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【フローニンゲンからの便り】18583-18588:2026年4月28日(火)

  • 6 日前
  • 読了時間: 14分


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タイトル一覧

18583

詩情をもたらすクラシックギターの即興

18584

今朝方の夢

18585

今朝方の夢の振り返り

18586

フラメンコギターにおける楽譜について

18587

スペインの音楽に流れるフラメンコ性

18588

フラメンコギターの型

18583. 詩情をもたらすクラシックギターの即興  

             

今朝方もまた、クラシックギターにおける即興とは何だろうかと考えていた。ジャズのようにコード進行の上で自在に語り、フラメンコのように踊りや歌へ瞬時に応答する即興とは、少し性質が違うように思える。クラシックギターの即興は、もっと静かで、もっと内側へ向かうものではないだろうか。誰かと競う会話というより、自分自身と交わす手紙に近い。クラシックギターという楽器は不思議である。一本で低音も高音も鳴らせる。和音も旋律も抱え込める。しかも音量は控えめで、耳元に語りかけるような距離感がある。ピアノのように部屋を満たすのではなく、胸の内側にしみ込んでくる。そのため、この楽器で即興を始めると、自然に派手さよりも詩情へ向かいやすいのかもしれない。たとえば、何気なく A minorの和音を鳴らし、そこから少しずつ低音を動かしていく。すると小さな物語が始まる。雨雲のような和音、朝日が差すような転調、少し寂しげな終止。誰かに聴かせるためではなく、自分の中のまだ言葉になっていない感情が、和声を借りて姿を現してくる。クラシックギターの即興は、作曲と演奏の中間にある秘密の時間なのだろう。また、この楽器は音色の変化が豊かである。指板寄りで弾けば柔らかく霞み、駒寄りで弾けば輪郭が立つ。爪を強く当てれば意志が宿り、肉を多く使えば親密さがにじむ。同じ旋律でも、右手の位置だけで景色が変わる。だから即興といっても、音の数を増やす必要はない。一つの音をどう置くか、その音にどんな光を当てるかで十分に世界が変わる。まるで少ない筆数で風景を描く水墨画のようである。歴史を振り返れば、かつての音楽家たちは即興の名手であった。バッハもモーツァルトもベートーヴェンも、その場で音楽を生み出す力を持っていたという。現代では譜面を正確に再現する文化が強まり、即興は別のジャンルのものと思われがちである。しかし本来、音楽とは流れる時間の中で生まれるものだったのだろう。クラシックギターにも、その古い火種はまだ残っている気がする。自分が今この楽器で即興するとしたら、朝の気分を三分で弾くのも面白い。読書後に残った思想の余韻を音へ変えるのもよい。あるいは夢の断片を旋律にしてみるのも魅力的である。言葉にすると硬くなるものが、音ならば曖昧なまま真実に近づけることがある。即興とは、意味になる前の感覚をすくい上げる網なのかもしれない。ジャズの即興が知的な対話だとすれば、フラメンコの即興は燃える応答である。そしてクラシックギターの即興は、夜更けに一人で綴る日記のようなものだろう。大声ではなく、囁きである。だが囁きには、叫びより深く届くことがある。人生にも譜面どおりには進まぬ時間が多い。予定外の出来事、説明できぬ感情、言葉にしづらい迷い。そのとき必要なのは、完璧な再現ではなく、その場で美しく応答する力なのだろう。クラシックギターの即興とは、音楽の練習であると同時に、人生に対する即興力を育てる静かな稽古なのだと感じた。フローニンゲン:2026/4/28(火)05:51


18584. 今朝方の夢

           

今朝方は夢の中で、見知らぬ外国の山間の避暑地にいた。そこには中学校時代のバスケ部の一学年上のキャプテンの先輩がいて、日本人も結構いた。というよりも日本人だけしかいなかったかもしれない。屋外で私たちはあるゲームを楽しんでいた。ルールはシンプルで、指定された区画の中央に境界線を引き、ある一定の時間が経ったら境界線の向こう側の反対側に移動するというものである。参加者たちはどういうわけか、シャトルランのように左右の端まで行ったり来たりしないといけないと思っているようだったが、自分はルール説明を聞いた時に、そのようなことはしなくていいと思った。自分はルールの裏にある簡単な攻略法を見つけた。それは何かというと、絶えず境界線の上にいて、時間が来たらスッと横に移動するというものである。この攻略法を見つけたおかげでゲームが一気に楽になったと感じ、自分は境界線の上に仰向けで寝転んで学術書を読み始めた。そして時間が来たら体を転がして隣のエリアに入るということを繰り返していった。周りの参加者たちはそれはずるではないかと思っているようだったが、ルールに則った正当な攻略法だった。それをしばらく続けていると、参加者たちは別の場所に移動し始めた。しかしそこでもルールは変わらず、時間が来たら境界線を移動する必要があった。私は彼らと同行することはせず、一人最初の場所に留まることにした。するとバスケ部のその先輩が声を掛けてきた。自分は次の場所には進まないことを先輩に伝え、先輩の幸運を祈ると述べた後に、そういえば午後4時には実家に帰る必要があったので、このゲームの最終的な結果については翌日に教えて欲しいと述べた。


もう一つ覚えているのは、見慣れない施設の会議室の中にいた場面である。そこで私は、ある女性のやり手の警察官の方と話をしていた。その警察官の女性は非常に知的で、かつ正義感にあふれており、同時に周りの警察官からは幾分怖い存在と思われているようだった。しかし実際には優しい心を持っていることが話をしていてわかった。ちょうど先日、高校野球の甲子園の審判を務めているときに、名門高校のキャッチャーの選手が口に咥えている物が何かおかしいと思って問いただし、没収して検査したところ、それはコカイン入りの違法な物だった。その選手はそのまま捕まり、警察署へと連行された。自分の脳裏にはその一連のシーンが鮮明に知覚されており、なぜ高校生がコカインという違法薬物を入手できたのか、その経路や構造の問題に関心を持ったし、それを解決しなければ同じことがまた繰り返されるだろうと思った。フローニンゲン:2026/4/28(火)06:06


18585. 今朝方の夢の振り返り

              

今朝方の夢は、自分が「境界をどう使うか」という主題を、遊戯と法の二つの場面を通して見つめている夢であるように思われる。山間の避暑地は、日常の熱から少し離れた高地の意識を象徴しているのかもしれない。そこは外国でありながら日本人ばかりであるため、外の世界に出ているようで、実際には自分の内側に蓄積された日本的な人間関係や競争感覚の中にいるとも解釈できる。中学時代のバスケ部の先輩は、かつて自分が属していた集団、上下関係、努力、規律、競争の記憶を代表している可能性がある。ゲームの核心は、境界線である。多くの参加者は、シャトルランのように端から端まで走らなければならないと思い込んでいる。しかし自分は、ルールそのものを静かに読み取り、境界線の上にいれば最小限の動きで条件を満たせると気づく。これは、自分が人生の課題に対して、努力量の多さではなく、構造理解によって突破しようとしていることを示しているのではないだろうか。周囲が汗をかいて走る中、自分は境界線上に仰向けになって学術書を読む。これはまるで戦場の真ん中に畳を敷き、茶を点てるような逆説的な姿である。競争の場を、学びの場へと変換しているのである。ただし、この攻略法には孤独も伴っているように見える。周囲は「ずるい」と感じているかもしれない。自分はルール違反をしているわけではないが、集団の暗黙の努力観からは逸脱しているのである。ここには、自分がこれまで歩んできた知的・実践的な道の象徴があるのかもしれない。つまり、皆と同じ方向に走るのではなく、構造そのものを読み替え、境界に身を置きながら、別の深さで学ぶという生き方である。参加者たちが別の場所へ移動しても、自分は最初の場所に残る。これは、流行や集団移動に安易に従わず、今いる地点の意味を掘り尽くそうとする姿勢を表しているのかもしれない。午後4時に実家へ帰る必要があるという要素は、どれほど知的な遊戯や探求に没入しても、自分には帰るべき根、時間的制約、家族的・生活的現実があることを示しているように思われる。もう一つの会議室の場面では、境界の問題が遊戯から倫理へと移行している。知的で正義感のある女性警察官は、自分の内側にある厳密な識別力、違和感を見逃さない倫理的知性、そして本当は優しさを持つ裁きの機能を象徴しているのかもしれない。高校野球の甲子園という清らかな努力と青春の舞台に、コカインという異物が侵入している。これは、純粋な競争や成長の場にも、見えない歪みや依存、搾取の構造が入り込むことを暗示しているようである。警察官が口に咥えられた小さな異物を見抜く場面は、自分が表面的な美談や制度の正しさだけではなく、その奥に潜む構造的な汚染を見抜こうとしていることの比喩であるかもしれない。重要なのは、自分の関心が「その高校生が悪い」という個人責任だけに留まっていない点である。自分は、なぜ高校生がそれを入手できたのか、その経路と構造に関心を持っている。これは、夢の前半でルールの構造を見抜いた自分が、後半では逸脱の構造を見抜こうとしていることを示しているのではないだろうか。境界線の上で楽に移動する知性と、社会の境界を破る違法物の流通を見抜く知性は、同じ根を持っているように思われる。どちらも、見えている行動ではなく、それを可能にしている見えない配置を読む力である。この夢が人生において示している意味は、自分がいま「境界の人」として成熟しつつあるということであると思われる。努力と効率、集団と孤独、遊戯と倫理、学問と社会的責任の境界に立ち、そこから世界のルールと歪みを読み解こうとしているのである。自分に求められているのは、ただ巧みに攻略することだけではなく、その洞察を、より公正で健やかな場をつくるために用いることであるのかもしれない。フローニンゲン:2026/4/28(火)06:55


18586. フラメンコギターにおける楽譜について

                                      

今朝方、フラメンコギターにはあまり楽譜がないのだろうかと考えていた。クラシックギターに親しんできた身からすると、音楽とはまず譜面があり、それを読み、解釈し、指先へ移していくものだという感覚が自然にある。楽譜は地図であり、演奏者はその地図を頼りに旅をする人である。しかしフラメンコの世界を眺めていると、どうやらそこでは別の航海術が働いているように思えた。調べてみると、現代ではフラメンコギターの楽譜やタブ譜は十分に存在する。名手たちの作品も採譜され、教材も多い。だから「楽譜がない」というわけではない。ただ、その位置づけがクラシックとはかなり違うのだろう。クラシックでは譜面が作品の中心にあり、演奏者はそこへ近づこうとする。だがフラメンコでは、譜面は入口ではあっても、家そのものではないように見える。フラメンコの核心には、歌、踊り、ギターの呼吸があるという。そこではコンパスという循環するリズム、場の熱、掛け合い、その瞬間の反応が重要になる。紙の上に書かれた八分音符や十六分音符だけでは、その熱量までは保存できない。譜面が写真だとすれば、実演は炎そのものである。写真から火の温度までは伝わらない。この違いは実に面白い。クラシックギターは、精巧な大聖堂を石で一つずつ積み上げる営みに似ている。設計図を読み、構造を理解し、細部を磨いていく。一方フラメンコギターは、祭りの広場で今まさに焚き火を囲み、誰かの手拍子と声に応じて火勢を強めていく営みに近いのかもしれない。どちらが優れているという話ではなく、音楽に対する時間感覚そのものが違うのである。クラシックを学んできた者ほど、譜面があれば安心し、譜面がなければ不安になる。しかしフラメンコは、その不安の先に身体知があると教えてくれるように思う。頭で読む前に、耳で浴び、手で覚え、身体ごと拍の輪に入っていく。そこでは理性より先に足が答える。音楽とは紙にあるものだけではなく、人の中に宿るものでもあるのだと改めて感じた。譜面を読む力を育ててきたこれまでの歩みも尊い。しかしこれからは、書かれていないものを聴き取る力も育ててみたい。音符の外側にある熱や間合いに触れられたとき、ギターはまた別の顔を見せてくれるのかもしれない。フローニンゲン:2026/4/28(火)07:50


18587. スペインの音楽に流れるフラメンコ性

       

外で朝日を浴びながらふと、スペインのクラシックギタリストたちは、どれほどフラメンコの血を受け継いでいるのだろうかと考えていた。クラシックとフラメンコは、つい別々の棚に並べられがちである。片方は譜面台の前で静かに座り、もう片方は情熱的な舞台で火花を散らす。しかし少し調べてみると、その境界線は思ったより曖昧で、二つの世界は地下で同じ水脈につながっているように思えた。たとえば Francisco Tárregaの作品には、洗練されたクラシックの衣装をまといながら、アンダルシアの夕焼けのような色気が漂っている。『Capricho Árabe』などを聴くと、ただ整った旋律ではなく、どこか歌い叫ぶような情感がある。譜面の上に書かれた音なのに、その奥では誰かが踊り始めそうな気配があるのだ。Miguel Llobetになると、さらに民俗の香りが濃くなる。都会のサロンで磨かれた技巧の中に、村の広場の風が入り込んでいるようで面白い。音楽とは、高級な器に注がれた素朴なワインのようなものかもしれないと思った。Joaquín Rodrigoのギター作品も興味深い。格式ある協奏曲の形をとりながら、リズムには踵で床を打つような躍動がある。オーケストラの中でさえ、フラメンコの影がちらつくのである。まるで宮殿の舞踏会に、路地裏の炎が紛れ込んだようだ。Federico Moreno Torrobaの作品には、乾いた大地と強い陽光が感じられる。スペインの音楽は不思議で、ただ音を聴いているだけなのに、石畳や白壁や遠くの鐘の音まで浮かんでくることがある。風景そのものが旋律になっているのだろう。そして現代にはCañizaresのように、クラシックホールとフラメンコの現場を軽やかに往来する奏者もいる。こうした存在を見ると、こちらが勝手に作っていた境界線の方が不自然だったのだと気づかされる。考えてみれば、クラシックギターそのものがスペインの土壌で育った楽器である。だからフラメンコに惹かれることは、別世界への寄り道ではなく、むしろ故郷の井戸水を飲みに戻ることに近いのかもしれない。磨かれた音色を追い求める旅の先で、土埃の匂いが恋しくなるのは自然なことである。最近フラメンコに心が動く理由も少し分かった気がする。整った美しさだけではなく、生きた熱を求めているのだろう。譜面に書かれた正しさと、その場で燃え上がる生命感。その両方が同じギターの中に宿っている。スペインの音楽とは、礼服の胸元に小さな炎を忍ばせた芸術なのだと思った。フローニンゲン:2026/4/28(火)08:54


18588. フラメンコギターの型

           

改めてフラメンコギターで必要なものは何かと考えていた。最初は技術の種類、たとえばラスゲアードや速いスケールや親指の奏法など、個別のテクニックを思い浮かべていた。しかし少し眺めているうちに、それらは枝葉であり、本当に必要なのは「型」なのだと感じた。型とは、手の形だけではなく、身体の使い方、力の抜き方、拍の感じ方、反応の速さまで含んだ総合的な姿勢である。クラシックギターでは、一音を丁寧に磨き上げることが大切になる。音は宝石のように扱われ、角度や色合いまで整えられる。一方フラメンコギターでは、一音の美しさよりも、音楽全体の脈動が優先されるように見える。音は宝石というより火花であり、次々と散りながら全体の熱を作る。だから毎回頭で考えて指を動かしていては遅いのだろう。身体が先に答える状態、つまり型が必要になる。右手の役割も実に面白い。クラシックでは旋律や和声を奏でる手であるが、フラメンコではそこに打楽器の機能まで加わる。弦を鳴らし、板を叩き、空気を切り裂く。右手が小さなオーケストラになるのである。ラスゲアードの連打などを見ると、もはや演奏というより、嵐を起こす儀式のようにさえ感じる。一本一本の指が独立して動きながら、全体では一つの波になる。そして何より大切なのは、コンパスと呼ばれるリズムの輪なのだろう。ここで強く思ったのは、フラメンコにおいて音程のミスより、拍の流れを失うことの方が致命的だという点である。クラシックでは一音の誤りに神経が向きやすいが、フラメンコでは列車そのものが走り続けているかが重要なのかもしれない。多少車内で揺れても、線路の上を進んでいれば音楽は生きる。そのため、練習もギターを持たない時間が大切になるという発想が新鮮であった。手拍子を打つ。歩きながら数える。机を叩く。身体の中に拍を住まわせる。これは語学で文法書を読む前に、まず耳からリズムを浴びることに似ている。楽器は後からついてくるのだろう。もし自分がこの世界に入るなら、クラシックで育ててきた「きれいに弾こうとする癖」は少し脇へ置く必要があるのかもしれない。磨かれた銀器の美しさも尊いが、黒く焼けた鉄鍋にしか出せない味がある。フラメンコには後者の魅力があるように思う。結局、フラメンコギターの型とは、決められた姿勢のことではなく、熱を一定の拍で流し続ける身体そのものなのだろう。音を並べる人ではなく、炎を絶やさぬ人になること。それがこの音楽の入口なのだと感じた。フローニンゲン:2026/4/28(火)09:02


Today’s Letter

Improvising on the classical guitar is poetry in sound. I’d like to refine my ability to create poetic music with my guitar. It will express the poetry within me. Groningen, 4/28/2026

 
 
 

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