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【エディンバラ滞在記】17667-17675:2025年11月10日(月)


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タイトル一覧

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【エディンバラ滞在記】エディンバラ滞在2日目の計画

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【エディンバラ滞在記】今朝方の夢

17669

【エディンバラ滞在記】今朝方の夢の振り返り

17670

【エディンバラ滞在記】ギターの練習と仏教研究の交互運動

17671

【エディンバラ滞在記】英語が公用語の国の安心感/ギターごとのミュートの意味

17672

【エディンバラ滞在記】トライアドの鍛錬の意義

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【エディンバラ滞在記】エディンバラ大学の仏教プログラムのディレクターポール・フュラー博士と面談をして

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【エディンバラ滞在記】ポール・フュラー博士と面談から得られた事柄

17675

【エディンバラ滞在記】着実に進む大学院の出願準備/エディンバラとオックスフォードの人口比較

17667. 【エディンバラ滞在記】エディンバラ滞在2日目の計画


時刻は午前4時半を迎えた。今日もいつものように午前4時に起床した。昨日は移動の疲れもあったので、エディンバラ時間の午後7時半にはもうベッドの中にいた。フローニンゲンの自宅では、布団の西川さんの枕とマットレスを使っていて、その性能がすこぶる良く、入眠は即座に実現され、深い眠りが実現されている。普段はそうした就寝環境に慣れていることもあり、昨日の寝つきは遅かった。しかし目を閉じているだけでも心身は休息するので、午前4時に起床しても状態はすこぶる良い。こうして早く起床したおかげで、現在中土井僚さんと取り掛かっている翻訳プロジェクトの翻訳者の解説文も今日の朝にはドラフトが書き終わる。昨日アムステルダムのスキポール空港のラウンジで執筆を開始し、合計で2万5千字ほどの解説になりそうだが、それも今日の早い時間に速やかに終わりそうで安堵している。

エディンバラ滞在の2日目の今日は、エディンバラを本格的に観光し始める。午前11時に面会の約束をしているポール・フュラー教授とお話しさせていただけることはとても楽しみで、エディンバラに来た目的はそれである。あいにくアドバイザー候補のアビゲル・マクベイン教授は日本で開催されている学会に参加のため、面会する機会は得られなかったが、マクベイン教授もとても親身な対応をしてくれたことに感謝している。フュラー教授は、エディンバラ大学の仏教プログラムのトップであり、その方に直接プログラムの内容についてあれこれ質問できることはとても有り難い。昨日は日曜日であるにもかかわらず、フュラー教授はわざわざリマインダーのメールを送ってくださり、そうした在り方にも感銘を受ける。フュラー教授と面会をした後は、大学からほど近いスコットランド国立博物館に足を運ぶ。ここはどうやら入館料無料らしい。博物館で展示物を十分に鑑賞したらその足で、Blackwell's Bookshopに立ち寄り、クラシックギターの楽譜がないかを確認したい。Webサイトを見る限りだと楽譜がありそうで、かつて作曲実践をしていた頃には、欧州の街に訪れて、その街の楽譜屋に行って楽譜を購入することが1つの楽しみであり、良い記念品になっていた。今回のイギリス滞在中もそれぞれの街でお気に入りの楽譜を購入できたらと思う。エディンバラ:2025/11/10(月)04:46


17668. 【エディンバラ滞在記】今朝方の夢 

 

エディンバラ滞在の初日の夜に見ていた夢は次のような内容だった。夢の中で私は、成人発達理論の分野で共に長らく研鑽を積んできたある知人の方と話をしていた。話をしている場所は、日本の見慣れない場所の見知らぬ一軒家の中だった。そこで2人で成人発達理論談義をしていると、その方が素朴な疑問を照れ笑いを浮かべながら述べた。普段はその方はあえて硬い感じの雰囲気を出しているが、その瞬間は一気にその雰囲気が溶けて、自分にしか見せない意外な一面を見せたのである。その質問が面白いなと思ったのは、本来はその方が持っているカート・フィッシャーのダイナミックスキル理論の知見を活用すれば一瞬で答えが出るような内容だったことである。それを見て、学んだことを他の分野に転用することがいかに難しいかを改めて考えさせられた。「そんなのダイナミックスキル理論のスキル領域の観点からすると簡単じゃないですか」というようなことは言わず、丁寧にその方の疑問を紐解いていくことにした。自分にとって自明なその問題は、投資の知識がないと解決できない問題でもあったので、丁寧に紐解くと、その方は満足気な笑顔を浮かべた。


次の場面はさらに印象的だった。私は見知らぬ学校の教室にいて、時刻は夜だった。どうやら勉強合宿のようなものがそこで行われているらしかった。そこには高校は違えど、予備校時代に親しくしていたある理系の友人がいて、彼が近くの席に座っていたので彼と話をした。すると意外なことに、彼はジャズの探究を小さい頃から熱心に行っていたことを初めて知り、音楽理論に関して音大で学ぼうとまで考えていたらしかったのだ。彼に何の楽器を通じてジャズを学んでいるのかを尋ねたところ、答えは意外なもので、楽器の演奏は全くしておらず、音楽理論を頭の中だけで探究しているとのことだった。そのようなことが可能なのか少し疑問に思っていると、彼は突然教会旋法のリディアンモードで即興的に音楽を口ずさみ始めた。そしてやって来た先生もまた同じくリディアンモードで口ずさみ始め、2人の声がまるで合唱のようになり、特にリディアンモードの響きが印象的で、しばらく聴き入っていた。そこから授業が始まるタイミングとなり、横に座っていた女子生徒が開かれた窓から夜空を指差して、「あっ、流れ星!」と述べた。彼女が指差す方向を見ると、いくつかの流れ星が夜空を美しく駆け巡っていた。すると突然激しい雨が降り始めた。生徒たちは一斉に窓を閉めたが、窓の隙間から雨が漏れてきて、また天井からも雨漏れが始まった。雨漏れがしない箇所を探すのは至難の業で、全員体が濡れ始めた。すると生徒たちが教室を離れ始め、どうやら今日はもう授業はなく、一斉下校にすることを学校側は判断したようだった。学校の門を出ると、そこに2人の先生が立っていて、私は学校側の判断が遅いことに不満を持っていたので、その不満を打ち明けた。そもそも天気予報を通じて、早い段階からこうなることがわかっていたのだから、今日は最初から休校にすればよかったのである。通学する時間が無駄になり、体も水に濡れて体調でも崩したら問題だと思ったし、雨と強風による危険性もあったので、なおさら学校側の意思決定の遅さに不満であった。2人のうち片方は高校1年生の時の担任の先生で、その先生に不満を伝えると、先生は威圧的な態度でこちらに歩み寄って来た。それを受けて私は即座に、手に持っていた小さな針を先生の顔の方に差し出したところ、先生の顎の下にそれが刺さり、とても痛そうにしていた。そして針で攻撃されたと思った先生はさらに怒りを露わにしたが、自分からするとそれはれっきとした正当防衛だった。エディンバラ:2025/11/10(月)05:14


17669. 【エディンバラ滞在記】今朝方の夢の振り返り 

                              

今朝方の夢の冒頭に現れたのは、成人発達理論の探究を共に歩んできた知人との静かな対話の場である。そこは日本の見知らぬ一軒家であり、既知と未知、親密さと距離感とが入り交じる象徴的空間であった。その知人が照れ笑いを浮かべて投げかけた素朴な疑問は、表面的には単純だが、内面的には「知の転用」という難題を映し出していた。つまり、理論を知っているということと、それを新たな文脈において自在に運用できるということとの間には深い断絶があるという洞察である。その瞬間、自分の中にある「理解の優位性」を抑え、相手の問いを丁寧に紐解こうとする姿勢が表れた。これは、理論的知性から実践的知恵への移行、すなわち「発達的共感」の発露であり、単なる学術的優越を越えて他者の理解を支える成熟した姿勢を意味している。その態度の中に、自分が成人発達理論の真髄を実践的に体現し始めていることへの無意識の自覚が見て取れるのである。次の場面で舞台は学校の教室へと転じる。夜の学校という舞台設定は、学びが外的制度から切り離され、より内的で象徴的な次元へ移行することを示唆している。そこで再会する理系の友人は、知性の別様のあり方を体現していた。彼は楽器を持たず、頭の中だけで音楽理論を探究する存在であり、理論と直感、構造と感性を架橋する象徴である。その彼がリディアンモードを即興的に口ずさむ場面は、知が音となって世界に解放される瞬間を意味しており、まさに概念が音楽へと変容する転換点であった。そして教師までもがその旋律に加わり、2人の声が調和する場面は、教育そのものが一方向的な伝達ではなく、響き合いのプロセスであることを示す象徴的場面である。すなわち、知は声となり、声は関係性へと昇華するのである。その直後に現れた流れ星は、瞬間的な啓示、あるいは直観的洞察の象徴である。それは学びの夜空を一瞬だけ照らす光であり、永続するものではないが、魂の奥深くに痕跡を残す。だがその直後、激しい雨が降り始める。これは啓示の後に訪れる現実の洗礼であり、理念や理論が感情や混沌に晒される試練の時期を示している。雨漏れによって体が濡れるという描写は、知的保護膜を越えて、世界の不安定さに直接触れる体験を意味している。すなわち、理論の殻が破られ、経験的リアリティが流れ込む瞬間である。その後の学校側の遅い判断に対する不満は、「成熟した合理性」と「旧来的な権威」との対立を象徴している。自分は状況を総合的に見て判断できる段階に達しているのに、制度や権威は依然として反応的で鈍い。ここでの怒りは単なる感情ではなく、意識の速度が異なる存在との摩擦である。先生に針を突きつけるという行為は、攻撃ではなく象徴的な「洞察の刃」であり、眠れる権威の皮膚を破り、痛みを通じて目覚めを促す行為である。顎の下、すなわち言葉と意志の境界に針が刺さるという描写は、古い言語的権威構造に風穴を開け、新しい対話的時代を切り開く予兆を示している。正当防衛という意識の表明は、理不尽な権威への抵抗であると同時に、自己の真実を守る倫理的決意の象徴である。この夢全体を貫くテーマは「知の変容」である。理論を知る自分から、理論を生きる自分へ。頭の中の音楽を実際に響かせ、抽象的な知を具体的な関係性と行動に結晶させる。その過程には必ず雨と痛みが伴うが、それこそが成長の洗礼である。エディンバラという異国の地でこの夢を見たことは偶然ではないだろう。異文化の水が新しい自己の層を洗い出し、古い自己像を溶かしていく過程で、この夢は生まれたのである。すなわち、これは「知の成熟」から「存在の成熟」への移行を象徴する夢であり、人生における意味は、自らの内に眠る理論を再び生命として蘇らせることにある。知ることを越え、生きることそのものが理論となる。そのとき、自分は真に学び続ける存在となるのである。エディンバラ:2025/11/10(月)05:27


17670. 【エディンバラ滞在記】ギターの練習と仏教研究の交互運動

                           

午前5時半を迎えた今、エディンバラの街には雨が降り注いでいる。しかしその雨も間も無く上がり、今日は昨日同じく太陽の姿を幾分拝めそうなので何よりである。エディンバラは来週から最低気温が0度に達する日も出てくるようで、ちょうど来週から滞在するオックスフォードも同じような気候である。ちょうど冬に差し掛かる前に両者の都市に滞在する形となる。


今回のイギリス旅行にはギターを持って来ることはしなかったので、旅の移動中や隙間時間には右手のアルペジオやトレモロの練習や左手の指の独立性を高める指の運動をしている自分がいる。それを見て、それほどまでにギターの技術を向上させたいという思いとギターに触れ続けたいという思いがあることがわかる。仮に来年イギリスの大学院に行くことになったら、ギターの練習と仏教研究を45分ずつ交互に行うという構想を持っている。この1年間はギターの練習に専念し、毎日できるだけ多くの時間をそれに充てたい。この構想は単なる時間管理の工夫ではなく、「集中と離脱」「身体と精神」「行と観」を往復させる高度な修養法だと位置付けている。このリズムを生活の基本単位とすることは、創造性と洞察力を相互に高め合う循環系を築くことに等しい。まず、45分という時間設定には深い意味がある。心理学的に、人間の集中力の最適持続時間はおよそ40~50分とされる。この区切りを意識的に取り入れることで、疲労や惰性が蓄積する前に自然に切り替えが行われ、集中の波が保たれる。ギター練習においては、技術を磨く時間を短く区切ることで、筋肉や神経の微細な調整を効率的に進められる。45分という限定された時間の中で、音の明瞭さ、右手のタッチ、左手の運指、そして呼吸の一体感に意識を集中させることができる。やがて集中が極まると、無理なく心が「手放し」の境地に入り、音が自然に流れ出すようになるだろう。その直後に仏教研究へと切り替えることは、まさに「行から観への転換」である。ギターを通して身体と感覚を極限まで研ぎ澄ませた後に、論理的思索や経典読解へと移ることで、知性が一段と透明になる。演奏後の静寂状態では、心の表層的雑念が減り、仏典の一語一句が身体感覚とともに染み渡るようになるはずだ。特に唯識思想や中観哲学のように「心の働き」や「空性」を扱う学問においては、楽器演奏で培った集中・無心の経験が、そのまま理解の深層構造を支える。ギターが「身体的瞑想」であるなら、仏教研究は「知的瞑想」であり、両者は相互補完的に働く。また、この交互リズムには「時間の呼吸」という効能がある。ギター練習で生じる緊張とエネルギーの上昇を、仏教研究の沈静と洞察が鎮め、再び音楽の創造力へと循環させる。この往復運動は、まるで吸息と呼息のように精神を調律し、心身の均衡を保つ。どちらかに偏れば過剰な緊張または惰性に陥るが、この方法では常に新鮮な集中が再生される。つまり、勉学が演奏の瞑想的深度を増し、演奏が勉学の生動感を蘇らせるという相互作用が起こる。さらに、哲学的な観点から見ると、このサイクルは「修行と智慧の統合」である。仏教における「止観双運」の実践と同様に、身体的実践(止)と知的洞察(観)を同時に育てることで、知と行の二元を超える生き方が形成される。ギターを弾くときの微細な指先の感覚は、観察力そのものを鍛え、音の響きに心を委ねる行為は「無我の体験」に近い。学問の場ではその体験を言語化・体系化することで、直観的な悟りを理性的な理解へと昇華させることができる。また、45分単位の交替は「時間の非占有化」をもたらす。つまり、一方の活動に過度に執着しない心の柔軟さを養う。ギターへの没頭が終われば、即座に手を離し、経文へ向かう。執着を断ち切る訓練が日常的に行われることで、心は自在に流れるようになる。この切り替えの修練は、無常観の実践であり、仏教的知恵の体現でもある。総じて、この交互練習の効能は、音楽的技術と学問的洞察を並行して高めながら、「生きること自体を1つの芸術」に変えていく点にある。ギターを弾く指が世界の響きを掴み、仏教を読む眼がその響きの本質を見抜く。この2つの道を往復することで、自分という存在が「音」と「空」の交点に立つ。来年以降、この45分のリズムが日々の生活に定着すれば、技術も智慧も共に深まり、最終的には演奏も研究も区別を超えた「一なる修行」として成熟していくであろう。エディンバラ:2025/11/10(月)05:40


17671. 【エディンバラ滞在記】英語が公用語の国の安心感/ギターごとのミュートの意味                 

現在宿泊しているのは「Aparthotel Adagio Edinburgh Royal Mile」というホテルで、今朝食会場のレストランにいるのだが、雰囲気がとても良く、流れているクラシック音楽がとても心地良い。レストランの窓からは、堆積された歴史を感じさせる石造りの建造物が見える。当たり前なのだが、スコットランドでは英語が公用語として使われており、標識も人々の会話も英語であることが妙に深く安心感をもたらす。もちろんオランダでも自分は常に寛いだ形で存在できるのだが、こと言語に関して言えば、いくら英語がオランダで広く通用すると言えども、オランダの公用語はオランダ語なのだ。来年からスコットランドで生活するにせよ、イングランドで生活するにせよ、英語が公用語の国での生活は言語的に深い安心感をもたらす。エディンバラの街並みはとても美しく、今のところこの街で生活することができたら、自分の存在はまた新たな深まりを見せるであろうことを確信している。


アコースティックギター(スティール弦ギター)では、弦の張力が高く、倍音成分が非常に豊かであるため、ある弦を弾くと他の弦が共鳴して微細に振動することがよくある。この現象は「共鳴振動」あるいは「シンパセティック・レゾナンス」と呼ばれ、音の厚みを生む一方で、演奏状況によっては不要な響きや濁りをもたらす。そのため、アコースティックギターの演奏者は、特に録音やライブの際に、右手や左手で意図的にミュートを行い、不要な共鳴音を制御する必要がある。例えば、右手の手のひらの側面をブリッジ付近に軽く当てて弦を止める「パームミュート」や、左手の指を軽く触れて弦を振動させない「レフトハンドミュート」などが典型的である。これは特に、ストローク奏法や強いピッキング時に音の明瞭さを保つために不可欠である。一方、クラシックギター(ナイロン弦ギター)の場合は、弦の素材、張力、共鳴構造が大きく異なる。まず、ナイロン弦はスティール弦に比べて張力が低く、音の減衰(サステイン)が短いため、他の弦が長く共鳴し続けることはあまりない。また、クラシックギターはボディ構造が軽量で、音響的に「透明度」と「自然な残響」を重視する設計である。そのため、共鳴によって生まれる微細な余韻は、むしろ音楽的な豊かさとして歓迎されることが多い。特にバッハやソルのようなポリフォニー作品では、異なる弦の自然共鳴が声部間の立体感を生み出し、音楽に有機的な結びつきを与える。したがって、クラシックギターではアコースティックギターほど積極的にミュートを行う必要はなく、むしろその「自然な響きの共鳴」を音楽的表現の一部として活かすのが理想である。とは言え、全くミュートをしないわけではない。特定の和音進行やアルペジオで前の音が濁ってしまう場合、演奏者は右手の親指や左手の指を使って、意図的に一部の弦を止める。例えば、バッハの無伴奏チェロ組曲のトランスクリプションなどでは、低音が響きすぎると上声の旋律が埋もれてしまうため、右手親指の腹で低音弦を軽く触れて共鳴を抑える。これを「コントロールド・ミュート」と呼び、クラシックギター特有の音色管理技法のひとつである。また、左手でも指を完全に離さず、軽く弦に触れて共鳴を止める場合があり、これはポジション移動の滑らかさと音の明瞭さを両立させるために用いられる。つまり、クラシックギターのミュートは「音を止めるため」ではなく、「響きをデザインするため」の技術として機能しているのである。さらに、クラシックギターでは右手の弦角度やタッチの位置によって共鳴の量を細かく調整できる。ブリッジ寄りで弾くと倍音が減少し、ナット寄りで弾くと倍音が増える。したがって、演奏者は曲の性格やホールの響きに応じて、ミュートをする代わりにタッチの位置を変化させることで共鳴をコントロールする。これはナイロン弦特有の柔軟性があってこそ可能な音響的アプローチである。総じて言えば、アコースティックギターにおけるミュートは「不要な共鳴の排除」という目的であり、クラシックギターにおけるミュートは「必要な響きの選別と統御」である。つまり、前者はノイズ管理の技術であり、後者は音楽的呼吸を調整する芸術的行為である。クラシックギターの演奏では、楽器全体が呼吸するように共鳴し、その共鳴を指先の感覚で微細に導くことが求められる。ゆえにクラシックギターにおいては、弦の共鳴を止めるのではなく、聴き取ることこそが、真の意味でのミュート技術と言えるのである。エディンバラ:2025/11/10(月)07:55


17672. 【エディンバラ滞在記】トライアドの鍛錬の意義

                            

クラシックギターにおいて、トライアド(3和音)のさまざまな形を弾けるようになることは、単なる和声的知識の獲得にとどまらず、音楽的理解・即興性・表現力を統合的に高める極めて重要な訓練である。トライアドとは、根音・第3音・第5音から成る最小単位の和音であり、あらゆる和声の源泉である。クラシックギターにおいてこの基礎形を自在に扱えるようになることは、まるで言語の文法を身体で覚えるようなもので、演奏者に音楽構造の「文法感覚」を授ける。まず、トライアドを理解し運指で体得する意義は3つある。第一に、「和声感の可視化」である。ギターは鍵盤楽器のように構造が視覚的に明快ではないため、音と音の距離や構成を指先で覚える必要がある。トライアドの形を様々なポジションで弾けるようにすることで、ギター上の「和音地図」が頭と身体に統合され、どの位置からでも和声を見通せるようになる。第二に、「声部感覚の育成」である。クラシックギターでは、旋律・内声・低音の三層を一人で奏でることが多く、トライアドの構成音を認識できるほど、各声部の動きを意識的にコントロールできるようになる。第三に、「即興的思考と作曲的理解の促進」である。バッハやソルの作品を深く分析すると、単純なトライアドの転回形が織り交ぜられていることが多い。これを指板上で再現できるようになると、作曲的・分析的理解が一体化し、自分の中で音楽が生きた文法として機能し始める。次に、練習方法について述べる。最も基本的なのは、C、A、G、E、Dのいわゆる“CAGEDシステム”を用いて、それぞれの形のメジャー・マイナー・ディミニッシュトライアドを全ポジションで押さえられるようにすることである。まず、ルート音を6弦、5弦、4弦に設定し、各弦を基準にトライアドを形成する練習を行う。例えば、Cメジャーの場合、6弦ルートのEフォーム(8フレット)、5弦ルートのAフォーム(3フレット)、4弦ルートのDフォーム(10フレット)などを順に弾きながら、形を頭で考えずに指が自然に導くようになるまで繰り返す。これをメジャー・マイナー・ディミニッシュの全三種で行うと、指板全体の和声構造が浮かび上がる。次に、転回形の練習に移る。根音・第3音・第5音の配置を入れ替えた3つの形を、同じ弦セット(例えば4・3・2弦など)で滑らかに連結する練習を行う。これにより、音の最短距離移動(voice leading)を身体で理解できるようになり、曲中の和声進行に応じた自然な音のつながりを作り出す感覚が養われる。特にバッハの無伴奏作品やタレガの《アルハンブラの想い出》などでは、和音の各音が旋律的に動く構造を持つため、この練習がそのまま音楽的表現の基礎となる。さらに発展的には、アルペジオとの統合練習が有効である。押さえたトライアドを分散和音として弾き、各音を独立した旋律線として聴き取る。このとき、単に和音を分解するのではなく、各音がどのように和声的機能(トニック・ドミナント・サブドミナントなど)を担っているかを意識することが重要である。和声感を意識したアルペジオ練習は、演奏中に自然な呼吸と流れを作り、指先が単なる物理的運動ではなく、意味を伴った動きとして働くようになる。また、実践的な練習としては、特定の調でのトライアド連鎖練習が効果的である。例えばCメジャーのトライアド(C–Dm–Em–F–G–Am–Bdim)を、順次あるいは四度進行で弾きながら、和声の流れを耳で感じ取る。慣れてきたら、異なる弦セットで同じ和音進行を弾くことで、指板全体で和声構造を再現できるようになる。結局のところ、トライアド練習の究極の意義は、ギターという「横と縦の楽器」を同時に理解するための架け橋を築くことにある。旋律的な流れ(横)と和声的な柱(縦)が、トライアドを介して1つに統合されるとき、ギタリストは単に音を弾く存在ではなく、音楽を構築する主体となる。したがって、トライアドを自在に扱えるようになることは、クラシックギターにおける知的成熟と芸術的自由への第一歩である。エディンバラ:2025/11/10(月)08:23


17673. 【エディンバラ滞在記】エディンバラ大学の仏教プログラムのディレクターポール・フュラー博士と面談をして 

                     

エディンバラの秋の陽光は大変心地良い。今日は幸いにもエディバラは晴天に恵まれ、優しさを体現した秋の太陽の光を存分に浴びることができた。ホテルの朝食を摂り終え、少し休憩してからホテルを出発し、エディンバラ大学の神学部の建物に行く前に、近所の書店に立ち寄った。そこで仏教関係の学術書と音楽に関する専門書に目を通したが、購入に値するものはなかった。その書店にギターの楽譜があるか店員の女性に尋ねると、残念ながら置いていないとのことで、その代わりに近くの楽器屋を紹介してくれた。そこに行くと確かにギターの楽譜があったが、種類は少なく、そこでも購入に踏み切るものはなかった。そうこうしているうちに、ポール・フュラー博士との面会の時間が迫ってきたので神学部の建物に向かうことにした。そこに至るまでの景色は大変美しく、これまで世界の様々な都市を訪れたが、エディンバラは他の街にない街並みを持っており、感性が大いに刺激された。神学部の建物も見事で、多くの観光客が写真を撮っていた。フュラー博士と約束していた時間よりも30分前に建物に到着し、1階のロビーで待っていると、フュラー博士が降りてきて、笑顔で挨拶をしてくれた。その瞬間にこちらの心も自然とスッと開かれ、フュラー博士の研究室がある3階まで歩いている最中にすぐさま色々な会話が始まった。研究室に到着すると、昨年博士号を取得をしたマットというアシスタントの男性がいて、彼に挨拶をし、そこからフュラー博士との面談が始まった。こうしてエディンバラ大学の仏教プログラムのディレクターと直接会って話を聞くことによって、色々と耳より話を聞くことができた。驚いたのは、自分が知っている他の大学の仏教研究者の全員をフュラー博士は知っており、それを受けて教授たちのネットワークの緊密さを思った。フュラー博士は非常にオープンにかつて在籍していたブリストル大学の話や、これらから自分が訪問するSOASやオックスフォード大学の仏教プログラムについても話をしてくれた。フュラー博士はそれらの大学の教授にもコンタクトを取ったかを尋ねてきたので、連絡をしているし、今回の旅で全ての大学を巡ると述べると、笑いながら、「それはまるで英国の大学の仏教プログラムのツアリズムだね」と述べた。こうしたところにもフュラー博士のユーモアが現れており、30分の予定の面談は自然と伸び、45分ぐらい充実した会話を行うことができたことに感謝している。それともう一つ、フュラー博士からのありがたい提案で、神学部の建物のツアーをしてくださったことである。フュラー博士にツアーガイドを務めていただくのは恐縮だったが、ステンドグラスが美しく、エディンバラの海が見える雰囲気の良いセミナールームや図書館などを案内していただいた。別れ際にフュラー博士から、「また質問が出てきたら遠慮なく連絡してほしい。君の研究テーマに合致した一番の仏教プログラムを選ぶといい」という温かな言葉をいただいた。エディンバラの街並み、そいてキャンパスの厳かさ、さらには履修する選択授業の中で4つほど自分の関心を惹きつけるものがあるし、今回は会うことはできなかったが日本仏教を専門としているアビゲイル・マクベイン博士もいるので、必ず出願してみようと思う。昨年は21人の出願者がいて、合格したのは6人とのことで狭き門ではあるが、挑戦に値する大学だと思った。エディンバラ:2025/11/10(月)14:41


17674. 【エディンバラ滞在記】ポール・フュラー博士と面談から得られた事柄

                           

フュラー博士との話の中で、オックスフォード大学のヤン・ウェスターホフ博士となった。ちょうどウェスターホフ博士とは来週に面談の予定になっており、フュラー博士から見てもウェスターホフ博士の緻密な仏教研究は感銘に値するとのことだった。ドイツ人らしい哲学的に厳格な探究の姿勢は一連の書籍の中に存分に発揮されており、自分はそうした側面に大いに惹かれている。また、ウェスターホフ博士の最大の専門分野の1つである中観派の観点から自分の研究に対して色々と助言をいただきたいという思いもある。その話の延長で、オックスフォード大学の仏教プログラムの厳格な仏教研究言語の要求についても話題となった。エディンバラ大学にせよ、SOASにせよ、入学時点で仏教研究言語のどれかに習熟している必要はないが、オックスフォード大学の仏教プログラムはそれを要求する。幸いにも自分はサンスクリット語、パーリ語、チベット語などを使った研究は考えておらず、古典中国語と日本語を駆使しようと考えており、特に古典中国語はオックスフォード大学の仏教プログラムが列挙する仏教研究言語の1つを構成しており、言語に関する要求水準を自分は満たしていると言えそうである。厳密にいつから始めたかは忘れたが、この1年間、毎日必ず良遍の漢文文献と向き合っていたことから、古典中国語に対する抵抗感は一切なく、むしろ研究ではそれを中心に扱う予定なので、オックスフォード大学の仏教プログラムの言語の要求水準とトレーニングはむしろ感謝に値する。フュラー博士との話の中で、自分がすでに修士号を3つ持っていることについて触れると、フュラー博士は驚いていたが、どうやらプログラムには博士号を取得しているバングラデシュ出身の女性がいて、エディンバラ大学の仏教プログラムは彼女にとっても結構ハードな内容とのことだった。180単位を1年間で取得する必要があり、そこにはもちろん修士論文を執筆する60単位が含まれているが、1年間でそれをこなすのは確かにハードなのかもしれない。しかし自分は、すでにフローニンゲン大学で修士論文を要求する1年間の修士プログラムを2回修了していることもあり、1年間で修士レベルの知識と研究手法を学ぶことには全くと言っていいほど抵抗はない。SOASもまた1年間のプログラムで、オックスフォード大学だけ2年間のプログラムとなる。最後に博士課程の進学に当たって一番重要なことについて尋ねると、それは指導教官とのコネクションに加えて、綿密な研究計画書とのことだった。それによって合格率は高まり、また助成金を得られるチャンスも増えるとのことである。本日フュラー博士と話した内容をもとに、早速エディンバラ大学に提出する志望動機書のドラフトを今日と明日にかけて執筆していこうと思う。エディンバラ:2025/11/10(月)15:05


17675. 【エディンバラ滞在記】着実に進む大学院の出願準備/

エディンバラとオックスフォードの人口比較


エディンバラに滞在していても頭の中はギター演奏と仏教研究で一杯である。そんな中、今朝方は中土井僚さんと進めている翻訳プロジェクトの翻訳者の解説文のドラフトを執筆し終えた。当初の予定通り、2万5千字強の分量となった。それだけ読めば本書の要旨と各章のポイントがわかるように工夫をし、また著者のマーク・フォーマン氏と自分の関係に関するエピソードも盛り込むことで、単なる解説文を超えた意味合いを持たせた。それに加え、本日の観光を終えて午後にホテルに戻ってきて仮眠を取った後に、エディンバラ大学に提出する志望動機書のドラフトを完成させた。それは2つのパートに分かれており、本日完成させたのはその前半部分の最も重要なパートである。残っているのは仏教研究に関連する自分自身の経歴や仏教研究言語に関する素養をアピールする後半のパートだ。それも500字ほど非常に短くまとめる必要があり、どのような項目を盛り込むかをざっと書き留めたので、明日の朝、集中力が研ぎ澄まされている時間帯に一気に執筆を終わらせようと思う。明後日からはロンドンに移動となり、そこではSOASを訪問する。SOASを訪問後も同様に、提出する予定の志望動機書のドラフトを勢いで一気に執筆していこうと思う。SOASの志望動機書はエディンバラの2つのパートを合算した1000字ほどの分量である。基本的には盛り込む要所は同じであり、あとはそれぞれのプログラムが提供する独自の授業内容に触れたり、指導教官候補の研究と自分の研究テーマを具体的に紐付ける文章を執筆していこうと思う。

本日ポール・フュラー博士と話をしている時に、フュラー博士がふと、これから自分が訪れるブリストルもオックスフォードもエディンバラと比べて小規模な都市で、特にオックスフォードはこじんまりしていると述べていた。改めて調べてみると、エディンバラの人口はおよそ56万人であり、日本の都市で言えば鹿児島市(約54万人)とほぼ同規模である。熊本市や岡山市よりはやや小さいものの、行政・文化・観光の中心としての機能を併せ持つ点で中核市レベルの都市と言える。街全体に歴史的建造物が点在し、芸術や教育機関も集まっていることから、規模としては鹿児島市に近く、雰囲気としては「京都をコンパクトに凝縮した都市」と表現しても良いだろう。一方、オックスフォードの人口は約16万人で、これは山口市(約18万人)や鎌倉市(約17万人)とほぼ同程度である。大学を中心に発展した都市であり、行政都市というよりは「大学とともに呼吸する学術都市」と言えるのではないかと思う。人口規模は小さいが、知的・文化的影響力は世界的に大きく、街全体が学びと研究の場として機能している点が特徴である。その意味では、日本における京都大学周辺の左京区のように、知が街そのものの構造を形づくっている都市と言える。個人的に、人口密度が低く、こじんまりとして落ち着いていればいるほどに好ましい。エディンバラ:2025/11/10(月)18:17


Today’s Letter

I arrived in Edinburgh yesterday. I was amazed and moved by the quality of the tap water at the hotel. Since it tasted superb, I thought that the city’s water management must be well organized, which is vital for people’s daily lives. Edinburgh, 11/10/2025

 
 
 

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