆえに、その活動がもたらす役割や意義、そして価値などを明らかにすることは大切だと思うからだ。自分がこうして毎日心身共に健康で気力に満ちているのは、十分な睡眠を取っているからに他ならない。オルダス・ハクスリーやベルグソンが提唱した脳の減量バルブ仮説に従うと、寝ている時は覚醒時のような外部情報をあらゆるところから取り込もうとするアンテナ機能は活動を休め、覚醒時に取り入れられた情報を整理したり、不要なものは情報的排泄処理がなされるのかもしれない。睡眠中には夢を見ない深い眠りの状態というコーザルの意識状態に誰しも入っていくし、サトルの意識状態で夢を見ている時にも自分は稀に目撃者の意識状態に入ったりする。睡眠中に非二元の意識状態を感じることは難しいが、そもそも非二元は常にいかなるところにもある意識状態であるがゆえに、別途それを立てて非二元の体験を語る必要はないのかもしれない。夢を見ている時にも夢を見ない深い眠りについている時にも背景に非二元が常にあるのである。いずれにせよ、睡眠中の意識状態の変遷と知覚体験は、サイケデリクスを通じた体験と重なる部分がある。もちろん重ならない両者に固有の現象もあるだろうが、とりわけセロトニン系のサイケデリクスを摂取したのと比較的近しいプロセスと知覚体験を睡眠中に見出すことができる。セロトニン系のサイケデリクスがデフォルトモードネットワークを解体し、脳のリセットをもたすのと似たようなことが睡眠を通じて起こっているように思う。睡眠は身体内の細胞とそれに付随するサトルエネルギーをリセットするような働きがあり、それを通じて睡眠後に心身がリフレッシュしたような感じになるのではないかと思える。サイケデリック哲学やサイケデリック科学の知見と睡眠を架橋すれば、睡眠についてまだまだ色々なことが考えられそうである。さらには唯識学といった意識について多角的に扱う思想体系の知見も動員すると、睡眠について未知だったことが開かれていき、より良い睡眠の実現につながっていく取り組みができるかもしれない。意識研究と睡眠研究を佳境させていくことを意識して、意識と睡眠の繋がりについてこれからさらに探究を深めていこうと思う。フローニンゲン:2024/10/5(土)07:17


13362. 今朝方の夢  

 

時刻は午前7時半を迎えた。この時間帯になってようやく辺りが明るくなってきて、小鳥たちも囀りを上げ始めた。朝の世界はひんやりとしているがとても美しく、その清澄さに心が現れるかのようである。時刻はまだ早朝だが、この日記を書き終えたら昨日の枝刈りの続きとして、2階の窓辺付近に茂っている枝葉を刈っておきたいと思う。というのも枝にアブラムシが付着している部分があり、アブラムシが部屋の中に入ってこないようにするためであり、同時に他の虫たちも枝葉から窓の隙間を通じて室内に入ってこないようにするためである。朝食前の朝の一仕事としてそれを速やかにこなしてしまおう。


今朝方の夢について振り返ってみると、次のような夢を思い出した。夢の中で私は、高校時代に過ごしていた社宅のアパートの外にいた。立ち並ぶアパートの棟を見ると、どれも古びていて人が住んでいるようには思えなかった。廃墟と化したアパート群を眺めながら敷地内を歩いていると、小中学校時代のある女性友達(AS)に会った。彼女は女優として活躍していて、その日はなんとこの場所で撮影が行われるようだった。彼女の応援も兼ねて撮影を見学させてもらうことにしたところ、彼女は撮影監督に突然申し出をして、撮影の前に女優を辞めた。その突然の行動にその他の5人の女優たちも驚いていた。それだけ彼女は人気があったし、演技力もあったので意外なことだったのである。とは言え、きっと彼女には何か考えがあるのだろうと思って、後ほどゆっくりと話を伺うことにした。結局彼女の演技する姿を見ることはできなかったが、そこから私たちは食事に行くことにした。その前に、廃墟と化したアパートの外の倉庫に学術書がまるで図書館の中のようにたくさん置かれていて、会計学に関する書籍を1冊手に取った。それは財務会計に関する分厚い専門書で、私は彼女に財務会計とは何かについて、自分が専門としていた管理会計との違いの観点からわかりやすく説明した。小学生にもわかるような説明を心がけたため、彼女もすぐさま両者の違いについて理解してくれた。彼女と会って話をするのは非常に久しぶりだったが、その変わらぬ性格の良さには心が癒され、これから食事を通じて色々と話をするのが楽しみだった。いざ食事に出掛けていこうとすると、アパートの棟の横でお世話になっているフローニンゲンのジムのオーナーと出会った。彼は突然、廃墟となったアパートの中に侵入者がいると主張し始め、彼らは何か犯罪を企てていると述べた。それは大変だと思い、彼らの犯罪を阻止しようと思ったのでさらに詳しく話を聞いてみると、オーナーは情熱的に犯罪者たちについて語り始め、情熱の涙を流し始めた。まさか情熱的に語ることによって涙を流すとは思ってもいなかったので、最初は少し戸惑ったが、涙を流しながらだとうまく話ができないようだったのでまずは彼を落ち着かせることにした。彼を宥めるように優しい言葉をかけると、彼は落ち着きを取り戻し、犯罪者たちの特徴や様子について語ってくれた。その情報さえあれば犯罪者たちの行動を食い止めることができると思ったので、彼女には安全な場所に避難してもらい、自分1人で彼らの活動を阻止しに向かおうとした。そのような場面があった。フローニンゲン:2024/10/5(土)07:48


13363. 今朝方の夢の続き


時刻は午前9時を迎えた。今、朝日が輝きを増している。つい今し方、2階の窓の外に生えている木々の枝葉を刈った。昨日と同様に大きなハサミで刈ったのだが、またしても前腕部分の筋肉が筋肉痛になりそうである。それに付随して握力も低下している感じがする。この一軒家に住み始めてもう丸4年が経ち、来年の4月からは5年となるのだが、これまで窓の近くの木々の枝葉を自分で刈ることとは一切していなかったので、その期間に伸びていた枝葉の成長度合いに改めて驚かされた次第である。外側の木造部分に木が同化するかのようにびっしりと力強く枝葉を伸ばしている姿は改めてみると圧巻であった。木々にあまり痛みを与えないように意識しながらも、家の窓から虫が入ってこないようにするためにもしっかりと枝葉を刈っておいた。ここからは寒さが厳しくなることもあり、木々の枝葉の成長も鈍化するであろうからしばらくは枝葉を刈らなくて良さそうである。それにしても気温が依然として3度ということもあって、外に出て大きなハサミを倉庫に取りに行った際にはとても寒さを感じた。また、窓を開けながら室内から腕を伸ばして枝葉を切っているときにも鋭い寒さを感じた。それを受けてもうすっかりと秋が深まっていることを実感した次第だ。倉庫にハサミをとりに行った際に程よく日光を浴びることができ、早朝から庭仕事をしたことのメリットを享受した形となる。


今、庭仕事を終えて温かい抹茶を飲みなら寛いでいる。すると、今朝方の夢の続きを思い出した。夢の中で私は、前職時代のオフィスの中にいた。ちょうどメンバーとのランチから帰って来たところであり、ランチの際には私服で出掛けていたのでワイシャツを着てスーツに着替え直した。いざ午後の仕事に取り掛かろうとすると、上司に声を掛けられた。仕事の依頼かと思いきやそうではなく、最近の自分の働き方に対するフィードバックのコメントをもらった。その上司は性格が優しく、やんわりと自分の最近の仕事におけるあまり集中していない状態を指摘してくれたのだが、自分はその状態にすでに気づいていた。外から見てもその状態がわかるような状況にあるのだなと改めて思ったとき、このタイミングで会社を辞めるのがいいのかもしれないと思った。突然ではあるが、トップのボスがその日は不在だったので、ボスに手紙を綴る形でその日に退職をしようと思った。それゆえ引き継ぎをすることはできない形となり、自分のブース荷物についてはその週の休日の際に引き取ろうと思った。会社を突然辞めると決意してみると、気持ちがスッキリした。ようやく誰の目も気にせずに自分の取り組みを自分のペースで行えることを思うと、気持ちは晴々とし、希望が満ち溢れてきた。そのような夢を見ていた。フローニンゲン:2024/10/5(土)09:14


13364. 第100回のゼミナールのクラスを振り返って 


時刻は午後3時を迎えようとしている。今、フローニンゲン上空には雲ひとつない青空が広がっている。そんな青空を眺めながら、先ほどまで行われていた今日のゼミナールのクラスの内容について振り返り始めた。今日はいよいよ節目の100回目のクラスであった。そんな大台を迎えたクラスであったとしてもいつもと変わらない形でクラスに臨み、実際にクラスもいつもと変わらない充実さがあった。特に今日の話で印象に残っているのは、声による相手への影響力に関するものである。マントラ瞑想はまさに特定の周波数の音を発することを通じて、身体のエネルギーの結節点であるチャクラを刺激し、それらを開発していく。身体のエネルギーポイントは意識の発達とも関連しており、チャクラの開発は意識の涵養でもある。自分はOMのマントラの音を好んでおり、理想はそれぞれのチャクラの音を毎日唱えていくといいのだろうが、ふとしたときにOMのマントラを唱えている自分がいる。今日の話題を受けて、自分のチャクラや意識の開発のためにもマントラ瞑想を再び実践してみようと思った。それは自分に対して意義があるだけではなく、特定のチャクラに対してアクセスできる声を発せられるようになると、それは他者の癒しや成長にもつながると思ったのである。マントラ瞑想の実践は、自利利他の双方の意義があると言えるだろう。


その他には、末那識の力が強く、それでいて意識の段階としても慣習的段階にいて、タイプとしても男性性の強い人との接し方についての話題が印象に残っている。そもそも相手の末那識が強いと思ってしまうのは、こちらの末那識の強さを投影している可能性がある。それに無自覚なままで相手とコミュニケーションを図ろうとしてもうまくいかないだろう。まずは自らの自己執着心の強さを自覚しながら、それに加えて自分という存在は無我であることの自覚も不要な対立や苦しみを避ける上で重要だろう。自分が無我であるという自覚があるとき、無我である自分が相手からどのように見えようが、どのように扱われようが何も気にしなくなる。もちろんこれは言うは易し行うは難しであるが、結局自分が相手からどのように思われているかやどのように扱われているかを気にするというのは自分という存在を固定化し、その固定化した自分を守ろうとする防衛的反応の現れなのだと思う。ゆえに我執を弱め、心を育んでいく実践としては、そうした防衛本能に自覚的になり、そうした現象が現れてくる都度、自分が自己を固定化し、それに執着し、それを守ろうとしているのだと観察すればするだけ、徐々に自分への囚われが減り、そうした状況においても絶えず澄み渡る心であり続けることができるのではないかと思う。フローニンゲン:2024/10/5(土)15:22


Today’s Letter

I pruned some branches and leaves from the trees coiled around the house, thinking that gardening could be a form of meditation. I was fully mindful during the pruning. Groningen, October 5 2024

 
 
 

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