【フローニンゲンからの便り】17825-17828:2025年12月7日(日)
- yoheikatowwp
- 13 分前
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タイトル一覧
17825 | 法界への畏敬の念 |
17826 | 今朝方の夢 |
17827 | 今朝方の夢の振り返り |
17828 | 音楽する身体と心を育む根源的な方法 |
17825. 法界への畏敬の念
昨日はゼミナールの振り返り音声ファイルとして、合計4時間弱一人語りをしていた。それを受けて、引き続き考えていたことがある。あるのでもなく、ないのでもない空(śūnyatā)としての法界から、確固とした「あるもの」と感じられる夢や自己意識、さらには思考・感覚・音楽までもが立ち上がるという現象は、唯識や華厳の視点から見ると、宇宙そのものの成り立ちを象徴する深いプロセスであると考えられるのではないかと思った。空とは、存在を否定する虚無ではなく、あらゆる現象が相互依存的に成り立ちつつ、固有の自性を持たないというダイナミックな開け(openness)である。したがって、法界は「何もない場所」ではなく、「何かが生じうる可能性そのものの場」と言い換えられる。そこには潜在的な無限の現れが静かに息づいており、その潜在性が条件に応じて形を成すとき、夢が生まれ、自己意識が形を取り、感覚や音楽が響いてくる。夢という現象を通じて考えると、睡眠中の心は外的対象から解放され、内的な種子(bīja)が映像や物語として展開する。これらの夢像は確固とした外界の実在を持たないにもかかわらず、体験の内部では「確かにあるもの」として迫ってくる。この構造こそ、空の法界がどのように現象を立ち上げるのかを象徴していると推測される。夢は実体を持たないが、だからといって「ない」わけではない。確かに現れ、感情を動かし、記憶にも残る。そのあり方はまさに「あるのでもなく、ないのでもない」という二つの極端を超えた領域に位置づけられる。自己意識もまた同様である。自我は固有の核を持つ存在ではなく、記憶、感情、言語、身体感覚といった複数の因縁が一時的にまとまり、統一的に見えるだけの仮構的な構造である。しかしこの自己意識は、体験世界を束ね、物語を作り、未来へ向けて計画を立てる。自性を持たないがゆえに流動的でありながら、体験の中心として強烈なリアリティを放つ。これもまた空の法界の働きであると考えられ、そこには何ら矛盾がない。むしろ、固定的な実体を持たないからこそ、意識は柔軟に変化し、拡張し、芸術や思索を生み出す。さらに興味深いのは、思考・感覚・音楽といった体験の質感そのものが、空としての法界から発するという点である。音楽は物理的には空気振動でしかないが、体験としては「響き」として心の中に立ち上がり、時に涙を誘い、時に瞑想のような静けさをもたらす。思考もまた、脳の電気信号以上の意味を帯び、感覚も生理的反応以上の豊かさを持つ。それらが「ある」と感じられるのは、法界の働きが自己意識に投影され、現象として把握されるからである。つまり、音楽や感覚は、法界そのものが響きとなって顕れたものであり、そこに畏敬の念が生まれるのは自然のことだと推測される。華厳経が説く「事事無碍法界」では、すべての事象が空性ゆえに互いに貫き合い、妨げることなく存在しているとされる。この観点からすれば、音楽が心を震わせるのは、心としての法界と音としての法界が同じ根源性を共有しているからである。夢が自己意識を揺らすのも、両者が同じ空の働きから生じているからであり、いわば法界が法界を体験しているようなものだと理解できる。このように、あると思えるすべての現象が、実体のない空の法界から縁起によって立ち現れ、しかもそれらが各自のリアリティを帯びるという事実は、人間存在のあり方そのものへの深い洞察をもたらす。人生における意味としては、自分が体験している世界のすべてが、同一の真如からの展開であるという理解が深まるほど、固着が薄れ、自由さが増し、そして世界に対する畏敬と慈しみの情が育まれていくという点にあると推測される。フローニンゲン:2025/12/7(日)06:43
17826. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、ゼミに参加しているある知人の方と見慣れない部屋で話をしていた。その方は普段は企業で勤めており、仕事と両立させる形で人間発達の探究を進めていた。自分はその方と出会った当初から、その方が持っている学術研究の資質に関心を寄せており、話の中でここからさらに探究を深める方向に舵を切るために会社を辞める話をし始めた時には嬉しく思った。もちろんその方は会社でも活躍できるだろうじ、現に今活躍をしているのだが、もっと活躍できる場は学術研究の場であると考えていたからである。その方との話が終わりに差し掛かる頃、気づけば自分は見慣れない広いゲームセンターの中にいた。その中に屋内の反面のフットサルコートがあり、そこで小中高時代のある友人(HY)と一緒に足元でのボールコントロールの練習を始めた。私には一つ得意技があり、それを久しぶりに行ってみたところ、最初は感覚を忘れていたが、すぐにその勘を取り戻し、彼を驚嘆させた。彼はその技を習得したいと申し出た。するとその他にもその技術を習得したい人たちがわんさか集まってきて随分と賑やかになった。するとそこで場面が変わった。
次の夢の場面は、サッカーコートで試合をしており、自分は右サイドのミッドフィルダーのポジションを務めていた。そこからドリブルをして相手を崩したり、ゴール前にセンタリングを上げるなどの役割を果たしていると、気づけば自分は夢を眺める存在になっていた。そこにいたのはある元日本代表の選手で、彼の高校時代の様子を観察する自己として存在していた。彼は今でこそボランチで名を馳せた選手だが、高校一年生の時は右サイドで試合にデビューしていた。最初の試合は体格さやスピードについていくことができず、彼は全く活躍することができなかった。しかし彼の努力と監督が辛抱強く彼を起用し続けたことによって、彼はすぐさま頭角を表した。翌年にはボランチにコンバートされ、そこで彼の才能は一気に開花した。それらの過程を眺めている自分は、彼に自分を投影させる形でそのプロセスを見守り、彼の才能開花を大変喜んだ。
最後の夢は、大学時代のサークルのメンバーと外部の同年代の人たちを交えてフットサル合宿を行っていた場面である。これから大きな大会が始まることになっており、初戦に向けてウォーミングアップを始めた。私は少し年上の人と一緒にパス交換を始めた。すると、最初の何気ない簡単なパスをトラップミスしてしまい、ボールが後ろに転がっていってしまった。一応ミスではないような形の演出を無意識に行っていが、自分もその人もそれがミスだと気づいていた。その人は笑顔を浮かべて、今のはミスであったことを指摘した。私も笑いながらそれを認め、そこからはできるだけ丁寧にボールを扱うことにした。すると、ボールを自由自在に扱える感覚がすぐに戻ってきて、その感覚のまま試合に臨むと、自分は後半の途中からしか出場していないも関わらず、硬直した状態を破るゴールを決め、さらにそこからもたくさんの点を決めた。それによりチームは次の試合に無事に進むことができ、以降の試合からは自分は先発で起用されることが予想されたが、いつ試合に出場してもゴールを大量に決められる予感がしていた。先ほどの試合でも、その予知能力が現実となっていた。フローニンゲン:2025/12/7(日)06:03
17827. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢全体には、探究者としての自分の姿、指導者としての自分の姿、そしてプレイヤーとしての自分の姿が層のように重なり合っていたように思われる。最初の場面で登場した知人は、日常の仕事と探究の二重生活を営む存在であったが、学術研究へと舵を切るかもしれない兆しを語っていた。この構造は、自分が他者に見出す「本来の可能性」が、実は自分自身の可能性への投影である可能性を示唆している。自分はその人の学術的資質を高く評価していたが、その評価の中には、自分自身がより深い学問的探究へとさらに踏み込むべきだという内的な声が潜んでいたのではないかと思われる。見慣れない部屋という設定は、まだ完全に言語化されていない未来の領域、つまり自分がこれから開くべき新しい空間を象徴していると推測される。続くゲームセンターのフットサル場面では、幼少期から青年期までの友人が登場し、自分がかつて持っていた身体能力や技の勘がすぐに戻ってきた描写が印象的である。これは、長らく眠っていた能力が再活性化し、他者を惹きつける磁力のように働くことを示しているように思われる。自分が技を披露すると、多くの人が集まり習得を求めたという展開は、自分が教える側・導く側へ自然に回帰していく力学が働いていることを象徴している。ゲームセンターという場所の象徴性を踏まえると、探究がすでにゲーム化し、自分にとって楽しみ・遊びとして統合されている状態を示している可能性がある。次の場面では、サイドのミッドフィルダーとしてプレイする自分と、その様子を俯瞰して眺めるもう一人の自分が同時に存在していた。この二重構造は、行為主体としての自分と観察者としての自分が高度に分化し、成長のプロセス全体をメタ的に理解しようとする姿勢が反映されていると考えられる。元日本代表選手の高校時代の成長を見守る自分は、「才能は文脈と継続的な鍛錬によって開花する」という信念体系を再確認しているように思われる。この選手の物語に自分を重ねながら眺めていたことは、現在の取り組みがすぐに結果を生まなくても、粘り強いプロセスが必ず転換点を生むのだという確信に近い感覚が浮上している可能性を示している。最後の合宿の場面では、ごく軽微なミスを笑顔で共有し、そこからすぐに本来の力を取り戻す姿が描かれていた。この構図は、ミスの受容が自己を再組織化させ、むしろ創造的な力を強化する契機となることを象徴していると解釈できる。そこから自分が硬直した空気を破るゴールを決め、多くの得点を重ねたという展開は、現在の人生段階において、自分が「決定的な突破力」をすでに備えていることを示唆しているようである。後半からの出場にもかかわらず大きな成果を上げたことは、人生の後期に始めた領域でも十分にトップレベルで活躍し得るという潜在的確信を表しているのではないかと思われる。また、未来に対する予知的な感覚が夢の中で的中した要素は、「方向性はすでに正しい」という内的直観の反映である可能性が高い。この夢は、他者の才能を支える役割、自己の才能を取り戻す役割、そして未来の自分を俯瞰する役割が統合へと向かっていることを象徴していると思われる。自分は今、探究者・指導者・プレイヤーとしての三つの側面を同時に成熟させつつあり、その全てがこれからの人生の大きな飛躍につながっているという兆しが表れているのかもしれない。ミスや停滞さえも成長の端緒となり、積み重ねの先に大きな覚醒の瞬間が待っているという深層からのメッセージとも読める。フローニンゲン:2025/12/7(日)07:04
17828. 音楽する身体と心を育む根源的な方法
クラシックギターの練習において、現在の自分にとって「易しい曲」「ちょうどよい標準レベルの曲」「かなりゆっくりでも難しい曲」の三層を毎日何度も回転させる方法は、上達の速度を加速させるだけでなく、身体感覚・認知・音楽性を同時に育てる非常に優れた練習体系のように思える。この三層構造は、心理学における“最適負荷の原理”とも一致し、スキル構築を安定かつ深い方向へ導く仕組みとして極めて理にかなっていると言えそうだ。まず、易しい曲を毎日回すことには二つの大きな効能がある。一つは、成功体験を積み上げることで神経系の安定性が高まり、身体の緊張が抜けることである。易しい曲は「自信の土台」であり、すでに身についている動きを確認し、再強化する場になる。もう一つは、音色・タッチ・フレージングなど“細部への意識”を深める余裕が生まれる点である。難曲ばかりに向き合うと身体は常に緊張し、基礎的な動きが乱れがちとなるが、易しい曲は「呼吸のリズムを整え」「音の輪郭を見つめ」「身体のゆるみを回復させる」働きを持つ。禅定における“調身・調息”が作られるのは、このカテゴリーである。次に標準レベルの曲は、現在の実力と完全に一致する領域であり、“最適負荷”そのものである。ここで最も深い学習が起きる。標準レベルの曲を回転させると、指の動きの微調整・左右手の協調・局所的な緊張の解消などが毎日少しずつ改善していく。このゾーンは心理学でいう“フロー領域”と重なり、集中と楽しさが自然に生まれる場所である。標準曲を丁寧に回すことで、楽器の扱い方は日ごとに滑らかになり、音の密度と安定感が上昇する。また、標準曲が確実に上達することで、難曲への挑戦が安全になり、無用な負荷や怪我を避けつつ高度な技術へ向かえる。最後に、難しい曲をゆっくり回すことの効能は圧倒的である。難曲は技術・音楽性・構造理解のすべてを要求する“未来の自分”の象徴である。テンポを極限まで落とし、ほとんど瞑想のように一音一音を確かめながら弾くことで、身体は新しい指の並び、ポジション移動、リズム感、テンション処理などを徐々に受け入れていく。難曲のゆっくり練習こそが、実は最も深い指の再編成を生む。これを毎日反復することで、脳内の運動マップは書き換えられ、限界が少しずつ押し広げられていく。難曲は未来のフォームを形作る“鋳型”であり、ゆっくりでも確実に触れ続けることで、身体が理想の形に適応していくのである。この三層を毎日回転させることで起きる最も大きな効果は、三つの領域が互いに影響し合う点である。易しい曲で身体と心が整い、標準曲で技術が鋭くなり、難曲で未来の自分が形成される。易しい曲の音色意識が標準曲の精度を高め、その精度が難曲の理解を補強し、難曲で得られた“構造の新しさ”がまた標準曲の質を向上させる。この循環こそが、三層回転練習の本質であり、上達の速度だけでなく深さをも決定する。 さらに、この方法は心の状態にも良い影響を与えるだろう。易しい曲は安定、標準曲は集中、難曲は挑戦という「心の三相」が生まれ、これらが日々の練習を一種の禅行のようにする。練習が義務ではなく“意識の変容の場”となり、静寂と没入が自然に立ち上がる。三層の循環は、ただ上達するための仕組みではなく、“音楽する身体と心”を育む根源的な方法であると言える。総じて、易・標準・難の三段階を毎日回す練習体系は、技術・音楽性・集中力・身体知のすべてを同時に鍛え、長期的で揺るぎない成長をもたらす非常に優れた方法である。そして気づいたときには、総合的な力が自然に高まっているという感覚こそが、この方法の真の効能なのである。フローニンゲン:2025/12/7(日)07:12
Today’s Letter
As the embodiment of emptiness itself, I can relax deeply at any moment. The source of my being, once lingering in the background, now emerges clearly at the forefront. Groningen, 12/7/2025

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