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【フローニンゲンからの便り】17992-17997:2026年1月7日(水)



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タイトル一覧

17992

発達のダイナミクス──変動性・非線形性・プロセス化(その1)

17993

今朝方の夢

17994

今朝方の夢の振り返り

17995

発達のダイナミクス──変動性・非線形性・プロセス化(その2)

17996

発達のダイナミクス──変動性・非線形性・プロセス化(その3)

17997

手足の先の軽度の霜焼け現象から

17992. 発達のダイナミクス──変動性・非線形性・プロセス化(その1)  

                           

今日は午前中に、知人の鈴木規夫さんとの講座および共著に向けて、第四回目の対談を行う。今日のテーマは、「発達のダイナミクス──変動性・非線形性・プロセス化」というものである。「発達のダイナミクス」とは、発達を静的な段階表や能力ラベルから解放し、変動し、揺れ、時に後退しながらも全体として秩序を更新していく生成過程として捉え直す試みである。ここで重要なのは、発達を「到達点」ではなく「時間の中の運動」として理解することである。従来の発達論が好んだのは、一定の順序で上昇していく階段やピラミッドの比喩であり、そこでは発達は“獲得して保持するもの”とみなされやすかった。しかし、現実の人間の経験は、常に同じ水準で安定しているわけではなく、気分、体調、関係性、課題の意味づけ、環境の支援の有無によって大きく変動する。発達のダイナミクスは、この揺れを誤差として排除するのではなく、むしろ揺れそのものを発達の本体として捉えるところに特徴がある。この入口としてまず明確にすべきは、「成長」と「発達」の違いである。成長とは、多くの場合、量的増加や能力拡大を意味する。知識が増える、スキルが上達する、処理速度が上がる、担当領域が広がるといった“足し算”の変化が成長である。他方で発達とは、意味生成の枠組みそのものが変わる質的転換である。発達は、同じ世界を見ていても「何を問題として捉えるか」「どの視点を優先するか」「矛盾をどう扱うか」「自他をどう位置づけるか」が変わるという、認識と関係性の構造変化である。成長が「能力の増築」だとすれば、発達は「設計思想の刷新」である。成長は比較的短期に起こり得るが、発達は経験の蓄積、内省、対話、失敗、環境との相互作用を通じて、ゆっくりと構造を組み替えていく。ゆえに、成長と発達は同一ではなく、成長が発達を保証するわけでもない。知識が増えても世界観が硬直することはあり得るし、肩書が上がっても倫理や関係性が成熟するとは限らないのである。この区別は、「マクロな発達」と「ミクロな発達」という二つの時間スケールを導入することで、より精密に理解できる。マクロな発達とは、数年から十数年の単位で観察される比較的長期の構造変化であり、成人発達理論が語る段階の推移や、人生における意味づけの変容に相当する。他方でミクロな発達とは、日々の学習や対話、仕事の局面において観察される短期的な変動である。ここで重要なのは、ミクロな変動が単なる雑音ではなく、マクロな変化を支える素材だという理解である。人は日々の微細な経験の中で、うまくいったり崩れたりしながら、局所的な秩序の組み替えを繰り返す。その反復が、ある時点でマクロな再編として結晶化する。つまり、マクロな発達はミクロな発達の“平均”でも“結果”でもなく、ミクロな揺れの中から新しい安定状態が自己組織化されることによって生じるのである。この理解をさらに進める概念が「発達の網の目」理論である。網の目という比喩が示すのは、発達が一つの直線経路を進むのではなく、多数のスキル、経験、価値観、身体感覚、関係性、言語資源が結びつき合いながら成立するという事実である。発達は、一本の梯子を登る運動ではなく、網の目の結節点が増え、連結が変わり、張力の配分が変化する過程である。ある領域の学びが別の領域の理解を支え、関係性の変化が思考の柔軟性を促し、身体状態が情動調整を介して認知に影響する。こうした相互連結の総体として発達が起こるという理解は、成人発達理論を「個人の内面の上昇物語」から引き剥がし、より現実に即したプロセス科学へと接続する。フローニンゲン:2026/1/7(水)06:51


17993. 今朝方の夢 

                     

今朝方は夢の中で、少し残虐な光景を目の当たりにしていた。それはある知人とその奥さんが溺死させられるという場面である。私たちは最初、自分がかつて通っていた中学校に似た学校の教室にいた。教室の窓際の席に自分は座っており、知人の方は自分の前に座っていた。すると突然、姿がぼやけている人影のような存在が、私たちの体を動けなくし、今から教室が水没するのでその中で生き延びろという指令を下した。それはほぼ不可能な指令であり、前の方から徐々に水が増えていき、知人がまず口元まで水が来たので息を止めて水の下に入った。今度は自分がその番で、最後に小さな女の子の番だった。私はその女の子にきっと助かるという励ましをした。その瞬間に、知人と奥さんが風呂場で水に沈められている光景が思い出された。最初こそ苦しみながら抵抗していたが、抵抗が止んだ時、息を引き取ったのだと思った。自分も呼吸を止めて水の中に入っていった時、どういうわけか自分は水の中でも生きていけるような気がし、少女と共に助かる確信があった。

もう一つ覚えている場面は、唯識に関するこれまでの研究を総まとめする全集を出版しようとしている場面である。すでに出版企画は通っており、あとは自分の方でコツコツと執筆を進めていくだけだった。総量としては16000ページぐらいになる予定で、それでも自分にとっては少ないように思えた。それだけ唯識の研究は広く、奥が深いものなのである。執筆作業に従事することは一つの至福体験であり、楽しさと喜びの中で執筆に没頭している自分がいた。フローニンゲン:2026/1/7(水)07:03


17994. 今朝方の夢の振り返り

                            

今朝方の夢は、自分の内面で進行している深い変容過程を、強烈な象徴によって示しているように思われる。前半の水没と溺死の場面は、単なる恐怖体験というよりも、既存の生の在り方や関係性、あるいはこれまで自明視してきた世界理解が、もはや維持できなくなりつつあることを示唆しているのではないかと推量される。学校の教室という場所は、かつて自分が社会的規範や知の枠組みを学び、内面化してきた場であり、そこが水に沈むという構図は、その枠組み自体が溶解していく過程を象徴しているように見える。姿の定かでない存在が課す不可能な命令は、外部からの理不尽な暴力というよりも、自己の深層から突きつけられる根源的な試練、すなわち「これまでの呼吸法では生きられない」という宣告である可能性が高い。知人とその奥さんが抵抗の末に沈黙していく場面は、旧来の生存様式や自我の態度が限界を迎え、終焉を迎える様を映し出しているように思われる。一方で、自分が水中でも生きられるという感覚を得ている点は決定的である。これは、世界が水没する=認識の地盤が崩れる中で、自分はすでに別の次元の「呼吸」、すなわち別様の生き方・知り方を獲得しつつあることを示唆しているのではないか。最後に励ましを向けた小さな女の子は、未成熟で脆弱でありながらも、未来へと開かれた純粋な可能性、あるいは自分の中の最も守るべき核心部分を象徴していると考えられる。その存在と共に助かる確信を抱いたことは、破壊と喪失の只中にあっても、次の段階への移行がすでに内的に保証されているという感覚の表れであろう。後半の全集執筆の場面は、前半の極限的体験と対照的でありながら、実は深く連続しているように思われる。水に沈むことで旧い世界が終わり、水中で生きる能力を得た後に現れるのが、唯識研究の集大成という構図だからである。16000ページですら少ないと感じられる感覚は、対象への飽くなき探究心というよりも、もはや研究と自己の境界が溶け合い、尽きることのない流れとして経験されている状態を示していると考えられる。執筆が労苦ではなく至福として体験されている点からも、これは義務や評価のための仕事ではなく、存在そのものの自然な発露としての営みであることが窺える。人生における意味として、この夢は、自分がこれまでの生存様式や認識の枠を超えて、破壊と再生を伴う通過儀礼の只中にあり、その先で、思索と創造を通じて世界に応答し続ける生を選び取っていることを示唆しているように思われる。水に沈むことを恐れず、水の中で生きることを引き受けたとき、自分の人生は恐怖ではなく歓びとして深まっていく、その確信がこの夢全体を貫いているのではないだろうか。フローニンゲン:2026/1/7(水)08:11


17995. 発達のダイナミクス──変動性・非線形性・プロセス化(その2)

   

「ダイナミック・モデル」とは何かを定義するなら、それは発達を、固定された段階の移行としてではなく、複数要因が相互作用する非線形システムとして捉える枠組みである。非線形とは、原因と結果が比例しないということである。小さなきっかけが大きな変化を引き起こすこともあれば、努力を積み重ねても長く変化が表れないこともある。さらに、同じ介入でも、その人の状態や環境の配置が異なれば、全く違う結果になる。ダイナミック・モデルは、この予測不可能性を欠陥としてではなく、人間発達の本質として引き受ける。発達は“制御して作るもの”というより、“条件を整えることで立ち上がるもの”に近いのである。この考え方と不可分なのが「プロセス・アプローチ」である。プロセス・アプローチとは、発達を結果の評価で捉えるのではなく、変化が生じる過程そのもの――試行錯誤、意味づけの揺れ、対話の展開、身体感覚の変容、関係性の再編――を観察し、支援の単位とする立場である。従来の段階モデルでは、ある人が「どの段階にいるか」が中心になりやすいが、プロセス・アプローチでは「いま、どのような運動が起きているか」が中心になる。ここで発達支援の関心は、上位段階へ押し上げることではなく、新しい秩序が自己組織化される条件をどう整えるかに移る。言い換えれば、結果としての“高み”ではなく、変化を生み出す“場”が問題になるのである。このとき鍵となるのが、具体と抽象の統合、すなわち「記号接地(symbol grounding)」の問題である。記号接地とは、言葉や概念が、身体化された経験や具体的実践と結びつくことで、初めて意味を持つという考え方である。成人発達の文脈では、抽象概念を語れることと、その概念が具体的状況で機能することは別問題である。「多様性を尊重する」「対話が大事だ」「相手の立場に立つ」といった抽象語は容易に語れるが、それが実際の葛藤場面での発話や沈黙や身体反応に落ちていなければ、発達した理解とは言い難い。抽象だけが先行すると、発達理論は“賢い言葉の収集”になり、現実の関係性や意思決定を変えない。逆に具体だけに閉じると、状況は改善しても、再現可能な原理が獲得されず、学びが局所的に留まる。発達とは、抽象が具体に根を下ろし、具体が抽象によって再編される往復運動の中で起こるのである。記号の身体化の観点は、現代教育や人材開発への批判とも結びつく。今日の学習は、抽象語やフレームワークの暗記へと傾斜しやすく、概念が身体や実践に接続されにくい。すると人は、自分が理解したと錯覚しながら、実は状況の中で反射的に古いパターンへ戻ってしまう。この「概念は知っているが、具体的な場面では使えない」という断絶の解消が、発達支援の中心課題となる。ゆえに、ダイナミック・モデルに基づく支援は、概念教育よりも、具体的対話、内省の機会、フィードバック、実践の反復、身体感覚の調整といったプロセスを重視するのである。フローニンゲン:2026/1/7(水)08:31


17996. 発達のダイナミクス──変動性・非線形性・プロセス化(その3) 

                   

発達のダイナミクスを最も端的に示す現象が、揺らぎ・退行・停滞である。人間には調子の良いときと悪いときがあり、同じ人でも、ある日は複雑な視点を統合できるのに、別の日には単純な二分法に陥ることがある。従来の発達観では、こうした揺れは未熟さの証拠や測定誤差として扱われがちであった。しかし、動的システムの観点では、揺れは発達の失敗ではなく、発達が進行している証拠である。新しい秩序が成立する前には、古い秩序が不安定化し、試行錯誤が増え、出力が乱れる。これはシステムが別の安定状態へ移行する前兆であり、揺らぎは変化の入口なのである。ここで「スランプ」の心理的意義が浮かび上がる。スランプとは、能力が落ちた状態というよりも、従来のやり方が通用しなくなり、次の秩序へ移るための再編が始まった状態である。スランプの最中に起きているのは、古い技能の自動性が崩れ、新しい統合がまだ安定しないという“過渡期の混沌”である。この混沌を、自己否定や焦りによって早期に閉じると、人は安全な旧パターンへ戻ってしまう。逆に混沌を耐え、適切な支援と反復を続けると、やがて新しい安定が立ち上がる。ゆえに発達支援の要点は、揺れを消すことではなく、揺れが破局ではなく生成へ向かうように舵取りすることにある。停滞・退行も同様である。停滞は、発達が止まった状態ではなく、システムが次の変化に必要な資源を蓄える状態であることが多い。退行は、発達が失われたというより、負荷が高い状況で旧来のパターンが再び出力される現象である。ここで重要なのは、退行を恥や失敗として扱わず、「何がその退行を呼び出したのか」「どの条件が整えば再び高次のスキルが出るのか」を検討することである。発達は、獲得して永久に保持する財産ではなく、条件とともに立ち上がる秩序である以上、退行は人間の正常なダイナミクスなのである。最後に扱うべきは、「変容体験」批判である。成人発達の言説ではしばしば、「死と再生」「劇的な気づき」「人生を変える体験」といった物語が強調される。しかし、この強調は二つの問題を生む。第一に、発達が“派手な体験”によって一挙に起こるという誤解である。劇的体験は確かに転機になり得るが、多くの場合、転機が意味を持つのは、それ以前の長い準備と、それ以後の地道な統合があるからである。第二に、変容体験を求める姿勢が、日常的で漸進的な発達の価値を見えなくすることである。日々の対話、反省、失敗の修正、関係性の小さな更新こそが、発達の主戦場であるにもかかわらず、物語的な“イベント”が中心になると、人は静かな成熟を軽視し、強い刺激を追い求めてしまう。発達理論が本当に扱うべきものは、「一度きりの劇的変化」ではなく、「変化が持続可能な形で根づくプロセス」である。死と再生のメタファーは、発達の一側面を鮮やかに描くが、それが唯一の型として流通すると、発達は人生ドラマの脚色に変質する。発達のダイナミクスとは、むしろ、揺らぎを抱えながらも関係と実践の中で秩序を少しずつ更新し続ける、人間の静かな自己組織化の営みなのである。フローニンゲン:2026/1/7(水)08:43


17997. 手足の先の軽度の霜焼け現象から

  

久しぶりに辺り一面が雪景色となるぐらいによく雪が積もっている。ここ最近は寒さが厳しくなり、部屋で過ごす時間が多いものの、熱めのお湯に浸かることや朝晩の冷水シャワーが原因となって、手足の先が少し軽度の霜焼け予備軍のような状態になっていることに気づいた。今回の霜焼けに類似した症状や指先のかゆみを総合的に考えると、寒さそのものよりも、日常的に繰り返されていた寒暖差、特に急激な温度刺激が主な要因であった可能性が高いと考えられる。外出は週に数回、短時間に限られ、室温も最低17度は保たれている状況では、単純な冷えだけで末梢に炎症が生じるとは考えにくい。むしろ、朝晩の熱めの入浴、昼間の足湯、そして入浴後の冷水シャワーという一連の習慣が、血管に過度な負荷を与えていたと見る方が整合的だろう。霜焼けの本質は、低温そのものではなく、末梢血管の調節機能の乱れにある。血管は温まれば拡張し、冷えれば収縮するが、その変化が急激で、しかも頻繁に繰り返されると、開閉のリズムが崩れ、炎症やうっ血が起こりやすくなる。特に足先や手指は心臓から遠く、血管径も細いため、温度刺激の影響を最も受けやすい部位である。熱めの湯で一気に血管が拡張した直後に冷水で急収縮させる行為は、いわば血管に過酷な振れ幅を強いるものであり、これが軽い霜焼けやかゆみとして現れた可能性は高い。こうした背景を踏まえると、今後の対応として最も理にかなっているのは、刺激を完全に断つことではなく、その強度と部位を調整することだろう。具体的には、入浴時の湯温を40度以下のぬるめに設定し、血管を穏やかに拡張させるにとどめることが重要である。これにより、入浴後の反動的な血管収縮や冷え返しを最小限に抑えることができる。冷水シャワーについても同様である。全身の覚醒や自律神経の切り替えという利点を考えれば、完全にやめる必要はないが、回復期においては頻度と部位を限定することが望ましい。朝のみ冷水シャワーを行い、夜は温めて終えることで、日中の活動リズムと回復のリズムを明確に分けることができるだろう。また、冷水を当てる部位は体幹や太ももなどの太い血管が走る部分に留め、手指や足先といった末梢には極力当てないことが重要である。要するに、現在必要なのは「鍛える刺激」ではなく、「血管が安心して働ける環境」を整えることである。寒暖差をなだらかにし、温度変化の回数と振れ幅を抑えていけば、末梢血管の調節機能は徐々に回復していく可能性が高い。今回の方針は健康法を否定するものではなく、身体の状態に応じて刺激を微調整する、成熟したセルフケアの一形態であると言える。そんな学びを得た。フローニンゲン:2026/1/7(水)14:52


Today’s Letter

I cherish a serene daily life, as it forms the foundation of my existence. Serenity leads to enlightenment. Groningen, 1/7/2026

 
 
 

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