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【フローニンゲンからの便り】18595-18600:2026年4月30日(木)

  • 13 分前
  • 読了時間: 14分


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タイトル一覧

18595

隙間時間のイメージトレーニング

18596

今朝方の夢

18597

今朝方の夢の振り返り

18598

音名を口ずさみながらのスケール練習

18599

価値論と唯識の架橋

18600

制限ゆえの創造性

18595. 隙間時間のイメージトレーニング 

 

昨日ふと、上達とはギターを手にしている時間だけで決まるのではなく、手にしていない時間の使い方でも大きく変わるのだと感じた。楽器を置いている時、移動中、待ち時間、湯が沸く数分、寝る前の静かな時間。そうした隙間時間は、何もできない空白ではなく、見えない練習室なのかもしれない。クラシックギターにおいて、この時間をどう使うかで演奏の深さは変わってくるように思う。もっとも効果的なのは、頭の中で「正しく弾く映像」を再生することである。たとえばある一小節を思い浮かべ、左手の指がどの弦の何フレットに置かれ、右手のi,m,aがどの順で動くかを細かく想像する。ここで重要なのは、曖昧に弾いている姿をぼんやり思うのではなく、できるだけ具体的に描くことである。脳は現実の運動と想像上の運動をある程度共通の回路で処理すると言われる。つまり、静かに座っていても、内部では小さな練習が進んでいるのだ。最近良いと思うのは、楽譜を見ずに暗譜確認をする方法である。買い物に行く最中に曲名を一つ決め、冒頭から頭の中で再生してみる。次の和音は何か、低音はどこへ進むか、左手のポジション移動はどこか。途中で止まれば、記憶が曖昧な箇所が分かる。実際に楽器を持つと、指の流れでごまかせることがあるが、頭の中ではごまかしが効かない。記憶の穴がそのまま露出する。これは非常に正直な練習である。また、音色のイメージも大切だと思う。ただ音程だけでなく、柔らかい音、透明な音、深く歌う低音、遠くまで飛ぶ高音など、理想の響きを内耳で鳴らす。頭の中に音の設計図がなければ、指は偶然に頼るしかない。逆に理想の音が明確なら、次に楽器を持った時、身体はそこへ向かって調整を始める。演奏とは、指が音を作るというより、耳の理想に身体が従う営みなのだろう。さらに、舞台想定のイメージも役立つ。人前で弾くと緊張するなら、隙間時間に本番の情景を思い浮かべる。椅子に座り、静寂が訪れ、一音目を出す。その時に肩の力を抜き、呼吸を整え、落ち着いて始める自分を想像する。失敗場面まで想定し、その後も平然と続ける姿を描くのもよい。心は未知の状況に弱いが、既知の情景には比較的落ち着いて向き合える。ただし注意もある。誤ったフォームや焦った演奏を繰り返し想像すると、その癖まで強化しかねない。だから短時間でも、ゆっくり正確で美しい動きを思い描く方がよい。量より質である。雑な百回より、鮮明な三回の方が価値があることも多い。上達とは、練習室だけで起こる現象ではない。駅のホームでも、台所でも、散歩中でも、心の中に一本のギターは持ち運べる。指を動かせない時間にも、音楽は育つ。隙間時間とは、人生の端切れではなく、名手への細い通路なのかもしれない。そこを毎日少しずつ歩く人だけが、気づけば遠くまで来ているのだと思う。フローニンゲン:2026/4/30(木)06:42


18596. 今朝方の夢

                       

今朝方は夢の中で、学生として見慣れない多くの男女の日本人学生たちと世界中の都市に訪れ、各都市で出題された謎解きをしながら冒険を楽しんでいた。四人一組ぐらいでチームとなり、私たちのチームは全員が特殊な才能を持っていて、尚且つチームワークも抜群であり、他のチームよりも圧倒的に謎解きの成績が良かった。他のチームが羨むほどの才能と協働能力を持った私たちのチームは、他のチームに助言をしていくことにし、それを通じて全員が高いレベルで謎解きをして次の都市に向かっていけるようにした。ある都市で一つ事件があった。それは超進学校の三人の高校生が日本の東京大学の理系の数学の入試問題を試験前に盗み見したというものだ。入試問題はある図書館の天空の保管室に保存されており、大学関係者以外はアクセスできないようになっていた。しかし彼らは知能が抜群に高かったので、システムにハッキングし、すんなりとアクセスを突破して天空の保管室に侵入した。そこでは全六問のうち三問しか保管されていなかったが、彼らはそれらをしっかりと記憶に留めた。実は大学側は万が一侵入されて入試問題が盗まれることを考慮して、ダミーの問題セットを用意していた。彼らはそれらのダミーの問題をダミーだと見抜き、保管室のさらに奥にある隠し部屋まで突き止め、正しい入試問題を盗み見することに成功したのであった。その一部始終を見ていると、彼らの能力からしたら問題を盗み見する必要など全くなかったのではないかと思った。実際に彼らは三問の問題を記憶し、保管室から出てそれらの問題について即座に回答方針と答えを紙と鉛筆なしで脳内だけで算出していた。


もう一つ覚えているのは、大学時代のある友人、小中高時代のある友人、そして元サッカー日本代表の自分と同年代のある選手と四人でなぜかカラオケルームで豪華な食事を摂っていた場面である。その場にはとんかつなどの肉料理があったが、自分は魚しか摂取していないので、それらの料理は三人に食べてもらうことにした。四人はそれぞれ活動する分野は違うが、共通の人生テーマで盛り上がり、同時にそれぞれの分野の話に対してお互いに興味津々で話を聞いていた。フローニンゲン:2026/4/30(木)06:57


18597. 今朝方の夢の振り返り

 

今朝方の夢は、自分の内面において「才能をどう使うか」という問いが、冒険、試験、食卓という三つの舞台を通じて展開されたもののように思われる。世界中の都市を巡りながら謎解きをする場面は、自分がいま人生そのものを一つの大きな知的巡礼として経験していることを象徴しているのではないか。都市はそれぞれ異なる課題領域であり、学問、仕事、芸術、移住、対人関係といった複数の世界を示しているようである。各都市で謎が出題されるという構造は、人生が一本道の試験ではなく、場所ごとにルールの違う謎解きゲームとして現れていることを暗示しているのかもしれない。四人一組のチームが抜群の才能とチームワークを持っているという場面は、自分の中にある複数の能力が、ようやく協働し始めていることを示しているように思われる。学術的思考、翻訳能力、音楽的感性、発達理論的洞察、仏教的直観、実務的判断力などが、それぞれ別々の奏者としてではなく、一つの室内楽団のように響き合い始めているのである。他のチームに助言するという展開は、自分の成長が単なる自己達成ではなく、他者の成長を支援する方向へ自然に開かれていることを示しているのではないか。これは、才能が剣として振るわれるのではなく、灯火として分け与えられる段階への移行を表しているように見える。一方で、超進学校の三人の高校生が東京大学理系数学の入試問題を盗み見る場面は、知性の影の側面を象徴しているようである。天空の保管室は、知的権威、制度的評価、選抜の頂点に置かれた「神殿」のような場所である。そこにハッキングによって侵入する高校生たちは、卓越した能力を持ちながらも、制度に勝つことそのものに囚われた知性の姿ではないか。彼らは本来、自分の力で問題を解くことができるにもかかわらず、先に答えを見ようとする。これは、能力が十分にあるにもかかわらず、不安や競争心によって近道を求めてしまう心の動きを映しているのかもしれない。特に印象的なのは、彼らがダミーの問題を見抜き、さらに奥の隠し部屋まで到達する点である。これは、単なる不正行為の夢というより、知性があまりに鋭いために、制度の裏側や構造の盲点まで見抜いてしまう状態を示しているように思われる。しかしその鋭さは、同時に空虚でもある。なぜなら、彼らは盗み見た問題を紙と鉛筆なしで即座に解けるほどの力を持っていたからである。つまり、この場面は「自分には本来、正面から解ける力があるのに、なぜ保証を求めてしまうのか」という問いを投げかけているのではないか。これは、入試問題というより、人生の未発表問題を先に知ろうとする欲望の比喩であるように思われる。後半のカラオケルームでの豪華な食事は、前半の知的競争とは対照的に、人生の成熟した交歓を表しているようである。大学時代の友人、小中高時代の友人、同年代の元サッカー日本代表選手という組み合わせは、自分の過去、現在、身体的達成、社会的成功への憧れが同じ部屋に集まっている構図に見える。カラオケルームは歌う場所でありながら食卓にもなっており、これは「自分の声を出すこと」と「生きる滋養を得ること」が重なっていることを示しているのかもしれない。肉料理を三人に食べてもらい、自分は魚だけを摂るという場面は、自分なりの倫理的・身体的選択を保ちながら、他者の選択を否定しない姿勢を象徴しているようである。ここには、共同性の中にあっても同化しすぎない成熟がある。四人が異なる分野にいながら共通の人生テーマで盛り上がる場面は、自分がいま求めている共同体が、同質な専門家集団ではなく、異なる道を歩む者たちが深い主題で響き合う場であることを示しているように思われる。この夢が人生において示している意味は、自分がいま「抜きん出ること」から「分かち合うこと」へ、また「答えを先取りすること」から「未知の問題を正面から解くこと」へ移行しつつあるということである。才能は、閉ざされた天空の保管室から盗み出す宝ではなく、旅の途上で仲間と磨き合う羅針盤なのである。フローニンゲン:2026/4/30(木)07:46


18598. 音名を口ずさみながらのスケール練習

                    

昨日、スケール練習をしながら、ふと自分が口ずさんでいるものに気づいた。これまで何となく音を追っていたが、よく考えると自分はド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ドではなく、C, D, E, F, G, A, B, C と唱えていたのである。その違いは小さなことのようでいて、実はかなり本質的なのではないかと思った。ドレミで歌うと、音の流れや旋律の自然さを感じやすい。階段を一段ずつ上がっていくような感覚があり、音楽そのものの歌心に近い。一方で、C, D, E と唱えると、急に世界が少し理知的になる。そこでは音が感覚だけでなく、明確な名前を持った存在として立ち現れる。ぼんやりとした響きだったものが、輪郭を持った星座のように並び始める。ギターの指板は、時に迷路のようだ。同じ音がいくつもの場所に潜み、慣れないうちはただ形を追うだけになりやすい。しかしCと言いながら押さえ、Dと言いながら進み、Gに着地するたび確認していくと、指板上の点が線で結ばれていく。木の板だった場所が、少しずつ意味のある地図へ変わっていく感覚がある。また、音名で唱えると和音の姿も見えやすい。C, E, G と並べば、そこにはただ三つの音があるのではなく、C majorの骨格がある。A, C, E なら A minorの陰影がある。単音練習のつもりで弾いていても、その背後では和声の世界が静かに息づいている。スケールは指の体操ではなく、音楽の文法書でもあるのだと感じた。面白いのは、こうして声に出すことで頭が眠れなくなることである。ただ指だけで弾いていると、ある程度は自動運転でも進めてしまう。けれど C, D, E... と言いながら弾くと、今どこにいるのか常に意識しなければならない。集中が途切れれば声が遅れ、指も曖昧になる。声は意識の監督官のような存在なのだろう。そしてこれは、これから英語圏で学ぶ自分にとっても自然な準備なのかもしれない。音楽理論の授業でも、現場での会話でも、C major, F sharp, B flatといった言葉が飛び交うはずである。今こうして日々の練習の中で文字音名を身体に馴染ませていることは、未来への静かな布石なのだと思う。上達とは、派手な技術だけで起こるものではない。誰にも見えない基礎練習の中で、何を意識し、何を口にし、どう音と向き合うかで少しずつ形づくられていく。C, D, Eと唱えるその素朴な行為の中に、指板理解も、耳の成長も、理論の芽も潜んでいる。小さな習慣の中に、大きな未来が折りたたまれているのだと思った。フローニンゲン:2026/4/30(木)08:36


18599. 価値論と唯識の架橋 

         

先日ふと、価値論と唯識を架橋する研究はかなり面白い鉱脈になりうるのではないかと思った。存在論や認識論と唯識を結びつける議論は比較的多い。世界は心のみか、外界はどう理解されるのか、認識はどのように成立するのか、といった問いは確かに重要である。だが、人間が日々もっと直接的に悩み続けているのは、何が善いのか、何に意味があるのか、何を大切にすべきかという価値の問題である。そこへ唯識を本格的に接続する試みには、大きな可能性があるように感じた。唯識はしばしば「心の哲学」として読まれるが、実際にはそれだけではない。八識、種子、薫習、三性三無性、転依といった体系は、単に世界認識の説明装置ではなく、価値変容のダイナミズムでもあるように思える。たとえば、ある人が怒りや嫉妬を当然のものとして生きているとき、その人の阿頼耶識にはそうした反応傾向の種子が厚く蓄積していると考えられる。逆に、慈悲や忍耐や智慧が自然に現れる人には、別の種子が育っている。ここでは価値判断が、抽象的な道徳命令ではなく、心の深層構造に根ざした傾向性として捉えられている。これは現代倫理学にはあまりない視点である。西洋の価値論には、快楽を重視する立場、義務を重視する立場、徳を重視する立場、主観的選好を重視する立場などがある。そこへ唯識を置くと、価値とは単なる外的規則でも、瞬間的欲望でもなく、経験世界そのものを形づくる心的布置として見えてくるかもしれない。濁ったレンズを通せば世界全体が濁って見え、澄んだレンズを通せば同じ景色が違って見えるように、価値は対象に貼られたラベルではなく、主体の識の在り方と共に立ち現れるのである。さらに興味深いのは、唯識において最高価値が固定的な財ではなく、「転依」という変容そのものに置かれている点である。より多く所有することでも、他者に勝つことでもなく、執着と錯覚の構造が転じ、四智が開かれていくことに究極的価値がある。この発想は、消費と競争に駆動されやすい現代社会に対して静かな反論になりうる。価値とは獲得物ではなく、存在様式の成熟である、と。研究として進めるなら、アリストテレスの徳倫理学、シェーラーの価値倫理学、マッキンタイアの実践論、現代のウェルビーイング研究、さらには計量心理学の価値尺度などと比較する道もあるだろう。そこに唯識の種子論や末那識の自己執着論を接続すれば、「なぜ人は知っていても善く生きられないのか」という古くて新しい問いにも答えやすくなる。頭で理解した価値と、深層に沈殿した価値傾向が一致していないからである。このテーマは、乾いた理論研究ではなく、自分自身の修行論にもなる気がする。何を価値あるものと感じるかは、すでに自分の識が語っている。書棚に並ぶ本、日々の時間配分、つい繰り返す思考、そのすべてが無言の価値告白である。価値論と唯識を架橋するとは、世界の価値を論じることと同時に、自分の心の地層を読むことでもあるのだろう。フローニンゲン:2026/4/30(木)08:54


18600. 制限ゆえの創造性

        

先ほどふと面白い逆説について考えた。一般には、ジャズギターやフラメンコギターの方が、クラシックギターより創造性を発揮しやすいと見なされがちである。たしかにそれには理由がある。ジャズには即興があり、コード進行の上で瞬時に旋律を生み出す自由がある。フラメンコには情熱的なリズム変化や、その場の掛け合い、身体ごとの爆発力がある。舞台上で火花が散るような創造性は、たしかに目に見えやすい。しかし今日思ったのは、創造性とは「自由度の多さ」と必ずしも同義ではないということである。むしろ制約があるからこそ、深く掘れる創造性もある。俳句が五・七・五という狭い器の中で宇宙を詠み、短歌が三十一音で人生の陰影を描くように、クラシックギターにもまた、制限ゆえの創造性があるのではないかと思った。クラシックギター奏者は、まず楽譜という強い枠組みの中に立つ。音高、リズム、強弱、形式、作曲家の意図、その多くがすでに与えられている。外から見れば、自由が少なく窮屈に見えるかもしれない。だが、そこで終わらない。むしろそこから始まるのである。同じ一音でも、爪が弦に入る角度、右手の接地点、左手の離弦速度、音を伸ばす呼吸、次の音への含み方によって、音楽はまるで別人の顔になる。墨一色で描く水墨画が、濃淡と余白だけで山河を表すように、限られた素材の中で無限の差異が立ち上がる。ジャズの創造性が「何を弾くか」に現れやすいとすれば、クラシックギターの創造性は「どう弾くか」に宿りやすいのかもしれない。同じバッハでも、ある奏者は祈りのように弾き、別の奏者は建築物のように弾き、また別の奏者は舞曲として躍動させる。譜面は同じでも、そこに流れる時間感覚、沈黙の置き方、和声の重みづけは全く異なる。これは即興とは別種の創造であり、解釈という名の創造である。さらに、制約は感覚を鋭くする。自由に何でも話してよい場では言葉が散漫になることがあるが、限られた文字数の中では一語一語が研ぎ澄まされる。クラシックギターでも、勝手に音を足せないからこそ、一音の責任が重くなる。その責任が集中を生み、集中が創造性を深めるのだろう。最近、一つのフレーズを何度も弾きながら、同じ場所に毎回違う景色があることを感じる。昨日は素通りした和音が、今日は夕焼けのように響く。今日は気づかなかった間が、明日には深い呼吸になる。まるで同じ庭を毎日歩いているのに、季節ごとに花の色が変わるようである。創造性とは、白紙に好き勝手描く力だけではないのだと思う。すでに描かれた線の中に、新しい生命を通わせる力もまた創造性である。クラシックギターは、沈黙している譜面に血を流し込む営みなのかもしれない。自由が広さだとすれば、制約は深さである。今日、そのことを静かに教えられた気がした。フローニンゲン:2026/4/30(木)09:07


Today’s Letter

In reality, I am an instrument through which society as a whole can be made better. My obligation is to play that instrument harmoniously. Groningen, 4/30/2026

 
 
 

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