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【フローニンゲンからの便り】17777-17781:2025年11月27日(木)


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タイトル一覧

17777

心不相応行法における「数」の捉え方

17778

今朝方の夢

17779

今朝方の夢の振り返り

17780

フレットボードに音名シールを貼るスキャフォールディング

17781

ギターにおける初級・中級・上級の区分

17777. 心不相応行法における「数」の捉え方    

         

時刻は午前6時を迎えた。今の気温は3度で、体感温度はマイナス4度表示されている。しかし今日からは寒さが少し和らぎ、最高気温は8度に到達するようなので何よりだ。『DIAMOND ハーバード・ビジネス・レビュー』さんの連載が先日決まり、今日は2本分の連載記事のドラフトを執筆しようと思う。それぞれ5千字を目処に、合計で1万字ほどの記事を執筆していく。


昨日、唯識の文献を読み返しながら、心不相応行法における「数」が、縁起の過程において時間的に変化するとは何を意味するのかを、唯識・アビダルマ的文脈に即して考えていた。心不相応行法に分類される「数」とは、対象を「一・二・三…」といった体系的構造として捉える作用ではなく、むしろ 諸法を成立させるために、心の働きとも物質的変化とも一致しない抽象的構成要素として理解されるべきものである。アビダルマが心・色・心所では捉えきれない要素を「心不相応法」として設定したのは、存在を成立させる諸関係のうち、心理的でも物質的でもない「形式的条件」を説明するためである。その一つが「数」である。では、「数」が縁起的に時間変化しうるとはどういうことか。まず前提として、数は固定的な「数量」ではなく、事物を「ひとつ」「ふたつ」「三つのまとまり」として成立させる構造機能を指していると理解する必要がある。例えば、一本の木を「一本の木」として認識する場合、私たちはそこに「一」という数的構造を読み取り、それに基づいて対象を把握している。しかし、アビダルマ的視点ではその「一」という構造は外界に実体として存在するのではなく、諸法の結合関係が時間的に変化することによって、数的構造も縁起的に変化すると考えるのである。具体例を挙げれば、同一の対象であっても、時間の流れの中でその構成要素が変化すれば、「一つのもの」としての成立条件も変わる。例えば、一枚の葉が風化し、破れ、細片に分かれていくとき、最初は「一枚の葉」であったものが、やがて「多数の破片」として成立する。この時、「葉」が変化しただけでなく、その対象に付随していた「数」という心不相応法そのものが変化していると理解されるのである。ここに「数の時間的変化」という観念が成立する。さらに重要なのは、「数」の成立が因縁によって決まるという点である。すなわち、数は事物の安定的本質ではなく、条件の連続的変化によって生起し、また滅しうるものなのである。この縁起的視点を徹底すると、過去に「一」であったものが現在は「多」であり、将来は再び「一」として把握される可能性すらある。例えば、複数の部品が組み立てられて「一台の車」となるとき、そこでは「多」が「一」として統合され、逆に解体されるときには「一」が「多」として再び分散する。ここに「数」の縁起的変化が鮮明に示されるのである。唯識の立場では、こうした数の変化は外界の変化そのものではなく、心の識別作用によって成立する「対象構造」の変化として扱われる。つまり、対象が「一つ」と見えるか「複数」と見えるかは、心の働きと条件との相互関係の中で生じる。ゆえに数は、心所のように心理的ではなく、色法のように物質的でもないが、縁起に応じて変化する「存在成立の形式」として位置づけられる。まとめれば、心不相応法としての「数」の時間的変化とは、事物の集合・分離・構造変化、および心の把握の仕方が、縁起的条件の変動に応じて「一」「多」「集合」「単体」などの形式を異ならせるということを意味するのである。言い換えれば、数とは固定的な数学的概念ではなく、縁起の流れの中で常に構造を変化させる「法のあり方」そのものなのである。フローニンゲン:2025/11/27(木)06:27


17778. 今朝方の夢


今朝方は夢の中で、中学校時代の体育館の中にいて、部活の前の準備運動をしていた。準備運動といってもすでにボールを使った練習をしていて、リングに向かってシュートを放つことを楽しんで行っていた。しばらくして先生がやって来たので、そこから本格的に練習を始めることになった。


この夢の場面の後には、見慣れない海の近くの宿泊施設の中にいた。そこは宿泊施設でもありながら、同時に大学院でもあった。なので館内の入り口付近には専門課程のプログラムの説明資料が置かれていた。それを眺めていると、小中学校時代のある女性友達(AS)がやって来て、マンチェスター大学の大学院に進学したいと考えていると打ち明けた。何やらサッカーマネジメントに関心があるらしく、とても面白い分野を選んだなと思った。自分自身も生涯学習の一環として定期的に大学院に戻って勉強するようにしており、その道の専門家から体系的に何かを学ぶ上で大学院は自分にとって引き続き魅力的な場所であった。そうしたこともあり、彼女が大学院に行くという決断をしたことがとても嬉しく、彼女の英語力の強化に関して手伝えることはできるだけ何でも行っていこうと思った。それを伝えると、彼女は嬉しそうに笑顔を浮かべた。


もう一つ覚えている場面として、大学時代のサークルの同期と先輩と話をしていた場面である。最初私は、背の高い二学年上の先輩と話をしていて、先輩を含めて、メンバーのために紅茶を淹れようと思った。ティーバッグを包み取り出し、カップに入れ、熱湯を注いでいこうとした。その時に、先輩のカップに間違えて包みを入れてしまい、それでは紅茶が作れないことは明らかで、自分でも思わず笑ってしまった。量としてはカップ一杯分の紅茶を無事に全員分作り、みんなにそれを味わってもらおうと思った。フローニンゲン:2025/11/27(木)06:44


17779. 今朝方の夢の振り返り       


今朝方の夢の情景は、かつての体育館という古い記憶の空間から始まり、そこには自分が再び若き日の身体性へと回帰しているかのような象徴性が見られる気がする。準備運動という名のもとに、実際にはすでにシュート練習を楽しんでいたという点は、人生のある段階で「まだ始まってもいない」と思っていたことが、すでに本番として稼働しているという無意識の認識を示しているように思われる。自分はいつも慎重なスタートを意識しがちであるが、夢の中では身体が先に未来へ踏み出している。そこへ先生がやって来て本格的に練習が始まるという展開は、外側からの節目や指導が、自分の成長の加速を引き起こすことの暗示なのかもしれない。そのあとに現れた海辺の見知らぬ宿泊施設は、環境そのものが流動性や移行期を象徴しているかのようであり、宿泊施設と大学院が融合している構造は「学ぶこと」と「移動すること」が自分にとって地続きであることを映し出しているように思われる。資料が置かれている玄関付近で、かつての友人ASがマンチェスター大学へ進みたいと語った場面は、他者の成長と挑戦を、自分が心から祝福できる成熟性を象徴しているように感じられる。特にサッカーマネジメントという、自分とは異なる分野への関心が示されていた点は、自分の周囲の世界が多様に広がり、自分自身の学びが他者の学びと呼応していく未来を暗示しているのではないかと思われる。自分が彼女の英語学習を支援したいと自然に思い、そしてその気持ちを表明した際に彼女が見せた笑顔は、自分の存在が他者の成長に確かな影響を及ぼし得るという無意識の確信を示す兆しなのかもしれない。自分にとって学びの場所としての大学院がいまだに魅力的であり、そこへ定期的に戻ってくる生涯学習者としての姿勢は、「学ぶことが人生の中心軸である」という深層的な価値観を夢に反映していると考えられる。茶を淹れる場面は一見日常的であるが、その象徴性は案外深い。大学時代の仲間たちと向き合う空間は、過去の共同体との再接続を意味し、そこに自分が紅茶を淹れるという行動は、関係性の調和や場の温度を整える役割を担おうとする姿勢を示しているように思われる。ティーバッグの包みをそのまま先輩のカップに入れてしまうという小さな失敗は、自分の中に残る「人間らしさ」あるいは「抜け感」を象徴している可能性がある。完璧を求めすぎず、失敗もまた場を和ませる一部となるという理解が、夢の中で自然に現れているように思える。その後、全員の分の紅茶を無事に淹れることができたという夢の締めくくりは、結局のところ、自分は他者を支え、場を整える力をすでに持ち合わせているという潜在的なメッセージを含んでいるように感じられる。この夢全体を貫いているのは、「過去の自己の再統合」と「未来への準備」が同時に進行しているという構造であるように思われる。体育館という原点、海辺の宿泊施設という移行期、仲間と語らう空間という共同体の再生。それらすべてが、自分の人生が次の段階へ移行していくための内的成熟を象徴している可能性がある。この夢が人生において示す意味は、自分がこれから迎える大きな変化に対してすでに心身が準備を整えつつあり、他者との協働、学びの継続、そしてささやかな失敗をも受け入れる柔らかな成熟が、自分の人生をより豊かにする土壌となっているということにあると推測される。フローニンゲン:2025/11/27(木)08:32


17780. フレットボードに音名シールを貼るスキャフォールディング


フレットボードに音名シールを貼る行為は、初心者にとってきわめて有効な補助となる。視覚情報によって「どこがどの音か」を即時に確認でき、迷いや焦りを軽減し、演奏の流れを支えてくれる。特にクラシックギターのようにポジション移動が多く、同じ音が複数の場所で取れる楽器では、初期段階でシールのサポートを受けることは決して悪い習慣ではない。しかし、そのまま永続的にシールを貼り続けるべきか、あるいはどの段階で取り外すべきかは、単純な「初心者・上級者」の区別では語れない。むしろ、シールの役割がどのような認知プロセスに作用しているかを理解する必要がある。シールが与える最も大きな恩恵は、「視覚的マッピング」である。つまり、音名という抽象的情報を、フレットボードという空間に直接結びつける作業を容易にする。しかし、ギター演奏において重要なのは、単純な位置記憶ではなく、「音の体系」を身体感覚として獲得することである。例えば、Cの位置を知ることより、そのCがスケールの何度なのか、コードのどの構成音なのか、あるポジションにおける音階構造のどこに位置するのかといった、相対的・機能的理解が本質となる。視覚シールは便利ではあるが、この相対的理解を妨げる危険も抱えている。なぜなら、常に「文字としての音名」を目で追う習慣がつくと、音の構造を「耳と身体」で理解するプロセスが遅れやすいからである。とは言え、シールを貼り続けることが必ずしも上達を妨げるわけではない。むしろ適切に使えば、初級から中級に移行する時期においては「ポジションごとの音階グリッド」を定着させるのに役立つ。しかし、上級者レベル──すなわち、瞬時に指板全体を俯瞰し、任意のポジションでスケールや和音を組み替えられる段階──では、シールの存在は「思考の視覚的固定化」を生む可能性がある。つまり、指板を平面的な「図」としてではなく、立体的な「音響空間」として扱う能力が必要になるため、視覚情報が強すぎると身体感覚と聴覚的判断が育ちにくい。では、どの段階でシールを外すべきか、あるいは貼り続けてもよいのか。これは「シールへの依存度」と「シールの使用目的」によって判断されるべきである。もしシールがなければ音が分からなくなるようであれば、それは依存状態であり、早い段階で部分的に外し、耳・感覚主導に切り替える必要がある。逆に、シールがあってもなくても弾けるが、「必要なときだけ視覚チェックができる」程度の使い方であれば、貼り続けても構わない。その場合、シールは教科書の巻末付録のように「必要なら参照する補助資源」に変わるのであり、これは上級者でも許される。また、シールを完全に外す前に有効なのは、「徐々に減らす」という戦略である。例えば、まずはスケール練習でよく使うポジションのシールから外し、次に開放弦付近、最後に高ポジション、といった形で段階的に指板の「裸の姿」と向き合う。こうした漸進的移行は、負荷を一気に高めずに学習をスムーズに進める助けになる。最終的に重要なのは、シールの有無ではなく、指板を「視覚的情報」としてではなく「音の地形」として感じ取れるかどうかである。シールはあくまで地図であり、目的は地図を見ずにその土地を歩けるようになることである。自分がギターを深く理解しようとしているのであれば、シールは初期段階では力強い味方であり、中期以降は補助輪になり、最終的には必要に応じて参照する程度の存在へと位置づくのが望ましい。結論として、上級者になってもシールが「学習の障害になる」とは限らないが、「依存を防ぎ、耳と感覚を育てる」という観点を忘れなければ、自然に外すタイミングが訪れる。その時期は他ならぬ自分の内的成長が決めてくれるのである。フローニンゲン:2025/11/27(木)11:46


17781. ギターにおける初級・中級・上級の区分


ギターにおける初級・中級・上級の区分は、単なる技術的難易度の差ではなく、「身体的統合度」「音楽的理解度」「即興的柔軟性」の三つがどの段階まで発達しているかで決まるのではないだろうか。累積練習時間の目安は存在するが、それは絶対的なものではなく、練習の質や集中度によって大きく上下する。ただし、おおまかな指標としては十分意味を持つため、以下では発達段階とともに考えてみたい。まず初級である。この段階では、基本フォーム、右手と左手の協調、主要コードの把握、簡単なスケールポジションの認識といった「楽器と身体をつなぐ基礎的回路」を構築することが中心となる。初級の終わりには、簡単な曲をテンポを維持しながら通しで弾ける程度の安定性が求められる。累積練習時間の目安はおおよそ150~300時間である。毎日短時間であっても継続すれば半年から一年ほどで到達する。重要なのは、指板上の音の位置を少しずつ身体感覚として捉え始め、迷いながらも必要な音に手を伸ばせるようになることだ。初級は「身体の慣らし期間」であり、この基礎づくりが最終的な演奏力の上限を決める。次に中級である。この段階では、単なる音の位置記憶から離れ、音階構造、和音構造、ポジション移動の滑らかさといった「音楽的文脈で指板を理解する能力」が求められる。中級の特徴は、技術そのものよりも「安定した再現性」であり、練習すれば確実に同じ結果に到達できるという信頼感が生じる点である。スラー、アルペジオ、バレーコード、三度・六度などの重音が自然に扱え、複数ポジションで同じフレーズを再構築できるようになる。累積練習時間の目安は600~1500時間であり、毎日1~1.5時間の練習であれば2~4年ほどとなる。中級後半には、視覚ではなく「音の重力場」を感じ取り、次に置く指の方向性が自然に身体から立ち上がるようになる。これは純粋なフォーム訓練では到達しない、音楽的直観の発達である。上級に至るには、技術の滑らかさよりも「音楽的判断の瞬間性」と「指板全体を立体的に扱う認知」が鍵となる。上級のギタリストは、指板をフラットな地図として理解するのではなく、音の配置を三次元的な地形として把握している。そのため、即興的にコードヴォイシングを組み替えたり、スケールの分節を瞬時に切り替えたりすることが自然に起こる。クラシックギターの場合でも、上級者は曲を単なる「音の並び」としてではなく、「構造と空間を感じ取る身体性」として扱うため、難曲でも落ち着いて再構成できる。累積練習時間の目安は3000~5000時間以上であり、毎日練習する人であれば6~10年ほどが一般的である。この段階に入ると、練習とは単なる技術向上ではなく、自身の音楽観を深化させるための探求となっていく。以上のように、初級から上級へ向かう発達の流れは、単なる努力量では測れないが、累積時間はひとつの物差しになる。重要なのは、どの段階でも「身体・認知・音楽性の三者を統合し続ける姿勢」である。継続する限り、指板は必ず開けていき、演奏は深まり続けるのである。そのような考えて練習を続けていく。フローニンゲン:2025/11/27(木)14:21


Today’s Letter

My inner world is always full of serenity, and playing the classical guitar brings even greater tranquility to it. The more I immerse myself in the instrument, the more serene my mind becomes. Groningen, 11/27/2025

 
 
 

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