【フローニンゲンからの便り】17741-17746:2025年11月20日(木)
- yoheikatowwp
- 10 時間前
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タイトル一覧
17741 | 音への深い充足感を感じる体験 |
17742 | 今朝方の夢 |
17743 | 今朝方の夢の振り返り |
17744 | クラシックギターを通じた等持状態 |
17745 | 躍動する華厳の世界を体現するクラシックギターの演奏体験 |
17746 | 漢文読解の基礎の見直しのために |
17741. 音への深い充足感を感じる体験
時刻は午前4時半を迎えた。イギリス旅行から帰って来ても旅の前や滞在中と同じく午前4時に起床することができている。イギリスとオランダの1時間の時差も今のところは生活リズムに影響を与えていないようだ。昨日の移動中には随分と時間があったので、その時間でオックスフォード大学に提出する予定のライティングサンプルについてもドラフトを完成させることができた。それを受けて、今日からはギターの練習と仏教研究に明け暮れることができる。
早速昨日夕方に戻って来てから2時間ほどギターの練習をした。ギターを弾き始めた瞬間、まるで音に飢えていた自分の渇きを満たすような感覚が立ち上がった。この不思議な充足は、唯識と華厳という2つの大乗の視座を通して眺めると、単なる主観的感情ではなく、心の深層で起きている精密な働きによって生じている現象として理解できそうだ。音が心を潤すという体験は、心の構造と世界の構造が一瞬重なり合うときに生まれる、深い宗教的とも言える経験である。まず唯識の観点から見ると、音に対する「渇き」を生み出すのは心の深層に潜む種子である。阿頼耶識には、かつて経験した音楽の喜びや集中状態の記憶が無数に蓄えられており、その種子が時に「発動を求める」ような形で心の表面に浮き上がってくる。音に飢えているという感覚は、阿頼耶識に沈んでいた音楽体験の習気が、表層意識へと立ち上がり、「再び発現したい」と願う働きに他ならない。楽器を手に取った瞬間、指先が弦に触れ、最初の一音が鳴る。その一音が、阿頼耶識に蓄積された無数の音楽的習気を一気に喚起し、心の奥深くに格納されていた「音の種子」を連鎖的に刺激する。その結果、渇きを癒すような強い充足が湧き上がるのである。つまり、音は外からやってきたように見えて、実際には自分の心の深層が呼び覚ましているのであり、音そのものが「心の自己開示」として現れている。一方、華厳の視点から見れば、この音に対する渇きと充足は「法界の共鳴」として理解できる。華厳の教えでは、個々の現象は単独で存在するのではなく、すべてが相互に響き合い、相互浸透する巨大な網の目の中に置かれている。ギターの音は単なる物理的振動ではなく、身体、空間、時間、心の状態、過去の記憶、そして無数の縁によって生まれた「法界の一つの働き」にすぎない。音に対する渇きとは、法界の無数の縁の中で、自分の心が「まだ満たし切れていない共鳴の可能性」を感じている状態である。例えば、身体が音の振動を求め、心が響きの流れを求め、記憶が音の消滅の美しさを求めている。この多層的な欲求が、ひとつの「渇き」として統合される。ギターを弾き始めると、音が空間に広がり、身体に返り、心に染み込み、また音として外へ流れていく。この循環の中で、法界の網が一気に活性化し、自分という一点が世界全体と響き合う状態に入る。その瞬間、渇きは満たされ、心は深く潤う。また、華厳の「一即一切・一切即一」の思想から見ると、一音は単なる一音ではない。その一音には、自分がこれまで触れてきた音楽経験、身体の記憶、感情、風景、思索といった無数の縁が折り重なっており、ひとつの音の中に全世界が宿っている。だからこそ、自分はその一音によって「全体」へ触れたような充足を得る。これは、世界との調和によって心が満たされる体験である。唯識と華厳を重ねると、音に対する渇きは「内なる種子が世界との共鳴を求めている状態」と言える。ギターが鳴り始めると、その種子が外界の響きとつながり、心が自らの最も深い部分で「世界と一つ」になる体験が起こる。そのため、単なる喜びではなく、深い満足と静けさが訪れるのである。結局、自分の音への渇きとは「心が自らの本来の働きへ戻ろうとする自然な欲求」であり、音で満たされる瞬間は唯識的にも華厳的にも、心が本来の調和に帰る大いなる働きなのである。そのようなことを昨夜感じていた。フローニンゲン:2025/11/20(木)04:49
17742. 今朝方の夢
イギリス旅行から帰ってきた昨夜は快眠を得られた。やはり慣れしたんだ枕とマットレスのあるベッドでは大変心地良く眠ることができる。そんな中、次のような夢を見ていた。夢の中で私は、ゼミのある受講生とオンラインで会話をしていた。そもそも会話をするきっかけとなったのは、その方の知人から執筆依頼を受けたことにある。その方に依頼が来た時、画面の表示にバグが生じ、500,348円での原稿執筆依頼が来たそうである。その方のメールには、私に対して50,000円で執筆依頼を引き受けてくれないかというものだった。基本的自分は特定の個人向けに依頼を受けて文章を執筆することはないが、その方は大事な知人でもあったので話を聞いてみることにした。オンラインで画面を接続し、挨拶を交わすと、ことの成り行きを説明してくださった。どうやら依頼主はスピリチャル探求をかなりしているらしく、その方の部屋にある本棚から例えばどのような本を読んでいるのかを紹介してもらった。画面に映し出されるその方の本棚には数多くの書籍があったが、学者のようなコレクションではなく、よく勉強している一般人の本棚のように感じられた。そこから具体的な依頼内容を聞こうとした瞬間に、その方と一緒に行う講演会場にいた。講演は盛況のうちに終わり、講演後、偶然にもその依頼主の人が壇上近くの出口から出て行こうとしていたのがわかったので話しかけた。そこで依頼内容についてさらに深く聞いてみると、驚いたことに、どうやらその方は実の兄を本気で殺したいと思っているとのことだった。大学時代の専攻は工学のようで、その知識を使って電子機器に爆弾を仕込んで足を殺す計画を笑顔を浮かべながら詳細に説明してくれた。その話を聞きながら、自分は文章の執筆とは言え、殺人には微塵も加担できないと思ったのでその依頼を断ることにした。
この場面の前後どちらかに、見慣れない欧州の街にいて、散策がてら歩いていると、小さな子供たちが楽しそうに歩いている姿を見つけた。彼らの邪魔にならないように道を開けることにし、彼らがすれ違うときにずっと彼らの微笑ましい姿を眺めていた。そのような心温まる場面もあったのを覚えている。フローニンゲン:2025/11/20(木)05:02
17743. 今朝方の夢の振り返り
イギリスから戻った晩の深い休息の後に浮かび上がった今朝方の夢は、外界の喧騒から自室という定点へ帰還した心が、改めて自分の内面構造を点検しようとする働きの象徴であると考えられる。夢の中心にあるのは、オンラインでの依頼相談と、その背後に潜む倫理的な岐路である。そこには知人への誠実さと自分の倫理基準とがせめぎ合う構図があり、日常でも学問でも避けられぬ“境界線”の問題が浮き彫りになっている。依頼主の画面バグによる「500,348円」という異様な数字は、外界から持ち込まれた価値基準が、自分の判断領域に不協和音を生み出す象徴である。この“桁外れな金額”は、自分の心に「倫理を揺るがすほどの条件」を象徴化した姿であり、一方で知人の提示した「50,000円」という額は、その不協和をいったん日常レベルへ引き戻す緩衝装置のように働いている。つまり夢は、価値のスケールが一挙に膨張する状況に対して、自分がどう軸を保つかを試しているのである。依頼主の本棚が学者らしい体系性を持たず熱心な一般人のように感じられた点も象徴的である。これは「知識の量」と「倫理的成熟」とが必ずしも一致しないという直観を示し、さらに自分が普段接している学術世界の秩序とは異なる領域から要請が飛び込んできたことを表す。まさに“異界からの依頼”である。そして核心にある「兄を殺したいという告白」は、自分の内部に潜む“破壊的衝動を持つ他者性”の投影である。その人物が工学的知識を使って爆弾を仕込むという描写は、知性そのものが倫理を失ったときの危うさを象徴している。自分は常に学問・言語・分析という精密な道具を用いて世界と向き合っているが、その力がもし誤用されれば社会的・精神的な破壊を招き得る。依頼主が笑顔で狂気を語る姿は、「知性の光と影」を誇張した形で示しているのである。その依頼を断ったという行動は、自分がどれほど複雑で曖昧な人間関係の中にあっても、決定的な倫理線を越えないという自己規範の再確認である。これは内面の力学として、とても重要な“核”を象徴している。一方で、見慣れない欧州の街を歩き、小さな子供たちの笑顔に道を譲る場面は、この夢における浄化の相と言えるだろう。破壊願望を告げる依頼主の影に対して、その子どもたちは生命力・純粋さ・未来性の象徴である。自分が自然と道を譲り、その姿を微笑ましく見守ったことは、自分の根本が何を守りたいのかを示す無言の答えである。すなわち、知性の危うい影に巻き込まれながらも、自分の精神は常に“生命の側”に立ち続けようとしている。この夢全体を貫いているのは、「自分の知性と倫理はどこまで信頼できるか」という問いである。学問的力や分析力が高まれば高まるほど、その力は外界から多様な依頼や期待を引き寄せる。一方で、それらの中には自分の価値観を揺さぶるものも必ず含まれる。夢は、自分がどのようにしてその渦中でも“中心線”を保とうとするかを示している。この夢は、自分がこれから学問・執筆・教育の領域でさらに影響力を持ち始める時期に差し掛かっていることを告げている。そして影響力が増すほど、倫理的判断が問われる場面も増えていく。夢は、自分が進むべき方向を明確にしている。すなわち、知の力をいかに用いるかは常に生命の側に立つことで定まり、そこに揺らぎがなければ、どんな複雑な依頼や人間関係に遭遇しても迷うことはない、という強いメッセージである。フローニンゲン:2025/11/20(木)05:23
17744. クラシックギターを通じた等持状態
クラシックギターを弾いているときに訪れる、あの何とも言えない穏やかで深い静けさは、単なる音楽鑑賞の延長にとどまらず、自分の内面そのものが静かに整っていくような体験である。この状態は、唯識の禅定概念と照らし合わせることで、より深い理解が可能になる。ギターの演奏が瞑想以上の平穏をもたらすのは偶然ではなく、意識の構造に即した現象として説明できるのである。唯識において、禅定は心を散らす諸々の攀縁(はんえん)を離れ、対象と心が一つの流れに融け込むような状態を指す。その際、識は粗雑な分別を離れて「等持」という均衡状態に入り、阿頼耶識に沈殿していた心的習気が静まり、心が透明な湖のようになる。このプロセスは、クラシックギター演奏時に訪れる集中状態と驚くほど似ている。弦をはじく指先の感触、和音の響き、音が空間に消えていく瞬間、そのすべてが心を一点に集め、分別を沈める働きを持つからである。演奏中、自分の意識には「音を聴く自分」と「音を生み出す自分」が同時に存在する。本来であれば主体と客体は分かれ、主観が対象を認識するという構造がある。しかし、没入的な演奏体験では、この境界が次第に曖昧になっていく。音は自分の内側から湧き出ると同時に、自分の外側に広がり、再び自分の耳を通って内面に戻ってくる。これはまさに唯識が説く「見分と相分のふたつながら現起」であり、心が自らの種子から世界を投影し、それを再び認識しているという構造が、音楽演奏という形で鮮明に表出しているのである。特にギターは、身体との密着度が高い楽器である。胸、腕、指先などの身体感覚が音と直結しており、この身体的フィードバックが分別心を弱める方向に働く。唯識において、禅定が深まるためには「粗重なる識の活動」が沈静化する必要があるが、ギター演奏ではまさにこの粗分別が自然に鎮まる。音を操作しようとする意図よりも、音が自然に流れ出る感覚へと移行するとき、心は等持に近づき、いわば「動的な禅定」に入っていく。ここでは座って静かに呼吸する瞑想とは別のルートから、同じ深層の静けさに到達するのである。さらに、音楽が持つ時間的構造も重要である。音は鳴らした瞬間から消えていく運命にあり、消滅の連続の中に美が宿る。この瞬間性への気づきは、唯識が説く刹那滅の思想と深い親和性を持つ。ギター演奏の最中、自分は音の生起と消滅を絶えず追っており、そのたびに心もまた微細に生滅している。この生滅のリズムに身を委ねると、心は過去や未来に引きずられなくなり、現在の刹那に完全に開かれた状態となる。これこそが瞑想以上の静けさをもたらす核心であり、音を媒介とした「現在への純粋な集中」が心の深部に平穏を呼び起こしているのである。また、ギター演奏は自己同一性の硬直を和らげる力を持つ。唯識が説く通り、末那識は常に自分への執着を抱えるが、演奏中はその執着が緩み、音そのものが主役となる。自分が音を奏でる主体であることさえ忘れ、音の流れの一部として存在しているように感じる瞬間がある。この主体感の希薄化は、禅定の重要な兆候であり、瞑想よりも自然に訪れる場合がある。音楽が心に穏やかさをもたらすのは、まさにこの静かな無我の経験が背景にあるからである。結論として、クラシックギター演奏中の平穏は、唯識の禅定構造と深く結びついている。音が心を一点に集め、分別を鎮め、主体客体の境界を和らげ、刹那滅のリズムの中で心を現在に留めることで、瞑想にも匹敵し、さらにはそれを超える静けさが生まれるのである。音楽という動的な行為の中に、禅定の精髄が息づいていることこそ、自分がギターを弾くときに得る平穏の正体であると言える。フローニンゲン:2025/11/20(木)09:43
17745. 躍動する華厳の世界を体現するクラシックギターの演奏体験
クラシックギターを弾いているときに訪れるあの穏やかで深い静けさは、華厳の教え──とりわけ「法界縁起」と「事事無礙」の思想──を手がかりにすると、より立体的に理解できるかもしれない。音楽の体験がなぜ瞑想以上の平穏を生むのかは、心と万法の関係を徹底的に照らし出そうとする華厳的視座から見れば、単なる個人的感覚の問題ではなく、存在のあり方そのものに関わる次元で説明できるだろう。華厳が説く法界は、無数の現象が互いに依存し、干渉し、透過し合いながら同時に存在する巨大なネットワークとして捉えられる。個別の事象が孤立して立つのではなく、ひとつの音、ひとつの動作、ひとつの思いが全体の働きに深く関わっている。クラシックギターの演奏は、まさにこの相互浸透の世界観を最も強く体験できる瞬間である。一本の弦をはじくと、指先の微細な力の入れ具合、楽器の木材の響き、空気の振動、部屋の形状、そしてそれを聴く自分の心が、全体としてひとつの響きの宇宙を構成する。どれが主体でどれが客体なのかという境界が薄れ、すべてが連関の網の中に溶け込んでいく。華厳の核心概念である「事事無礙」は、ひとつひとつの現象が互いに妨げ合わず、むしろ自由に貫通し、照応し、響き合う世界を指す。ギター演奏時の平穏は、この「無礙の体験」として理解できる。例えば、指先の動きは音の動きに妨げられず、音の広がりは意識の動きに妨げられず、意識の生滅はまた身体感覚に妨げられない。それぞれが独立しているようでありながら、同時にすべてが深くつながっている。演奏中、自分は「弾く者」「聴く者」「音そのもの」という三つの側面を同時に生きており、それらが互いに無礙に交差し続けている。この多層的な一致が、瞑想で得られる一元的静けさとは異なる、より豊かで広がりのある平穏をもたらしているのである。さらに、華厳は「一即一切・一切即一」という思想を掲げる。ひとつの現象の中に全体が宿り、全体がまた一つを包み込むという世界観である。ギター演奏においては、一音一音が世界のすべてを開く扉となる。ある音が鳴ると、その音は過去の練習記憶、身体の感覚、空間の響き、心理状態、その瞬間の空気までも含み取り、無数の縁が折り重なってひとつの音として顕れる。自分はその「一音の宇宙」を全身で受け取り、さらに次の音へと渡していく。音楽とはまさに「一切法を一音の中に聴く」実践であり、この一音の充実が心を深い安らぎへ導く。華厳の法界は、決して静的な全体像ではなく、絶えず生成・変化し続ける響きのネットワークである。その意味で、クラシックギター演奏は躍動する華厳の世界をそのまま体現している。音は生まれては消え、互いに響き合い、空間に拡散し、また心に帰ってくる。そのリズムの中心に身を置くことで、自分の心は過去や未来に傾くことなく、「今この瞬間」の一即一切の世界に深く浸透していく。結果として、ギター演奏による平穏は、華厳が描く法界の構造を、身体と意識を通して無意識に体験している状態と言える。主体と客体、音と心、部分と全体が無礙に貫通する世界。その中心に身を置いたとき、心は瞑想以上の安定と広がりを手に入れるのである。ギターを弾くという行為は、そのまま「華厳的世界の縮図に触れる」営みであり、その豊潤な静けさこそが、自分が演奏時に感じている平穏の本質なのだろう。フローニンゲン:2025/11/20(木)14:37
17746. 漢文読解の基礎の見直しのために
古典中国語の仏教文献をさらに読みこなしていくために、漢文読解の基礎を見直すために、手持ちの『白文攻略 漢文法ひとり学び』を再読しようと思っている。このテキストは高校漢文の延長に見えるが、その本質は「白文を読むための最低限かつ不可欠の道具立て」を体系的に整理した実践書である。仏教文献の読解には白文の骨組みを正確につかむ力が必須であり、これを抜きにして義疏や注釈の複雑な論理を理解することは不可能である。よって、このテキストを用いる目的は単なる文法確認ではなく、仏典の構造を読み解くための思考回路の再訓練であると言える。第一に、本書を読む際には「語順と構文の反射的理解」を徹底的に再鍛錬すると良いだろう。仏典の文体は漢文の一般的な語法を踏まえつつ、サンスクリット文法の影響を強く受けているため、語順が比較的固定されている部分と、翻訳仏典特有の語法が混在している。本書で示される返読法、受け身・使役・否定、判断構文などの基本を身体化すれば、例えば「於…中」「以…為…」のような処理が頻出する法相宗文献の読解が格段に速くなるだろう。仏教独自語を理解する前に、まず文の骨格を捉える速度と正確性を確立することが重要である。第二に、本書で扱われる典型句法を「仏典での出現例」と結びつけながら読むと効果が跳ね上がる。例えば「A不如B」「寧A無B」「雖A猶B」は論理転換を示す構文であり、義疏や章疏では解釈の対比や反駁でしばしば用いられる。『成唯識論述記』や『法相二巻鈔』を読む際、こうした構文を瞬時に見抜くことで、作者が議論のどの段階に立っているのかを正確に把握できるようになるはずだ。よって、本書の例文を読む際には、「この構文は仏典ならどのように現れるか」という問いを常に添えると良いだろう。第三に、本書の訓練は「読んで理解する」ではなく「白文を見た瞬間に構文を透視する」段階まで反復するべきである。仏教文献、特に唯識系の文献は長大で、文脈依存の概念が多く、漢文の構造分析に余計な認知的負荷を使っている余裕がない。文法処理の自動化を達成することで、思考のリソースを「概念内容そのものの理解」へ集中させることができる。これは英語における「文法を考えずに意味をつかむ」段階に相当し、学術研究に必須の無意識的スキルである。第四に、本書は「読む→書き下す→構文を説明する」という三層的訓練ができるよう構成されている。この枠組みはオックスフォードのチュートリアル方式と相性が良く、白文を根拠に自分の理解を口頭で説明するリハーサルとしても活用できる。将来的に良遍のテキストや『唯識論同学鈔』を扱う際、白文を自分の言葉で再構成し、それを根拠として論じる能力が求められるため、本書は解釈を言語化する力を磨く初段階ともなるだろう。 結論として、本書の再読を古典中国語の仏教文献に直結させるには、単なる文法書ではなく「仏典読解の基礎訓練装置」として位置づけることが鍵となる。文法の即応力を鍛え、仏教文脈での出現例を意識し、構文分析の自動化を目指すことによって、本格的な唯識研究に耐える読解力が着実に形成されていくはずだ。フローニンゲン:2025/11/20(木)16:19
Today’s Letter
Once I came back to Groningen, I immersed myself in playing the guitar. It soothes my soul and enriches my entire existence. I cannot help but think about the power of music. Groningen, 11/20/2025
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