【フローニンゲンからの便り】18624-18630:2026年5月5日(火)
- 5月7日
- 読了時間: 17分

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タイトル一覧
18624 | 開放弦ミュート |
18625 | 今朝方の夢 |
18626 | 今朝方の夢の振り返り |
18627 | ミュートの大切さと難しさ |
18628 | 左手の小指 |
18629 | バレーの可能性 |
18630 | 知覚のミュート |
18624. 開放弦ミュート
昨日、開放弦の扱いについて考えていた。クラシックギターでは、弦を鳴らすことばかりに意識が向きやすいが、実際には開放弦をどう止めるかが演奏の透明感を大きく左右する。開放弦は便利で美しく響く反面、一度放てば自由に空間へ広がっていく。まるで元気な子どもが庭へ飛び出していくようなもので、必要なときには遊ばせ、場面が変われば穏やかに呼び戻さなければならない。昨日は六本それぞれの弦に、どのようなミュートの目安があるか整理してみた。六弦は最も低く、響きも長く、存在感が強い。ゆえに右手親指で止めるのが基本になると思う。次の低音へ移る瞬間、親指が自然に触れて前の音を静かに下げる。六弦の残響は床を揺らす足音のようなもので、整理されていないと全体が重たくなる。五弦も同様に親指が中心である。ただし六弦ほど暴れないぶん、左手の移動途中に触れて止めることも多そうだ。和音進行の中では、前の五弦を少し早めに切るだけで和声の輪郭が鮮明になる。四弦は中低音の橋渡し役である。低音にも内声にもなり得るため、右手親指でも左手でも止める場面が多いだろう。四弦が濁ると、家の中央の廊下に物が散らかるように全体が雑然とする。意外に重要な整理対象である。三弦はもっとも注意深く見たい弦かもしれない。中域にあり、共鳴しやすく、何となく鳴り続けて曲全体を曇らせることがある。ここは左手の空き指で軽く触れて止めるのが実戦的だと思う。次の押弦動作の途中でそっと触れればよい。三弦は部屋の中央に置かれた鐘のようで、鳴らせば美しいが、必要なところで静めたい。二弦は旋律や和声音として目立ちやすい。高音寄りなので、左手指先や右手i・m指の戻り動作で止めることが多いだろう。余韻が長すぎるとメロディーの線がぼやけるため、丁寧に扱いたい。一弦は最も高く、歌う弦である。旋律を担うことが多いので、むやみに切るのではなく、必要な音価を保ったうえで右手a指や左手の次動作で自然に止める感覚が良さそうだ。主役の退場を急かさず、しかし次の場面には残さない。そんな礼儀が必要である。結局のところ、開放弦ミュートに絶対の型はなく、次の音を取りに行く動作の中で自然に消えていくのが理想なのだろう。音を出す技術が言葉だとすれば、ミュートは句読点である。句読点のない文章が読みにくいように、止める技術のない演奏は聴き手を疲れさせる。これからは一音ごとに、いつ鳴らし、いつ沈黙させるかを考えながら弾いてみたい。フローニンゲン:2026/5/5(火)05:57
18625. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、学校を舞台にした脱出ゲームに従事していた。基本は一人で課題を克服していきながらも、時折他人との協力が求められる形だった。ある教室に入ると、そこでは一人一人違う課題に取り組んでいて、自分も自らの課題に取り組み始めた。その中で、小中高時代のある女性友達(HK)が先端技術を活用し、パズルゲームの要素を盛り込んだ婚活マッチングアプリを作ったことを知った。興味本位で自分も登録してみたところ、アプリのインターフェイスを含めて出来は素晴らしいのに、初期の登録者は自分を含めて男性二人、女性は四人ほどだった。厳密には自分はまだ様子を見ており、登録完了まではしていなかった。なので登録完了しているのは男女合わせて五名しかいなかった。男性は自分と同い年ぐらいであり、女性陣は自分よりもさらに年齢が高い人がいて、女性全員は自分よりも年上のようだった。また雰囲気としてもあまりパッとせず、そうしたことからもこのアプリを使うのは時間の無駄だと思ったので、教室を出てひっそりと登録を抹消した。食堂に向かうと、そこで次のラウンドに進むことのできる人が発表された。15人ぐらいが次のラウンドに進めたのだが、そのうちの一人の男性は出されたケーキを食べることを拒絶した。通過者が発表され、振る舞われたケーキを食べなければ次のラウンドに進めないことになっていた。彼は時間内にケーキを食べ切ることができなかったどころか、一口も食べなかったので、制限時間がやってきた瞬間にその場から消された。
もう一つ覚えているのは、母と一緒にオランダにある国際司法裁判所の周りを散歩していた場面である。ふと左手を見ると立派な国際司法裁判所が現れたが、それは現実の建物とは違い、さらに趣があるような作りをしていた。見方によっては現代アート的な建物であるし、また別の見方をすれば中世の時代の建物のようだった。裁判所の脇には裁判官たちが生活するこれまた立派な宿舎が立ち並んでいて、母にそのことを説明した。母はそれが宿舎だと信じられないといった表情を浮かべていたが、それも無理もないと思った。すると、私たちの会話を聞いていた通りすがりの若いオランダ人女性三人が日本語で声をかけてきた。どうやら彼女たちは日本に留学したことがあるのか、日本語が話せた。そして法律にも詳しいようで、宿舎について親切にも説明してくれたのである。
この場面が終わると、最後に一瞬だけ新たな場面が現れた。それは駅か空港の外で立って本を読んでいると、自分の体に触れるか触れないかのぎりぎりで高級車がぴたりと止まり、中から女性が降りてきた。運転手はどうやらその女性の父親のようで、自分の体にぶつかりそうになったことについてはなんとも思っていないようで、自分はその報復として車体についているエンブレムに蹴りを入れて壊し、サイドミラーには肘鉄を入れて壊した。最後に後部座席の窓ガラスも肘で割ろうと思ったが、それによってこちらが怪我しては元も子もないと思ったのでそれはやめた。運転手の男性は銃を持って逆に報復してくる可能性がちらついたので、自分はその場からいち早く消えることにした。フローニンゲン:2026/5/5(火)06:22
18626. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢は、自分がいま「選抜される場」と「裁かれる場」と「境界を侵される場」のあいだを移動していることを象徴しているように思われる。学校を舞台にした脱出ゲームは、人生そのものが一つの試験場のように感じられていることの表れであろう。そこでは、基本的には一人で課題を解かねばならないが、時に他者との協力も求められる。これは、自分の学問、仕事、留学、創作が、孤独な鍛錬でありながら、完全な単独行では成立しないという現実を映しているのかもしれない。学校は過去の記憶の場所であると同時に、未来へ進級するための関門でもある。つまりこの夢の学校は、過去の自分と未来の自分が同じ廊下ですれ違うような場所なのである。HKが作った婚活マッチングアプリは、「関係性を技術によって最適化しようとする現代的欲望」の象徴であるように見える。出来は素晴らしいのに登録者が少なく、しかも自分にとって魅力的には感じられない。この構造は、外形的には洗練されていても、内実として自分の生命感に響かない選択肢への違和感を示しているのではないか。アプリをひっそり抹消する場面には、自分が「可能性の一覧表」に登録されることを拒み、自分の縁や時間を安易な仕組みに預けまいとしている心の動きが感じられる。よくできた鳥籠であっても、鳥がそこに空を感じなければ入る意味はない、ということであろう。食堂でケーキを食べなかった男性が消される場面は、通過儀礼の残酷さを象徴しているように思われる。ケーキは祝福であり、同時に服従の印でもある。次の段階へ進むには、与えられたものを受け取り、食べ、体内化しなければならない。彼が一口も食べずに消されるのは、制度が差し出す甘味を拒む者は、たとえ選ばれていても排除されるという構造を示しているのかもしれない。ここには、自分自身の中にもある「与えられたゲームに乗るべきか、それとも拒むべきか」という問いが潜んでいるように感じられる。次の国際司法裁判所の場面は、夢全体における秩序と正義の象徴であるだろう。母と歩いていることから、この場面には家族的な根、出自、安心感が伴っている。現実の建物とは違い、現代アートのようでも中世の建物のようでもある裁判所は、自分の中の「判断する力」が、近代的合理性だけでなく、歴史的深みや美的感受性を帯びていることを示しているのかもしれない。裁判官の宿舎を母に説明する自分は、すでに異国の制度や世界の仕組みを案内する立場に移りつつある。若いオランダ人女性たちが日本語で助けてくれる場面は、異文化の中で自分の言葉が意外な形で返ってくる経験の象徴であろう。世界は完全な他者ではなく、時にこちらの母語で応答してくる鏡なのである。最後の高級車の場面は、境界侵害への怒りを示しているように思われる。本を読んでいる自分の身体ぎりぎりに車が止まるのは、静かな知的空間に、権力、富、無神経さが乱入してくる構図である。エンブレムやミラーを壊す行為は、相手の社会的記号や視線の装置への反撃であろう。ただし、窓ガラスを割ることはやめ、銃による報復の可能性を察して退く。この判断には、怒りを持ちながらも、自滅を避ける現実感覚が働いている。自分の怒りは炎であるが、家を焼く火ではなく、進路を照らす松明でなければならないという示唆かもしれない。この夢が人生において示している意味は、自分がいま、古い所属を抜け、新しい制度や世界に入る前の関門に立っているということである。自分は、魅力のない選択肢から静かに離れ、制度が差し出す甘い承認を慎重に見極め、正義と秩序の大きな建物の周辺を歩きながら、同時に自分の境界を侵すものには強い怒りを覚えている。重要なのは、何を受け入れ、何を拒み、どこで戦い、どこで退くかを見極めることである。この夢は、自分の人生が、脱出ゲームから裁判所へ、そして危険な路上へと移るように、単なる成長ではなく、判断力の成熟へ向かっていることを告げているのかもしれない。フローニンゲン:2026/5/5(火)07:11
18627. ミュートの大切さと難しさ
ミュートの大切さを知り、不要な音を止めよう、残響を整理しよう、開放弦を管理しようと意識し始めていたのだが、そのぶん演奏が妙にぎこちなくなっていた。指は固くなり、テンポは揺れ、曲全体が窮屈になる。せっかく整えようとしているのに、音楽そのものが息苦しくなるのはなぜだろうと思っていた。だが考えてみれば、それはごく自然なことなのだろう。初心者の段階では、脳も身体もすでに多くの仕事をしている。左手は押弦を覚え、右手は弦を探し、目は譜面を追い、耳は音程を確かめ、身体は姿勢を保とうとしている。そのうえで「どの弦をいつ止めるか」まで同時に完璧を求めれば、頭の中の机に書類を積み上げすぎて、どれも処理できなくなるのは当然である。車の運転を覚えたての人に、ハンドル操作と車線変更と駐車と地図確認を同時に求めるようなものだ。ぎこちなさは失敗ではなく、処理量の限界を知らせるサインなのだと思った。だから今の自分に必要なのは、ミュートを百点満点でやろうとしないことなのだろう。二十点、三十点で十分である。たとえば低音弦がいつまでも鳴って全体を濁らせるときだけ止める。三弦の開放が妙に響き続けるときだけ軽く触れる。休符の場所では音を切る。この程度でも、演奏はかなり整うはずである。すべての音価を精密に管理することや、複数声部の残響設計まで求めるのは、まだ先の課題でよい。思えば、家を建てるときも同じである。まず柱と床をしっかり作る。窓辺の装飾や花瓶の位置まで最初から完璧に決めなくても家は建つ。今の自分にとって柱とは、姿勢、脱力、安定したテンポ、正しい運指、きれいな発音なのだろう。ミュートは大切だが、それは住み始めてから少しずつ整えていく室内設計に近い。これからは、曲を弾く時間にあれこれ詰め込みすぎず、流れを大切にしたい。そして別枠で短くミュート練習をする。六弦を鳴らして親指で止める。三弦開放を左手で消す。和音を鳴らして全停止する。そうした小さな練習を積めば、いつか無意識にできる日が来るのだろう。完璧を急ぐと音楽は痩せる。未完成を許すと音楽は育つ。今日はそんなことを学んだ。今は止める技術に追われるより、弾く喜びを失わずに進むことのほうが、きっとずっと大切なのである。フローニンゲン:2026/5/5(火)07:28
18628. 左手の小指
ブランダン・エイカー氏の助言は、クラシックギターにおける左手の小指を、単なる「弱い指」としてではなく、「まだ十分に教育されていない指」として捉え直すことの重要性を説いている。多くの奏者は、小指に対して最初から諦めに近い前提を持っているように思われる。小指は短い、力がない、独立して動かない、押弦が不安定になる、と感じるため、無意識のうちに小指を使わない運指を選ぶようになる。薬指や中指で無理に届かせたり、ポジション移動で回避したり、音型そのものを「自分には弾きにくいもの」として受け入れてしまったりする。しかし、エイカー氏が指摘しているのは、その回避こそが小指をさらに弱くしているという点である。小指は本質的に「使えない指」なのではなく、他の指に比べて使われる機会が少ないため、信頼できない指になっているだけなのかもしれない。これは、チームの中で一人だけ仕事を任されないメンバーに似ている。経験を積む機会がないから自信が育たず、自信がないからさらに任されなくなる。その結果、周囲のメンバーが過剰に働くことになり、全体のバランスが崩れていくのである。ギターの左手でも同じことが起こる。人差し指、中指、薬指だけがよく働き、小指がためらっている状態では、手全体に均衡が生まれにくい。速いパッセージでは、三本の指だけが先に動き、小指だけが遅れて反応するため、スピードにムラが出る。ポジション移動では、小指を基準点として使えないため、次の形に入るときの着地が不安定になる。広いストレッチでは、小指を自然に開く感覚が育っていないため、手全体をこわばらせて無理に届かせようとしてしまう。つまり、「小指が弱い」という問題は、小指だけの問題ではなく、左手全体の組織構造の問題なのである。特に重要なのは、「一つの指が除外されると、他の指が補償する」という点である。補償とは、一見すると便利な工夫のように見えるが、長期的には緊張を生む。たとえば、小指で押さえるべき音を薬指で代用すると、薬指が過剰に伸び、手首がねじれ、親指が強く握り込み、肩まで力が入ることがある。これは、家の柱が一本使われないために、他の柱に余計な重さがかかるようなものである。しばらくは立っているように見えても、構造全体には歪みが蓄積されていく。エイカー氏の言う「バランスの取れた左手」とは、すべての指が同じ強さで乱暴に押さえる手ではない。むしろ、それぞれの指が必要な瞬間に必要なだけ責任を引き受けられる手である。人差し指には人差し指の役割があり、小指には小指の役割がある。小指はしばしばフレーズの端、和音の外声、ストレッチの支点、ポジション感覚の目印になる。その小指を信頼できるようになると、左手は三本足の椅子から四本足の椅子へと変わる。支えが増えるので、動きそのものが落ち着いてくるのである。したがって、ある箇所がいつもぎこちなく感じられるとき、すぐに「自分の手は小さい」「柔軟性が足りない」「この曲は難しすぎる」と判断する必要はないのかもしれない。その前に、「本当に四本の指を均等に育ててきただろうか」と問うことが大切である。小指を避けてきた時間が長ければ、その箇所が不安定に感じられるのは自然である。問題は才能の欠如ではなく、訓練の配分に偏りがあったということなのだろう。練習では、小指を無理やり鍛えるというより、小指を日常的に参加させることが重要である。ゆっくりしたスケールで小指の着地を観察する。簡単な半音階で四本の指を均等に使う。小指で押さえた音だけが弱くならないように耳で確認する。和音の中で小指が担当する音を意識的に聴く。こうした地味な練習によって、小指は少しずつ「頼りない末っ子」から「静かに責任を果たす仲間」へと変わっていく。この助言の核心は、技術的な話にとどまらない。演奏とは、身体の一部を排除せず、全体を調和的に使う営みである。小指を信頼できる手は、力で押し切る手ではなく、各部分が自分の役割を知っている手である。そのような手は、速く動く以前に、安心して動くことができる。エイカー氏の言葉は、小指を鍛えよという単純な命令ではなく、左手全体を一つの小さな共同体として育てよ、という助言なのである。フローニンゲン:2026/5/5(火)08:24
18629. バレーの可能性
ふと改めて左手の使い方について考えていた。これまでバレーといえば人差し指で行うものだと疑いもなく思っていたが、特殊なケースでは薬指でそれに近いことが起こり得るという話を思い出し、頭の中でその感覚をなぞってみたのである。実際にギターを構えてみると、やはり人差し指の安定感は圧倒的である。まるで橋のように複数の弦を支え、他の指がその上で自由に動ける空間を作っている。一方で薬指は、どこか頼りなく、単独の点として働くことには慣れていても、線として広がることには慣れていないように感じる。無理に薬指でバレーを作ろうとすると、手の中に微妙な緊張が生まれ、全体の流れがぎこちなくなる。この感覚は、慣れない役割を突然任された人が、必要以上に力んでしまう姿に似ているようにも思われる。しかし、ゆっくりと和音を押さえていると、薬指が意図せず隣の弦にも触れ、結果として二本の弦を同時に押さえている瞬間があることに気づく。それは決して「バレーをしてやろう」という意志的な動きではなく、音楽の流れの中で自然に生まれる接触である。そのとき、薬指は無理に広がろうとしているのではなく、ただそこにあるべき形に収まっているだけのように感じられる。こうした瞬間を観察していると、技術とは強制するものではなく、条件が整ったときに立ち現れる現象なのではないかと思えてくる。改めて感じたのは、各指にはそれぞれの役割があり、それを逸脱した使い方を無理に追求する必要はないということである。人差し指は構造を支える柱であり、薬指はその上で形を整える一部として機能する。その役割分担が崩れたとき、手全体は一時的に何とか機能しているように見えても、どこかで歪みが生じているのだろう。結局のところ、薬指でバレーができるかどうかという問題は、本質的な問いではないのかもしれない。それよりも、手全体がどれだけ自然に協働しているか、各指が無理なく責任を引き受けているかの方が重要であるように思う。先ほどの練習を通して、技術とは新しいことを無理に加えることではなく、すでにある構造のバランスを丁寧に整えていくことなのだと、静かに理解が深まった気がする。フローニンゲン:2026/5/5(火)08:54
18630. 知覚のミュート
今朝の練習の中で、ひとつの小さな発見があった。これまで開放弦のミュートに意識を向けすぎるあまり、音楽そのものよりも「消すこと」に囚われていたように思う。しかしふと、低音の開放弦はあくまでベースラインであり、主役は旋律であるという当たり前の事実に立ち返ったとき、演奏の見え方が少し変わったのである。メロディーを少し前に出し、低音は一歩引かせるように音量バランスを整えてみると、不思議と音の濁りが軽減されたように感じられた。これはおそらく、物理的なミュートではなく、音響的・構造的な「知覚のミュート」とでも呼べるものなのだろう。完全に音を止めることができなくても、聴き手の注意が旋律に集まれば、低音の余韻は背景に溶け込み、結果として濁りとして認識されにくくなる。ちょうど絵画において、背景の色彩を少し抑えることで主題が浮かび上がるのと似ている。音そのものを消すのではなく、関係性の中で意味を調整しているのである。もちろん、これはミュート技術の代替ではない。理想的には、必要な音だけを鳴らし、不要な響きは的確にコントロールできる状態が望ましい。しかし今回の気づきは、技術の未熟さを補う応急処置ではなく、むしろ音楽的判断の本質に触れるもののようにも思える。すなわち、どの音をどのような役割で鳴らすのか、その優先順位を明確にすることこそが、結果的に音の整理につながるということである。考えてみれば、優れた演奏は必ずしも完全なミュートによって成立しているわけではなく、音量、音色、タイミングといった複数の要素が織り合わされてバランスを保っている。ミュートはその中の一つの手段に過ぎず、全体の中でどう機能させるかが重要なのだろう。今日の発見は、技術を「足し算」で増やしていくのではなく、「引き算」と「配置」によって音楽を整える感覚に少し近づいたような気がする。今後は、ミュートの精度を高める練習と並行して、こうした音量バランスによる整理も意識していきたい。開放弦の響きは制御しきれないものではなく、扱い方次第で音楽の奥行きを生む資源にもなるのだと思う。音を消すか残すかという二元的な発想から離れ、どのように響かせるかという視点を持つことが、次の段階への鍵であるように感じられた。フローニンゲン:2026/5/5(火)09:01
Today’s Letter
Practicing classical guitar allows me to discover my hidden potential every day, and the process is tremendously joyful. It restores and deepens my sense of meaning in life. Groningen, 5/5/2026



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