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【エディンバラ滞在記】17676-17685:2025年11月11日(火)


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タイトル一覧

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【エディンバラ滞在記】本日の観光予定とSchott Music Londonへの期待

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【エディンバラ滞在記】今朝方の夢

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【エディンバラ滞在記】今朝方の夢の振り返り

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【エディンバラ滞在記】CAGED(ケイジド)システムについて

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【エディンバラ滞在記】志望動機書のドラフトを執筆し終えて

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【エディンバラ滞在記】CAGEDシステムのマイナーコードへの応用

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【エディンバラ滞在記】CAGEDシステムのクラシックギターでの応用

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【エディンバラ滞在記】スケールの身体知化

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【エディンバラ滞在記】マウロ・ジュリアーニの《120の右手アルペジオ練習》を友として

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【エディンバラ滞在記】スコットランド国立近代美術館を訪れて

17676. 【エディンバラ滞在記】本日の観光予定とSchott Music Londonへの期待 

                 

時刻は午前4時半にゆっくりと近づいている。今日もまた午前4時前に目を覚ました。午前1時に途中で目を覚ましたように、オランダとイギリスの時差はたった1時間ではあるが、それが意外と生体リズムに影響を与えていることがわかる。いずれにせよ昨夜もまた午後8時過ぎには就寝をしていたこともあり、この時間帯に起きても心身は十分に回復しており、今日もまたエディンバラ観光を楽しめるだろう。今日は運動がてら、ホテルから片道45分間ほど歩いてスコットランド国立近代美術館に行く予定である。この美術館は2つの建物に分かれており、それぞれコンセプトが違い、所蔵作品もそれに応じて異なるであろうから、両方をじっくり見てきたいと思う。本日の観光はここを訪れるだけだ。ホテルから美術館までの道のりはまだ歩いたことがないものなので、散歩しながら景色を楽しめるだろう。11月も中旬を迎えようとしており、紅葉が深まるエディンバラの街並みは一際美しい。


明日からロンドンに移動となるが、ロンドンでは出願予定のSOASを見学することを楽しみにしているのはもちろんのこと、世界的に有名な楽譜専門出版社のSchott Musicのロンドン支店に足を運ぶことを大いに楽しみにしている。そこでクラシックギターの楽譜で良いと思ったものは全て購入する予定で、きっと今の自分の関心を惹く楽譜があるに違いない。Webサイトからクラシックギターの楽譜を検索すると、なんと1540件もヒットしたので、リアル店舗にも相当豊富に楽譜を取り揃えているのではないかと思う。ロンドンはかつて2度ほど訪れ、その時に十分に観光しているので、今回はSOASとSchott Music London以外に行きたい場所がなかったので、滞在はわずか1日だけとなる。そころからブリストルに移動する形で旅は進む。


今日はこれから朝食までの時間、そして美術館に行くまでの時間を使って、エディンバラ大学に提出する志望動機書の続きを執筆しようと思う。昨日の段階ですでに執筆項目を列挙していたこともあり、ドラフトの作成は速やかに進むのではないかと思う。こうしてイギリス滞在は種々のやるべきことを着実にこなしながら充実した形で進んでいることを嬉しく思う。エディンバラ:2025/11/11(火)04:33


17677. 【エディンバラ滞在記】今朝方の夢

 

今朝方は夢の中で、かつて勤めていたコンサルティングファームのオフィスが舞台になっていた。そこには当然ながら見慣れたメンバーの顔ぶれがあり、いつもと同じく陽気な気分で自分の席で仕事をしようと思った。すると、自分の机が他の机と連結されており、広くなっているのはいいものの、机の上には現在取り掛かっているプロジェクトだけではなく、自分が携わっていない他のプロジェクトの資料が大量に山積みになっていた。それをレビューすることを依頼されたわけではないが、他にやることもあまりなさそうだったので、徐に資料を手に取り、パラパラと眺め始めた。すると、小中高時代のある友人(SS)がやって来て、5つの小鉢がプラスチックの容器にそれぞれ詰められ、それらが連結された料理を持って来てくれた。どうやらそれは彼が作ったわけではないが、彼の考案によって生み出された料理のようで、早速いただくことにした。自分はどうやら和食に対する飢えのようなものがあるらしく、自分の心身を最も癒し、涵養してくれるのは和食に限ると最近特に考えていたこともあり、彼が提供してくれた料理はとてもありがたかった。一口食べてみると、そのあまりの美味しさに舌鼓を打ちながら、全てをすぐさま平らげた。すると気づけば自分は見慣れない川沿いのマンションの外にいた。川の向こうには両親が住むマンションが見えた。私の横には前職時代の同僚の女性がいて、私は彼女をそこに置いて空を飛んで両親のマンションに向かうことにした。すると彼女は走って川を架ける橋を渡って自分と同じマンションを目指し始めた。空を飛ぶ自分の身体はとても軽やかで、いくら彼女が早く走ったからといって自分には追いつけるわけではないと思いながら、速やかにマンションの方に向かった。両親が住む部屋のドアの前に辿り着くと、あることをふと思い出した。それは実家で飼っていた両手に乗るぐらいの大きさのトカゲをかつて踏んでしまい、殺してしまったことがあったことである。自分は足元にトカゲがいることが気づかず、喉を踏んでしまい、その瞬間にトカゲは悲鳴を上げることは全くなく、すぐに死んでしまっていたのである。自分は母にトカゲが死んでしまった本当の理由を打ち明けることができず、気づいたら死んでいたと嘘をついてしまっていた。そのことが思い出され、実家の部屋のドアを開けることができず、引き返すことにし、また空を飛んでどこか別の場所に行こうと思った。エディンバラ:2025/11/11(火)04:50


17678. 【エディンバラ滞在記】今朝方の夢の振り返り  

           

今朝方の夢の舞台は、かつて勤めていたコンサルティングファームという過去の自己形成の象徴的空間であった。そのオフィスは合理性と効率性の象徴であり、同時に社会的役割を担う自我がもっとも鮮明に機能していた場である。そこにおいて、自分の机が他の机と連結され、知らぬ間に他のプロジェクト資料が山積みになっていたという光景は、自己の境界が他者の領域と融合しつつあることを示す。ここでの「連結」は単なる物理的な描写ではなく、自己の内的統合過程を象徴している。すなわち、過去に関わったさまざまな役割や未消化の経験が現在の意識へと接続され、再統合を求めているのである。依頼されていないにもかかわらず資料を手に取る行為は、外的義務を超えて内的必然によって自己省察に向かう意志の表れである。そこへ登場する友人SSは、過去の純粋な関係性の象徴であり、社会的仮面を超えた自発的な情緒的交流を代表している。彼が持ってくる「5つの小鉢が連結された料理」は、五感あるいは五蘊の象徴とも読める。プラスチックという素材は一時的で人工的な現代社会の象徴であるが、その中に盛られた料理の滋味は、生命の根源的な養いを示している。和食に対する飢えとは、原初的な自己回帰の欲求であり、文化的・精神的母体への回帰衝動でもある。その料理を全て平らげる行為は、自己同一性の再生を意味し、分断された内的要素を完全に吸収し直す儀礼的行為であるかのようだ。食後に場面が川沿いのマンションに転移するのは、意識の層が次の段階へと移行した徴である。川は無意識と意識、過去と現在、生と死を隔てる境界であり、両親のマンションが対岸に見えることは、原初的絆と今の自己との距離を象徴する。そこに同行する前職の同僚の女性は、社会的自己(persona)のもう1つの側面、すなわち理性と感情のバランスを象徴している。自分が空を飛ぶのに対し、彼女が橋を渡るのは、同じ目的地へ異なる方法で向かう2つの意識の道を示す。空を飛ぶ軽やかさは、精神的上昇、執着からの離脱、あるいは自由への希求を表すが、その飛翔が他者を置き去りにしようとする形でなされる点に、この自由がまだ関係性の中で完全に成熟していないことが示唆される。やがて辿り着く両親のマンションのドアの前で思い出す「トカゲを踏み殺した記憶」は、この夢の核心である。トカゲは古来より変容、再生、潜在意識の象徴であり、それを「喉を踏む」ことで殺してしまうというのは、自己の内に宿る生命的衝動や創造的エネルギーの声を無意識に抑圧し、沈黙させてしまった行為を意味する。母に真実を告げられなかったという点は、過去の罪悪感、未完の告白、あるいは内なる女性性(感情・直感)への誠実さを欠いた自我の痛みを象徴する。この抑圧された記憶が、ドアの前で立ち止まらせ、帰郷(すなわち自己全体との和解)を妨げる。ここにおいて、夢は「真実の声を封じたままでは、家(self as home)には帰れない」という深層的メッセージを示しているのかもしれない。引き返し、再び空を飛ぼうとする終幕は、逃避ではなく、再出発の予兆である。自己の過去と罪を直視した上で、なおも軽やかに未知の領域へ飛び立とうとする姿は、贖罪と超越の境界に立つ魂の姿である。トカゲの死を想起した瞬間に感じた胸の痛みこそが、内的成長の契機となり、隠された生命の声を再び聴くための扉となる。この夢が人生に示す意味は明確である。すなわち、過去の過ちや抑圧された感情と正直に向き合うことによってのみ、真の自己統合と精神的自由が得られるということである。社会的役割や成功を超え、感情と理性、過去と現在、他者と自己の分断を越えていくこと。和食を食す場面が象徴するように、自己の根源的文化的魂を滋養するものを忘れず、それを完全に受け入れること。それによってのみ、人は「飛ぶ」ことではなく、「帰る」ことを学ぶのである。エディンバラ:2025/11/11(火)04:59


17679. 【エディンバラ滞在記】CAGED(ケイジド)システムについて


先日自宅でギターの音楽理論書を読んでいると、「CAGED(ケイジド)システム」というものに出会った。CAGEDシステムにおいて「B」と「F」が含まれない理由がまず気になり、それは、ギターという楽器の構造的特徴と、ポジション移動による音名の可変性に関係していることを知った。CAGEDとは、C・A・G・E・Dの5つの基本コードフォームを指し、これらを指板上でスライドして使うことで、すべてのキー(調)や和音を網羅できるという考え方に基づいている。つまり、CAGEDは「特定のコード名」ではなく「特定の形(フォーム)」を指しており、BやFが含まれないのは、それらがこの5つの形をもとにすでに表現可能だからである。まず、ギターのチューニング構造を理解する必要がある。ギターは基本的にEADGBEという4度+3度構成のチューニングを採用しており、この構造の中で、開放弦を利用して自然に形成できるメジャーコードが5種類存在する。それがC、A、G、E、Dの各フォームである。例えば、開放弦を含むCコード(Cメジャー)は、3フレット以内で自然に押さえられるが、BメジャーやFメジャーは開放弦では作れない。BやFを弾こうとすると、必ずバレー(人差し指で複数の弦を押さえる技法)を用いる必要がある。したがって、BやFは「開放形のフォーム」としては存在せず、CAGEDのどれかをスライドして作られる派生形にすぎない。具体的に言えば、BメジャーコードはAフォームを2フレット上に移動した形で、FメジャーコードはEフォームを1フレット上に移動した形で表現できる。つまり、B=Aフォーム+2フレット移動、F=Eフォーム+1フレット移動であり、これらはCAGEDの原型を移動させて作られる「可動フォーム(movable shape)」である。ゆえに、CAGEDシステムの枠組みにおいてBやFをわざわざ独立したフォームとして設定する必要がないのである。もう少し音楽理論的に言えば、CAGEDの5フォームは指板全体を均等にカバーできるように設計されており、これ以上フォームを増やしても体系的な利点は得られない。ギターの12フレット構造を考えると、C→A→G→E→Dという順でフォームを繋げると、オクターブ上のCに戻るまでの全指板をシームレスに覆うことができる。もしBやFを追加してしまうと、同じ構造を重複して学ぶことになり、学習体系が煩雑になる。CAGEDは「最小限の形で最大限の応用を生む」設計思想であり、そのために5フォームで十分なカバレッジが得られるように選定されている。さらに、歴史的背景を補足すると、CAGEDシステムはジャズやロックの教育現場で「ポジションとスケールを体系化する方法」として広まったが、もともとはクラシックギターのポジション概念にも通じる。クラシックギターではフォームの名称こそ使わないものの、ポジションごとに和音構造を把握する訓練が行われている。つまり、CAGEDの思想はギターという「移動可能な開放弦楽器」の特性を利用した合理的な認識法であり、BやFといったキーも、この枠組みの中で自在に導き出せる。結論として、CAGEDシステムにBとFが含まれないのは、それらが独立したフォームを必要としないためである。5つの開放形(C・A・G・E・D)を理解し、それらをフレット上で移動させることで、理論的にも実践的にもすべてのキーを網羅できる。BやFを学ぶことは、むしろCAGEDの理解を応用することで達成される。言い換えれば、CAGEDとはギター上の「音の座標変換の法則」であり、BやFはその地図の中で位置を変えた同じ形にすぎないのである。このようなことを学んだ。エディンバラ:2025/11/11(火)05:14


17680. 【エディンバラ滞在記】志望動機書のドラフトを執筆し終えて

       

時刻はまだ午前6時を迎えたばかりだが、つい今しがた無事にエディンバラ大学に提出する志望動機書のパート2を書き終えた。大学院への出願はよく言われるように、自らのこれまでの経験や取り組みの良い棚卸しになる。直近2年間を振り返っていると、それまでに自分は随分と仏教研究をしていたことに気付かされる。独立の研究者として、査読付き論文の執筆に向けて、すでに良遍の4つの漢文作品に対して4本の論文のドラフトを執筆し終えているし、唯識に関してオンライン講座を3つも開講していたことに気付かされる。これらの経験が意図しない形で自分の財産になっており、大学院に再び戻って本格的に仏教研究をするための大事な礎になっていたことに気付かされる。これもまた全て良縁がもたらしてくれたものであり、それに深く感謝している。こうして合計1000字の志望動機書のドラフトを書き終えてみると、この中に自分のこれまでの取り組みの全てと研究に対する情熱が含まれていることを思うと、エディンバラ大学に提出するこの志望動機書をベースにしてSOASとオックスフォード大学に提出する志望動機書を執筆していきたいと思った。SOASが要求する志望動機書も1000字なので、内容のベースは同じにしながら、SOASのプログラムに調整する形の志望動機書を執筆するのはかなり楽だろう。オックスフォード大学は1500字の志望動機書を要求し、字数がさらに500字ほど加算されているので、より内容を膨らませて執筆することができる。いずれにせよ、ベースは昨日と本日に執筆した志望動機書をもとにしたい。エディンバラ大学もSOASも名門校であり、仏教研究においては世界トップクラスなのだが、やはりオックスフォード大学は少し別格で、オックスフォード大学だけがライティングサンプルを要求する。しかもそれは1つではなく2つである。幸いにもこのことを事前に知っていたので、夏の段階ですでに2つのライティングサンプルのドラフトを執筆し終えている。両者は共に修士論文で取り上げる予定の良遍の法相二巻鈔に関するものである。2つのライティングサンプルはそれぞれ2000字ほどを要求し、オックスフォード大学の出願のために、志望動機書と合わせると5500字ほどの文章を執筆することになり、それは小さな査読付き論文ほどの分量になる。こうしたところからもオックスフォード大学の学術研究に要求する水準の高さが窺える。エディンバラ:2025/11/11(火)06:21


17681. 【エディンバラ滞在記】CAGEDシステムのマイナーコードへの応用


CAGEDシステムは一見するとメジャーコード専用のように思われがちだが、実際にはマイナーコードにも完全に応用可能な汎用的構造理論である。CAGEDとは、C・A・G・E・Dという5つのメジャーコードの開放形(フォーム)を基礎とし、それらを指板上でスライドして使うことで、どのキーでも同じ形のまま和音を作り出せるという体系である。しかし、この「形」はメジャーコードのみに限定されるわけではなく、それぞれのフォームをマイナー化(minor modification)することで、マイナーコードや他のコード種にも応用できる。まず、理論的な基本を整理すると、メジャーコード(長三和音)は「根音+長3度+完全5度」、マイナーコード(短三和音)は「根音+短3度+完全5度」という構成音の違いしかない。したがって、CAGEDの各フォームにおいて「長3度の音を半音下げる(♭3)」操作を行えば、そのままマイナーコードフォームになる。つまり、メジャーからマイナーへの変換は、構造全体を変えるのではなく、わずか1音の位置調整によって可能である。この点において、CAGEDはメジャーだけでなくマイナーの体系も含んだ「可変フレームワーク」なのである。例えば、Cフォームの場合、Cメジャーの構成音はC–E–Gであり、E(長3度)を半音下げてE♭にするとCマイナー(C–E♭–G)になる。Aフォームでも同様に、Aメジャー(A–C♯–E)のC♯をCに変えるとAマイナー(A–C–E)になる。これをそれぞれのポジションでスライドさせれば、どのキーのマイナーコードもCAGEDの形で表現できる。例えば、Cマイナーを弾きたい場合、Aマイナーフォームを3フレット上に移動させれば成立する。同様に、Eフォームを使って1フレット上に移動すれば、Fマイナーが作れる。このように、マイナーコードはメジャーフォームの変形版として存在するのである。さらに、マイナーコードのCAGED運用は単なる押さえ方の暗記にとどまらず、スケール(音階)との対応関係を理解する上でも重要である。例えば、Aマイナーフォームに対応するのはAナチュラルマイナースケール、EマイナーフォームにはEマイナースケールが重なり、フォームごとにマイナースケール・アルペジオ・コードトーンの位置関係を視覚的に把握できる。これにより、クラシックギターにおける即興的装飾やアルペジオ練習が、和声的な理解のもとで行えるようになる。バッハのリュート作品やタレガの練習曲を分析すると、これらのマイナーフォーム上で構築された音の流れが多く見られる。実践的な練習方法としては、まずメジャーCAGEDフォームをそれぞれマイナー化してみることが第一歩である。Cフォーム→Cマイナー、Aフォーム→Aマイナー…というように、1つずつ「長3度を半音下げた指使い」を身体で覚える。その後、キーを変えてスライドさせる練習を行う。例えば、Aマイナーフォームを2フレット上げるとBマイナー、3フレット上げるとCマイナーになる。こうして、5つのマイナーフォーム(Cm、Am、Gm、Em、Dm)を指板上で連結させると、オクターブ全域で滑らかにマイナーコード進行を弾けるようになる。さらに発展的には、マイナーコード特有の響きを深めるために、ナチュラルマイナー、ハーモニックマイナー、メロディックマイナーの各スケールを同フォーム上で重ねて練習することが有効である。これにより、単なるコード形の理解にとどまらず、「マイナーキー全体の音世界」を身体で把握できるようになる。結論として、CAGEDシステムはメジャーコード専用ではなく、マイナーコードを含むすべての和声構造の基盤として機能する。メジャーからマイナーへの転換は、長3度を半音下げるだけという単純な操作で実現でき、その応用によって指板全体を俯瞰的に理解できるようになる。ギターの指板上にメジャーとマイナーが織り成す立体的な地図を描けるようになることこそ、CAGEDを真に使いこなす鍵なのである。エディンバラ:2025/11/11(火)06:53


17682. 【エディンバラ滞在記】CAGEDシステムのクラシックギターでの応用

        

つい今しがたホテルのレストランで朝食を摂り終えた。昨日といくつかのメニューが変わっていたので、異なる朝食を楽しめて何よりである。朝食後のエスプレッソを啜りながら少し日記を書き留めておきたい。


CAGEDシステムは本来、エレキギターやアコースティックギターの世界で発展した「コードとスケールの可視化システム」であるが、クラシックギターにも十分に応用可能である。むしろ、クラシックギターの指板構造とCAGEDの論理は本質的に整合しており、応用の仕方次第では、ポジション移動・スケール練習・和声理解・即興表現のいずれにも強力な基盤を与えてくれるだろう。まずCAGEDとは、C、A、G、E、Dという5つのメジャーコード・フォームに基づいて、同一コード(例えばCメジャー)を異なるポジションで体系的に捉える考え方である。ギターのチューニング構造上、これら5つのフォームを順に連結していくと、指板全体を効率的にカバーできる。これにより、コードやスケールを点ではなく面として把握できるようになる。クラシックギターの場合、指板の長さはエレキよりやや短く、ネック幅も広いが、それによってCAGEDの原理が損なわれることはない。むしろ広めの弦間隔と繊細なタッチが求められるクラシックギターでは、各ポジションを明確に把握して運指を整理することが重要であり、CAGEDはその「構造的地図」として機能する。例えば、バッハやソルの作品で頻繁に現れるアルペッジョ・パターンを分析すると、実はCAGEDの各フォーム上に自然に配置されていることが多い。作曲家たちが指板構造を理解していた証でもある。また、クラシックギターの学習では、スケールやアルペッジョをポジション別に練習することが基本であるが、CAGEDを用いることで、それらの位置関係を体系的に把握できる。例えば、CフォームでCメジャーを押さえた後、そのままAフォームの位置にスライドするとDメジャーへと転調できる。こうしたフォームの移動感覚は、実際の演奏において和声の流れを即座に感じ取る力を養う。ただし、クラシックギターでCAGEDをそのまま導入する際には、いくつかの注意が必要である。第一に、クラシックギターのレパートリーは、ポップスやロックのようにバレーコード中心ではなく、開放弦を巧みに利用する作品が多い。そのため、CAGEDの形を単に押さえるのではなく、開放弦を含むヴォイシングとして再解釈する必要がある。第二に、クラシックでは音の連結性、すなわちレガートと声部独立性が重視されるため、CAGEDを適用する際も、指の独立運動と音のつながりを両立させる工夫が求められる。また、CAGEDはスケールの視覚化にも役立つ。例えばCフォーム上のCメジャースケールを覚えると、そのままフォームを転調することで全調を網羅できる。これにより、曲中で転調やモード変化があっても、即座に指板上で対応可能となる。特に、現代クラシックギター作品や即興的カデンツァを弾く際には、この可動的スケール認識が大きな武器になる。さらに高度な活用としては、CAGEDを通して和声進行の「骨格」を把握する方法がある。例えばⅠ–Ⅳ–Ⅴ–Ⅰ進行をCAGED上で追うことで、コードトーン間の滑らかな連結(voice leading)を身体で理解できる。これはクラシックのポリフォニーや対位法的思考と密接に関係しており、単なるコードフォーム練習ではなく、和声構造を“感じる”練習にもなるだろう。要するに、クラシックギターにおけるCAGEDの本質的意義は、「指板上の地形認識を通じて、音楽的構造を可視化する」ことにある。単なるコード理論ではなく、運指・和声・旋律・音響感覚のすべてを統合する知的フレームワークとして活用できるのである。クラシックギターのように表現の自由度が高く、音色操作が精密な楽器こそ、CAGEDを通じて“構造の中の自由”を体得することができると言えるのではないだろうか。エディンバラ:2025/11/11(火)07:44


17683. 【エディンバラ滞在記】スケールの身体知化 

       

クラシックギターにおいてスケールを身体知として習得することは、単なる音階練習以上の深い意味を持つ。それは、音楽を「理性で理解する段階」から「身体で語る段階」へと移行するための通過儀礼であり、演奏者の音楽的自由を拡張するための根幹的プロセスである。スケールを指で弾けるようになることは出発点にすぎず、究極的には音階の動きを身体が“感じ取り”、無意識の領域で音と音の連関を制御できるようになることが目標である。スケールの身体知化にはまず、音楽的思考の土台としての地形把握の意義がある。指板上の音の配置を全身感覚として理解できれば、どのポジションにおいても即座に音を選び取れるようになる。これは即興演奏だけでなく、クラシックの既存曲を弾く場合にも決定的に重要である。なぜなら、スケール感覚が染みついている演奏者は、作曲家の旋律線を分析的に理解し、自然なフレージングを導き出すことができるからである。逆に、スケールが“手癖”としてではなく“構造”として身体に定着していない場合、演奏は断片的で硬直したものになりがちである。また、スケールの身体知化は音色操作にも密接に関わる。クラシックギターでは同一の音を異なる弦・ポジションで出すことができるが、それぞれの音色的ニュアンスは微妙に異なる。スケールを単なる指運びとしてではなく、各ポジションに潜む音色の差異として認識できれば、旋律の質感を文脈に応じて繊細に変化させることが可能になるだろう。これは「機械的な音階」から「詩的な音楽」へと昇華させる鍵である。さらに、スケールの感覚を身体に統合することは、音楽的記憶の効率を高める。例えば、モーツァルトやソルの旋律を暗譜する際、単に音の列を覚えるのではなく、背後のスケール進行を身体で感じ取れていれば、指が自然に音へ導かれる。これは言語における文法構造を理解していれば文章が自然と組み立てられるのと同様の現象である。スケールは音楽の文法であり、それを身体に刻むことは「音で思考する能力」を育てることに等しい。スケールを身体知化するためのステップは、段階的・立体的なアプローチが有効である。第一段階は、ポジションごとの定着である。Cメジャー、Gメジャーといった基本スケールを、指板上の5ポジション(CAGEDなど)で正確に弾けるようにする。この段階では、視覚的・知的に音の位置を理解することを重視する。第二段階は、リズム化と変奏による感覚統合である。単に上下運動するだけでなく、リズムを変えたり、三連符や付点リズムで弾いたりして、スケールを身体の中に多様なテンポとリズムで浸透させる。このとき、右手のアポヤンド(レストストローク)とティラント(フリーストローク)の使い分けを組み合わせると、運指と音色の連動が自然と身につく。第三段階は、旋律的文脈への転換である。例えばスケールを使って即興的に短い旋律を作る、もしくはエチュードや小品の中にスケールフレーズを発見して模倣する。自作の小旋律を弾くことで、スケールが「練習課題」から「表現素材」へと変化する。第四段階は、調性間の横断である。ひとつのスケールを他の調に転調させ、同じフィンガリング・パターンで全調を巡る。これにより、音高関係の普遍性を身体で理解できるようになる。さらにモード(ドリアン、リディアンなど)へと拡張すれば、音楽的感受性が飛躍的に高まるだろう。最終段階は、感情とスケールの統合である。スケールを単なる練習素材ではなく、「感情を呼び起こす音列」として感じ取ることで、音楽と身体の結びつきが完成する。各スケールには固有の情緒的色彩がある。メジャーには明朗、マイナーには内省、リディアンには浮遊感――そうした感覚を指先で味わうことが、真の身体知化である。結局、スケールの習得とは「音楽的文法を身体に刻み込む作業」であり、それは知性と感性の融合をもたらす修練である。クラシックギターという楽器は、指先の感触がそのまま音の表情となるほど繊細であるがゆえに、スケールを身体の奥にまで浸透させることが、音楽を語る自由と深みをもたらすのである。エディンバラ:2025/11/11(火)08:44


17684. 【エディンバラ滞在記】マウロ・ジュリアーニの《120の右手アルペジオ練習》を友として         


ホテルの自室で30分ほどイヤートレーニングの動画を視聴して訓練をしていた。残り半分はまた観光から帰って来てから視聴し、鍛錬をしたい。


マウロ・ジュリアーニの《120の右手アルペジオ練習(120 Arpeggio Studies)》は、単なる技術練習を超えて、クラシックギター演奏の根幹的感性を育む珠玉の教材である。スケール練習が「音の水平的運動」を鍛えるものであるのに対し、アルペジオ練習は「音の垂直的構造」すなわち和声的感覚と右手の独立性を養うものである。したがって、もし目的が既存楽曲の演奏技術向上や即興的表現力の深化にあるならば、アルペジオ練習により重点を置くという発想は極めて理にかなっていると言えるのではないかと思う。まず、クラシックギターの特性として、音楽は和声の分散によって成り立つ。ピアノのように和音を同時に鳴らすのではなく、ギターは一本一本の弦を順に響かせることで「時間的に展開する和音」を作り上げる。この「時間に溶け込む和声」こそがギターの詩的本質であり、アルペジオ練習はその感性を直接的に育む訓練である。指の独立運動を通じて、各音の持つ重み・方向性・音色のバランスを感覚的に理解できるようになる。つまり、アルペジオ練習とは、単なる指の訓練ではなく「音の重力を感じ取る練習」でもある。ジュリアーニの120パターンを弾いていると、単なる運動的繰り返しの中から自然に小さな音楽が立ち上がるような感覚を覚える。これは、パターンの中にすでに音楽的リズムと呼吸が内在しているからである。コード進行を加えれば、それは即興的な作曲に近づく。つまり、アルペジオ練習は“右手による作曲”の訓練でもあるのだ。実際、名ギタリストの多くは、アルペジオ練習を通じて作曲感覚や即興的ハーモニー感覚を培ってきた。対照的に、スケール練習は音の直線的な流れを司る。旋律を自在に扱う力を得るためには不可欠であるが、それだけでは音の和声的立体感を捉えることは難しい。音楽とは、単に音の並びではなく、同時に鳴り響く関係の網で成り立っている。したがって、アルペジオはスケールを「縦に展開する」もう1つの音楽的思考の形なのである。スケールが言葉の“文法”であれば、アルペジオは“和声の呼吸法”である。さらに、アルペジオ練習は右手の神経系に深いレベルで働きかける。特にクラシックギターでは、右手のp(親指)、i(人差指)、m(中指)、a(薬指)の独立運動が、音楽的ニュアンスを支配する。ジュリアーニの練習を通じて、各指がそれぞれ異なるリズムやアクセントをもって動くようになると、演奏者は一種の“多声的意識”を体得する。これは、複数の声部を同時に感じ取る対位法的感覚につながり、結果的に和声の中で旋律を浮かび上がらせる力を生む。また、アルペジオ練習は「テンションとリリース(緊張と解放)」の身体的理解を促す。右手の各指が独立して動く際、ある指が弾く瞬間に他の指が微妙に力を抜くことで、流れが生まれる。これは単なる力学的操作ではなく、音楽の呼吸を身体で感じ取る訓練でもある。スケール練習では得られにくいこの“呼吸する感覚”こそが、表現者としての深みを決定づける。即興演奏という観点からも、アルペジオは重要な基盤を形成する。即興とはスケール上の音を並べることではなく、その場で和声の流れを感じ取り、響きを時間軸上で展開する行為である。ジュリアーニのパターンを自由に組み合わせながらコード進行を変化させる練習は、まさにその即興的感性を育む最良の方法である。実際、ジャズギターや現代クラシックの分野では、アルペジオの「分散和音のデザイン力」が即興の核となる。結論として、スケール練習が「音の地図」を整える作業だとすれば、アルペジオ練習は「音の呼吸を身につける修行」である。スケールが理性の骨格を形成するのに対し、アルペジオは感性と身体を結びつける。どちらも不可欠だが、音楽を“生きた流れ”として体得するには、ジュリアーニのようなアルペジオ練習に没頭することが、より直接的に音楽の核心へ到達する道だと言えそうである。またフローニンゲンの自宅に戻ってからは、この楽曲に毎日楽しみながらアルペジオ鍛錬として取り組みたい。マウロ・ジュリアーニの《120の右手アルペジオ練習》は自分にとって、日々の演奏上の友のような存在である。エディンバラ:2025/11/11(火)09:13


17685. 【エディンバラ滞在記】スコットランド国立近代美術館を訪れて

          

時刻は午後12時半を迎えた。つい今しがたスコットランド国立近代美術館からホテルに帰って来たところである。今日のエディンバラは雨なのだが、幸いにも風はなく、縦方向の雨だったので傘でしのぎやすかった。秋が深まり、紅葉が美しい中での雨は風情があった。GoogleMap上では歩いて45分ほどとあったが、実際に歩いてみると片道40分弱でスコットランド国立近代美術館に到着できた。まず最初にモダン1を訪れ、そこは無料で見学することができ、ピカソやマティスなどの作品を鑑賞した。昨日訪れた博物館も美術館も全て入館料無料であり、スコットランドの文化的豊かさを実感する形となった。モダン1の建物で何気なく流れていた短いドキュメンタリー番組に足を止めて最初から最後まで眺めると、とりわけ抽象絵画がもたらす脳への驚きと再編成効果に関する話がとても興味深く思えた。確かに自分は特に抽象絵画を好んでおり、毎回鑑賞体験をするたびごとに自分の脳が再編成され、それは知性の再構築を促していたのだと思わされた。こうした再組織化の効果ゆえに絵画芸術は治癒的効果を持つ。おそらく音楽にも同様の効果があるのではないかと思い、音楽のジャンルごとに効果がどれほど異なるのかについて関心が高まる。絵画や音楽鑑賞は、サイケデリック体験の深さとまでは言わないまでも、それに類する効果があることは体験からも頷ける。モダン2では主に写真の特別展示がなされていた。そこでの主題は第二次世界大戦後においても続いた世界の戦争に対するイギリスでの反戦運動や各種の権利の主張に関するものだった。そうした写真を見ていると、表層的な現象は違えど、現代人は構造的には常に何らかの抑圧を受けていることに考えを巡らせていた。ある意味カネのために働かなければいけない状況というのは自由の制約であり、グローバル規模でのマネー主義の中で私たちは自由が抑圧された状態で生きているということにどれだけ自覚的なのだろうかと考えていた。それ以外にも、私たち個人の意識は絶えず集合的な精神からの影響を免れることはできず、完全なる自由を体現している人はほぼ皆無であることについても考えが及んでいた。それでは今から仮眠を取り、仮眠後には法相宗や唯識に関する日本語の論文のPDFを旺盛に再読していく。エディンバラ:2025/11/11(火)12:41


Today’s Letter

The circle of fifths is a musical mandala to me. Whenever I play the guitar using it, it draws me into a meditative musical realm. I feel that the circle of fifths still holds hidden secrets that I have yet to uncover. Edinburgh, 11/11/2025

 
 
 

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