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【フローニンゲンからの便り】18589-18594:2026年4月29日(水)

  • 6 日前
  • 読了時間: 14分


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タイトル一覧

18589

力みのない軽やかさ

18590

今朝方の夢

18591

今朝方の夢の振り返り

18592

数息観や実験室としてのスケール練習

18593

確かな成長のための動画撮影

18594

映像の鏡としての動画撮影

18589. 力みのない軽やかさ

              

ブランダン・エイカー氏の助言は、練習において「正しく弾けたか」だけを基準にすると、本質的な成長を取り逃がすという極めて重要な指摘である。多くの演奏者はテンポを落とし、音を外さず弾ければ、それで良い練習ができていると考えやすい。たしかに音符が合っていれば表面的には成功に見える。しかし身体の内部では、別の採点が行われているのだろう。たとえば、指は動いていても手首が固い。肩が上がっている。呼吸が止まる。顎に力が入る。次の音へ移るたびに身構えている。こうした状態で正確に弾けたとしても、身体は「この動きには緊張が必要だ」と学習してしまう。つまり脳は音程や運指だけでなく、努力の質まで記憶しているのである。無理して弾いた反復は、無理する技術を上達させる危険すらある。ここで語られている「ease(容易さ・自然さ)」は、怠けることではない。必要最小限の力で、滑らかに、再現可能な形で動けている状態である。熟練者の演奏が軽やかに見えるのは、筋力が特別だからではなく、余計な力を削ぎ落としているからであろう。石を削って彫刻を作るように、上達とは何かを足す作業だけでなく、不要な緊張を取り除く作業でもある。「速度は押し込むことで生まれない。洗練から生まれる」という言葉も深い。初心者は速く弾こうとして手を急がせる。しかし本当の速度は、動きを急がせた結果ではなく、動きの抵抗がなくなった結果として現れる。川の流れを棒で押して速くすることはできないが、石をどければ自然に水は速く流れる。それと同じで、速さとは力むことの報酬ではなく、整えることの副産物なのである。この視点はクラシックギターに非常に有効である。難所でつまずくと、つい回数を増やして突破しようとする。しかし、もし毎回苦しそうに成功しているなら、その成功はまだ未完成なのかもしれない。十回正しく弾けることより、一回でも楽に弾けることの方が価値が高い場合がある。その一回には、再現性の種が含まれているからである。練習中に自分へ問うべきことも変わる。「今のは合っていたか」に加え、「今のは自然だったか」「呼吸できていたか」「次も同じ楽さでできるか」と確認する。すると練習は裁判のような採点作業から、身体との対話へ変わっていくはずだ。結局、音楽における上達とは、正確さと自由さの結婚である。正しいだけでは硬くなり、楽なだけでは雑になる。両者が出会ったとき、動きは軽くなり、反復可能となり、やがて速度と表現が自然に芽吹く。この助言は、速くなりたいなら急ぐな、うまくなりたいなら力むな、と静かに教えているのである。フローニンゲン:2026/4/29(水)06:54


18590. 今朝方の夢

                                   

今朝方は夢の中で、午後3時まで寝ている場面があった。目覚めてみると、昨夜から今にかけて随分と寝ていたのだと気づき、十分な睡眠のおかげで心身が完全に回復して、静かにエネルギーが内側から高まっていくのを感じた。目覚めてすぐに食卓で母と会話を始めた。何気ない話の中で、父がカンナビス入りのチョコレートを買ってきて、それを食べて不思議な感覚を味わったことを母が述べた。カンナビス入りのチョコレートが普通に売られていることを鑑みて、ここは日本ではなく外国のどこかなのだと気づいた。母は特にカンナビスのTHC成分によって引き起こされる体験を恐れていないようだったので、次はシロシビンマッシュルームを試してみることを勧めた。母はそれが初耳のようだったので、俗語である「マジックマッシュルーム」と伝えると、なんとなくそれがどのようなものか想像したようだった。自分はシロシビンマッシュルームを母に勧めたのは、母の脳の機能改善を願ってのことであり、心身がリセットされてより健康な状態になることを祈っていたからである。


次に覚えているのは、ゼミの男女の友人数名と一緒に、地元の小高い住宅地を歩いていた場面である。ちょうど坂道を登っているときに、女性友達の一人が昨夜から今朝にかけてオールをしていたと述べた。どうやらそのせいで少し二日酔いのようなのだが、この年齢でオールをするとは気持ち的に若いなと思った。彼女には無理をさせないようにと思ったが、意外と体力もあり、普通に歩けていたのでしばらく様子を見ようと思った。すると私たちは気づけば教室の中にいて、ある論述問題の採点をしていた。採点官の私たちも各自答案を書いており、自分は実はその問題の出題者でもあったので自分だけは答案を作っていなかった。周りの友人たちはすでに4回目の答案作成のようであり、それを見て自分も一度ぐらいは答案を執筆してみようと思った。作問者ゆえに自分の中には模範解答としての構成と中身の双方があり、みんなを驚かせる答案がすぐに書けるだろうと思った。みんなの喜ぶ顔を見るのが楽しみで、非常にレベルの高い答案を一気に鉛筆で書いていこうと思って笑顔になった。フローニンゲン:2026/4/29(水)07:04


18591. 今朝方の夢の振り返り

                     

今朝方の夢は、自分の内側で「回復」と「創造的出力」が同時に成熟しつつあることを象徴しているように思われる。午後3時まで眠る場面は、単なる怠惰ではなく、深い充電の象徴である可能性がある。まるで長く使われていた楽器がケースの中で湿度を整え、再び豊かな響きを取り戻すように、自分の心身が見えない場所で再調律されていたのである。目覚めた瞬間にエネルギーが内側から高まる感覚は、外から何かを足すのではなく、もともと備わっていた生命力が再び水脈のように湧き出してきたことを示しているのかもしれない。食卓で母と話す場面は、家族的な親密さと、異文化的な変容の感覚が重なっているようである。父がカンナビス入りチョコレートを買ってきたという設定は、日常の中に非日常が滑り込んでくる象徴であると考えられる。チョコレートは甘さ、安心、家庭的なものを表し、カンナビスは意識の変容や固定観念のゆるみを表しているようである。つまり夢の中の家族空間は、古い関係性のまま閉じているのではなく、異国の市場のように、これまで試されなかった経験や価値観が自然に並び始めている場所になっているのだろう。母にシロシビンマッシュルームを勧める場面は、自分が母を変えようとしているというより、母の中にある回復可能性を信じていることの象徴であるように思われる。脳の機能改善を願うという動機には、親を救いたい、より健康で自由な状態になってほしいという静かな祈りが含まれているのだろう。ただし、ここでのシロシビンは薬物そのものというより、硬くなった心の土をほぐす雨のようなものとして現れている可能性がある。自分は家族に対して、知識を押しつける教師ではなく、回復への小さな扉をそっと示す案内人になっているのかもしれない。その後、ゼミの友人たちと地元の小高い住宅地を歩く場面は、共同体と上昇運動の象徴であるように見える。坂道を登ることは、知的・精神的発達の比喩であり、地元という舞台は、自分の原点を背負いながら新しい高みに向かっていることを示しているのだろう。オールをしていた女性友達は、若さ、無理、生命力、そして少し危うい勢いを象徴しているようである。自分は彼女を心配しながらも、すぐには介入せず、歩けているかを見守っている。この態度には、他者の成長や限界に対して、管理ではなく観察と配慮で関わろうとする成熟が表れているのかもしれない。教室で論述問題を採点する場面は、夢の核心であると考えられる。自分は採点官であり、同時に出題者でもある。これは、自分が人生において、問いを受ける側から、問いを作る側へ移行しつつあることを象徴しているように思われる。友人たちが何度も答案を書いている一方で、自分はまだ答案を書いていない。しかしそれは遅れではなく、問いの構造そのものを知っている者として、まだ言葉にしていなかっただけなのだろう。鉛筆で一気に高度な答案を書こうとする場面は、自分の中に蓄積されてきた知識、経験、祈り、教育的感性が、いよいよ具体的な文章として流れ出そうとしていることを示しているのではないか。鉛筆は修正可能な知性の象徴であり、完璧な石碑ではなく、生成途中の生きた思考を表しているようである。この夢が人生において示している意味は、自分がいま、深い回復を経て、他者の変容を願う段階から、実際に問いを設計し、答案を書き、共同体に知的な贈り物を差し出す段階へ移りつつあるということである。家族への祈り、友人への配慮、教室での創造的自信は、別々の場面ではなく、一本の川のようにつながっている。自分の人生は、眠りから覚めた後に始まる答案作成の局面に入っているのかもしれない。問いはすでに内側にあり、あとは鉛筆を持ち、静かに書き始めるだけなのである。フローニンゲン:2026/4/29(水)07:58


18592. 数息観や実験室としてのスケール練習

                                  

今朝、改めてクラシックギターにおけるスケール練習の意味について考えていた。地味で単調に見えるこの練習は、華やかな名曲の陰に隠れがちである。アルペジオや美しい小品を弾いている方が、いかにも音楽をしている気分になる。しかし最近になって、スケールとは単なる指慣らしではなく、演奏全体を支える深い基礎工事なのだと実感しつつある。スケール練習の最も分かりやすい効能は、左手と右手の同期である。左手が押さえ、右手が弾く。そのわずかな時間差が整うだけで、音楽の輪郭は驚くほど明瞭になる。逆にここが乱れると、どれほど良い曲を弾いても、どこか濁った印象になる。スケールは、二人三脚の歩幅を合わせる訓練に似ている。片方だけ速くても前へ進めない。さらに右手の交互運指、特にiとmの均質化にも大きな意味がある。多くの人は無意識に、強い指と弱い指、得意な指と苦手な指を持っている。すると音量や音色に微妙な段差が生まれる。スケールはその段差を少しずつならしていく舗装工事のようなものである。一音ずつ均等になっていくと、旋律が階段ではなく滑らかな坂道になる。左手にとっても恩恵は大きい。ポジション移動、指の独立、最小限の力で押さえる感覚、次の音への先読みなど、あらゆる基本動作が凝縮されている。難曲の一小節で苦しむとき、その原因は作品そのものより、スケール的基礎の不足であることも多い。木の枝先が揺れているとき、問題は幹や根にあるのと似ている。そして最近特に感じるのは、スケールは身体だけでなく心も整えるということである。同じ型を一定のテンポで繰り返していると、呼吸が整い、注意が散らばらず、意識が現在に戻ってくる。まるで坐禅の数息観のように、一音一音が数える息になる。朝にスケールを弾くと、その日一日の精神の軸が少し真っ直ぐになる感覚がある。また、音色の研究にも使える。爪の角度、タッチの深さ、弦への入り方、右手位置の違いを、曲中で試すのは難しい。しかしスケールなら純粋に一条件ずつ観察できる。実験室のような練習である。ここで得た発見が、曲の中で花開く。スケールそのものが、音楽の原型なのだろう。上がる、下がる、緊張する、解放する。その単純な流れの中に、旋律の生命がすでに宿っている。派手さはない。しかし井戸水のように深い。毎日少しずつ汲み上げることで、演奏全体が潤っていく。今日もまた、急いで曲へ向かう前に、まず数分のスケールから始めたいと思う。そこには技巧の種だけでなく、静かな心まで含まれているのだから。フローニンゲン:2026/4/29(水)08:20


18593. 確かな成長のための動画撮影  

                       

一昨日、クラシックギターの練習風景を試しに動画で撮影し、それを見返してみた。すると、ただ録画しただけのはずなのに、そこには鏡では見えなかった多くの情報が映っていた。演奏している最中の自分は、音を出すことに意識が向き、身体の使い方までは十分に見えていない。ところが動画は、容赦なく事実だけを静かに差し出してくる。まるで第三の目を借りたような感覚であった。まず気づいたのは、姿勢である。弾いている最中は真っ直ぐ座っているつもりでも、実際には肩が上がっていたり、首が少し前へ出ていたり、身体が曲の難所で微妙に固まっていたりする。本人の感覚と現実には思った以上の差があるらしい。これは文章を書く人が、自分では滑らかに書いたつもりの文を後で読み返すと、妙な癖に気づくのと似ている。次に面白かったのは、右手と左手の動きの無駄である。必要以上に指を高く上げていたり、次のポジション移動の前に一瞬迷いがあったり、力みが出る瞬間が映っていた。演奏中には一瞬で過ぎ去る現象も、動画では繰り返し観察できる。つまり時間を止めて学べるのである。普段の練習が川の流れの中で石を探す作業だとすれば、動画観察は水を抜いて川底を見る作業に近い。また、音だけでは分からない癖も見えてくる。難しい箇所の直前になると呼吸が浅くなっていること、成功した箇所では身体が自然に柔らかいこと、失敗した箇所では目線や表情まで硬くなることなど、演奏は指だけでなく全身の現象なのだと改めて感じた。音楽とは耳で聴くものだが、上達は身体全体で起きているのだろう。精神面への効能も大きい。録画されていると思うと、少し緊張する。その軽いプレッシャーの中で弾くことは、本番の予行演習になる。誰も聴いていない部屋での練習は安全だが、安全すぎる場所では育たない力もある。カメラ一台あるだけで、部屋が小さな舞台に変わる。さらに、自分の成長記録としても価値がある。今日のぎこちなさは、数か月後には貴重な資料になるかもしれない。人は進歩すると過去の不器用さを忘れてしまうが、動画はその歩みを保存してくれる。昨日の自分と比べられることは、他人と比べるより健全で確かな励みになる。もちろん最初は、自分の演奏姿を見るのは少し気恥ずかしい。しかし、その違和感の中に学びがあるのだろう。理想像だけを抱くより、現実の姿を直視した方が変化は早い。これからは動画撮影を、評価のためではなく観察のために使いたいと思う。責めるための記録ではなく、育てるための記録である。カメラは冷たい機械に見えて、実は最も正直な先生の一人なのかもしれない。フローニンゲン:2026/4/29(水)09:17


18594. 映像の鏡としての動画撮影 

                           

自分の演奏を動画で撮るという行為は、発表のためではなく、あくまで「現在地を知るための鏡」であるのだと改めて感じた。人は弾いている最中、自分ではかなり客観的にできているつもりでも、実際には演奏そのものに意識が吸い込まれ、姿勢、力み、テンポの揺れ、無駄な動きなどを見落としている。動画は、その盲点を静かに照らしてくれる道具である。だからこそ、撮影時には上手く見せようとする心を脇に置き、診断のための記録として扱う姿勢が大切だと思った。まず気をつけたいのは、完璧な演奏を撮ろうとしすぎないことである。録画ボタンを押した瞬間、人は急に「本番モード」になり、いつもより硬くなる。すると、普段の課題が見えなくなる。目的が改善点の発見なら、多少ミスしてもよい。むしろ、いつもの癖や失敗が出た映像こそ価値がある。医師が健康診断で平常時の数値を見るように、練習動画も自然体であるほど役に立つ。次に、カメラ位置は見栄えより情報量で決めるべきだと感じる。顔が格好よく映る角度より、左手のフォーム、右手の軌道、背中や肩の状態が見える位置の方がはるかに有益である。たとえば右肩が上がっていないか、左手首が潰れていないか、親指が過剰に握っていないかは、正面だけでは分かりにくい。横や斜め後方から撮るだけで、多くの真実が露わになる。動画とは、演奏の審美ではなく、構造を見る装置なのだ。また、一回通して見て終わりにしないことも重要である。最初は音だけを聴く。次は右手だけを見る。次は左手移動だけを見る。さらに姿勢や呼吸を見る。このように観点を分けると、一本の動画から何度も学べる。総合視点だけでは、問題は霧の中に隠れやすい。部分に光を当てることで、改善点は具体化する。さらに注意したいのは、自分を責める材料にしないことである。動画を見ると、想像以上に未熟さが映ることがある。指はもつれ、姿勢は崩れ、テンポは揺れている。しかし、それは失望の証拠ではなく、伸びしろの地図である。弱点が見えたということは、次の練習テーマが明確になったということだ。見えない欠点より、見えた欠点の方がはるかに扱いやすい。そして最後に、毎回長時間撮る必要はない。数分でも十分である。短いスケール、和音変換、難所の一節、それだけでも現在地は分かる。むしろ短く頻繁に撮る方が、変化の追跡には向いている。昨日より脱力できたか、移弦が滑らかになったか、音色が整ったか。小さな進歩は、動画という記録によって初めて見えることが多い。鏡の前で身だしなみを整えるように、演奏者にも映像の鏡が必要なのだろう。耳だけでは聞こえず、感覚だけでは分からず、気合いだけでは直らないものがある。動画は冷静で、無口で、しかし誠実な教師である。上手く見せるためではなく、より良く変わるために撮る。その姿勢こそ、練習者にとって最も実りある使い方なのだと思う。フローニンゲン:2026/4/29(水)09:24


Today’s Letter

Recording myself playing classical guitar is highly educational. It provides valuable feedback that helps me hone my skills. I’ll record myself every day, even if it’s only for a couple of minutes. Groningen, 4/29/2026

 
 
 

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