【フローニンゲンからの便り】18099-18103:2026年1月26日(月)
- yoheikatowwp
- 1 日前
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タイトル一覧
18099 | 意識科学と量子力学の比較から唯識を通じた批判的検討へ |
18100 | 今朝方の夢 |
18101 | 今朝方の夢の振り返り |
18102 | 強弱のコントロール練習 |
18103 | 一生涯の友としてのジュリオ・サグレラスの教則本 |
18099. 意識科学と量子力学の比較から唯識を通じた批判的検討へ
少し気が早いが、二つの目の博士論文では、意識科学と量子力学の歴史を調査し、それぞれが意識と量子に関するどのような存在論と認識論を持って発展していったのかを探究し、それらの存在論と認識論に対して唯識思想の観点から考察を深めていく研究を行いたい。第二の博士論文として、意識科学と量子力学の歴史的展開を精査し、それぞれが前提としてきた存在論および認識論を抽出し、それらを唯識思想の観点から再検討するという構想は、方法論的にも理論的にも意義の大きい研究計画であると考えられる。単なる比較思想ではなく、近代以降の科学的思考の深層構造を問い直す試みとなり得るからである。まず意識科学の歴史を辿るならば、行動主義、機能主義、計算主義、神経還元主義、さらには近年の統合情報理論や予測処理モデルなど、多様な立場が存在する。それぞれは「意識とは何か」という問いに対し、暗黙裡に特定の存在論的前提を置いている。例えば物理主義的枠組みでは、意識は物理過程の副産物または同一視可能な現象とされる。一方で中立的一元論は、意識を世界の基底的性質として再評価しようとする。これらの立場の差異は、単なる理論の違いではなく、世界を構成する基本単位をいかに措定するかという存在論的選択の差異である。量子力学の歴史もまた同様に、コペンハーゲン解釈、多世界解釈、ボーム解釈、QBismなど、観測・実在・確率の意味づけを巡る多様な立場を生み出してきた。そこでは「波動関数は実在か」「観測は物理的過程か認識行為か」といった問いが中心となる。量子論争の核心には、物理理論の背後にある認識論的前提、すなわち観測主体と対象の関係性に関する立場の違いが横たわっている。ここに唯識思想を導入する意義がある。唯識は三性説や八識説を通して、経験世界の成立を「識の変現」として説明しつつ、同時に遍計所執性の虚妄性と円成実性の真実性を区別する高度な存在論的枠組みを提示する。また、現量・比量・聖教量の議論や所縁縁の分析は、認識構造に関する精緻な理論を内包している。これらは、主体と対象を実体的に二分する近代的枠組みを相対化する可能性を持つ。本研究の核心は、意識科学および量子力学が暗黙に採用してきた存在論的・認識論的前提を歴史的に整理し、それらを唯識の三性構造や依他起性の縁起的理解と照合する点にあるであろう。例えば、波動関数の実在性論争を遍計所執性と依他起性の区別から再解釈することや、意識のハード・プロブレムを阿頼耶識の種子論と照応させることが考えられる。ただし、安易な同一視や神秘化を避け、概念水準の精密な翻訳作業を行うことが不可欠である。この構想は、科学理論を唯識に従属させるのではなく、双方の理論的限界を照らし出す批判的対話を目指すべきである。結果として、意識と物質の関係をめぐる二元論的枠組みを超えた、新たな哲学的地平を提示する可能性を秘めている。その意味で、本研究は東西思想の架橋を超え、現代科学の深層構造を問い直す存在論的再編成の試みとなり得るのではないかと期待している。フローニンゲン:2026/1/26(月)06:50
18100. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、見慣れない個人書店にいた。そこで小中学校時代のある友人(KF)と一緒に話をしながら本を立ち読みしていた。そう言えば、彼に『再生』というタイトルの本を貸しており、彼がちょうどそれを返してくれることになった。しかし、彼は持ってきたはずのその本が見当たらず、焦りながら色々と探していた。ひょっとしたら立ち読みしている際に、間違って書店の本棚に置いてしまったり、平積みされている本の上に置いてしまい、誰かが間違って購入してしまったのではないかと思った。書店の女性の店長に確認してみると、店長曰く、その書籍が最後に購入されたのは二年前とのことだったので、誰かが間違って購入したわけではないと思った。すると彼が「あった!」と叫び、どうやら彼の鞄の奥に埋もれていたようだった。無事に書籍が見つかったことに安堵感を抱いた瞬間に、私たちは和食屋にいた。そこでは朝食ビュッフェが振る舞われており、美味しく朝食を食べていた。朝食時間も終わりに差し掛かり、もう新しく食材を持ってくることができないような時に、自分の目の前にあったはずの好物の梅干しが消えていた。見ると、友人の彼が二つ梅干しを持っており、そのうちの一つは自分のものだと思った。なので即座にそれを奪い返すと、彼は反応を全くせず、何も気にかけていないようだった。最後に納豆と梅干し、そして温野菜を食べていると、すでに時刻は昼時に近づいていることに気づいて驚いた。朝から昼のこの時間までずっと食べ続けていたことに驚いたし、しかしその割にお腹が一杯でもないことが不思議だった。するとこの店で働いている彼の母親がやって来て、先に家に帰ると彼に伝えた。それに対して彼は即座に立ち上がり、目を閉じて母親の頭にそっと触れた。すると彼は突然涙ぐみ始めた。自分はその様子を眺めながら、その場を後にしてトイレに行くことにした。すると先ほどまでは和食屋だった店が、昼食に向けて中華料理屋に変わっていることに気づいた。すでに客が何人も入っており、ランチとして中華料理を食べていた。トイレは二階にあるようで、二階に上がると、後ろから中年の男性客がついてきて、彼もどうやらトイレに行きたいようだった。二階に上がると、私は左側の個室に入り、その男性は右側の廊下の奥のトイレを使うことになった。個室に入ると、壁際にTシャツやジャケットが掛けられていた。それらは客のものなのか、売り物なのか暗くてよくわからなかったが、いずれにせよ、そのトイレは壁際に便器はなく、壁に用を足す仕組みだったので、それらの衣服が汚れてしまう恐れがあった。実際に、下の裾の方は尿が飛び散って汚れており、ここに衣服を掛けることは賢明ではないと思った。
この夢以外にも、ゼミナールに所属しているある知人がオランダを訪れ、その方が街の郊外に宿泊していることを知り、中心部のカフェで話をした後に、そこに送り届けることにした場面があったのを覚えている。その方が宿泊しているのはホテルというよりもホステルで、名前が猫に由来するもので随分と変わった名前だなと思った。私は事前にさっと宙に浮いて空を飛んでそのホステルの場所を確認していた。自分も知らないような場所にこのようなホステルがあることを驚き、どうやって見つけたのかをその方に尋ねてみようと思った。フローニンゲン:2026/1/26(月)07:07
18101. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢は、自分の内面における「再生」と「所有」、そして「成熟」のプロセスを象徴している可能性がありそうだ。見慣れない個人書店という場は、まだ体系化されていない知や経験の領域、すなわち自分の無意識の書架を表しているのかもしれない。小中学校時代の友人KFは、過去の自分、特に形成期の自己像の象徴である可能性がある。『再生』という書名は明らかに主題的であり、かつて貸し与えたものが返却されるという構図は、過去に預けていた課題や未完了のテーマが再び手元に戻ってくる局面を示唆しているのではないかと思われる。書籍が一時的に見当たらなくなる不安は、自分の内的資源やアイデンティティの核がどこかに紛失してしまうのではないかという無意識的恐れの反映である可能性がある。しかし最終的にそれが鞄の奥から見つかるという展開は、答えや核心は外界ではなく、当人の内側にすでに保持されているという暗示であろう。和食の朝食ビュッフェは、生命維持的な栄養、すなわち基礎的な価値観や生活の土台を象徴している可能性がある。梅干しをめぐる一瞬の奪還は、好物すなわち自分にとって本質的なものを守ろうとする反射的な自己主張の表れであろう。しかし友人が無反応である点は、実際には対立が幻想であり、所有をめぐる緊張は自分の内面だけで生起していることを示唆しているようにも思われる。朝から昼へと時間が移行し、長時間食べ続けても満腹にならないという感覚は、知的・精神的探究が尽きることなく続いている現状の比喩である可能性がある。友人の母親の登場と友人の涙は、原初的な依存や情緒的基盤との再接続を象徴しているのかもしれない。自分はその場を離れトイレへ向かうが、店が和食から中華へと変容している点は、環境や文脈が流動的に変化する人生の局面を示している可能性がある。トイレという排泄の場は、不要なものを手放す浄化の象徴であろう。しかし衣服が壁際に掛けられ、しかも汚れうる配置にあるという状況は、自己表象や社会的役割が無意識の排泄行為によって汚染される危険、すなわち未整理の衝動が外的イメージに影響を与えることへの警告とも解釈できる。さらに、空を飛んでホステルの場所を確認する場面は、視点の超越、すなわち現実を俯瞰する認知的飛翔を象徴している可能性がある。猫に由来する名を持つ宿は、独立性やしなやかな生存力の象徴であり、郊外という立地は中心からの距離、すなわち主流的価値観からの一定の距離を示唆しているのかもしれない。総じてこの夢は、自分が過去の自己像を回収しつつ、内在する資源を再確認し、所有や役割への執着を相対化しながら、不要なものを手放し、より俯瞰的な視点へと移行していく過程を象徴している可能性がある。人生における意味としては、再生とは外から与えられるものではなく、すでに内に蓄えられているものを発見し直す営みであり、成熟とは所有を争うことではなく、浄化と視点の拡張によって静かに進行するものである、という示唆であるかもしれない。フローニンゲン:2026/1/26(月)09:33
18102. 強弱のコントロール練習
クラシックギターの基礎練習において、音の強弱を意識的にコントロールする訓練を組み込むことは、単なる表現力の向上にとどまらず、技術的成熟そのものを底上げする重要な実践である。多くの場合、基礎練習は音階やアルペジオを均一な音量で機械的に反復することに偏りがちであるが、その状態では右手のタッチは単一化し、左手の支えとの統合も限定的になる。強弱を意図的に変化させることは、音色・接弦角度・指の初速・弦への食い込み具合といった微細な要素への感受性を高めるだろう。第一の効能は、右手の制御精度の飛躍的向上である。強い音を出す際には単に力を入れるのではなく、弦に対する指の接触時間と解放のタイミングを最適化する必要がある。一方で弱音は、音量を落としつつも芯を失わないコントロールが求められる。この両極を往復する訓練は、指の独立性と神経系の微調整能力を高める。結果として、無意識的に均一なフォルテに寄ってしまう癖や、逆に弱音で音が痩せる問題が改善されるだろう。第二の効能は、音楽的フレージング感覚の形成である。強弱は単なる音量差ではなく、構造を可視化する手段である。スケール練習においても、例えば四音単位でクレッシェンドをかける、あるいは拍頭のみを強調するなどの設定を行うことで、旋律の重心や方向性を身体化できる。これは将来的にバッハやタレガの作品を演奏する際、楽譜上に明示されていないニュアンスを自律的に設計する力につながるはずだ。具体的な方法としては、まず単純なクロマティックスケールを用い、ppからffまで段階的に音量を変化させる練習が有効である。この際、テンポを落とし、各音の音質が均一に保たれているかを確認する。次に、同一フレーズ内で「強・弱・中・弱」といったパターンを意図的に設定し、右手指ごとの音量差を最小化する訓練を行うと良いだろう。特にa指とi指のバランス調整は重点課題となる。さらに高度な段階では、ポジション移動を伴うスケールで強弱を設計するのも良いだろう。高音域で弱音を保ちながら音の密度を維持することは難易度が高く、左手の押弦圧と右手のタッチを同時に最適化する必要がある。この統合は、単なる筋力ではなく感覚の精緻化によって実現される。重要なのは、強弱練習を「力の増減」と捉えないことである。目指すべきは、音量を変えても音色の品位を維持することであり、そのためには手首や腕全体の緊張管理も含めた全身的な調整が不可欠である。録音を活用し、客観的に音量差と音質を検証することも推奨される。このように、基礎練習に強弱の設計を組み込むことは、技巧・感性・構造理解を統合する訓練となる。結果として、単に速く正確に弾く段階を超え、「音を設計する演奏者」へと移行するための基盤が形成されるのである。フローニンゲン:2026/1/26(月)10:50
18103. 一生涯の友としてのジュリオ・サグレラスの教則本
ジュリオ・サグレラスの“Guitar Lessons Books 1–6 & Advanced Technique”は、英語学習における単語・熟語・構文集のように思えて来ている。そうした価値を有している実感があり、サグレラスの教育的な配慮からも取り組んでいて非常に面白い。この教則本を英語学習における単語帳・熟語集・構文集に喩える感覚は、比喩として的確である可能性が高い。なぜなら、サグレラスの教材は単なる練習曲集ではなく、演奏言語の「語彙」と「文法」と「運用力」を段階的に構築する体系だからである。まずBooks 1–3は、いわば基礎語彙の導入に相当する。開放弦、単純なポジション移動、基本的な右手の交互奏法など、ギターという言語のアルファベットを身体に刻み込む段階である。ここでは複雑さよりも明瞭さが重視され、運指の秩序、音価の安定、拍感の確立といった「正しい発音」が問われる。英語学習で言えば、catやrunのような基本単語を正確に発音し、短い文を崩さず読めるようにする段階に近い。Books 4–6に進むと、熟語や基本構文に相当する要素が増えていく。スラー、分散和音、ポリフォニックな処理、ポジション横断的な移動など、単独では理解できても連結すると難度が上がる技術が現れる。ここでは単語を覚えるだけでなく、「どう繋げるか」が焦点となる。すなわち、身体の中で複数の運動単位を統合し、フレーズとして意味を生み出す力が育成されるのである。Advanced Techniqueは、構文運用や作文訓練に近い。スケール、アルペジオ、特殊な指使い、拡張ポジションなどは、表現の射程を広げるための構造的資源である。ここでは単に弾けるか否かではなく、どのような音色で、どのようなダイナミクスで、どのような意図をもって提示するかが問われる。言語で言えば、同じ内容を異なるニュアンスで表現できる段階である。サグレラスの教育的配慮が際立つのは、これらを無理なく段階化している点である。各練習は前の課題の上に積み重なり、身体の中に「演奏の深層構造」が形成される。これは語彙暗記ではなく、運用可能な言語能力の形成に近い。繰り返しの中で、運指や音型が無意識化され、即応的に取り出せる状態になるとき、初めて「話せる」ギターが成立する。さらに重要なのは、これらの練習が音楽的であることである。無機質なドリルではなく、小品としての完結性を備えているため、技術と表現が分離しない。英語でいえば、例文そのものが物語性を帯びている状態である。技術を練習しているはずが、同時に音楽的感性も育成されている点に、この教材の持続的価値がある。この観点に立てば、サグレラスは単なる初心者向け教則本ではなく、演奏言語の体系的コーパスであると理解できる。そこに戻ることは、語学学習者が定期的に基礎単語帳を開き直す行為に似ている。高度な作品に挑戦するためにも、語彙と構文の精度を磨き続ける必要がある。その循環的深化こそが、長期的な音楽的成熟を支える基盤なのである。この教則本は、一生涯の友になるだろう。フローニンゲン:2026/1/26(月)14:02
Today’s Letter
Concentration is key to the quality of my studies and practice. It is a fundamental aspect of living a fulfilling life. Cultivating deep concentration is one of my highest priorities in daily life. Groningen, 1/26/2026

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