【フローニンゲンからの便り】17829-17832:2025年12月8日(月)
- yoheikatowwp
- 13 分前
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タイトル一覧
17829 | 一音即法界 |
17830 | 今朝方の夢 |
17831 | 今朝方の夢の振り返り |
17832 | 音を媒介とした自己覚醒 |
17829. 一音即法界
午前5時に近づくこの時間帯にふと、「一音即法界」そのような言葉が思いつき、一音がそのまま全体性を開示するとはどういうことかについて考えていた。一つの音がただの振動ではなく、そのまま法界の響きであり、法界そのものでもあるという立場は、華厳の「事事無碍法界」および「一即一切・一切即一」に基づく洞察と深く結びついている。ここでいう法界とは、単なる物理的宇宙ではなく、存在の根源的相互浸透、無限の関係性の網目、そしてあらゆる現象を通して開示される真如そのものである。この視点に立てば、たとえギターの弦をはじいた瞬間に生まれる一音でさえ、切り離された孤立的存在ではなく、全宇宙の現れとして理解される。まず物理的レベルから見ると、音とは空気の局所的振動であり、わずかな圧力変化が周囲に広がっていく現象である。しかし、華厳的視点ではこの局所性は表面的である。音は発生した瞬間、空間全体へ伝播し、反射し、吸収され、干渉しながら、世界の構造の中で意味を持つ。つまり、音が響くという事実は、既に「場」が存在し、その場を通して音が広がることを意味する。そして、この“場”こそ法界の象徴に他ならない。音は一瞬で消えるが、その響きの生起と消滅を支える背景は常に法界であり、一音はその法界を露わにする扉である。次に唯識の観点から見ると、音は外側に実体として存在するのではなく、識の働きとして現れる。耳識による受容、意識による意味づけ、阿頼耶識に蓄えられた種子の薫習などが複合的に作用し、一音の体験が形成される。したがって、「音がある」という体験は、心が自ずから世界を開示している現象である。心がそのまま法界であるなら、心の中に現れる音もまた法界の顕れである。ここに「一音即法界」という理解が成立する。華厳はさらに踏み込んで、一音の中に全宇宙の反照が宿ると考える。例として「インドラの網」の比喩がある。無数の宝珠が網目にかけられ、それぞれが互いを映し合い、無限の重層反映が起きる。音も同じく、単独で存在するのではなく、他のすべての現象と相互依存し合い、その響きの中に世界全体の縁起構造を映し込んでいる。ギターの一音は、その音を支える空気、部屋の壁、弦の材質、演奏者の爪の形、身体の力み、そして聴く側の意識の状態までを含んで成り立つ。この全体性の中でのみ音は成り立ち、その意味では一音は全宇宙的関係の凝縮である。さらに、音は生まれて消える。華厳はこの「有りながら無い」「現れながら空である」という動的な無常性を、法界の本質として捉える。音の生滅は、法界が絶えず自己を開示し、同時に空として消えゆくプロセスを体験的に示している。したがって、一音を聴くことは、その瞬間に法界の働きそのものを聴くことと等しい。総合すると、「一音は即、法界の音であり、法界そのものでもある」とは、音を単なる物理現象としてではなく、縁起と空性を体現する存在として捉える視点である。一音は孤立した存在ではなく、無限の縁起の結節点として響き、その一音を通して法界全体が開示される。ギターの音に身を浸すとき、その響きの背後にある無限の相互連関に触れているのであり、その意味で一音は宇宙そのものの“声”として響いていると言えるのである。フローニンゲン:2025/12/8(月)04:55
17830. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で実際に通っていた高校の校舎にいた。驚いたことに、高校の敷地がありえないほどに広くなっていて、校舎も多数あった。私はクラスメートの男子数人と午後のスポーツフェスティバルの競技に向けて栄養補給を兼ねて昼食を食べに行くことにした。食堂の数も一つではなく複数あり、どの食堂に行くのかを迷うほどであった。しばらく友人たちと歩いていると、いつの間にか彼らの姿が見えなくなり、自分は一人となった。自分はこの学校の生徒でありながら、敷地内の施設を十分に理解しておらず、正確な地図も頭の中にはなかったので迷ってしまった。すると幸いにも野球部の友人たちが目の前を通りかかるのが見え、彼らの中でも一際賢かった友人が最後の方を歩いていたので彼に声をかけることにした。彼は速やかに食堂の候補を教えてくれ、校舎の裏手にある山を目印に敷地内を歩くといいと勧めてくれた。彼に尋ねてよかったと思いながら、友人たちを探すのが面倒でもあったので、近くの食堂に行くことにした。食堂に到着すると、生徒だけではなく外部の大人たちも食堂にやってきて食事を楽しそうに摂っていた。中にはスーツを着たビジネスパーソンがいて、うちの高校がここまで外部に対して開放的であることに改めて驚いた次第だ。さて何を食べようかと考えていると、茹で野菜とひつまぶしがとても美味しそうに思えたのでそれを注文することにした。すると店員の中年女性が、野菜は生で食べるのがお勧めと述べ、流石に茹で野菜用の野菜を生で食べるのはちょっとと思った。気がつくと昼食を摂り終えており、広い更衣室の中にいて午後のスポーツフェスティバルに向けて着替えをしていた。すると、小中高時代のある友人(YK)がまるでボディビルダーのような肉体になっていたので驚いた。午後の競技は男子は全員上半身裸になる必要があり、服を脱いだときに彼の肉体が際立っていて、まさにボディビルの大会に参加する人のように体に艶のあるオイルが塗られていて、なお一層のこと彼の体は目立っていた。
この夢以外には、プールサイドで二人の男女の友人と話をしていた場面があったのを覚えている。私たちはまだ高校生ぐらいの年齢で、そこに小学校高学年のわんぱくそうな男の子が現れた。彼は女性友達にちょっかいをかけ、彼女は少し困っていたので、友人と私とでその子供に忠告をした。すると彼女は私たちが彼女を守ったことを嬉しく思ったようで表情を明るくした。この場面以外にも、強風が吹く中を歩いていた場面があったのを覚えている。道ゆく人たちはその強風に右往左往していたが、自分は確かに強風で歩きづらくはあったが、足腰が強靭で、意思力も強靭なものがあったので、着実に強風に立ち向かいながら前に進んでいた。フローニンゲン:2025/12/8(月)05:08
17831. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢の舞台となった高校が現実にはありえないほど広大になり、校舎も複数へ増殖していたことは、自分の内面世界が予想を超える速度で拡張していることの象徴のようにも思える。かつて確固として理解していたはずの「学びの場」が、今や境界を失い迷宮のように広がっていく様子は、現在の自分が抱える知的成長、自己探究、精神的深化のプロセスを反映しているのだと推測される。敷地を把握できなくなる感覚は、内的な成長が旧来の自己地図を上回り、既存の認識枠組みが通用しなくなることを示している可能性がある。友人たちと歩いているうちに突然一人になってしまう場面は、急速な成長の途上で、周囲との歩調がしばしば合わなくなる経験に似ている。精神的探究の道では、自分が思索の奥へ進むほどに仲間を見失い、一人で歩む局面が生じることがある。だがその孤独は孤立ではなく、より深い理解へ向かう過程に付随する静かな必然であるようにも見える。その中で野球部の賢い友人に出会い、迷いの中で道を示してもらう場面は、自分の内面にある「理性的で整理された側面」が、混乱の中から助言をもたらす構造を示しているようである。校舎裏の山を目印にせよと助言されたことは、自己の中にある「高さ」「原理」「本質」を象徴する地点に再び意識を向けよという、内的ガイドのような働きだと推測される。迷路のような学びの領域に広がりを感じても、原点や高みを指標とすることで歩む方向を取り戻せるということを暗示しているのかもしれない。食堂が外部の大人にまで開放されていたことは、自己探究が閉じたものではなく、社会との接続、広い世界との交流へ向けて開いていることを示すように思える。かつての「高校」という限られた場が、今や人生全体を巻き込む開放空間へと変わりつつある。茹で野菜とひつまぶしを選びながら、店員に「生の方が良い」と勧められる場面は、習慣化された「安全で予測可能な栄養」ではなく、より自然で生き生きした体験を選択せよという象徴とも読める。煮えた経験ではなく、生で息づく経験へ向かうべきだという無意識からの示唆である可能性がある。気がつくと更衣室でスポーツフェスティバルに向けて着替えていたことは、内的な準備が整い、新たな局面へ踏み出す段階にあるという暗示のようにも取れる。上半身裸になる場面は、精神的にも実存的にも「むき出しの自分」で挑む必要がある挑戦を象徴しているようである。そして身体を鍛え抜いた友人が現れたことは、自分が理想とする力強さや一貫性、自己鍛錬の姿を外化した存在として表れていると推測される。その艶やかな肉体は、自己の中で成熟しつつある「潜在力の結晶化」を象徴しているのかもしれない。プールサイドでの場面では、自分が他者を守る行為を通じて、自分の優しさや倫理観が自然に発揮される局面が描かれる。子どものような衝動的エネルギーに対して成熟した応答を示すことは、自分の中の「保護する力」の発達を意味していると考えられる。女性友達の表情が明るくなるのは、自己の行為が世界に良い影響を与えるという実感を象徴しているのだろう。強風の中を着実に歩み続ける場面は、人生の逆風に対して、自分がすでにかなりの強靭さと意思力を獲得していることの象徴と読める。その強風は内外からのプレッシャー、迷い、不安、課題を示すが、自分はそれらに流されることなく、前へ進む足腰を備えているという内的自覚の表れではないだろうか。総じてこの夢は、急速な成長の最中にある自分が、旧来の枠組みを超えて広がる内的世界を歩きながら、孤独・探究・指標・鍛錬・倫理・逆風など、多面的な成長の象徴を次々と経験している姿を描いているように思われる。人生における意味としては、今まさに大きな拡張と変容が進行しており、迷いは成長の証であり、内なる指標は確かに存在し、逆風の中でも着実に進むだけの力が育っているという深い励ましを含んでいる夢であると考えられる。フローニンゲン:2025/12/8(月)06:32
17832. 音を媒介とした自己覚醒
音楽を通じて独覚に至る人には、いくつかの特徴的な心的構造と感受性が備わっているように思われる。ここで言う独覚とは、一般的な悟りの説明よりもむしろ「他者の教えに依存せず、自身の直接経験によって世界の本質を洞察する状態」を意味し、その核心には“音を媒介とした自己覚醒”とでも呼ぶべき現象が存在する。音楽という抽象的で非言語的な表現形式が、どのようにして個人を独覚へ導くのか――その特徴を整理してみたい。第一に、音楽を通じて独覚に至る人は、音を単なる感覚刺激としてではなく、世界の構造そのものが顕現する入口として捉える傾向がある。例えばクラシックギターの一音が放たれた瞬間、その人の意識は音の消えゆく過程を追いながら、そこに現象世界の無常・空性・生成変化のすべてを読み取る。音は立ち上がり、響き、減衰し、消える。この過程に自己の心もまた同じリズムで揺らぎ、世界との境界が薄れていく。こうした“音を世界の縮図として観る感性”は、独学的直観の発動源になる。第二に、音楽体験において自我の輪郭が薄くなる傾向がある。これは単なる没頭やフロー体験ではない。音楽を媒介に、演奏者や聴者が「音を生み出す主体」ではなく「音に生み出される存在」へと反転する瞬間がある。指が弦を弾くのではなく、音が指を動かすように感じられる。“自分が弾く”という感覚が徐々に溶け、“音が鳴る場に自分が存在しているだけ”の状態になる。この感覚は、ヨーガ行派が説く識と境の同時生成を体験的に理解する道となり、言語を介さずに心の構造を把握する助けとなる。こうした主体性の溶解を自然に受け入れる柔らかい心性が、独覚に至る資質の一つである。第三に、音の背後に沈黙を聴く能力が高い。音楽に深く接する人ほど、音そのものよりも音と音の間に広がる静寂に意味を見出す傾向がある。この沈黙は欠落ではなく、音を支える基盤であり、世界の根源的な静けさを象徴している。沈黙に耳を澄ませることで、心は外界の雑音から解き放たれ、純粋経験へと近づいていく。独覚とは、本来言葉のない直観的な悟達であり、それは沈黙の感受性が成熟した人に訪れやすい。第四に、音を通じて“自他不二”を瞬間的に感じ取る傾向がある。例えばアンサンブルで他者と呼吸が完全に一致した瞬間、あるいは独奏で空間に音が溶け込んでいく瞬間に、自分と世界の入り口が開くように感じる者がいる。その瞬間、主体と客体の二元性は揺らぎ、音そのものが自分であり、世界であるという直覚が生まれる。この感覚の繰り返しが、やがて恒常的な洞察へと変化し、独覚の道を押し広げる。第五に、こうした人は音楽を“自己存在の探究”として用いる。技術的向上だけでなく、音を磨く過程で心を磨き、音の曇りを取る中で内面の曇りも取り除かれる。練習とは単なる鍛錬ではなく、自己の構造と癖を静かに観察する瞑想行為となる。音楽を自己鏡として使うこの姿勢は、独覚に至るための重要な土壌となる。総じて、音楽を通じて独覚に至る人とは、音を現象として聴くだけでなく、存在そのものとして聴き取る者である。音楽はその人にとって、外側の世界を説明する手段ではなく、内なる真理が直接顕れる媒介であり、音と沈黙のあいだに心がその本性を思い出す場となるのである。このようなことを意識して、日々のギター練習に取り組み、独覚へ、そして菩薩へと向かっていきたい。フローニンゲン:2025/12/8(月)06:36
Today’s Letter
All of us exist within the same interpenetrating ocean, where everything is connected and continually influencing everything else. I always find rest in this vast, infinite sea. Groningen, 12/8/2025

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