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【フローニンゲンからの便り】18338-18343:2026年3月11日(水)

  • 12 分前
  • 読了時間: 18分


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タイトル一覧

18338

エディンバラ大学から合格通知を受けて

18339

今朝方の夢

18340

今朝方の夢の振り返り

18341

詰将棋的な面白さを持つ仏教研究

18342

流動性知能を鍛えるクラシックギターの練習

18343

楽器を持って練習していない時のイメージトレーニング

18338. エディンバラ大学から合格通知を受けて 

                 

時刻は午前5時を迎えた。3月に入ってフローニンゲンもようやく極寒を脱却し、春らしさが感じられるようになってきている。それは気温に現れているし、何よりも晴れの日が増え、冬の間はなかなか拝むことができなかった太陽を拝むことができている。日中の最高気温も15度に到達する日が続いていたが、今日からは最高気温がまた少し下がり、10度ほどの日が続いていく。最低気温に関してもまた下がるが、これは正式な春がやってくるための一時休みだろう。


昨日、 ロンドン大学SOASに続いて、有り難いことにエディンバラ大学からも無事に合格通知をいただいた。午後にメールを確認すると、エディンバラ大学から連絡があり、出願ポータルを開いたところ、今回もまた無条件オファー(unconditional offer)をいただくことができた。エディンバラ大学は歴とした名門大学であり、イギリスでも五本の指に入り、世界大学ランキングでも20位から30位を推移しているように、世界的にも評価が高い大学である。昨年の秋に訪れてみたときに、歴史を感じさせる街並みを含め、非常に好感を持っていた。仏教プログラムは新しくできたばかりだが、逆にそのために勢いを感じるし、履修科目に関しても自分の関心に合致するものが多く、進学先候補として挙げていた。晴れてエディンバラ大学からの合格通知を受け、あとはオックスフォード大学からの連絡を待つだけである。出願から8~10週間のタイミングで結果を通知するとあったので、今週か来週には結果を受け取ることになるだろう。三校の結果を受けて最終的にどこの大学院に進学するかを検討したい。それぞれ魅力が異なる大学であり、授業料や生活費もそれぞれの大学で随分と異なる。ロンドン大学SOASとエディンバラ大学は一年間のプログラムで、オックスフォード大学のプログラムは二年間のプログラムだ。そうしたことからも授業料の金額も変わってくるし、奨学金の支給の有無なども検討材料になるだろう。いずれにせよ、昨日は選択肢がまた一つ増える形でエディンバラ大学から合格通知を得て大変嬉しく思った。どの大学院に進学することになっても、自分の志は変わらない。欧米の仏教研究学界に「日本法相唯識学」を創始し、当該分野を発展させていくことを通じて仏教研究に貢献し、ひいては世界にその知見を共有する形でより幸福で平和な社会を実現させていくことを行なっていきたい。フローニンゲン:2026/3/11(水)05:25


18339. 今朝方の夢 

   

今朝方は夢の中で見知らぬ記念館にいた。ちょうどその記念館の敷地内に入ったところで、記念館の入り口から丘を降りた駐車場にかけて行列ができていた。何かと思いきや、それは二人三脚のレースの参加者のようだった。そこに並んでいたのはほとんど外国人で、日本人の姿は全く見かけなかった。彼らは今から始まるレースを楽しみにしているようだった。どうやら一斉でスタートするのではなく、一組ごとにスタートするらしく、タイムを測るのはどうやっているのだろうと疑問に思ったが、おそらく最先端のテクノロジーを使ってそのあたりは工夫をするのだろうと思った。記念館に入ると、そこでも結構な観光客がいた。自分はまだチケットを購入していないにも関わらず、なぜか中に入ることができた。しかし、チケットを提示しないと入れない箇所に関しては入ることができず、遠くからその場所を眺めていた。チケットが必要な奥では何やら音楽が流れていて、その音楽に耳を傾けながらどのような展示がそこになされているのかを想像していた。気がつくと記念館を後にしていて、駐車場に停まっている一台の車の中にいた。車内には父、大学時代のサークルの友人、大学受験YouTuberがいて、誰かが買ってきてくれたマクドナルドのポテトをみんなで食べ始めた。飲み物はコーラで、ストローが刺されたコーラを飲み始めたところ、手元にあるのが誰のコーラかわからなくなり、どれが自分ものかをみんなで議論した。その議論が思わぬ形でヒートアップし、最終的には誰のでも構わないという馬鹿馬鹿しい気持ちになった。たかがコーラで口論して場の雰囲気を悪くするのがとても馬鹿げたことに思えたのである。特に父は強い口調で主張を展開していたが、これ以上議論すると喧嘩になりそうだったので、議論をやめることにしたのは賢明だっただろう。ポテトをそこそこ食べたので、ようやくハンバーガーに着手しようとしたところ、そこでふと、自分はなぜこんなにも体に悪い食べ物や飲み物を摂取しているのだろうと思った。こうしたファーストフードなど最後に食べたのがいつかわからないぐらいご無沙汰で、今は健康の観点から絶対に口にしないようなものなのに、なぜ惰性で飲み食いしていたのか不思議でならなかった。フローニンゲン:2026/3/11(水)05:41


18340. 今朝方の夢の振り返り

        

今朝方の夢は、自分がある種の「移行期」に立っていることを象徴している可能性が高い夢であるように思われる。夢の冒頭で登場する見知らぬ記念館は、過去の出来事や人間の営みを保存する場所であり、心理的には「これまでの人生の歩み」や「蓄積された経験のアーカイブ」を象徴している可能性がある。自分がその敷地に入る場面は、人生の一つの段階を振り返りつつ、そこから新たな視点で自分自身を見直そうとしている心的状態を表しているのかもしれない。記念館の入口から丘を下る駐車場まで続く二人三脚レースの列は興味深い象徴である。二人三脚という競技は、一人ではなく他者との協働によって前に進む構造を持つ。そこに外国人ばかりが並んでいたという描写は、これから向かおうとしている世界が、文化的にも知的にも自分にとって新しい環境であることを暗示している可能性がある。海外での学問的活動や国際的な知的コミュニティへの参加といった未来の文脈が、夢の中では外国人の列として表象されているのかもしれない。また、レースが一斉スタートではなく一組ずつ始まるという構造は、人生の競争が必ずしも同時に同じ条件で行われるものではなく、それぞれのタイミングと条件の中で測定されるという直感的理解を象徴しているようにも思われる。最先端のテクノロジーによってタイムが測られるだろうと想像する場面は、自分の人生や努力もまた、見えない何らかの基準によって評価されているという感覚の反映である可能性がある。記念館の内部に入ることができたにもかかわらず、チケットが必要な奥の展示には入れないという場面は、現在の自己の位置を象徴しているようにも見える。すなわち、知識や世界の一部にはすでにアクセスできているものの、さらに深い領域にはまだ正式な資格や条件が必要であるという感覚である。遠くから音楽だけが聞こえてくる描写は、まだ完全には触れていない知的世界や文化的世界への憧れを示しているのかもしれない。展示を想像している姿は、未知の領域に対する想像力や研究意欲を象徴している可能性がある。その後、場面が突然車内へと移ることも象徴的である。車は人生の移動や進路を象徴することが多いが、その車内に父、大学時代の友人、そして受験系YouTuberという三種類の人物が同席している点は、自分の人生の異なる時間軸や価値体系が同時に集まっている状態を表しているように思われる。父は家族的価値や原初的な規範を象徴し、大学時代の友人は青春期の共同体や知的形成の記憶を象徴している可能性がある。受験YouTuberという存在は、努力や競争、教育システムといった現代社会的な文脈を象徴しているようにも見える。つまり車内の場面は、人生の異なる層が一つの場で交錯している心理的状態を表しているのかもしれない。コーラの持ち主をめぐる議論がヒートアップする場面は、人間関係における所有や正当性へのこだわりの滑稽さを象徴しているように思われる。誰のコーラかという問題は本質的には取るに足らない問題であるが、それにもかかわらず議論が激しくなる構造は、人間が些細な対象に執着し争いを生み出す心理を示しているのかもしれない。最終的に「誰のでも構わない」という感覚に至る展開は、その執着から一歩引いた視点を獲得していることを象徴している可能性がある。この構造は、仏教的に言えば所有や自我への執着の空しさに気づく瞬間の比喩として読むこともできるだろう。最後にファーストフードを食べている自分に違和感を覚える場面は、自分の生活規律や価値観を象徴的に映し出している可能性がある。普段は健康を重視して避けているものを惰性で摂取しているという気づきは、習慣や環境の流れの中で人が無意識に行動してしまうことを示しているのかもしれない。それは身体的な食習慣だけではなく、人生の選択や行動全般に関するメタファーである可能性もある。この夢全体を通して見える構造は、人生の新しい段階へ向かう過渡期において、過去の人間関係、社会的競争、知的探求、そして日常的習慣が一つの場に集まり、それらを少し距離を置いて眺め直している心理状態であるように思われる。記念館、レース、車内の議論、そして食事という連続した場面は、人生の舞台が変わりつつある中で、自分が何を本当に大切にするべきかを静かに見直している過程を象徴している可能性が高い。人生における意味として考えるなら、この夢は「些細な争いや惰性的な行動から距離を取り、本当に価値ある道へ集中すること」を示唆している夢である可能性がある。丘の上の記念館から遠くの音楽を聴いていた姿のように、まだ完全には入っていない未来の領域に対して静かに耳を澄ませながら、自分の歩むレースを自分のペースで始めようとしている心の動きが表れているのかもしれない。フローニンゲン:2026/3/11(水)06:41


18341. 詰将棋的な面白さを持つ仏教研究


仏教研究の面白さは、詰将棋と同じく「複雑に見える構造の中から必然的な論理を発見していく知的探究」にある。詰将棋では盤面に配置された駒の関係から唯一の詰み筋を見出すが、仏教研究では経典や論書の概念体系の中から、その教理がどのような論理構造を持っているのかを読み解いていく。最初に文献を読んだときは、多くの概念や議論が複雑に絡み合っており、全体の意味が見えにくい。しかし読み進めるうちに、ある概念や論証の位置づけが理解できると、全体の構造が突然明瞭になる瞬間がある。この瞬間は、詰将棋で詰み筋が見えたときの感覚に非常に近い。仏教哲学の議論は、一見すると宗教的な教えの集合のように見えるが、実際には非常に精緻な論理体系として構築されている。例えば唯識思想では、八識説、三性説、二無我説などが相互に関係しながら、一つの認識論的・存在論的枠組みを形成している。これらの概念は単独で理解されるものではなく、それぞれが互いに補完し合う形で全体の思想を支えている。研究者の仕事は、その関係性を解明し、思想の内部構造を明らかにすることである。この過程は、詰将棋の盤面において駒同士の相互作用を読み解く作業とよく似ている。仏教研究の大きな効能の一つは、論理的思考力の深化である。詰将棋では数手先を読む能力が必要になるが、仏教研究でも論証の展開を段階的に追う能力が求められる。特にインド仏教論理学や中観思想の議論では、前提、推論、帰結の関係を厳密に理解する必要がある。例えば陳那や法称の論理学では、正しい認識を成立させる条件が精密に分析されている。このような議論を読み解く作業は、複数の論理段階を頭の中で追跡する訓練になる。結果として、思考の精度と厳密さが大きく鍛えられる。また仏教研究は、概念のパターン認識を発達させる。詰将棋の熟練者が盤面をパターンとして把握するように、仏教研究者も思想のパターンを理解するようになる。例えば、ある議論が中観的な立場からの批判なのか、唯識的な再解釈なのかを見抜く能力は、文献を数多く読む中で形成される。最初は複雑に見える議論も、経験を積むと構造的に理解できるようになり、思想の流れを瞬時に把握できるようになる。この能力は、哲学研究全般において重要な基礎となる。さらに仏教研究には、知的集中を生み出す力がある。難解な経論を読むときには、一つ一つの概念や論証を丁寧に追う必要があり、意識は自然と一点に集中していく。この集中状態は、詰将棋を解いているときの深い没入と似ている。思考の雑念が減り、対象となる思想そのものに意識が浸透していく感覚が生まれる。この状態では、読解は単なる情報処理ではなく、思想との対話に近い体験になる。仏教研究のもう一つの特徴は、知的活動と実存的洞察が結びついている点である。詰将棋は純粋な論理ゲームであるが、仏教思想の研究は人間の苦や存在の意味といった問題に直接関わっている。例えば空や無我の議論を理解する過程では、世界の見方そのものが変化することがある。この意味で仏教研究は、単なる学問的訓練を超えて、認識の枠組みを変容させる可能性を持つ。また、優れた仏教思想には独特の美しさがある。詰将棋の名作が簡潔で必然的な構造を持つように、仏教哲学の優れた議論もまた非常に洗練された形をしている。例えば縁起や空の思想は、世界を一つの相互依存のネットワークとして理解する壮大な構造を提示している。その構造を理解したとき、人は単なる知識の獲得ではなく、思想の美しさを感じることがある。このように考えると、仏教研究は一種の知的修行のような性格を持っている。文献という複雑な盤面の中で、研究者は概念の関係を読み解き、思想の核心に至る道筋を見つけていく。その過程は、詰将棋で唯一の詰み筋を発見する体験とよく似ている。思考の秩序を見出す喜びと、世界の理解が深まる感覚が結びつくところに、仏教研究の独特の魅力と効能が存在しているのである。フローニンゲン:2026/3/11(水)07:36


18342. 流動性知能を鍛えるクラシックギターの練習    

   

クラシックギターの練習は単なる運動技能の習得にとどまらず、方法次第では流動性知能や抽象的推論能力を鍛える訓練にもなり得るのではないかと思う。流動性知能とは、新しい問題に直面したときにパターンを発見し、関係性を理解し、未知の状況に適応する能力である。ギター練習をこの能力の向上につなげるためには、単に反復練習を行うのではなく、音楽や運動の背後にある構造を読み解く思考を伴わせることが重要になる。まず重要なのは、楽譜を「音の列」としてではなく「構造」として読む習慣を持つことである。多くの初学者は音符を一つずつ処理しながら弾くが、この方法では記憶と反復に依存することになり、抽象的思考はあまり働かない。流動性知能を刺激するためには、旋律のパターン、和声進行、指の運動の規則性といった構造を探しながら練習する必要がある。例えばあるフレーズを見たとき、それが単なる音の連続ではなく「スケールの断片」「アルペジオの変形」「対称的な運動」などのパターンとして理解できるようになると、思考はより抽象的なレベルで働き始める。次に有効なのは、演奏を「問題解決」として捉える姿勢である。クラシックギターの楽譜には、しばしば技術的に難しい箇所が存在する。通常は繰り返し練習によって解決しようとするが、ここで思考的なアプローチを取ることが流動性知能を刺激する。例えば、あるパッセージが弾きにくい場合、その原因を分析する。指の移動距離なのか、ポジションの選択なのか、右手の指順なのかを仮説として考え、それを試行しながら最適な解法を見つける。この過程は数学の問題解決やパズルの思考と同じ構造を持っている。また、パターン認識を意識的に鍛えることも重要である。熟練した演奏者は、楽譜を読むときに一音ずつ処理しているわけではない。フレーズや和声のまとまりを瞬時に認識している。これは将棋の上級者が盤面をパターンとして把握するのと似ている。この能力を鍛えるには、練習中に「このフレーズはどの音階からできているのか」「この和音はどの機能を持っているのか」といった問いを常に立てることが効果的である。すると音楽は単なる記号の集合ではなく、意味のある構造として理解されるようになる。さらに、複数の視点を行き来する練習も抽象的推論能力を高める。具体的には、演奏、分析、想像の三つのモードを意識的に切り替えることである。演奏の段階では身体を使って音楽を実現する。分析の段階では和声や構造を理解する。想像の段階では楽器を持たずに音楽の流れを頭の中で再構築する。この三つのモードを往復することで、具体的経験と抽象的理解が結びつく。流動性知能は、このような多層的な認知活動の中で特に強く刺激される。もう一つ有効なのは、変形練習である。同じフレーズを異なるリズム、異なるポジション、異なる指使いで弾いてみると、音楽の構造がより明確になる。このような変形は、単なる再現ではなく、パターンの本質を理解するための訓練になる。数学で同じ問題を異なる方法で解く練習に近いと言える。このような方法で練習を行うと、クラシックギターは単なる運動訓練ではなく、知的活動に変わる。楽譜は一種の問題空間となり、演奏者はその中で構造を発見し、最適な解法を見つけていく。この過程では、パターン認識、仮説生成、推論、抽象化といった認知能力が絶えず働いている。結果として演奏技術だけでなく、新しい状況に適応する思考力、すなわち流動性知能そのものが鍛えられていくだろう。フローニンゲン:2026/3/11(水)09:36


18343. 楽器を持って練習していない時のイメージトレーニング 

           

クラシックギターの上達は、実際に楽器を持って練習する時間だけで決まるわけではない。むしろ、弾けない時間をどのように使うかによって、上達の質がかなり変わるだろう。就寝前のベッドの上や外出中の移動時間は、単なる空白ではなく、演奏の設計図を頭の中で精密に組み立てるための時間になりうる。イメージトレーニングが有効なのは、演奏とは単に筋肉を動かす行為ではなく、知覚・予測・身体感覚・音の記憶が統合された高度な認知活動だからである。実際の演奏は建築物であるが、イメージトレーニングはその見えない骨組みを組み上げる作業に似ている。コツとして重要なのは、ただ漠然と「弾いているところを想像する」ことではなく、できるだけ具体的に、感覚を分解してイメージすることである。多くの人は頭の中で曲を流すだけで終わってしまうが、それでは効果が弱い。必要なのは、左手のどの指がどの弦のどのフレットに触れているか、右手のどの指がどの順番で弦に入るか、ポジション移動の直前に手首や腕がどう準備されるかまでを、細部ごとに再現することである。音だけではなく、運動の順序、触覚、重心、脱力感まで思い描く必要がある。頭の中の演奏が曖昧であれば、実際の演奏も曖昧になりやすい。とりわけ有効なのは、テンポを極端に落としてイメージすることである。実際に弾かないと、人はつい速く雑に想像してしまう。しかし上達に効くのは、映画の早送りのようなイメージではなく、むしろコマ送りに近い精密なイメージである。例えば、難所が四音あるなら、その四音をただ流すのではなく、一音ごとに「準備→接触→発音→次の準備」という順番を心の中で追うのである。この練習をすると、普段は無意識に処理している運動のつながりが可視化される。すると実際に楽器を持ったとき、無駄な力みや動きの飛躍に気づきやすくなる。就寝前のベッドの上では、特に「静かな成功体験」の反復が有効だろう。夜は身体を大きく動かせないぶん、失敗の記憶をなぞるのではなく、理想的な演奏の流れを穏やかに反復するのがよい。難しい箇所を思い出して不安になるよりも、その箇所を最小単位に分け、完璧に近い形で通過するイメージを作るのである。脳は現実の運動とかなり似た形でこうしたシミュレーションを処理するため、眠る前に整った運動イメージを入れておくことは、翌日の演奏の精度に良い影響を与えやすい。夜は種まきの時間であり、朝の練習はその芽を確かめる時間と考えるとよいだろう。買い物中や移動中には、もう少し異なる使い方ができる。この場合は、細かな運指の再現よりも、曲全体の地図を頭の中でたどるのがよい。例えば、冒頭はこの和声、次にこのポジションへ移り、中間部で緊張が高まり、終盤で解放される、というように、大きな構造をなぞるのである。これは実際の練習で細部に埋もれすぎるのを防ぐ。クラシックギターの練習では、しばしば木ばかり見て森を失うことが起こるが、外出中のイメージトレーニングは森全体を見るのに適している。作品の構造、フレージング、和声の方向性、呼吸の位置を確認する時間にすると非常に有益である。また、イメージトレーニングには二種類あると考えると整理しやすい。ひとつは「内側からのイメージ」であり、自分の目線から指板を見て、身体感覚ごと再現する方法である。これは運動学習に強い。もうひとつは「外側からのイメージ」であり、自分が演奏している様子を客観的に眺める方法である。これは姿勢、音楽表現、舞台上の安定感を整えるのに向いている。前者は職人の視点、後者は演出家の視点に近い。両方を使い分けることで、演奏の内実と外見の両方が洗練されるはずだ。さらに大切なのは、イメージの対象を「成功」に限定しすぎず、「修正の過程」まで含めることである。実際の演奏では常に完璧な条件が揃うわけではない。少し音がずれたときにどう立て直すか、テンポが揺れたときにどう戻すかを頭の中でシミュレーションしておくと、本番での安定感が増す。これは災害訓練に似ており、事故を願うのではなく、事故に強い身体と意識を作るための準備である。注意点として、イメージトレーニングは現実逃避的な夢想になってはいけない。気持ちよく名演奏を想像するだけでは、実践的効果は薄い。常に「次に実際に弾くとき、何が変わるのか」という問いにつながっていなければならない。理想は、頭の中で明確になった一点を、次回の実技で即座に検証することである。イメージと実演の往復が起きたとき、はじめてこの練習は強い力を持つ。要するに、イメージトレーニングのコツは、曖昧な空想ではなく、感覚を伴った精密な再現にすること、場面に応じて「細部」と「全体」を使い分けること、そして次の実技練習と必ず接続することである。楽器を持てない時間は、演奏から切り離された時間ではない。むしろそこでは、音のない場所で音楽の深層構造を耕しているのである。うまく行えば、ベッドの上も道の途中も、見えない練習室へと変わっていくはずだ。フローニンゲン:2026/3/11(水)10:55


Today’s Letter

Imagery training when I am not physically playing the classical guitar is pivotal for developing my skills. While the method itself is important, this form of training is continually refined through reflective practice. Groningen, 3/11/2026

 
 
 

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