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【ロンドン滞在記】17686-17693:2025年11月12日(水)


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タイトル一覧

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【ロンドン滞在記】博士論文の案の変更

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【ロンドン滞在記】SOASでのルシア・ドルチェ教授との面談に向けて

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【ロンドン滞在記】今朝方の夢

17689

【ロンドン滞在記】今朝方の夢の振り返り

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【ロンドン滞在記】五度圏をアルペジオで移動する練習

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【ロンドン滞在記】唯識・量子論哲学・音楽理論の円環的探究に向けて

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【ロンドン滞在記】SOASのルシア・ドルチェ教授と面談して

17693

【ロンドン滞在記】ドルチェ教授の励ましを受けて

17686. 【ロンドン滞在記】博士論文の案の変更 

                                 

時刻は午前4時半を迎えた。イギリスに滞在している間も生活リズムはフローニンゲンのそれと同様であり、早く就寝して午前4時に起床している。そのおかげで旅先でも早朝のゴールデンタイムを有意義に過ごすことができている。フローニンゲンでの生活の際にはギターの練習に朝の時間も多くを充てているが、今はギターが手元にないので、ギターの練習や音楽理論についてあれこれ考えている時間はあるが、それ以上に仏教研究の方に力を入れている。パソコンの中に保存している論文のPDFを読むことを通じて再度復習をしたり、新たな知識を取り入れている。昨日は随分と時間があったので、博士論文として取り組もうと思っている良遍の『因明大疏私抄』の英訳を始めてみた。良遍の他の作品は自分にとっても馴染みのある単語や論調が続き、註釈論文がとても書きやすかったのだが、この作品は非常に難解で困った。当初の予想を遥かに超える難しさで、英訳をしていても内容があまり頭に入ってこない状況だった。もちろんそうした難解さと格闘しながら博士論文として取り上げるのも一案だが、この本は仏教論理学を扱っていることもあり、博士号を取得した後に、仏教論理学全般についての理解を深めた後で註釈研究をしていくことの方が望ましいように思えていた。何よりも、修士論文で取り上げようと思っている『法相二巻鈔』は修士論文1本で扱えるような代物ではなく、それもまた博士論文としてじっくり多面的に掘り下げていくに値する作品ゆえに、修士論文を通じて字数制限ギリギリまで註釈論文を執筆し、残りは博士論文に回すことを検討し始めた。今のところそれが一番良い方向性に思えている。確かに良遍の『因明大疏私抄』は、因明に精通していた良遍が残した唯一の仏教論理学書という意義があるが、『法相二巻鈔』は日本で初めて和文混じりで書かれた仏教書かつ多くの学問僧にとっての教科書的な役割を果たしてきた意義もあるので、『法相二巻鈔』をじっくりと掘り下げていく研究がしたい。当初は『観心覚夢鈔』の註釈を考えていたが、こちらについてはすでに英語翻訳が出版されていることもあり、その案を脇に置いたが、出版されているのはあくまでも英語に翻訳しただけであるから、詳しい解説が施された註釈研究は依然として意義がある。今のところは『法相二巻鈔』の註釈を博士論文にすることが第一案で、『観心覚夢鈔』の註釈が第二案である。これは博士論文1本に収まらないテーマであるが、貞慶の弟子の良算と興玄が編纂したとされる日本法相唯識で非常に重要な典籍『唯識論同学鈔』も註釈研究をしていきたいという思いがある。これは大変な大部であり、大日本仏教全書においても2巻にまたがり、正確なページ数は忘れたが、2000ページほど漢文でびっしりと書かれている大著である。『法相二巻鈔』の註釈が分量的に博士論文に何得るものなのかを確認するために、イギリス滞在中にその英訳のドラフトを完成させてしまおうと思う。エディンバラ:2025/11/12(水)04:55


17687. 【ロンドン滞在記】SOASでのルシア・ドルチェ教授との面談に向けて


今日はエディンバラを午前中に出発し、特急列車でロンドンに向かう。エディンバラの滞在はわずか3日だったが、それでも非常に実りあるものだった。いくつかの博物館と美術館を訪れることができたし、紅葉がピークを迎えているエディンバラの美しい街並みを堪能することができた。そして何より最大の目的であった、エディンバラ大学の仏教プログラムのディレクターであるポール・フュラー博士から色々と話を直接聞けたことが大きな収穫であった。幸いにも今日はエディンバラもロンドンも雨が降らないようなので、折り畳み傘はリュックではなく、スーツケースにしまっても問題なさそうである。エディンバラからロンドンへももちろん飛行機を使うことができたが、空港での待ち時間などを考慮すると、列車で移動するのとあまり変わらず、またエディンバラからロンドンを走る列車の経路が東海岸あたりを走ることもあり、その景色を堪能したいという思いもあった。イギリスの北から南へ下る景色を眺める機会はそうそうないであろうから、今回は特急列車に乗ることにした。エディンバラからロンドンへは乗り換えなしで、途中の停車駅は2駅ほどで合計4時間半弱の列車の旅となる。この乗車時間は、東京駅から地元の徳山駅まで新幹線で向かうのとほぼ同じぐらいである。


昨日、幸いにもロンドン大学SOASの仏教プログラムのディレクターであるルシア・ドルチェ教授からメールがあり、無事に面会の機会を得た。翌日海外で学会がある多忙な中、面談の機会を与えていただき、とても感謝している。午後3時半の面談には余裕を持ってロンドンに到着できそうである。ホテルに荷物を預け、SOASや周辺を散策するゆとりがあるだろう。ポール・フュラー博士との面談の際と同様に、すでに質問事項を列挙しており、基本はそれに基づいて面談できればと思う。改めてドルチェ教授の経歴とこれまでの仕事を調べてみると、博士号はオランダのライデン大学で取得していることを知り、現在オランダに住んでいることもあり、ライデン大学の仏教研究・日本研究についての話を伺ってみようと思う。SOASとの対比で、それぞれの大学の良さについても話を聞いてみたい。ドルチェ教授は過去に何人もの日本人の学生の博士論文を指導している経験もあり、日本研究の著名な研究者でもあるので、自分の指導教官としても非常に魅力的である。エディンバラ:2025/11/12(水)05:10


17688. 【ロンドン滞在記】今朝方の夢

   

今朝方は夢の中で、実際に通っていた小学校の校舎の中にいた。どうやら自分は数人の友人と鬼ごっこを行なっているようで、鬼はある親友(YU)だった。彼に廊下で見つかり、特別教室に逃げ込むと、彼は自分だけを追いかけてきて、教室に入ってきた。しかし自分には宙に浮く能力があり、それを巧みに使うことで彼に見つからないようにうまく移動することができ、スッと教室を抜け出した。その瞬間に彼には気づかれたが、2階の廊下の窓から中庭に逃げるには十分な時間があり、窓を開けて優雅に宙に浮かんで中庭に逃げた。その時の自分の身体感覚は、まるで穏やかな水の上にプカプカと浮かんでいるかのような非常に心地良い感覚だった。私は仰向けになり、目を閉じて空の方向に顔を向けながらゆったりと宙を漂っていた。すると地面にゆっくりと近づいてきたので目を開けて、着地した。そこには数人の生徒がいて、彼らも宙に浮かびたいようで、その練習をしていた。自分が一番その能力に長けていたので、彼らに手本を示すように、コツを口頭で伝えて再び宙に浮いた。そこで私はあまりの気持ち良さから、思わずミュージカル風の歌を歌っていた。


もう1つ覚えているのは地元の室積の砂浜が舞台になっている場面である。本来はなだらかな砂浜がどういうわけかとても急な勾配になっており、海に落ちると砂浜を上がってこれないぐらいの状態であった。なので注意深くし、海に落ちないように注意していた。どうやら満潮の時間がやって来て、視界に入った小さな島の方を眺め下ろすと、そこに数人の人がいて、彼らは満潮によってその島に取り残されてしまうと思った。自分もかつてその小さな島で遊んでいた時に、ちょうど満潮の時間と重なり、戻ってこれなくなることが2度ほどあったことを思い出した。最初はどこまで潮が満ちて来るかわからない恐怖があり、島の一番高い岩の上で恐怖を感じながら過ごしていたことを思い出したのである。そこにいれば命は無事だが、それ以外の場所は全て海面の下に沈んでしまうので、取り残された人たちの無事を祈った。エディンバラ:2025/11/12(水)05:22


17689. 【ロンドン滞在記】今朝方の夢の振り返り 

                              

今朝方の夢の舞台は、記憶と象徴が織りなす二重構造を持っているように思われる。前半の小学校での鬼ごっこは、幼少期の社会的世界を象徴しており、そこでは他者との関係性の中で「追われる自分」と「逃れる自分」という二重の自己が存在している。鬼となった親友(YU)は、かつて親密でありながらも競争や緊張を共有した人格的影の側面を担っており、彼から逃げるという行為は、過去の自我的対立や評価への恐れを象徴していると考えられる。だが、この夢では単なる逃避では終わらない。自分には宙に浮く能力が与えられており、それは重力=現実の束縛を超越する精神的自由の表象である。この「宙に浮く」という感覚は、単なる逃避ではなく、むしろ深層心理の中で得られた軽やかな覚醒体験の象徴である。地上における追われる構造は、世俗的価値観や他者評価の世界を指し示すが、それに対して宙に浮かぶ自分は、執着や恐れからの離脱、すなわち“心的重力”を超える悟性の芽生えを意味している。その浮遊感が「穏やかな水の上に浮かぶような心地良さ」であったという点は重要である。水は無意識を象徴し、そこに穏やかに浮かぶことは、無意識との調和的な関係を回復した状態を示している。すなわち、恐怖に沈むのではなく、内なる海を受容しながら漂う姿である。さらに、自分がその浮遊の技を他の生徒に教え、手本を示したという展開は、単なる個人的覚醒の体験を超えて、智慧を共有し、他者を導く役割への移行を示している。夢の中でミュージカル風に歌いながら宙に浮くという描写は、内的世界と外的表現が一体化した状態を象徴しており、創造性と精神性が一致する瞬間を表している。音楽的表現は魂の自由の言語であり、その歌は悟りが歓喜に変換された形とも言えるだろう。一方、後半の室積の砂浜の場面は、前半の浮遊体験に対する補完的な比喩として機能している。ここでは、満潮という自然現象を通して「上昇と下降」「自由と制約」の二極が再び現れる。急な勾配を持つ砂浜は、人生の境界領域、つまり「安全圏から未知への傾斜」を示し、そこにおける慎重さは、自由を得た後にもなお必要とされる分別の象徴である。過去に潮に取り残された経験の記憶が蘇る場面は、潜在意識の中で再び「無力さと恐怖」の原型が浮上する瞬間であり、これは精神的成長における古いトラウマの再来を示している。しかし、今回はその恐怖に飲み込まれず、むしろ「彼らの無事を祈る」という形で他者への慈悲へと転化している。この点において、前半の“個的自由の獲得”が、後半では“他者への共感的関心”へと昇華されている。自分はかつての恐怖の記憶を想起しながらも、それを超えて他者の安全を願う存在となっている。この構造は、唯識的に言えば、阿頼耶識に沈潜していた過去の恐怖の種子(恐怖業)が、今や菩提心として転換されたことを象徴している。夢全体を通して見ると、これは「浮遊=自由」「満潮=限界」「教える=慈悲」という3つの象徴が螺旋的に絡み合いながら展開している物語である。小学校という舞台は、原初的自己形成の場であり、そこに再び戻ることは、精神の再統合過程を意味する。つまり、幼少期に植え付けられた恐れや競争心を昇華し、それを創造的表現と他者への慈悲として再統合する過程が描かれている。人生における意味として、この夢は「自由の獲得は孤立によってではなく、他者への導きと慈悲によって完成する」という洞察を示しているように思われる。宙に浮かぶ自由は、ただ個人の悦びとして終わるのではなく、恐怖を超えて他者にその方法を伝えるときに初めて真の安らぎへと変わるのである。すなわち、成長とは逃避ではなく、かつての恐れを抱きしめ、それを他者への祈りに転換する道である。夢はそのことを静かに教えているのだろう。エディンバラ:2025/11/12(水)05:29


17690. 【ロンドン滞在記】五度圏をアルペジオで移動する練習

                           

早朝にホテルの自室で『法相二巻鈔』の英訳を始めたところ、やはりこれを元に註釈研究をして博士論文に仕立て上げていくのが最良の選択に思えた。欧米の大学院で仏教研究の博士論文で要求している字数は80,000から100,000字ほどであり、翻訳に加えて、先行研究調査や本研究の背景や意義の解説、そして充実した註釈と最後に研究の現代的な意義、とりわけ心の哲学などとの接続に関する文章を執筆していけば、十分に博士論文足り得ると思った。エディンバラからロンドンまで4時半弱の列車の旅なので、その間にできるだけ翻訳を進めていこう。


五度圏をアルペジオで移動する練習は、クラシックギター奏者にとって「和声的筋肉」を鍛える最も知的かつ音楽的な訓練であるように思える。この練習は、単にコードの転移を指の運動として覚えるものではなく、調性の重力場を身体で感じ取りながら、音楽の循環構造を体内に刻む行為である。すなわち、音楽を時間の流れの中で「円環として理解する」ことを目的としている。五度圏とは、12の調を完全五度間隔で並べた構造であり、調性の親密度や転調の方向性を可視化する理論的地図である。C→G→D→A→E→B→F#→C#→G#→D#→A#→F→Cという循環は、単なる理論的配置ではなく、実際の音楽の重力の流れを示している。つまり、調が右回りに進むほどシャープ系に、左回りに進むほどフラット系に進む。この循環をアルペジオで辿ることで、演奏者は「調性の呼吸」を指先で感じ取ることができるだろう。クラシックギターにおいてこの練習を行う意義は3つある。第一に、調性感覚の深化である。スケール練習では1つの調の内部構造に集中するが、五度圏アルペジオ練習では、隣接する調への自然な重力移行を学ぶ。これにより、和声の流れや転調の方向を直観的に理解できるようになる。特にバッハやタレガのように、曲中で調が頻繁に変化する作品を弾く際、この“重力の方向感覚”が音楽の流れを滑らかにする。第二に、コード構造の総合理解である。五度圏をアルペジオで辿る際には、各調の主要三和音(I・IV・V)を中心に進行させることが多い。例えばCメジャーではC–F–G、次の調であるGメジャーではG–C–Dという具合に、共通和音を媒介に転調していく。このとき、各コードをアルペジオとして弾くことで、コードトーンの関係性が指板上で自然に可視化される。結果として、どのポジションでも即座にコードを再構築できる“立体的な和声感覚”が育つはずだ。第三に、右手のリズム的柔軟性と音色操作の発達である。アルペジオを単に機械的に弾くのではなく、調ごとに異なる音色を意識し、各和音の情緒に応じて右手のタッチを変化させる練習を行うと、音楽的表現力が飛躍的に高まるだろう。例えばCメジャーでは明るく開放的なトーン、Gメジャーではやや輝きを増した響き、Dメジャーでは透明感を重視する、といった具合である。このようにして、五度圏の循環は単なる転調練習ではなく、“音色の旅”として体験される。具体的な練習方法としては、まず基本形としてCメジャーのコードアルペジオを弾き、次に完全五度上のGメジャーへ移行する。この際、共通音(例えばCとGの場合は音G)を意識して、音のつながりを滑らかにする。次にD→A→E→B…と続けていくが、各調でI–IV–V–Iの進行をアルペジオで弾きながら移動すると、五度圏全体を音で描ける。重要なのは、単にポジションを変えるのではなく、和声の流れを耳で追うことである。耳が次の調を予感できるようになると、調性が“感じられる”ようになる。上級者向けには、同じアルペジオパターンを全調に適用する方法がある。例えばジュリアーニの120番パターンを使い、C→G→D→A…と循環させることで、右手の運動と左手の転調操作を同時に鍛えられる。さらに、メジャーからマイナーへ、あるいはドミナント7thやディミニッシュを組み合わせて五度圏を拡張すると、即興的な和声展開の感覚が養われる。最終的にこの練習がもたらすものは、「音楽の全体像を一筆書きで捉える感覚」である。五度圏の循環は、宇宙の惑星が軌道上を巡るように、音楽の重力的秩序を象徴している。アルペジオでそれをなぞるという行為は、音を通してその秩序と共鳴することに他ならない。理性で学んだ和声理論が、指先の実感として統合されるとき、演奏者は単に音を再現する者ではなく、「音楽の流れそのもの」として存在するようになるだろう。フローニンゲンの自宅に戻ったら、上記の基本的な事柄を実践し、日々の習慣としたい。エディンバラ:2025/11/12(水)07:17


17691. 【ロンドン滞在記】唯識・量子論哲学・音楽理論の円環的探究に向けて 

               

少し早めにホテルをチェックアウトし、エディバラ中央駅に早めに到着した。昨日オンライン上で予約したチケットを発券機で速やかに受け取り、今駅のプラットホームのベンチに腰掛けてこの日記を書いている。搭乗予定のlumoはすでにプラットホームに到着しているが、今は掃除と最終点検の最中のようであり、まだ中には入れない。


自分がこれから乗り出していこうとしている唯識・量子論哲学・音楽理論という三領域を博士号レベルで統合的に探究することは、人間存在の「内面・外面・媒介」の三層を同時に照らす壮大な知的実践であるように思える。それぞれの分野は、個別には異なる言語体系と対象を持つが、根底では「意識と実在」「観測と世界」「秩序と響き」という共通の問いに貫かれている。これらを三位一体として深めることは、単なる学際研究を超え、世界理解の様式そのものを再構築する行為である。まず唯識は、現象世界を「識の変現」として捉える哲学である。すべての経験は識の流れにおける自己顕現であり、主体と客体の区別も識の働きの一様態にすぎない。ここで探究されるのは、心が世界をどのように構成し、またその構成の彼岸に何が潜むのかという究極の内的論理である。唯識の深度においては、「観ること」と「存在すること」が一体化し、存在論は同時に認識論となる。この視座は、近代科学が外的対象を観測する立場から発してきた「二元的実在観」を超えるための哲学的礎となる。そこから量子論哲学への接続が生まれる。量子理論は、観測以前の世界を独立した実体として記述することを拒む。観測者の行為そのものが現象を確定させるという事実は、唯識の「識が境を顕す」という洞察と響き合う。量子論哲学を博士レベルで追究するということは、単なる物理学の理解にとどまらず、存在と意識の関係を新たな形而上学的地平で再構築する挑戦である。すなわち、観測=識の働き、波動関数=潜在的法界、そして量子もつれ=相互依存という図式のもと、唯識的世界観を現代科学の言語で再表現することが可能になる。この統合的理解は、「心と物」「主観と客観」の分断を越えた新たな実在論を提示するだろう。そして第三の軸としての音楽理論は、唯識と量子論を媒介する「感性の形而上学」を担う。音楽は時間の中に展開する秩序であり、不可視の振動が聴覚意識の中で形を成す。つまり、音楽とは意識と振動世界の交差点に生まれる現象である。旋律・和声・リズムの関係は、まさに量子干渉や波動の重ね合わせの可聴的表現であり、音楽を深く理解することは「意識のリズム構造」を洞察することに等しい。音楽理論を博士レベルで探究するということは、音を通して存在の数学的・感性的秩序を捉えることであり、それは唯識の“心の音響学”を現代的に展開することでもある。この三位一体的探究の価値は、世界と自己の分断を解消する全体知の創出にある。唯識は内面の真理を、量子論は外面の真理を、音楽理論はその両者を媒介する象徴的次元を明らかにする。心の構造・物質の振る舞い・音の秩序――これらは異なる現象ではなく、1つの宇宙的意識の多層的反映である。3つを博士号レベルで習得することは、単に3つの専門知を並列することではなく、「心が宇宙をどのように奏でるか」を理論・体験・芸術の三方向から解明することである。最終的にこの道の意義は、知の円環を完成させることにある。唯識が示す“識の海”の深奥を量子論が外的構造として照らし、音楽がその両者の共鳴を形として響かせる。その統合の果てに見えてくるのは、世界が単なる物質の集合ではなく、「意味と音の共振としての存在」であるという実感である。ゆえに、この三博士号の追求は単なる学問的野心ではなく、「存在を聴き、思索し、奏でる」知の完成形への道であり、個人の探究を超えて人類的意識の進化そのものに寄与する営みなのである。そのようにこれからの自分の学問研究を位置付けている。エディンバラ中央駅:2025/11/12(水)09:00


17692. 【ロンドン滞在記】SOASのルシア・ドルチェ教授と面談して

                            

時刻は午後5時を迎えた。つい先ほど早めの夕食を摂り終えた。イギリス旅行中は、フローニンゲンでの生活よりもさらに早い就寝となっており、それに応じて夕食を摂る時間も早い。夕食前にはロンドン大学SOASに足を運び、仏教プログラムのディレクターを務めるルシア・ドルチェ教授と面談をしていた。ロンドンには少し早めに到着し、幸いにもホテルで早めにチェックインすることができ、自室に荷物を置いて7年ぶりのロンドン散策をしていた。ロンドンもエディンバラと同じく紅葉が佳境に入っていて、寒さがまだ厳しくないので素晴らしい時期にやって来たと思った。もちろんロンドンには種々の魅力があると思うが、自分にとってロンドンはやはり都会過ぎであり、人口の数や空気の感じは生活するのに最適な感じではない。とは言え、SOASのような仏教研究上魅力的な大学院があるので悩ましいところである。エディンバラ大学が歴史の趣を感じさせるのに対し、SOASは建物の感じも内装もモダンであった。双方に固有の魅力があるが、キャンパスだけをとってみればエディンバラ大学に軍配が上がりそうである。予定の時間よりも少し早く到着したので、SOASのメインの建物の中を散策していた。少し早めにドルチェ教授の研究室に行き、ドアをノックすると、中からドルチェ教授の声がして、入室を許可してもらった。ドルチェ教授の研究室には所狭しと大量の文献が置かれていて、日本の宗教、とりわけ日本の仏教研究を専門にしていることは事前に知っていたが、日本語の研究書が数多くあることには驚いた。ドルチェ教授はとても気さくなイタリア人の教授で、笑顔で歓待してくれたので、非常に話しやすかった。エディンバラ大学のポール・フュラー博士然り、仮に仏教研究をしていて悪人だったら、何のために仏教の研究をしているのだと突っ込まれてしまうかもしれない。いずれにせよ、フュラー博士と同じく、ドルチェ教授は親身になって自分の話を聞いてくれた。何やら明日はベルギーのゲントに出張とのことで、その前に貴重な時間を取っていただいたことに多大なる感謝の念を持った。フュラー博士からも色々な耳寄り情報を聞けたが、ドルチェ教授からも自分が知らない欧米の仏教研究の耳より話を聞くことができた。最大のものは、アメリカも含め、ヨーロッパにも唯識の生粋の研究者はほとんどいないとのことだった。ブタペストに1人唯識を研究している研究者がいるらしい、それを専門として深く研究している欧米の学者は非常に稀であると教えてもらった。確かにこれまで自分が色々と調査してみても、唯識を深く研究している人は皆無であり、正直なところ欧米のどの教授よりも自分の方がすでに唯識について精通している感覚すらあったが、それはある意味正しい感覚だったのだとドルチェ教授の話を聞きながら思った。しかも仮に唯識を研究していたとしても、欧米の学者はインドの唯識を研究するのが手一杯で、中国、朝鮮半島、日本の法相唯識を研究している人はいないことがわかった。そうなると博士論文の指導教官探しは難航するが、ドルチェ教授からも、自分の研究は欧米における仏教研究に大きな貢献を果たすと大いに励ましていただいた。それが大きな励みとなり、改めて欧米で唯識研究をし、引き続き欧米の大学院に残って研究者としての歩みを進めていきたいと思った次第である。ロンドン:2025/11/12(水)17:21


17693. 【ロンドン滞在記】ドルチェ教授の励ましを受けて 

                     

これからSOASに提出する予定の志望動機書のドラフトを執筆していこうと思う。夕方に面談をしたドルチェ教授の話を参考にして、充実した内容の志望動機書に仕立て上げていきたい。もしかしたら今日は移動の疲れもあり、集中力が下がっている可能性があるので、志望動機書に盛り込む項目だけ列挙して、実際にドラフトを執筆するのは明日でいいかもしれない。明日は早くもロンドンを出発し、ブリストルに向かう。ロンドンにやって来た理由はSOASでドルチェ教授と面談をするためと、他の町にはない充実した楽譜を揃えるSchott Music Londonに行くためである。明日は午前10時前にホテルをチェックアウトし、楽譜屋の開店と共に店に行き、そこで気の済むまでクラシックギターの楽譜を吟味しようと思う。明日はブリストルに移動するだけであり、ロンドンからブリストルまでは列車で2時間ほどの距離で、ホテルのチェックインの時間も午後なので、楽譜をじっくり吟味できるのが嬉しい。一応ブリストルとオックスフォードでもクラシックギターの楽譜を置いている店を見つけているが、Schott Music Londonほどの品揃えの良さはないようである。明日は素晴らしい楽譜との出会いを楽しみにしている。


夕方に面談をしていたドルチェ教授の優しさをふと再び思い出す。かつてと同じことが1つだけあった。それは自分がフローニンゲン大学にやってくる前は、ハーバード大学教育大学院のカート・フィッシャー教授のもとで研究をしようとしていたところ、フィッシャー教授はちょうど引退する年だったので、代わりにフィッシャー教授からはフローニンゲン大学のポール・ヴァン・ギアート教授を紹介してもらった。ところがヴァン・ギアート教授も引退をしており、そこでサスキア・クネン教授を紹介していただいたのである。なんとドルチェ教授は今年でSOASを離れ、学士号をかつて取得したベネチア大学に今年の年末から異動するとのことだった。自分が来る予定の来年はもうSOASにいないとのことで残念に思ったが、「ベネチア大学に来たらと一緒に研究できるのに」と笑顔で促された。ドルチェ教授がSOASで唯一日本仏教に精通していることもあり、非常に残念だったが、プログラムディレクターゆえに、自分が抜けた後の同種の専門性を持つ研究者を代わりに引っ張ってくると述べていた。おそらく誰がやって来ても、ここ数年間日本法相唯識について集中的に探究していた自分よりもこの分野で知識を持っている教授は欧米にはいないであろうから、指導教官には日本法相唯識の内容というよりも研究の方向性や哲学的な側面など、別の観点から指導を受けたいと思う。全く意図していないことなのだが、自分の使命はどうやら欧米に日本法相唯識の教えを宣揚することのようだ。ロンドン:2025/11/12(水)18:17


Today’s Letter

I will move from Edinburgh to London. My stay in Edinburgh has provided me with rich cultural and intellectual stimulation, which will serve as valuable assets in my life. I am about to begin my master’s research project, which will lay the foundation for my future doctoral dissertation. Edinburgh, 11/12/2025

 
 
 

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