【フローニンゲンからの便り】17984-17987:2026年1月5日(月)
- yoheikatowwp
- 1 日前
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タイトル一覧
17984 | 貪の煩悩と向き合うこと |
17985 | 今朝方の夢 |
17986 | 今朝方の夢の振り返り |
17987 | 成唯識論の魅力と価値 |
17984. 貪の煩悩と向き合うこと
自分の内側には種々の煩悩があるが、その中でも貪(とん)の煩悩が大きいように思う。自分の内側にある煩悩の中でも、貪が強いと感じられるという自覚そのものが、すでに克服への重要な一歩なのかもしれない。仏教において貪とは、単なる欲深さではなく、「心が対象に吸着し、離れられなくなる傾向」を指す。金銭、名誉、知識、評価、さらには理想の自己像に対してさえ、心が粘着的に絡みつくとき、そこに貪が働いていると考えられる。まず理解すべき点は、貪は意志の弱さや人格の欠陥ではなく、心の自然な働きの一形態であるということである。唯識の観点から言えば、貪は阿頼耶識に蓄積された種子が、特定の縁に触れて現行化したものであり、「あってはならないもの」ではなく、「条件が整えば必ず現れるもの」である。この理解は、貪を敵視し、力ずくで排除しようとする態度を和らげる。貪の克服において最も重要なのは、抑圧ではなく、観照である。貪が生じた瞬間に、「いま心が何かを強く欲している」「対象にしがみつこうとしている」と静かに言語化し、その動きを観る。このとき、「欲してはならない」という道徳的評価を加えないことが肝要である。評価を加えた瞬間、貪は別の形、例えば自己嫌悪や慢に姿を変えて温存されてしまう。次に有効なのが、無常観である。貪の対象となるものは、必ず変化し、失われ、飽和し、やがて意味を失う。この事実を抽象的に理解するのではなく、日常の具体的経験として反復的に確認することが重要である。得た喜びがどのように薄れ、次の欲望へと移行していくかを丁寧に観察すると、貪の約束がいかに短命であるかが体感的に理解されてくる。さらに、貪を直接弱める実践として、布施、とりわけ「手放す訓練」がある。ここで言う布施は、必ずしも金銭に限られない。時間、労力、知識、注意を他者に向けて差し出す行為すべてが含まれる。重要なのは、「余っているから与える」のではなく、「惜しいと感じるものを、あえて差し出す」経験を積むことである。このとき、心に生じる抵抗や不安を否定せずに観ること自体が、貪の構造を弱めていく。また、貪が強い人ほど、実はエネルギーが豊かである場合が多い。このエネルギーを抑え込むのではなく、方向転換することが有効である。自己充足のために向いていた欲望を、創造、探究、貢献といった外向的で持続可能な活動へと移していく。すると、貪は次第に「欲望」から「志」へと質的転換を起こす可能性がある。最終的に、貪の克服とは、貪が完全に消滅することを意味しない。むしろ、貪に振り回されず、貪が生じてもそれを透明に観ることができる心の自由度を高めることである。対象を所有しなくても、そこに触れなくても、心が満ちている状態が徐々に育っていくとき、貪は力を失い、智慧の素材へと変容していく。すなわち、貪を克服するとは、欲望を否定することではなく、欲望を理解し、抱え込み、そして手放す力を身につけることである。その道程そのものが、自己理解と解放の深まりを示す、生きた修行であると言えるだろう。フローニンゲン:2026/1/5(月)06:01
17985. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、修学旅行として外国の町に友人たちと向かっていた。列車の中は楽しげな雰囲気であり、ここから始まる修学旅行にみんな気分が高まっていた。そんな中ふと荷物棚を眺めると、先ほどまであった自分のスーツケースが消えていることに気づいた。おかしなと思って一緒にそこにスーツケースを置いた友人にも手伝ってもらう形で探し始めた。しかしいくら探してもスーツケースは見つからず、誰かが盗んだのではないかと思った。すると突然、千里眼のような能力が発動され、脳裏にスーツケースのありかが知覚された。スーツケースは、列車が出発してすぐに一時停止した駅の線路脇に置かれていることがわかったのだ。誰かが嫌がらせでそれをしたようだった。幸いにもスーツケースの場所がわかったので、自分だけ引き返すことにし、スーツケースを取りに行くことにした。無事にスーツケースを見つけ、そこからまた列車に乗った。今度も数人の友人と一緒だったが、先ほどよりも注意深くスーツケースを見守っておこうと思った。すると誰かに話しかけられて注意が削がれた瞬間に、またスーツケースがなくなっていたのである。今度もまた千里眼によってその場所がわかったのだが、一体誰が何度も自分に嫌がらせをするのだろうと思った。ついでに学校の校舎に戻り、お洒落なスーツに着替えることにした。目的地はイタリアであることを思い出したから、スーツはイタリア性のものにした。ロッカーで着替えをしていると、二人の友人がやって来て、片方は背の小さい友人だったが、学年で一番背の高い友人が肩車をする形でとても巨大に見えた。着替えが済み、一階である女性友達と合流し、今から四人で目的地に向かおうと思った。すると彼女がふと、もう何人か女子友達がいるので待ってほしいとお願いをしてきた。待つことを考えたが、またスーツケースが紛失してみんなに気を遣わせてしまうかもしれなかったので、自分はここからは単独行動することんした。その方が気が楽だったのである。そこで場面が変わり、目的地のカフェに到着していた。自分の周りには様々な国籍の外国人たちが楽しげに話をしていた。どうやら彼らの大半は英語がネイティブではないようで、非ネイティブ同士心を通わせながらの会話は心地良かった。店を出ると、ある一人の外国人が英語に関するクイズをみんなで解こうと言い出した。それは自分にとってはとても簡単な単語クイズだったが、どういうわけか彼らはその問題に手こずっていた。「cheese」や「chicken」といった簡単な単語の発音に彼が戸惑っている姿は幾分微笑ましかった。フローニンゲン:2026/1/5(月)06:16
17986. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢は、人生の移行期における「自分らしさ」と「役割・期待」との緊張関係を、多層的な象徴によって描き出しているように思われる。修学旅行という設定は、学びと移動、すなわち既知の枠組みから未知の世界へ向かう過程を象徴していると考えられる。友人たちと列車に乗り、高揚した雰囲気に包まれている場面は、社会的なつながりの中で共有される期待や理想、あるいは共同体的な時間の心地よさを示しているのであろう。しかし、その只中でスーツケースが消失する出来事が起こる。スーツケースは、旅に必要なものをすべて詰め込んだ私的な所有物であり、これまで培ってきた経験、能力、価値観、あるいは「自分は何者であるか」というアイデンティティの象徴である可能性が高い。それが繰り返し失われるという体験は、周囲との関わりの中で自分の核となるものが脅かされる感覚、あるいは無自覚な他者の期待や干渉によって、自分らしさが置き去りにされる不安を表しているように思われる。興味深いのは、スーツケースの所在を千里眼のような能力で直観的に把握できる点である。これは、外的な混乱や妨害があっても、自分の内側には確かな洞察力や方向感覚が備わっていることを示唆していると推測される。他者に奪われたかのように見えるものも、実際には線路脇、すなわち人生の進行路のすぐ傍らに置かれており、完全に失われたわけではないのである。一方で、再び注意が逸れた瞬間に同じことが起こるという反復は、集団の中に留まる限り、同種の緊張が何度も生じることを暗示しているように思われる。その流れで学校に戻り、イタリア製のスーツに着替える場面は、「自分はどのような姿で世界に出るのか」を主体的に選び直す行為として読める。イタリアという目的地は、文化的洗練、美、職人性といった価値を象徴し、それに見合う装いへと自らを調えることは、外的評価ではなく内的基準に基づく再定位を意味しているのだろう。巨大に見える友人の姿や、女性友達との別れの選択は、他者との関係性が拡大したり複雑化したりする中で、自分が無理に合わせることをやめ、単独行動を選ぶ決断を示していると考えられる。それは孤立ではなく、むしろ心の負担を減らすための健全な距離の取り方である。最終的に到着したカフェの場面は、国籍も背景も異なる非ネイティブ同士が、完全ではない英語を通して心地よく交流する空間として描かれている。ここでは優劣や競争ではなく、不完全さを共有する安心感が支配している。簡単な英単語に戸惑う他者を微笑ましく眺める自分の姿は、能力の優位性を誇示するのではなく、その違いを受け入れ、余裕をもって関わる成熟した立ち位置を象徴しているように思われる。人生における意味としてこの夢は、集団の期待や関係性の中で何度も揺さぶられながらも、自分の本質は内的な洞察によって常に回収可能であること、そして最終的には自分にとって心地よい距離と場を選び取ることで、真に安定した旅路に到達できることを示唆しているように思われる。フローニンゲン:2026/1/5(月)08:05
17987. 成唯識論の魅力と価値
成唯識論の魅力と価値に改めて心が動かされている。今、連日日英の成唯識論の解説書を読み続けている。成唯識論の魅力と価値は、単に仏教の一学派の理論を体系的にまとめた論書であるという点には尽きない。それは、人間が世界をどのように経験し、意味づけ、苦悩し、そして解放へと向かうのかという問題を、驚くほど精緻かつ冷静に解剖した、きわめて成熟した思想的成果である点にこそある。成唯識論は、護法らの唯識思想を基礎としつつ、玄奘によって漢訳・再編された注釈統合型の論書であり、阿頼耶識・末那識・前六識という八識説を軸に、人間の認識と存在の構造を徹底的に分析する。その最大の魅力は、世界を「心の産物」と断じながらも、決して主観的独我論や空疎な観念論に陥らない点にある。外界を否定するのではなく、「外界がいかにして“外界として”成立するのか」を問う姿勢が、成唯識論の思想的緊張を生んでいる。とりわけ注目すべきは、遍計所執性・依他起性・円成実性という三性説である。これは単なる存在論的分類ではなく、人間の認識が誤認から相対的理解を経て、非二元的真実へと転回していく動的プロセスの記述である。成唯識論は、誤りを排除することで真理に到達するのではなく、誤りそのものがどのような条件で生起し、いかに変容しうるかを丹念に描き出す。ここには、倫理・修行・認識論が分断されることなく統合された、仏教思想特有の知のかたちがある。また、阿頼耶識における種子説の精緻さも、成唯識論の価値を際立たせている。行為・思考・感情が単に消滅するのではなく、潜在的傾向として蓄積され、再び現行として顕在化するという理解は、因果を機械的に捉えるのではなく、時間を貫く心的連続性として把握する試みである。ここでは「自己」とは固定的実体ではなく、因縁によって編まれ続ける流れであり、その流れを転換する可能性が常に残されている。この点において成唯識論は、厳密でありながら希望を失わない思想である。さらに重要なのは、成唯識論が極度に理論的でありながら、最終的な目的を決して見失わないことである。その目的とは、煩悩の構造を理解し、識の転依を通じて智慧へと転ずることである。煩悩は否定すべき異物ではなく、識の誤用として理解され、正しく照らされることで智慧へと変容しうるものとして扱われる。この変容可能性の論理的基盤を、ここまで徹底して提示した思想は稀である。成唯識論の魅力とは、思索すればするほど「心とは何か」「世界とは何か」という問いが深まり、同時に「では、いかに生きるのか」という実存的問いへと自然に導かれる点にある。その価値は、過去の教義的遺産にとどまらず、現代においても、認識の歪みや自己同一性の不安に向き合うための、きわめて洗練された知的・実践的資源であり続けているのである。フローニンゲン:2026/1/5(月)09:55
Today’s Letter
Consciousness is like a river. It is constantly flowing and reflecting everything as it is. Polishing the mirror enables me to free myself from cognitive afflictions. Groningen, 1/5/2026


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