【フローニンゲンからの便り】17988-17991:2026年1月6日(火)
- yoheikatowwp
- 1 日前
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タイトル一覧
17988 | 経典と論 |
17989 | 今朝方の夢 |
17990 | 今朝方の夢の振り返り |
17991 | 法華経・華厳経・解深密経 |
17988. 経典と論
自分は経典(sutra)よりも論(sastra)に魅力を感じる。それは経典が文学的なものが多く、論は学術的なものが多いことによるだろうか。自分が経典よりも論に強い魅力を感じる理由は、単に好みの問題というよりも、思考の志向性や知的態度の差異に深く関わっていると考えられる。その一因として、経典が文学的・象徴的表現を多く含むのに対し、論は学術的・分析的構造を前面に押し出している点が挙げられるであろう。経典は、しばしば物語、譬喩、対話、詩的表現といった形式を用い、教えを生きた言葉として伝えることを目的としている。そのため、文脈は開かれており、読者の感受性や宗教的経験に訴えかける余地が大きい。これは実践や信仰の次元においては極めて重要である一方で、概念の定義や論理的関係が曖昧に保たれることも少なくない。経典は「示す」ことに長けているが、「厳密に説明する」ことを第一義とはしていないのである。それに対して論は、既存の経典的教説や体験的洞察を、概念的に整理し、批判的に検討し、体系として再構成する営みである。そこでは用語の定義、区別の導入、反論の想定とその克服といった、学術的思考に不可欠な作業が徹底される。自分が論に惹かれるのは、こうした思考の可視性と操作可能性に安心感と知的快楽を見出しているからであろう。論は、何が前提で、どこからどこまでが主張であり、どの点が争点となりうるのかを明確に示してくれる。また、論はしばしば「誤解の可能性」を正面から引き受ける。すなわち、他学派や異説との対立を明示し、自説がどの点で異なり、なぜその立場が採られるのかを説明する責任を負う。その姿勢は、教えを絶対化するのではなく、常に問いに晒し続ける知的緊張を内包している。この点において、論は信仰の対象というよりも、思考の訓練装置として機能していると言える。さらに、自分の関心が「理解とは何か」「誤認はいかにして生じるのか」「概念はいかにして世界を切り分けているのか」といった認識論的・方法論的問題に向いている場合、論の方がより直接的に応答してくる。論は、教えそのものよりも、教えが成立する構造や条件を問題にするため、思考そのものを対象化することが可能になる。ここに、自分が論に知的誠実さや深い納得感を覚える理由があるのだろう。したがって、自分が論に魅力を感じるのは、経典が文学的であるからという単純な対比に尽きるものではなく、むしろ自分が「教えを生きる以前に、まず理解したい」「意味がどのように構成されているのかを確かめたい」という姿勢を強く持っていることの反映であると考えられる。論への嗜好は、信仰の欠如ではなく、理解を通してこそ実践に向かいたいという、きわめて知的で慎重な宗教的態度の表れなのかもしれない。フローニンゲン:2026/1/6(火)06:03
17989. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、サッカー日本代表のW杯前の合宿に同行していた。合宿所に集まってきた選手たちの表情は引き締まっており、同時に心にはゆとりがあるようで、大変頼もしく思えた。私はゴールキーパーとディフェンダーの選手たちと共に食事のテーブルを同じくし、食事後も相手国の対策に関する話で盛り上がっていた。実際に初戦が始まると、そこで話されたことが忠実に実行され、危なげなく勝利を飾り、予選グループを突破した。選手たちの表情はさらに自信に満ち、そして同時に心にはゆとりがあるようだったので、今大会は随分と上まで勝ち進めそうな予感がした。
次に覚えている場面は、ある知人がシステム理論に関する書籍を出版していたことに気づく場面である。ちょうどその場にはその方を含め、数人の人がいて、その方の書籍で話が盛り上がっていた。その方は出版に際して私には連絡をしてくれなかったが、きっとそれが不要だと思ったのだろう。実際に二人が住んでいる距離は相当離れていることもあり、今度一時帰国した際にその書籍の話をしようと思ったのかもしれない。いずれにせよ、その方が無事に出版できたことを心から祝った。
最後に覚えているのは、実家から父と一緒に箱根まで温泉旅行かつ釣りに出掛けていく場面である。母は家で留守番することにし、釣ってきたアオリイカを楽しみに待っていた。父と一緒に釣りに出かけるのは久しぶりのことで、アオリイカを釣るのも随分とご無沙汰だったので大変楽しみだった。そして何より今回は、山間の宿泊先の露天風呂がとても楽しみだった。いくつかの名湯があるらしく、そこでゆっくりと温泉に入ることは心身を深く回復させてくれるに違いないと思った。フローニンゲン:2026/1/6(火)06:16
17990. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢は、自分が現在歩んでいる人生の位相が、準備・協働・成熟という三つの層で同時に整いつつあることを象徴しているように思われる。最初の場面で、自分はサッカー日本代表のW杯前合宿に同行している。ここで印象的なのは、選手たちが極度の緊張ではなく、引き締まりと余裕を同時に備えている点である。これは、長期的な鍛錬を経た者だけが到達できる心的状態を象徴している可能性がある。自分がゴールキーパーやディフェンダーと同じテーブルにつき、戦術について語り合っていることは、自分が前線で目立つ存在ではなく、全体を支え、構造を整え、失点を防ぐ役割に強く共鳴していることを示しているようである。話し合われた戦略が試合で忠実に実行され、危なげなく勝利に結びつく展開は、熟慮された構想が現実世界で着実に実装されるという自己信頼の感覚を反映していると考えられる。勝利後もなお余裕を失わない選手たちの姿は、結果に慢心せず、プロセスを信じ続ける態度が自分の内側で育っている兆しであろう。次の場面で登場する知人の出版は、知的営為とその自立性を象徴しているように思われる。自分に連絡がなかったことに対して、寂しさや怒りではなく、自然な距離感として受け止め、心から祝福している点が重要である。これは、自分が他者の成果を自分との関係性の中で評価する段階を越え、それぞれの時間軸と文脈を尊重できる位置に立ちつつあることを示唆している可能性がある。システム理論という主題もまた、個々の要素が独立しながら全体として秩序を成すという、自分自身の生き方の比喩として現れているようである。最後の父との箱根旅行と釣り、温泉の場面は、系譜的な安心感と深い回復を象徴していると考えられる。父と二人で出かけ、母は家で待つという配置は、役割分担と信頼に基づく家族構造の安定を示しているようである。アオリイカ釣りという久しぶりの営みは、かつて身につけた技や感覚を再び取り戻すこと、あるいは人生の循環性を思い出すことを象徴している可能性がある。そして山間の露天風呂への強い期待は、外界での緊張と知的活動を経た後に訪れる、深層からの回復と統合への欲求を表しているように思われる。この夢全体が示している人生的意味は、自分が今、成果を急ぐ段階を越え、準備された力を静かに信じ、他者の歩みを尊重し、系譜と自然の中で自らを回復させながら、長い勝負に臨む成熟期に入っているということであるように思われる。フローニンゲン:2026/1/6(火)08:03
17991. 法華経・華厳経・解深密経
今、いくつかの経典を読んでいるのだが、どれか一つの経典だけでは解脱は実現しないのではないかと思う。どれか一つの経典のみを拠り所として解脱を目指すことには、原理的な限界があるように思われる。なぜなら、仏教経典はそれぞれ異なる角度から心と世界の構造を照らし出しており、単一の視座に固着すれば、かえって理解が偏在化する危険を孕むからである。その意味で、法華経、華厳経、解深密経を併せて読み、心を多層的に観照することは、解脱理解を立体化する上で極めて重要であると考えられる。まず法華経の意義は、「すべての衆生が仏となる」という普遍的可能性を、強い宗教的確信として提示した点にある。法華経は、教理の精密さよりも、信・願・行を貫く精神的転換に重心を置き、分別を超えた地点から自己理解を揺さぶる力を持つ。ここで語られる一仏乗の思想は、自己を限定するあらゆる認識枠を相対化し、「今ここにある自分」そのものを仏道の只中に置き直す働きを果たす。その意味で法華経は、解脱を遠い理想ではなく、存在論的にすでに開かれている地平として示す経典である。これに対して華厳経は、世界そのものの構造を壮大な宇宙論として描き出す点に独自の意義がある。事事無碍・理事無碍に象徴されるように、華厳経は、個と全体、主体と世界が相互に映じ合う無限の関係網として現実を捉える。ここでは解脱とは、個別的自己が消滅することではなく、関係性の網の目の中で自己が再定位されることである。華厳経を通じて心を見つめるとは、内面世界の分析というよりも、世界と心が同時に成立しているという全体的直観を養うことに他ならない。一方、解深密経の意義は、こうした宗教的直観や宇宙論的把握を、認識論の水準で厳密に支える点にある。解深密経は、三性説や唯識的世界理解を通じて、迷いがどのように生起し、どの段階で解消されるのかを理論的に明らかにする。ここでの焦点は、「心がどのように世界を構成しているのか」という認識のメカニズムであり、解脱は神秘的跳躍ではなく、誤認の構造的転換として理解される。解深密経は、信や直観を否定するのではなく、それらが誤解へと転落しないための精密な地図を与える経典である。以上を踏まえるならば、法華経は解脱への存在論的確信を、華厳経は世界と心の全体的相即構造を、解深密経は迷悟の認識論的条件をそれぞれ担っていると考えられる。複数の経典を通じて心を見つめるとは、信・世界観・認識構造という異なる次元を往還しながら、自らの心の働きを不断に照らし返す営みである。その重なり合いの中でこそ、解脱は抽象的理念ではなく、生きられた理解として徐々に成熟していくのだろう。フローニンゲン:2026/1/6(火)09:38
Today’s Letter
My consciousness creates its own universe, permeating all others. As I polish my consciousness, the universe grows ever brighter. Groningen, 1/6/2026


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