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【ロンドン滞在記】17694-17698:2025年11月13日(木)



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タイトル一覧

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【ロンドン滞在記】欧米で日本法相唯識を研究する意義

17695

【ロンドン滞在記】今朝方の夢の振り返り

17696

【ロンドン滞在記】唯識思想の魅力

17697

【ロンドン滞在記】日本法相唯識の研究を欧米の大学院で行うことの意義

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【ロンドン滞在記】フリオ・サグレラスの楽譜を購入して

17694. 【ロンドン滞在記】欧米で日本法相唯識を研究する意義

                           

時刻は間もなく午前4時半を迎える。今日もまた午前4時前に起床し、暖かいお湯で十分にシャワーを浴びた後、冷水シャワーを浴びた。今日のロンドンは午後6時頃から比較的強い雨が降るらしく、その注意報が出ている。幸いにもその頃にはもうブリストルのホテルにいるであろうから、雨に見舞われることなく楽譜屋に行けそうである。ドイツの老舗の楽譜出版社であるSchott Musicのロンドン店でどのような楽譜と出会えるか、今から心が躍る。今回の旅もまた良縁に満ち溢れている。人に関して言えば、エディンバラ大学でポール・フュラー博士と面談させていただき、 フュラー博士と関係性を構築できたことは有り難いことであった。そして昨日は、ロンドン大学SOASにてルシア・ドルチェ教授と面談をさせていただき、ドルチェ教授とも良好な関係性を構築させてもらった。来年どこの大学院に行くにせよ、欧米の仏教研究コミュニティは大きくないので、今後自分が研究活動を続けている限りはそれらの教授となんらかの観点で交流があるのではないかと思う。


ホテルの朝食の時間は午前7時からなので、それまでの時間を使って、SOASに提出する志望動機書のドラフトを完成させてしまおうと思う。それは1000字ほどの字数制限で、昨日の段階ですでに盛り込むべき項目について列挙しているので、ドラフトを速やかに仕上げることができそうだ。ドラフトが完成したら、唯識全般に関する論文、日本法相唯識に関する論文を読み進めていきたい。昨日のドルチェ教授との面談を通じて、欧米の学術機関で唯識、とりわけ日本法相唯識を研究する意義がより明確になった。それは自分の天命であるかのようで、おそらく自分がその分野を研究しなければ、欧米では誰もこの分野を研究しないのだと思う。日本語と古典中国語のハードルが欧米の学者にはあり、一方自分にはそれが全くない。自らが欧米で日本法相唯識の研究分野を立ち上げることで、後続の研究者が現れるかもしれないことを考えると、そこに次世代への研究伝承という社会的な意義が立ち上がる。ロンドン:2025/11/13(木)04:33


17695. 【ロンドン滞在記】今朝方の夢の振り返り


今朝方も確かに途中で目を覚ます時間帯はあったが、深い睡眠が実現されていた。エディンバラで宿泊したホテルの枕はあまり合わなかったので枕を使うことはなかった。今滞在しているロンドンのホテルは枕の高さが低めであり、自分の好みに合致していたことも睡眠の質に影響を与えていたように思う。


今朝方の夢として、ギターに合わせて心地良く歌を歌っていた場面があった。ゲーム感覚でいつまでも楽しんでいられる状態であり、目の前にいた自分と同じぐらいの年齢かあるいは少し若い日本人女性に歌を聴かせていた。終始、穏やかな夢の世界が広がっており、夢を見ない無の時間を味わっている自己がいた。


この夢は、自己の内的世界における調和と創造の歓びが象徴的に顕れたものなのだろう。ギターという楽器は、心の奥底にある感情や思考の波動を可聴化する媒介として現れ、それに合わせて歌を歌うという行為は、内的自己と外的自己の統合的表現を示している。すなわち、この夢における歌う自分は、創造する意識であり、同時に癒す意識でもある。旋律と声の融合は、思考と感情、行為と存在の一致を意味し、それは言語以前の根源的な自己の呼吸のようなものとして現れている。夢の中で「ゲーム感覚でいつまでも楽しめる」という描写は、目的や成果を離れた「遊びとしての創造」の象徴である。ここでの「遊び」は単なる娯楽ではなく、自己が自己を忘れるほどに一体化した行為であり、まさに禅的な無為自然の境地を表す。ギター演奏と歌唱が一体となり、そこに努力や評価の意識が消えている状態は、行為そのものが瞑想となっている状態である。すなわち、夢の中での自己は「する」存在ではなく、「ただ在る」存在となっており、創造の行為がそのまま自己超越の道具として機能している。目の前にいた女性の存在は、自己の内なる他者性の象徴である。彼女は外的な聴き手であると同時に、自己の感受的側面、すなわち「受け取る心」の化身である。歌う自分が能動的原理(陽)であるならば、それを聴く彼女は受容的原理(陰)であり、この夢は心の中での陽と陰、能動と受容の調和的統合を示している。年齢が近いか、やや若い女性であったという点は、過去の自分あるいは内面的な純粋さの回帰を暗示している。つまり、自分はこの夢の中で、成熟した意識と無垢な心の両者を融合させ、再び子どものように遊ぶ創造者として生き直しているのである。また、夢の背景に広がる「穏やかな世界」は、外的現実から解放された純粋な心の場である。そこには時間の感覚がなく、出来事は流れるように展開するが、中心には常に静けさがある。その静けさの中で、歌と音の波は呼吸のように自然に生まれ消えていく。これは、瞑想や深層意識状態における「サマーディ(三昧)」の体験に近い構造を持つ。夢を見ない「無の時間を味わっている自己」が存在していたという部分は重要である。これは「夢を見ている自己」と「夢を見ていない自己」という二重の意識層を同時に体験していることを意味している。前者は表層的な創造の意識、後者は根底的な存在の静寂であり、両者が同時に意識されているということは、意識の統合が深まっている徴である。この構造は、唯識思想で言うところの「現行識と阿頼耶識の調和的共鳴」にも通じる。すなわち、表面で活動する意識が創造を行いながらも、その根底で蔵識的な静けさが保たれている状態である。ギターの旋律は現行識の波であり、無の時間は阿頼耶識の静寂である。自分はその両者を分離させることなく、ひとつの流れとして体験している。ここには「動中の静」「静中の動」という東洋的覚醒の構造が明確に現れている。この夢の人生的意味は、創造と静寂、行為と存在、音と沈黙をいかに調和させるかという課題の示唆にある。すなわち、人生における真の芸術とは、外界への表現ではなく、内なる静寂と一体化した行為そのものの中に宿るということである。自分が夢の中で歌いながらも同時に「夢を見ない自己」であったように、人生においても、行動のただ中で「無為の中心」にとどまることが、真の自由をもたらす道である。この夢は、創造とは外に向かう運動ではなく、内なる無限の静けさから湧き出す呼吸のような現象であることを告げている。したがって、この夢が示す人生の指針は、「行為の中に沈黙を、沈黙の中に行為を見出す」ことであり、それこそが心と世界を調和させる真の音楽なのだろう。ロンドン:2025/11/13(木)04:48


17696. 【ロンドン滞在記】唯識思想の魅力

                   

昨日のルシア・ドルチェ教授との面談の中で、なぜ唯識に関心を持ったのかについて尋ねられた。改めてその問いを思い出しながら、自分は唯識の詳細な心理分析と広く深い哲学的洞察に惹かれていることを再確認した。唯識思想は、その名が示すように「一切は識のみである」という洞察に基づく体系であり、心理学的・哲学的両面から人間存在を総合的に分析する極めて精緻な思想体系である。心理学的側面においては、八識説を中心に心の働きを詳細に分類し、意識の層構造を明らかにする。すなわち、前五識(感覚的認識)、第六意識(思考的認識)、第七末那識(自己執着の根源)、第八阿頼耶識(潜在的記憶の蔵識)という構成により、心的過程の全体を因果的・動的に捉える。阿頼耶識には過去の経験が種子として蓄積され、これが縁に応じて現行することで、個人の知覚や思考、感情が生起する。ここには現代心理学でいう無意識、潜在記憶、条件づけ、投影といった諸現象に相当する深層的洞察がすでに含まれており、唯識は単なる宗教的形而上学ではなく、きわめて経験的・実践的な心理理論として成立している。しかし、唯識の本質は単なる心理学的説明を超え、真理探究のための形而上学的哲学としても展開されている。その根本命題「識所変」は、現象界を客観的実在と見なす誤謬を解体し、世界を「識の展開」として捉える。すなわち、外界の対象(色)と内界の認識(識)は本質的に分離不可能であり、認識が対象を構成しているという認識論的転回を示す。この点で唯識はカント的構成主義やフッサールの現象学、さらには現代の意識哲学にも通ずる。外界は認識の外に独立して存在するのではなく、阿頼耶識の種子が縁起的に展開した「識の相」であるとする点で、唯識は現象と本質の二元論を超えた独自の非二元的認識論を提示している。また、存在論的には、唯識は「心が存在を生み出す」という発想のもとに、存在そのものを「識の働き」として理解する。ここでは実体的な「もの」は存在せず、すべては識の流れとして瞬間的に生滅する。これを「法無我」と呼び、あらゆる存在が独立自存する実体ではなく、因縁によって一時的に成立しているに過ぎないと見る。したがって、存在とは固定的な実体ではなく、認識活動そのもののプロセスである。この洞察により、唯識は実在論的物質観を根本から批判し、存在を心的プロセスの一形態として再定義する。さらに、真理論的には、唯識は「二諦説」を継承しつつも、それを心の構造の中で再構築する。すなわち、世俗諦とは阿頼耶識が生み出す相対的な経験世界であり、勝義諦とはその識の空性を直観する智慧(般若)によって開示される究極的真理である。このとき、真理とは外にある対象的実在ではなく、心が自己の空性を覚知することによって現前する「覚りの出来事」である。よって、唯識における真理とは、主体と客体の区別が溶解する「非二元的認識の瞬間」に他ならない。このように、唯識思想は心理分析としての精緻な構造を持ちつつ、それを通して真理・存在・認識の根本問題を再定義する総合的哲学である。その目的は、心の働きを徹底的に観察し、その認識構造の錯覚を見抜くことによって、心の本性—すなわち真如—に目覚めることである。唯識はしたがって、心理学と形而上学、経験と超越を架橋する稀有な体系として、自己と世界の根源的理解を導く哲学的実践だと言えるだろう。ロンドン:2025/11/13(木)04:55


17697. 【ロンドン滞在記】日本法相唯識の研究を欧米の大学院で行うことの意義 

 

引き続きルシア・ドルチェ教授との面談から考えていたことを書き留めておきたい。日本法相唯識の研究分野には、他に類を見ない深い魅力がある。それは、単なる仏教思想史の一分野としてではなく、意識・存在・認識という根源的テーマを、東アジア的文脈の中で緻密に展開した「心の学問体系」として位置づけられる点にある。法相唯識学は、インド唯識(瑜伽行派)を出発点としつつ、中国での玄奘・窺基の体系化を経て、日本では奈良時代以降に独自の展開を遂げた。特に興福寺を中心とする日本法相宗では、戒・定・慧の三学を実践的基盤としながら、唯識思想を修道論・認識論・存在論にわたって総合的に再構成した。この伝統は単に哲学的議論にとどまらず、心の変容過程や悟りの心理的構造をも対象とする点で、現代の認知科学・心理学・意識研究にも接続しうる豊かな知的資源を内包している。日本法相唯識の学的魅力は、その注釈伝統(註釈学的思索)に見いだされる。玄奘訳『成唯識論』を中心とする体系は、単なる経論の解釈ではなく、「如何にして認識の主体が自己を超えるか」という問題を実存的に掘り下げた知的営為である。特に貞慶や良遍らの中世日本の学匠は、阿頼耶識の哲学を単なる形而上学的原理ではなく、観心—自己の心を観ずる修行的認識論—として深化させた。ここには、意識の階層的発達、記憶と知覚の相関、そして自他未分の深層構造に対する洞察が見られる。これらは現代の発達心理学や意識研究における「層的構造」や「メタ認知的覚醒」の議論とも響き合うものであり、法相唯識を現代哲学と対話させる可能性を豊かに秘めている。このような伝統を欧米の大学院で研究する意義は、二重の意味で大きい。第一に、欧米の学問体系では、仏教研究が長く文献学・比較思想・哲学史の枠にとどまってきたが、日本法相唯識を研究することは、東アジア仏教における哲学的体系形成の独自性を世界的な学問の場で提示することにつながる。すなわち、これまで「翻訳仏教」として捉えられがちだった日本仏教を、「独自の哲学的創造」として再評価する試みである。欧米のアカデミアにおいて、法相唯識が単なる文化遺産ではなく、意識哲学(philosophy of mind)や現象学的存在論(phenomenology of being)への貢献として再定義されることは、学術的にも革新的である。第二に、欧米の大学院では、哲学・宗教学・心理学・認知科学といった複数領域を横断する学際的研究が奨励されている。唯識思想を日本法相の文脈から再検討することは、「心とは何か」「世界はどのように現れるのか」という普遍的問題に対し、非西洋的な知の方法を提示することになる。とりわけ、阿頼耶識や末那識の概念は、現代の無意識理論、自己同一性研究、神経科学的意識モデルに対して新しい視座を提供する。欧米の学問環境で唯識を論じることは、これら西洋的パラダイムを相対化し、「意識=存在=関係性」という東アジア的非二元論的世界観を国際的対話の文脈に位置づける営みである。さらに、日本法相唯識を欧米で研究することの価値は、翻訳・比較・解釈の再創造にある。日本語・漢文・サンスクリットにわたる原典研究を踏まえた上で、その哲学的核心を英語で表現する作業は、単なる言語転換ではなく、思考の構造自体を再構築する知的試みである。これにより、日本仏教の思索的深みを国際学術言語の中に位置づけ、世界仏教学に新たな層を加えることができる。要するに、日本法相唯識の研究は、個人の内的覚醒と普遍的哲学的対話を結びつける架橋であり、欧米の大学院でそれを探究することは、「東洋の心の哲学」を世界哲学の一部として再構築する知的冒険である。それは同時に、「心とは何か」「真理はいかに現れるか」という永遠の問いに対し、日本の思想的遺産をもって応答する、時代的にも意義深い試みである。そのような意味付けを自分は日本法相唯識の研究を欧米の大学院で行うことにもたせている。ロンドン:2025/11/13(木)05:04


17698. 【ロンドン滞在記】フリオ・サグレラスの楽譜を購入して 

             

時刻は午後1時を迎えようとしている。今、パディントン駅のプラットホームに停車している列車に乗り、ブリストルに向けての出発を待っている。あと6分ほどで列車は出発する。パディントン駅からブリストルまでは5駅で、時間は1時間半ほどになる。今日は平日の水曜日だが、さすがロンドンだけあって意外と観光客がいる。先ほどまで2時間強ほどSchott Music Londonにいてクラシックギターの楽譜を吟味していた。さすがSchott Musicだけあって、楽譜の種類は豊富にあり、2時間があっという間に経った。クラシックギターの棚に置いてある全ての楽譜を1冊1冊吟味して、数冊ほどまで絞った。その中にはバッハのゴルとベルグ変奏曲のクラシックギターアレンジの楽譜があったり、インヴェンションのクラシックギターアレンジの楽譜があったりしたが、最終的にそれらは今の自分の技術レベルからするとあまりにも難解だったので、購入を引き換えた。そこから2冊ほどまで絞り、フェルナンド・ソル(1778-1839)のギター哲学が詰まった楽譜集フリオ・サグレラス(1879-1942)が残したクラシックギターの練習曲の2つを吟味した。最初は両者を購入しようと思ったが、ソルの楽譜は難易度が高く思え、サグレラスの教育的配慮によって作られた“Sagreras, Julio S - Guitar Lessons Books 1-3”の1冊のみを購入することにした。この楽譜は、カート・フィッシャーのダイナミックスキル理論で言うところの最も基礎的なギター技術のレベルから順を追って難易度が上がっていく構成になり、ギター教師に向けたレッスンアドバイスも脚注にあって非常に教育効果の高い楽譜だと判断した。この楽譜を最初からステップバイステップでやり込んでいけば、相当に技術が高まりそうな予感がして、他の楽譜に目移りすることなく、この楽譜に書かれていることを徹底的に習熟していこうと思った。ブリストルやオックスフォードでも楽譜屋に立ち寄るが、オックスフォードでは何よりもオックスフォード大学出版の書店に立ち寄り、そこで仏教の専門書を吟味したいと思っている。スーツケースのスペースの問題もあり、吟味した楽譜と書籍を購入したいと思う。いずれにせよ、フリオ・サグレラスが残した貴重な楽譜を購入できて大満足である。ブリストルに向かう列車の中:2025/11/13(木)13:14


Today’s Letter

From Edinburgh to London, the beautiful coastline captured my attention. Having been born in Japan, an island nation, I feel that the geography of the UK resonates deeply with my sense of identity. I hope to begin a new chapter of my life here next year. London, 11/12/2025

 
 
 

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