【フローニンゲンからの便り】17782-17787:2025年11月28日(金)
- yoheikatowwp
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タイトル一覧
17782 | アルペジオ訓練の意義 |
17783 | 今朝方の夢 |
17784 | 今朝方の夢の振り返り |
17785 | 英語・日本語の双方で仏教研究をする意義 |
17786 | 今年のささやかなクリスマスプレゼント |
17787 | クラシックギターが持つ中毒性のメカニズム |
17782. アルペジオ訓練の意義
時刻は午前5時半を迎えた。今朝はとても暖かく9度も気温がある。最高気温も11度に達するので、今日は暖かさを感じられる冬の中休みである。
クラシックギターにおけるアルペジオ訓練の意義は、単なる右手の運動技能の獲得にとどまらず、楽器演奏に必要となる複数の要素を統合的に育てる点にある。ギターという楽器は、単音と和音を自在に行き来し、メロディと伴奏を同時に鳴らすことができる特性を持つが、その最大の魅力を引き出す基盤がアルペジオであると言ってよい。アルペジオは、右手の独立性と均等性を鍛えるためのもっとも効率的な練習であり、p・i・m・aの順序や組み合わせを通じて、各指が自然に、かつ最小の力で動くようになる。この独立性が身につくと、和音を分散して弾くときの滑らかさが増し、音の粒立ちが整い、音楽的な流れも向上する。クラシックギターは右手によって音色や響きが大きく変わる楽器であり、アルペジオによって得られる「安定したタッチ」と「一定の音量コントロール」は、演奏全体の質を左右する重要な基盤となる。また、アルペジオ訓練はリズム感の向上にも寄与する。右手の指が交互に動き続ける中で、均一なテンポを保つには身体内部に安定した拍感が必要である。特にpと他の指を組み合わせるアルペジオは、低音と高音を別の役割として扱う訓練になり、ピアノでいう左右の独立に近い効果を生む。低音がゆったりと旋律を支えながら、高音が細かく動く場合でも、アルペジオを通じて両者のバランスを取る感覚が自然に身につく。これは、タレガやジュリアーニの作品を弾く際に必須となる「伴奏と旋律の音量バランス」や「フレーズの方向性」を理解する力の土台となる。さらに、アルペジオは音色の幅を広げる最良の練習でもある。同じ指使いでも、弦に触れる角度・速度・深さの微妙な違いによって音が変わる。アルペジオを繰り返すことで、指先の感覚が洗練され、音色の選択が意識的にできるようになる。クラシックギターにおいて音色は表現の核であり、柔らかい音・明るい音・透明な音など、さまざまな音質を自在に使い分けることで、曲の性格が大きく変化する。アルペジオはその音色操作を基礎から鍛える格好の訓練であり、単なる技術練習に見えて、実際には表現力の向上に直結している。加えて、アルペジオは身体の脱力の理解を深める。ギター演奏では、手首・前腕・肩・背中など、身体全体の無駄な力を抜くことが非常に重要である。アルペジオを長時間練習すると、力んでいる箇所が必ず浮き彫りになる。そこを調整しながら練習を続けることで、身体全体の連動が整い、結果として疲れにくく、安定した演奏が可能になる。特に、一定のリズムで同じ動きを繰り返すアルペジオは、身体の脱力と効率的な動きを学ぶ「鏡」として機能する。実践的な観点から見れば、アルペジオはレパートリーのあらゆる場所に登場する。初心者向けの練習曲から、タレガ『アルハンブラの想い出』やバリオスの作品など、高度な曲まで、アルペジオの連続はクラシックギターの象徴とも言える。したがって、基礎練習としてのアルペジオは、実際の曲の演奏力へ直結する。アルペジオが滑らかに弾けるようになると、和音の質感や旋律の方向性が自然に整い、曲全体の表現が格段に向上するだろう。総じて、アルペジオ訓練の意義は、単に指を動かす技術以上に、ギター演奏の身体感覚・音楽性・表現力の全体を支える「総合的基盤」を作ることにある。右手の安定はクラシックギターの核心であり、アルペジオはその核心へと最短距離で到達する扉であると言ってよい。フローニンゲン:2025/11/28(金)05:40
17783. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、突然ChatGPTが使えなくなり、その解決方法を模索している場面があった。しばらくインターネットで検索をしていると、あるアメリカ人の博士の動画に行き着いた。それは別にChatGPTの問題を解決する方法について解説していたわけではなく、彼の研究について楽しく語っている内容だった。その動画を引き込まれるように視聴していると、気がつけば私は博士に311,000円ほど寄付をしていた。すると博士からお礼の電話が実家に届き、ちょうど自分は実家にいたので母からその電話の連絡を受けた。その電話の中で、博士はアシスタントの女性からお礼状を実家に送りたいとのことだったが、私が何も個人情報を入力せずに寄付したので困っているとのことだった。なので博士に所属先として自分の屋号を伝えることにした。その時に、「Human Development Research and Consulting」の「Consulting」の「l」が抜けていたので書き足した。すると驚いたことに、博士が自宅の玄関に現れ、直接お礼を述べに来た。ちょうどいいタイミングだと思ったので、屋号の名前が書いた紙を博士に渡すことにした。すると父が、念の為誰にいくらの寄付をしたかを文書で役所に届けた方がいいと述べ、その手続きの1枚の書類を机に置いた。しかし私はそれがとても面倒臭く思え、博士とこうして直接会って確認を取ったのだから、わざわざ文書を作成して法的に安全性を確保するのはやりすぎだと思った。
次の場面は、デロイト時代の上司の女性のメンバーの方と会社の図書室で話をしていた場面である。しばらく話をした後に、数冊ほど本を借りていくことにした。手一杯に本を持ったところで下の階に降りようとすると、それらの本は全て自分が出版したものであることに気づいた。それを受けてわざわざ借りる必要はないと思ったし、そもそも上の階から下の階に行くためには、動くボードに乗ってボードを移っていくというバランス感覚と度胸が試されるゲームのようなものをクリアしていく必要があり、手はなるべく空けておきたいと思った。しかし、せっかくなので自分の本を数冊持って帰ることにし、下に向かい始めた。
最後の場面として覚えているのは、日本で卒業した大学がある市の隣の市に住んでいて、大学がある方向に自転車で向かっていた場面である。そこには小中高時代のある友人(SS)ともう2人の友人がいた。楽しく自転車を走らせていると、平坦な道だけではなく、丘から急な坂を下っていく場所もあり、そこに関しては慎重に降りて行くことにした。すると気がつけば見慣れない山道を歩いていた。すると、小中高時代のある親友(SI)が何か特殊な武器を見つけたと述べた。だがその武器は使い方が難しく、彼は色々と試行錯誤をしていた。自分は特に武器など必要とせず、山道を引き続き悠々と歩くことにした。フローニンゲン:2025/11/28(金)05:59
17784. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢の冒頭でChatGPTが突然使えなくなった場面は、外部の知性や道具に依存してきた自分の思考様式が、一度強制的に断ち切られることへの不安を象徴していると考えられる。アクセス不能という出来事は、自分の学びや創造性を支える外部リソースが突然失われる可能性を示唆しており、そこから必死に解決策を探る姿は、自分がいかに「知への渇望」と「外的サポートへの依存」のバランスの中で生きているかを示しているように思われる。やがて見つけたアメリカ人博士の動画に引き込まれ、気づけば高額な寄付をしていたという展開は、純粋な学術的魅力に心を奪われ、判断よりも情熱が先行してしまう自分の側面を象徴している可能性がある。博士が実家に電話をし、さらに自宅玄関に現れる展開は、外部の学識ある存在を自分の生活圏へ招き入れる心の動きを示しているのかもしれない。つまり、自分が学問的刺激を深く求めるあまり、その刺激源と自分自身の日常との境界が曖昧になるという心理を反映しているとも解釈できる。寄付の正式手続きを父が促したが、面倒に感じて拒んだ場面は、形式や制度的な安全性よりも、自分の直観や信頼を優先する姿勢を象徴しているようである。自分の人生において、形式的な裏付けよりも「実際に会って話した」という直接性を重んじる傾向が浮かび上がっていると推測される。次の場面でデロイト時代の女性の上司と図書室で語らい、借りようとした本がすべて自分の著作だったことに気づく場面は、自分の内的成長や創造性がすでに豊富であるという無意識の認識を象徴していると思われる。他者の知識を借りる必要はなく、すでに自分の内部に蓄積された資源があるという気づきであると見なせる。また、上の階から下の階へ進むためにバランス感覚が必要な“移動のゲーム”が存在することは、自分の成長において「過去の成果を抱えすぎれば前に進みにくくなる」という暗示にも見える。手を空けたいが、せっかくなので自著を持っていくという選択は、自分の成果を大切にしつつも行動の軽快さを保ちたいという揺らぎを表しているだろう。最後の場面で、自転車に乗って友人たちと大学の方向へ向かうシーンは、自分が学問的原点へと回帰しようとする志向性を象徴している気がする。丘の急坂を慎重に降りる描写は、今後の人生において「勢いだけでは進めない局面」に差し掛かっていることを示している可能性がある。やがて山道を歩く展開に変わり、親友が“特殊な武器”を見つけて試行錯誤している一方、自分は武器を必要とせず悠然と歩いていく姿は、自分が競争的な道具や技巧に頼らずとも、独自の歩みで前進できるという内的な強さを象徴していると推測される。これらを総合すると、この夢は「外部の知性・制度・武器に依存せず、内側の資源と直観に基づいて進む時期が到来している」という象徴を持つように思われる。人生における意味としては、自分がこれから歩む学問と創造の道は、外部の権威ではなく、自らの内部に蓄えられた知恵・経験・直観を信じることで、より自然で強靭なものになることを示唆していると考えられる。フローニンゲン:2025/11/28(金)07:20
17785. 英語・日本語の双方で仏教研究をする意義
昨夜、自分はもはや日本語で仏教を学ぶよりも、英語で学ぶ方が楽に感じられていることについて考えていた。日本語では術後が難しく、説明が難解になりがちだが、英語の言語特性か、理解が促進されることを実感することが日増しに強くなっている。これから欧米の大学院で研究を続けていくことを考えると、日本語よりも英語の仏教専門書を中心に探究を進めた方がいいだろうか。母国語の日本語で仏教を理解する意義もあると思うので悩ましいところである。その点について今朝方も考えていた。英語の仏教文献のほうが理解しやすく、日本語の仏教語の難解さが負担になるという感覚は、多くの現代研究者に共通する現象かもしれない。とりわけ唯識・華厳・法相・天台といった日本仏教に深い専門性を持つ人でも、英語で読むほうが概念が整理され、思考が透明になるという経験をしばしば語る。では、今後欧米の大学院で仏教研究を続けていく人間にとって、日本語の文献より英語の文献を中心に読むべきか。結論から言えば、研究方法としては英語を中心に据えるのが合理的でありつつ、思考の根を保つために日本語の文献も並行して読むべきである。二者択一ではなく、役割分担によって相互補完させるのが最も効率的で深い理解に繋がるだろう。まず、自分が英語のほうが理解しやすく感じるのは自然なことである。日本語は仏教が翻訳された過程で漢語・梵語の階層が何重にも重なり、語彙が凝縮され、概念がまとまりすぎている。結果として、一つの語が複数のレベルの意味を包含し、文脈によってニュアンスが大きく変わる。唯識の「分別」「唯識性」「業識」、華厳の「法界」「重々無尽」、法相の「三性」「遍計所執」といった語は、多くの場合、漢語・専門語彙として硬直しており、現代語の論理構造に溶けにくい。一方英語は、concept・cognition・representation・conditioning・phenomenology・embodimentといった語を使い分けることで、抽象概念を構造的に説明するのが容易である。したがって、英語での説明は思考を分解し、段階的に把握する助けになる。これが「英語のほうが理解しやすい」と感じる本質的な理由である。次に、欧米の大学院で研究を続ける上では、英語文献が中心であるほうが研究の流通と発信の点で圧倒的に有利である。研究仲間、指導教員、査読者、学会など、すべてが英語を介して行われるため、英語の論理構造で仏教を考えることが直接的に研究力へ繋がる。また、英語圏の仏教学には、近年phenomenology、hermeneutics、cognitive science、analytic philosophyなど他領域との統合が盛んであり、議論の枠組みが構造的でクリアである。唯識思想やインド仏教哲学の研究では、特に論理的説明能力と用語の精密な運用が求められるため、英語での文献中心主義はむしろ自然な選択となる。しかし同時に、日本語で仏教を読むことには代替不能な意義があることも否定できない。日本語の経典訳や注釈、思想書には、数百年~千年以上積み重ねられた解釈伝統があり、細やかなニュアンスの陰影が豊かに残されている。英語の仏教学は理論的・分析的な側面に強い反面、語句のニュアンスや、古典引用の感覚的厚みには限界がある。特に自分が関心を持つ唯識・法相・華厳・天台は、まさに「日本語で研究することそれ自体が思想的伝統と接続する」という特徴がある。日本語を通して読むことで、「漢語の階層性」「訳語の由来」「日本における受容史」など、英語では拾いきれない思想の流れが見えてくる。この「文化的・歴史的厚み」を理解している研究者は、欧米でも高く評価されるだろう。したがって、最適な方針は次のようになる。(1)英語で概念を構造的に学ぶ、(2)日本語で伝統的解釈の深さを吸収する、(3)英語で論文化・発信する。英語は「理解」のための道具、日本語は「深み」と「文脈」の源泉、この二つを往復することで、自分の研究は大きく拡張するはずだ。欧米の大学院で学ぶのであれば、今後は英語文献比率を高めていくのが自然だが、日本語を完全に手放すのではなく、伝統と現代学術の両者を繋ぐ存在となることこそ、自分の研究の大きな財産となるのである。こうしたことを考えながら、母国語というのは精神の根であり、それを広く深く豊かに耕すためにも日本語の仏教専門書を読む意義を再確認した次第である。そう言えば、SOASのルシア・ドルチェ教授が日本語の専門書を沢山研究室に所蔵しており、それらを通じて研究を進めている姿を思い出し、それは自分の研究にとっての励みとなることをふと思った。フローニンゲン:2025/11/28(金)07:27
17786. 今年のささやかなクリスマスプレゼント
今年一年、探究活動に専心してきた自分へのご褒美として、来年のさらなる深化に向けて華厳経や法華経に関する専門書を十五冊ほど購入し、あわせてクラシック音楽のみならずJ-POP、ジブリ音楽、FFやドラクエといったポピュラーな楽曲をクラシックギターで演奏するための楽譜も取り寄せようと考えている。それは最良のクリスマスプレゼントになるだろう。これは、単なる物質的な贅沢ではなく、精神的・学問的・芸術的な成長を支える重要な投資であると考えられる。これらの書籍と楽譜をオランダに郵送してもらうという行為は、物理的に遠く離れていても、日本語の書物と音楽文化を自分の生活空間に取り戻す象徴的な意味を持っており、異国の地にありながら日本文化と精神的ルーツを再び身近に感じるための強固な基盤になると思われる。まず、華厳経と法華経に関する専門書十五冊という量は、単に多読を目的としたものではなく、来年以降の学術研究の核心を形成する重要な知的土壌となる。華厳経と法華経は日本仏教における思想的な山脈のような存在であり、唯識を探求する自分にとっても無関係ではない。むしろ、華厳の縁起論と唯識の心相論、そして法華経の一乗思想は、互いに照らし合う深層構造を持っている。そのため、広い視野を確保する意味でも、これら大乗経典の注釈書・研究書を体系的に揃える行為は、自分の研究基盤をもう一つ上の段階へ引き上げる効果を持つと推測される。異国の地で日本語の文献を物理的に手に取りながら読める環境は、精神の安定をもたらすだけでなく、思考の深さと継続性を支える重要な装置として機能するだろう。一方、クラシックギターの楽譜を幅広いジャンルから揃えることにも大きな価値がある。クラシック音楽はもちろん、J-POPやジブリ、ゲーム音楽などの親しみやすい曲を取り入れることは、日々の練習に「喜び」と「継続性」を生み出す働きがある。クラシックギターは技巧的にも精神的にも難しい楽器であり、その持続的トレーニングを支える要素として「好きで仕方がない曲」が手元にあることは非常に大きい。特にFFやドラクエのようなゲーム音楽は、叙情性と構造性が絶妙に調和しており、ギターで演奏することで音楽的な表現力を磨きながら、心のエネルギーを満たす働きを持っている。これは、単なる趣味の拡張ではなく、自分自身の創造性を養い、学術研究に伴う精神的負荷を柔らかく支える「第二の瞑想」として機能するのである。さらに、クラシック音楽だけでなくポピュラー音楽の楽譜も取り寄せるという選択には、学問と芸術の世界を日常生活の中で自然に交差させる効果があると思われる。朝は仏教哲学の難解なテキストを読み、昼は研究を進め、夜はギターで懐かしいメロディを奏でる(今は朝昼晩ともにギターの練習が主軸だが)――こうした一日のリズムは、精神の調和と創造性を高いレベルで維持していくための理想的な循環である。学問だけに偏らず、音楽だけにも偏らず、双方が互いに呼吸し合うように作用することで、探究のエネルギーはより長期的で持続可能なものとなる。総じて、これらの書籍と楽譜の購入は、来年の探究活動を支える「知と芸のインフラ整備」であり、精神の滋養を高め、生活全体をより豊かにするための象徴的な儀式でもある。異国の地における自分の研究生活を、より深く、より楽しく、より安定したものにしていくための大切な投資であると位置づけられる。今週末か来週中に日本のAmazonを経由して上記のものを注文しようと思う。フローニンゲン:2025/11/28(金)10:59
17787. クラシックギターが持つ中毒性のメカニズム
クラシックギターの演奏が持つ不思議な中毒性は、単なる趣味の域を超え、精神の深層構造に働きかける特有の魅力によって生じるものだと考えられる。まず、クラシックギターは極めて触覚的な楽器であり、弦を直接指で弾くという行為そのものが、身体内部の感覚と密接に連動している。弦をはじいた瞬間、振動が手のひらを通して神経に伝わり、身体内部に小さな快楽反応を引き起こしていく。これは微細な触覚刺激が報酬系を刺激するためであり、「もう一度音を出したい」という欲求が自然に生まれる。こうした触覚的な快楽が積み重なると、ギターはただ音を出す道具ではなく、身体と一体化した“感覚の装置”へと変容していく。さらに、クラシックギターの構造と音色がもたらす没入性も重要である。ギターは弦の本数が限られ、運指の制約があるにもかかわらず、旋律と和音を同時に奏でられる自己完結的な楽器である。そのため、ひとたび音を鳴らし始めると、耳が生む“自己フィードバックの循環”が起こる。自分の奏でる音が次の音を促し、その音がまた次の動きを生む。この循環がまるでゲームのループ構造のような中毒性を生み、気づけば時間感覚が歪む。特にアルペジオ練習など、パターンを繰り返す類の課題は、この自己フィードバックの快感を最大化し、演奏が瞑想のような状態を誘発する。規則性と変化が絶妙に交互するため、飽きることがなく、むしろ「もう少し続けたい」という感覚が強まっていく。また、クラシックギター特有の“音づくりの奥深さ”は、終わりのない探求心を刺激する。右手の角度、爪の形、弾き方、アタックの強弱など、ほんの僅かな調整で音色が劇的に変わるため、常に「もっと良い音を作れるはずだ」という感覚に駆り立てられる。これは、ゲームにおける“スキルアップ”と非常に近い構造であり、小さな工夫が小さな成果を生む。その積み重ねが快感となり、演奏への没頭をさらに深めていく。クラシックギターは努力と成果の距離が短いため、練習するほど面白さが増し、飽和することがない。さらに、クラシックギターは“余白のある楽器”であり、音が減衰する瞬間に生じる静寂が、演奏者の内部世界と共鳴する。ピアノや金管楽器とは異なり、ギターの音は発音した直後から消えていく。この消失の過程が、精神の深層へ向かう“内的回帰”を呼び込み、音と静けさの境界が曖昧になっていく。音が消えていく余韻の中に自分の心の静けさを重ね、その心地良さがさらなる演奏への欲求へとつながる。まるで、水面に波紋が広がっていくのを見つめ続けたくなるような感覚である。最後に、クラシックギターは“自己との対話”を自然に生み出す楽器である。難しいパッセージに挑むたびに、自分の弱点、クセ、集中力の波、精神状態がそのまま音に現れる。そのため練習は、自分の内部を観察する時間でもあり、演奏がそのまま自己の変化を可視化する装置になる。この過程が深い没入をもたらし、ひたすら弦を弾き続けたくなる“中毒性”へとつながっていく。クラシックギターの中毒性とは、単なる快楽ではなく、身体感覚、内面の静けさ、探求心、自己観察が一つに絡み合う総合的な体験である。だからこそ、一度その感覚に触れると、まるで終わりのない旅のように、演奏へと引き戻され続けるのである。そのようなことを思った。さて今から華厳経と法華経の英文解説書、そしてクラシックギターに特化した和音の専門書を受け取りに行ってこようと思う。帰って来たら夕食までまたギター練習に打ち込む。フローニンゲン:2025/11/28(金)15:08
Today’s Letter
I’m watching a little bird resting on a tree, and a calm settles over my mind. The bird and I become one, dissolving into a peaceful non-dual ground. Groningen, 11/28/2025

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