top of page

【フローニンゲンからの便り】17806-17809:2025年12月3日(水)


ree

⭐️心の成長について一緒に学び、心の成長の実現に向かって一緒に実践していくコミュニティ「加藤ゼミナール─ 大人のための探究と実践の週末大学院 ─」も毎週土曜日に開講しております。


タイトル一覧

17806

解脱後

17807

今朝方の夢

17808

今朝方の夢の振り返り

17809

サウンドホールの真上を避けること

17806. 解脱後 

                                   

輪廻から解脱した後に何があるのかという問いは、仏教思想における最も根源的で難解なテーマである。この問いに対して、唯識と華厳は異なる語彙を用いながらも、最終的には深く共鳴する一つの境地を指し示しているように思われる。それは、一切の煩悩や妄念の輪廻構造を超え、主体と客体の二分が消え去り、存在がそのまま「真如」「法界」として輝き出すという状態である。まず、唯識から見れば、輪廻とは「阿頼耶識に蓄積された種子が不断に生起すること」によって成立する現象である。八識構造は、主体と客体を二分し、妄念を生み、世界を“外界”として投影する。したがって解脱とは、この八識の流れが変容し、四智へと転換されることである。すなわち、阿頼耶識は「大円鏡智」となり、世界を無限の鏡として等しく映し返す純粋な明晰性となる。末那識は「平等性智」となり、他者と自己の差別を超え、一切が平等であると悟る。第六識は「妙観察智」となり、現象の縁起的な流れをありのままに観じ、最初の五識は「成所作智」となり、自在に世界と関わる働きを持つ。つまり解脱後とは、八識が淀みなく智慧の流れとなり、外界内界の二分がほどけ、表象の世界が「自心の現れ」として完全に透明化する境地である。ただし、ここで重要なのは、この状態が「世界の消滅」ではないという点である。唯識は、現象世界を否定するのではなく、妄想としての投影を否定する。つまり、解脱後の世界は同じ世界でありながら、そこには“つくりものの自己”も“外界への執着”もなく、起こるすべての事象は大円鏡智の鏡面にたゆたう光景として映るにすぎない。これが唯識における解脱後の在り方である。一方、華厳はより壮大な宇宙論をもってこの境地を描き出す。華厳において輪廻とは、自己を一つの孤立した存在として誤認し、事物を分断された個物として見る“迷いの視野”から生じる現象である。これが破れたとき、世界は「法界縁起」としてその真相をあらわす。すなわち、すべての事物は相互に浸透し合い、限りない関係性の網目として無碍に展開している。これを「事事無碍法界」と呼ぶ。解脱後の世界は、この法界がそのまま経験される状態である。そこには、主体と客体の境がなく、相互の隔てがなく、あらゆるものがあらゆるものに作用しながら同時に存在する。例えば、華厳の“インドラの網”の譬喩では、網目の一つひとつの宝珠が互いを映し、無限の世界がそこに輝く。この比喩は、解脱とは宇宙全体の透明性が回復し、自他世界が一つの相互反映として体験される境地であることを示している。唯識が主体の心の透明化を重視するのに対し、華厳は主体と世界が本来一つの巨大な織物であるという全体性を強調する。しかし両者は最終的に同じ地点――真如・法性――へと収斂する。唯識は「心が真如を覆う曇りを払う」道を描き、華厳は「世界全体が本来真如として輝いていた」ことを示す。総合すると、輪廻を離れた後にあるのは、“何もない”虚無ではなく、“すべてがあるが、執着がない”という境地である。世界はそのまま在り続けるが、その見え方が根本的に変わる。主体は透明化し、世界は無碍となり、自分の存在は限りない相互連関の中で自在に響き合う。すなわち解脱とは、「孤立した生存の物語が終わり、宇宙全体の響きの中に自分が位置づけられ直す」ような体験であると言えるであろう。そのようなことを考えていた。フローニンゲン:2025/12/3(水)05:36


17807. 今朝方の夢

  

今朝方は夢の中で、高校時代に住んでいた社宅のアパートの中にいた。どうやら旅を終えて帰って来たばかりのようで、その日は早く就寝しようと思った。英語と数学の試験が迫っていることもあり、明日の朝から勉強を開始しようと思いながら就寝した。翌朝目覚めてみると、数人の友人に部屋を貸していることを思い出し、彼らは両親と同じくまだ寝ているようだった。昨日から何も食べておらず、起きてすぐに腹が減っていることを実感したので、朝食を作ることにした。ダイニングに行くと、昨夜誰かがご飯を食べた後の皿が三枚ほど残っていたので流しに持って行くことにした。それらの皿を洗う前に、昨日に乾燥させていた食器類を片付けることにした。結構な数があり、全て収納できるかわからず、またそもそもどの食器をどこに片付ければいいのかわからなかったので、それは母に任せることにし、とりあえず洗ったものと混ざらないように別の場所に一箇所にまとめておくことにした。皿を洗って料理を作ろうとしたら、後ろのテーブル席で前職時代のある女性のメンバーの方が子供と一緒にご飯を食べていたので驚いた。すぐに挨拶したところ、彼女も立ち上がって挨拶を返した。そして彼女がふと、昨夜目覚めて水を飲もうとした時に、寝室から母の寝言が聞こえたとのことだった。何やら、「ようやく花が届いて嬉しい」と述べていたらしい。そう言えば母は以前もそのような寝言を述べていたなと思い出しながら微笑ましく思った。すると、朝食を食べたいと思っていた気持ちが消え、すぐさま勉強に取り掛かることにした。早朝の時間はやはりゴールデンタイムで、頭が冴えており、夕方以降の何倍もの集中力で勉強に取り組むことができた。朝の時間をどれだけ有効に活用できるかが人生の質と充実度、そして満足度を決めると改めて思った。フローニンゲン:2025/12/3(水)05:46


17808. 今朝方の夢の振り返り   

 

今朝方の夢の中で自分は、高校時代に暮らしていた社宅のアパートに帰還していた。そこはかつての生活空間でありながら、すでに通り過ぎた時間の層を含んでいるため、懐かしさと更新の気配が同居していたように思われる。旅を終えて帰ったという導入は、自分がどこか長い内的探求を区切り、新たな段階に入ろうとしていることを象徴している可能性がある。就寝前に翌朝の勉強を意識していた点には、過去と未来が同じ空間に重なり、自己の内で未完了の課題と新たな志向が同時に動いている様相が読み取れる。翌朝、友人たちがまだ眠っている姿に気づいた時、自分の生活空間が他者に開かれており、過去の人間関係が再び場面に浮上しているように感じられた。この「友人を部屋に貸している」という構図は、内的世界における複数の自我状態、あるいは発達過程で関わってきた他者の記憶が、今なお自分の中に生きていることの象徴とも解釈できる。両親まで眠っているという描写は、自分の中の「基層にある価値観」や「長く続く家族的影響」が静かに背景で休眠している状態を表しているのかもしれない。空腹を覚え朝食を作ろうとすると、昨夜の皿が三枚残されていた光景が現れた。この三枚という数は、過去・現在・未来の三期、あるいは身体・感情・思考の三機能の象徴として現れた可能性がある。洗う前に乾燥させていた食器をどう片付けたら良いかわからず、母に任せようと思った点には、自己の成熟段階における「まだ扱いきれない領域」を自覚し、それを大いなる庇護的原理へ委ねる態度が反映されているようである。乾かされたままの食器は「すでに学び終えているのにまだ統合されていないスキル」の象徴だとも考えられる。どこに片付けるべきかわからなかったという感覚は、自分が新しい生活・新しい段階へ移行する際に生じる「秩序の再編成前の混沌」を示唆している可能性が高い。料理を作ろうとした瞬間、前職の女性メンバーが子どもと食事をしている光景が現れたことには、過去の職業的アイデンティティと、未来に向けた新しい創造性(子ども)の両方が同時に表れたように思える。彼女との再会は、自分が今後の進路や研究の中で、これまで培ってきた職業的技能や人間関係が再び重要な意味を持ち始めていることの象徴かもしれない。母の寝言に関する話題――「ようやく花が届いて嬉しい」という言葉――は印象的である。この「花」は、成果、祝福、恩寵、あるいは内的開花の象徴として解釈できる。母の口を通して語られた点には、家系的連続性の中で自分がようやく何かを咲かせようとしている状況が投影されている可能性がある。以前にも同じ寝言を聞いた記憶が夢の中で甦ったことは、自分の深層心理が繰り返し「開花」モチーフを提示していることを示唆している。その瞬間、自分は朝食への欲求を忘れ、すぐに勉強へ移行した。この切り替えは、日常的欲求よりも精神的・知的成長を優先させる自分の姿勢を象徴しているようであり、夢が内的な優先順位づけを明らかにしたとも言える。早朝をゴールデンタイムとみなす自覚は、現実の生活態度が夢の中で強化されて表現されたもので、自分が今後もこの時間帯に人生の深い充実を見いだすであろうことを示しているように思われる。総じてこの夢は、自分が過去を総括しながら未来へと向かう節目に立ち、内的秩序の再編、知的活動の深化、そして人生の開花に向けた準備が整いつつあることを告げているようである。人生的な意味としては、自分が「次の段階へ進む準備が整ったこと」、そして「その基盤はすでに内側で静かに育ってきたこと」を示しているのではないかと推測される。フローニンゲン:2025/12/3(水)07:32


17809. サウンドホールの真上を避けること

                                

クラシックギターの音色は、弦そのものが振動することで生まれるだけではなく、その振動がトップ板(表板)を介してギター全体に広がると同時に、内部の空気振動がサウンドホールから放射されることで形成される。したがって、演奏者が弦に触れる位置は音色・音量・倍音構造に決定的な影響を与える。一般に「サウンドホールの真上で弾かない方がよい」と言われる理由は、この音響構造と深く関係している。第一に、サウンドホールはギター内部の空気振動が最も強く出入りする部分であり、この場所の真上で弦を弾くと、弦の自由な振動が空気の流れに吸収されてしまう可能性が高い。空気の出入りが集中する部分は「振動の節」と「腹」が複雑に交差するため、弦のエネルギーが適切にトップ板へ伝わらず、結果として音量が落ちたり、アタックがぼやけたりすることがある。クラシックギターは本来、表板の広い面積で振動を受け止め、豊かな響きを生むように設計されているが、ホール真上で弾くと、この構造的メリットが損なわれると言える。第二に、サウンドホール上は倍音が極端に減衰する傾向にある。弦の振動には基音だけでなく豊富な高次倍音が含まれており、これらが音色の輝き、深み、透明度を決定する。しかしホールの上は内部空間の振動と干渉しやすいため、一部の倍音がキャンセルされたり、逆に過剰に突出して音が生々しく硬く聴こえたりすることがある。とりわけクラシックギターの音色は、指先が作る微妙なニュアンスによって成立するため、倍音構造が不均衡になる場所で弾くと、本来の表現力が制限されてしまう。第三に、演奏技術の観点からもサウンドホール上は安定しづらい。右手がホール近くにあると、弦のテンションが最も柔らかい部分に触れることになり、タッチの精度が下がりやすい。クラシックギターは、弦と指の角度・速度・接触面積によって音色を精密にコントロールする楽器であるが、ホール付近は弦が非常に柔らかく動くため、コントロールの難度が上がる。特にアポヤンドでは指が弦を押し出す際の固さが得られにくく、ピッキングの安定性が損なわれる。第四に、表現上の理由として、クラシックギターは演奏位置によって多様な音色を作ることが特徴である。サウンドホールの真上は、音色が均質で単調になりやすく、ティンバル(音色の位置変化)による表情の幅が狭まる。一般的に、指板寄り(サウンドホールの左寄り)は暖かく丸い音が得られ、駒寄りは鋭く明瞭な音が得られる。この音色のレンジを自在に扱えることがクラシックギターの魅力だが、ホール真上はその中間に位置するものの“最適解”とは言い難く、音色の個性がぼやける傾向がある。つまり、ホール上は“どっちつかず”の音色領域であり、演奏者が求める色彩が最も得られにくい場所でもある。第五に、楽器の構造的観点からもホール上は避ける方が良い。サウンドホールはトップ板の中で強度が最も弱い部分であり、楽器としては補強が施されていても周囲の板の振動が過敏に反応する。そこで強いタッチや連続アタックを行うと、トップ板の響きが局所的に偏り、ギター全体の鳴りが損なわれる可能性がある。長期的にはトップ板にストレスが集中し、楽器の寿命にも影響が出ると考えられる。総合すると、サウンドホールの真上という位置は、音響的にも技術的にも、そして音楽的表現としても“最適”とは言えない。クラシックギターの本来の美しい響きは、ホール左寄りの指板側、あるいはホール右寄りの駒側を中心に、タッチの位置を微妙に変化させることで生まれる。サウンドホールの真上を避けるという助言は、単なる慣習ではなく、楽器の構造と音響の深い理解に基づいた伝統的知恵であると言えるであろう。フローニンゲン:2025/12/3(水)14:13


Today’s Letter

The more I devote myself to playing the classical guitar, the more my mind becomes like a mirror. Everything arises and fades like sounds within my mental sphere. Groningen, 12/3/2025

 
 
 

コメント


bottom of page