【フローニンゲンからの便り】18619-18623:2026年5月4日(月)
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タイトル一覧
18619 | 生産設備としての基礎 |
18620 | 今朝方の夢 |
18621 | 今朝方の夢の振り返り |
18622 | 静寂を彫刻するために |
18623 | 静寂をもたらす大事な黒子としての右手 |
18619. 生産設備としての基礎
昨日、妙に腑に落ちたことがあった。受験勉強でもスポーツでも、最初に徹底してやるべきことは基礎であった。数学なら計算力、公式の理解、典型問題。英語なら単語、文法、音読。スポーツなら走る、体幹、フォーム、反復動作。どの分野でも、基礎を飛ばして上達しようとする者は、たいてい途中で失速する。にもかかわらず、楽器になると人は急に曲を弾きたがる。ここに少し不思議さを感じた。なぜ楽器だけ、土台を抜いて屋根から建てようとするのだろう。おそらく理由は単純で、楽器には「曲を弾ける喜び」があるからだ。受験勉強では、いきなり難問を解いても楽しくない。スポーツでも、基礎体力なしに試合へ出れば苦しいだけである。しかしギターは、初心者でも何となくメロディーらしきものが鳴る。好きな曲の一節が出るだけで嬉しい。だから、曲を進めることが上達だと錯覚しやすいのだと思う。だが実際には、曲は成果物であり、基礎は生産設備である。工場設備が貧弱なまま製品だけ増やしても、品質は安定しない。基礎練習の価値は、今すぐの拍手ではなく、後から効いてくるところにある。右手の独立、左手の脱力、指の独立、リズム感、音色の均一、移弦の静けさ、フォームの合理性。こうしたものは一見地味で、動画映えもしない。しかし曲の中でつまずく原因の多くは、いつもここに潜んでいる。難しい曲が弾けないのではなく、難しい曲を支える基礎筋力が足りないだけ、ということは多い。受験でも同じだった。英単語帳を軽視して長文だけ読んでも限界が来た。スポーツでも同じだった。フォームが崩れたまま回数だけこなしても伸びなかった。結局、遠回りに見える基礎こそ最短ルートだったのである。楽器も例外ではない。むしろ身体操作と感覚の世界であるぶん、基礎の重要性はさらに大きいのかもしれない。基礎練習は、木でいえば根である。根は地上から見えず、花も咲かせない。しかし根が深ければ、嵐の日にも倒れない。曲ばかり追う練習は、花に色を塗る作業に似ている。見た目は華やかでも、根が浅ければすぐ枯れる。これからは、曲を弾く時間と同じくらい、あるいはそれ以上に基礎を育てる時間を大切にしたいと思う。スケール一つ、アルペジオ一つ、単純な運指一つの中に、未来の自由さが眠っている。派手さはなくても、確実に効く。過去の自分が受験とスポーツで学んだ原理は、今になってギターの上でも静かに真実を語っている。基礎とは退屈な準備ではなく、才能を現実に変える技術なのである。フローニンゲン:2026/5/4(月)06:17
18620. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、見知らぬ都市の高速道路沿いにあるホテルに宿泊していた。二つホテルがあり、どちらも同じ系列店で、自分が宿泊している方のホテルには温泉はなかったが、もう一つの方の最上階には温泉があった。どちらのホテルの宿泊客も温泉に入れることになっていたので、夕方に歩いてもう片方のホテルに向かった。ホテルのレストランで調達した夕食を持ったまま移動していると、途中で高速道路を架ける道の上に長いベンチがあることに気づいた。自分はどういうわけかそのベンチの上に4枚の円盤型のパンを置いた。4枚のうち2枚はベーグルの味で、もう2枚はチーズの味だった。自分はそこにパンを置いてからカバンの中を確認しようと思ったのだろうが、カバンの中を大してみることをせず、パンをそこに置いたままもう片方のホテルに到着していた。エレベーターに乗ろうとしたら、東南アジア系の小柄な男性が乗り込んできて、このエレベーターは上に行くことを伝えると、「後から下に行くから大丈夫だ」と述べた。最上階に到着し、温泉の暖簾をくぐった瞬間に、先ほどのベンチにパンを置き忘れてしまったことに気づいた。すぐさまパンをとりに帰ろうかと思ったが、パンはもう外気で汚れてしまっている可能性があったし、動物か昆虫たちの餌としてそのままにしておこうと思った。
次に覚えているのは、ある格闘ゲームの最新版に取り組んでいる場面である。自分は幼少期にもそのゲームをやっていて、その頃のお気に入りのキャラクターを選んだ。そのキャラクターの必殺技のコマンドはすでに忘れてしまっているが、単純な打撃の組み合わせでも十分に相手に勝つことができた。そこではコンピューターを相手にしたり、人を相手にしたりしたのだが、どちらに対しても勝率は高かった。むしろ一度も負けずにゲームをクリアすることができた。だが大して、いや全くと言っていいほどに喜びはなかった。それを受けて、自分はもう勝つことに大して何の喜びも感じなくなったのだと思った。他者と競争し、勝ち負けを競うことの不毛さを心の深いレベルで悟り、これからは勝ち負けを離れた形で、ただ純粋に自分の極めたいことや磨きたいことに従事していこうと思った。フローニンゲン:2026/5/4(月)06:29
18621. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢は、自分が「移動する生活者」から「選び直す修行者」へと変わりつつあることを象徴しているように思われる。見知らぬ都市の高速道路沿いのホテルは、人生の過渡期における仮住まいのような場所であろう。高速道路は、社会が要求する速度、進路、効率を表しているのかもしれない。そのそばにあるホテルは、自分がその流れに完全に呑み込まれるのではなく、いったん身を置き、観察し、休息するための中間地点であるように見える。二つの同系列ホテルは、自分の中にある二つの生活様式を示しているのかもしれない。一方は現在の宿泊地であり、もう一方は温泉を備えた場所である。温泉は、単なる快楽ではなく、疲労した心身を深くほどく再生の場であろう。自分はすでに休む場所を持っているが、さらに深い癒やしを求めて、もう一つの建物へ向かっている。これは、現実生活においても、単なる生活の維持から、より深い滋養や回復へと関心が移っていることを暗示しているように思われる。途中のベンチに置かれた4枚の円盤型のパンは、象徴的である。円盤は循環、全体性、完結を思わせる形であり、パンは生きるための糧である。ベーグル味とチーズ味が2枚ずつあることから、それは知的栄養と感覚的栄養、あるいは精神的修養と日常的快楽の均衡を表しているのかもしれない。だが自分はそれを持ち続けず、高速道路の上のベンチに置いていく。これは、これまで蓄えてきた糧の一部を、自分だけの所有物として握りしめる段階が終わりつつあることを示しているようである。パンは忘れ物であると同時に、供物のようにも見える。まるで旅人が道端の祠に食べ物を置くように、自分は無意識のうちに、自己保存のための糧を世界へ返しているのだろう。東南アジア系の小柄な男性がエレベーターに乗ってくる場面も興味深い。この人物は、上昇と下降の両方を受け入れる存在のように思われる。自分が「このエレベーターは上に行く」と伝えると、彼は「後から下に行くから大丈夫だ」と言う。ここには、上昇だけを発達と見なす発想への静かな修正があるのではないか。上へ行くこと、最上階へ向かうこと、温泉という高所の癒やしを求めることは重要である。しかし、やがて下へ戻ること、地上の忘れ物に気づくこと、汚れや動物や昆虫の世界に触れることもまた重要なのである。発達とは階段を上り続けることではなく、潮のように満ち引きしながら深まる運動なのだろう。温泉の暖簾をくぐった瞬間にパンの置き忘れに気づくことは、癒やしに入る直前に、所有と放下の問題が浮上することを示しているようである。自分は取りに戻ろうとするが、すぐにそれを断念し、動物や昆虫の餌にしてもよいと思う。ここには、見事な手放しがある。パンは失われたのではなく、別の生命へ渡されたのである。自分の努力、知識、経験、所有物は、必ずしも自分の口に入る必要はない。時にそれらは、名もなき存在を養う。これは、自己の成果を世界に還元することへの無意識的な準備であるように思われる。後半の格闘ゲームの場面は、前半の「手放し」をさらに明確にしている。幼少期に好きだったキャラクターを再び選ぶことは、過去の自分との再会である。必殺技のコマンドを忘れていても、単純な打撃だけで勝てるという展開は、自分がすでに過去の競争的技能を十分に内面化していることを示しているのかもしれない。だが、一度も負けずにクリアしても喜びがない。これは、勝利という蜜が、もはや自分の魂を潤さなくなったことを意味しているようである。この夢全体は、パンを置いていくことと、勝利に喜ばないことが響き合っている。どちらも「所有すること」「勝つこと」「自分のために確保すること」からの離脱を示している。人生における意味としては、自分は今、他者に勝つために力を磨く段階から、世界に何かを静かに返すために技を磨く段階へ移行しつつあるのだろう。競技場の王者ではなく、温泉へ向かう旅人として、自分はこれから、勝敗の旗ではなく、深く澄んだ湯気のような成熟を目指していくのだと思われる。フローニンゲン:2026/5/4(月)07:22
18622. 静寂を彫刻するために
クラシックギターにおける意外な本質に改めて気づいた。それは、上達とは音を出す技術を増やすことだけではなく、音を止める技術を磨くことでもあるという点である。これまで練習というと、どうしても発音、運指、スケール、速さ、音量といった「鳴らす側」に意識が向きやすかった。しかし演奏の透明感や品格を決めているのは、むしろ不要な音をいかに静かに消しているかという見えにくい仕事なのだと思った。クラシックギターは弦が六本あり、しかもよく響く楽器である。一つの音を出せば、その周囲で別の弦が共鳴し、前の音が尾を引き、気づかぬうちに音の霧が立ち込めることがある。初心者のころは、その霧さえ豊かな響きに感じる。しかし少し耳が育つと、それが音楽ではなく、整理されていない残響であるとわかってくる。澄んだ湖だと思っていた水面が、実は濁りを含んでいたと知るような感覚である。そこで重要になるのがミュートである。左手で指を少し緩めて音を止める。空いている指で隣の弦に触れて共鳴を抑える。右手の親指で低音弦を静かに止める。和声が変わる瞬間に前のバス音を切る。休符を本当の沈黙として成立させる。こうした動きは舞台上ではほとんど見えない。しかし名演奏の背後では、こうした小さな消音が絶えず働いているのだろう。考えてみれば、人生にも似ている。何かを加えることばかりが成長ではない。不要な習慣を止めること、余計な言葉を慎むこと、古い執着を手放すこともまた成熟である。ギターのミュートとは、音の世界における節度であり、沈黙の知性なのかもしれない。鳴らしたい音だけを残し、他を静かに退かせる姿勢には、美学すら感じる。これから練習するときは、音を出せたかどうかだけで満足しないようにしたい。どの音を残し、どの音を消すべきか。その設計まで意識したいと思う。上手い人の演奏が美しく聞こえるのは、指が速いからだけではない。不要な音が丁寧に片づけられているからである。部屋を整えると空気が変わるように、音を整えると音楽そのものが呼吸を始める。クラシックギターとは、六本の弦を鳴らす楽器であると同時に、静寂を彫刻する楽器でもあるのだと感じた。フローニンゲン:2026/5/4(月)08:32
18623. 静寂をもたらす大事な黒子としての右手
数日前に、ギターの演奏における右手の役割について少し見方が変わった。これまで右手といえば、音を生み出す手、弦をはじく手、表現を担う手という印象が強かった。しかし実際には、右手は発音係であると同時に、静けさを管理する監督でもあるのだと気づいた。特にミュートという働きは地味で目立たないが、演奏の質を大きく左右しているように思う。その中でも中心になるのは親指である。クラシックギターの親指は、低音弦を鳴らす重要な指であることはもちろん知っていたが、同時に低音を止める指でもある。6弦や5弦の音は豊かに響くぶん、放っておけば部屋の隅にまで残響が漂い続ける。和声が変わったあとも前の低音が居座れば、音楽は少し濁る。そこへ親指がそっと触れ、古い音を静かに退場させる。その姿は、舞台転換のときに照明の裏で動く黒子のようである。観客には見えないが、芝居全体を成立させている。人差し指、中指、薬指もまた高音弦の整理役として働く。旋律が終わったあとに余韻を切る。不要な共鳴を抑える。次の音へ向かう準備の中で、自然に触れて消す。これもまた、弾く動作と止める動作が一体化している世界なのだろう。ただ音を出すだけなら誰でもある程度はできる。しかし必要な音だけを残し、他を静かに収めることに、熟練の差が現れるのかもしれない。考えてみれば、生活にも似ている。何かを語る力だけではなく、いつ黙るかを知る力。前へ進む勢いだけではなく、古いものを手放す感覚。足し算ばかりではなく、引き算の美学。ギターの右手ミュートとは、音楽における節度の技術であり、成熟の所作のようにも感じられる。これから練習では、親指をただ強く鳴らす指として扱わず、低音を整える指として意識してみたい。和声が変わるたびに前の低音を親指で静かに止めるだけでも、全体の景色はかなり変わる気がする。上手い人の演奏が端正に聞こえるのは、派手な速さや大音量のせいではない。見えないところで親指が床を掃き清めているからである。右手とは、音を放つ手でありながら、同時に秩序を守る手でもあるのだと感じた。フローニンゲン:2026/5/4(月)16:58
Today’s Letter
Muting is essential for bringing silence into music. I’ll keep honing this technique so that I can create music filled with tranquility. Silence brings us peace and healing. Groningen, 5/4/2026
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